忍者ブログ

私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

偽りの教えの例―異端グノーシス主義の構造(2)

これからしばらく、グノーシス主義、そして様々なキリスト教の異端に関する記事を進めていきます。今回は初期のキリスト教界において異端の書物として正典から退けられた福音書の一つ、『ユダの福音書』を取り上げて、そこからグノーシス主義の基本的な構造を把握します。

初めにお断わりしておけば、これはグノーシス主義を受け入れる目的のために紹介するのではなく、むしろ、この教えが今日のキリスト教における背教(セルフ 教)と密接な関係があり、グノーシス主義とは過ぎ去った時代の異端ではなく、今も働いている時代の霊なのであり、多くのクリスチャンを御言葉から逸らせて しまいかねない脅威であると警告する事を目的としています。

まずは、グノーシス主義の根源はどこにあるのかを見てみましょう。グノーシス主義がクリスチャンやキリスト教にとっての脅威として一般に認識され始めたの は、紀元180年頃にリヨンの教父エイレナイオスが『異端反駁』という著作の中で、グノーシス主義に立脚する数々の福音書について、それがキリスト教を骨 抜きにする危険な教えであることを指摘し、警告してからのことでしょう。

けれども、グノーシス主義の宇宙論それ自体は、この頃に誕生したものではなく、福音書の登場よりもさらに古い起源を持つようで、プラトンの思想や、ユダヤ 教におけるセツ思想にその起源が求められます。キリスト教的グノーシス主義は、前から存在していたその思想の上に、福音書の内容を換骨奪胎して取り込み、 いわば、キリスト教に「偽装した」のだと言えます。

従って、もしも真にグノーシスの根源について調べたいならば、私たちは時代をもっとさかのぼり、ユダヤ教のセツ思想に当たってみるべきでしょう。けれど も、今はとりあえず初期のキリスト教会においてキリスト教的グノーシス主義として知られていた教えだけを吟味することにします。

繰り返しになりますが、もう一度、グノーシス主義の大まかな定義を説明します。

1966年の「グノーシス主義の起源に関する国際学会」等の定義によればグノーシス主義は、以下の点をふまえた神話を創作することが一般であると考えられている。
  1. 反宇宙的二元論: この世界は悪であり、この世界を創造した劣悪な神とは別に、善なる「至高者」が存在する。
  2. 人間内部に存在する「神的火花」「本来的自己」への確信: 人間は、劣悪な造物主に創造されたが、人間の内部には至高者に由来する要素が閉じこめられている。
  3. 人間に「本来的自己」を認識させる啓示者・救済者の存在: 以上のことを知らない人間に対して、至高者の下からそれを知らせる使いがやって来て、認識を促す
このような考え方に基づき、キリスト教的グノーシス主義では、正典とされている福音書からはおよそ考えられないほどに荒唐無稽な神話が次々と創作されました。その基本的な救済論は大体次の通りです。

1.この世を創造した神エホバは唯一神ではなく、劣った下級神の一人に過ぎないのであり、その上に上位の至高神が存在する。この世が悪なる不条理の世となってしまったのは下級の創造神の無知のせいである。
2.しかし、人のうちには、もともと生まれながらにして真の至高者に由来する「光」(聖なる火花、本来的自己、キリストなど、呼び名は様々である)という神聖な輝きが宿っており、人は自らの「神性」という知識に覚醒することによって霊的に救済される。
3.人の知識による救済を手伝うのが、何らかの啓示者の存在であり、キリスト教的グノーシス主義に登場する「キリスト」は人にその「神聖な」啓示を伝える天界からの使者とされる。

一言で言うならば、グノーシス主義とは、何らかの知識の啓示を受けて、人が本来的自己に覚醒することができれば、神と人とが融合し、人が神のようになれる と説く偽りの教えです。それは、生まれながらの人間が、悔い改めもなく、キリストの贖いの十字架を信じることもなくして、ただ啓示を受けて、自分の内に 宿っている「神性」に覚醒すれば、それにより救済されると説くのです。グノーシスにおける救済の概念は、キリスト教における救いとは全く異なっており、生 まれながらの人が罪によって堕落しており、罪から救済される必要性があるということは、グノーシス主義においては完全に認められていません。罪という概念 さえも登場せず、人の原罪も、神の裁きもないものとされ、救済とは、人がただ不条理なこの世と、限界ある自分の肉体から解き放たれて、霊において神聖なる 天界へ戻ることであるとされるのです。

グノーシス主義は、人は知識に目覚めることによって救済されるため、神と人との仲介者は必要ないとします。このような考え方が、「神は唯一であり、神と人との間の仲保者もただひとりであって、それは人なるキリスト・イエスである。」(Ⅰテモテ2:5)という御言葉の完全な否定であることは言うまでもありません。

アダムの堕落や、生まれながらの人の罪を否定し、十字架の贖いを否定し、復活も否定し、サタンも否定し、神の裁きも否定し、悪神とされている創造神と人が 和解する必要はないとしているこの教えがキリスト教ではあり得ないことは明白です。しかしキリスト教会の初期には、このグノーシス主義がクリスチャンの間 に広がり、疫病のように猛威を振るって、多くの人々を惑わせた時代があったのです。

マービン・マイヤーはグノーシスを擁護する立場に立って、『ユダの福音書』の前書きの中で、この異端の福音書とグノーシス主義の特徴について、次のように説明しています。


『ユダの福音書』は、いわゆるグノーシス派の福音書に分類される。おそらくすでに存在していた原典や発想を下敷きにして、二世紀半ばに編まれたと思われる 『ユダの福音書』には、グノーシス(gnosis)、すなわち「知識」を重んじる宗教思想が反映されている。「知識」とは神秘的な知識、神の知恵であり、神と自己との融合である。この宗教思想は一般に「グノーシス」と呼ばれるが、この言葉の使いかたをめぐっては、古代世界から議論が絶えず、今日でも研究者の間で論争が続いている。

神とはおのれのなかに存在する魂であり、内なる光であるとするグノーシスの立場は、仲介者ぬきで直接神とかかわろうと するその自由な発想ゆえに、初期キリスト教の司祭や教父からうとんじられ、異端狩りの対象になった。異端を論じた知識人の著作は、グノーシス主義者は邪悪 な思想をもてあそび、いまわしい活動にふけっているという非難の言葉であふれている。

こうした攻撃に対し、グノーシス主義的な立場の『ユダの福音書』には、当時勢力を伸ばしつつあった正統派教会の指導者や信者こそ、あれこれ良からぬ行動を しているという記述がある。『ユダの福音書』によれば、グノーシス派を敵視するこうした正統派のキリスト教徒は、地上世界を支配する神の小間使いに過ぎ ず、彼らの生きかたはその神の容赦ない支配の仕方にそっくりだというのである。
(『原典 ユダの福音書』、ロドルフ・カッセル他著、日経BP出版センター、2006年、pp.8-9 以下、紫色の字体は全て同書からの引用、太字は筆者)


これを読むと、初期キリスト教界にも、現在のキリスト教界と似たような状況があったことが分かります。異端の教えがあたかもキリスト教であるかのように 装って教会に入り込み、人々をとりこにしていたこと、しかも、異端を異端と宣言して、その教えの偽りを明らかにし、警戒を呼びかけたクリスチャンが、異端 者の側から、かえって「残酷な人間」として罪定めされ、非難し返されていたこと。今日とほぼ変わらない真理と虚偽との対立の構図です。

『ユダの福音書』では、イエスは啓示を伝える者であり、その 最大の使命は、十字架で人類の罪を担うことではなく、神の意識に通じる知識を人に伝授することだとされています。その上、驚くべきことに、イスカリオテの ユダがイエスの一番弟子として「復権」され、彼以外の12弟子は無知ゆえに神秘の啓示を受けられなかったのだと言うのです。ただ創造主を貶め、御子の贖い を否定するだけでなく、福音書における秩序をもこうして全く覆してしまうのです。再び、マイヤー氏の前書きの中から引用します。

『ユダの福音書』最大の読みどころは、イエスが宇宙の神秘についてユダに教える場面だろう。グノーシス主義の福音書はどれもそうだが、イエスはそもそも教 師である。知恵と知識を明かす人物であり、世界の罪を背負って生命を落とす救済者ではない。グノーシス主義によれば、人間が抱える根本的な問題は、原罪で はなくむしろ無知である。それを解決するには、信仰よりもむしろ知識が重要だ。イエスは無知を根絶し、自己と神の意識に通じる知識を、ユダと、『ユダの福 音書」の読者に与えた。.(p.10)


イエスがユダに語ったところによると、まずはじめに、すべてを超越した無限の神性が存在していたという。それから複雑な創造と流出の過程を経て、天は光と栄光で満たされた。
この無限の神性はどこまでも崇高なので、言葉ではうまく表現できない。「神」という言葉さえ、不十分であり、不適切であることがほのめかされている。そし て地上の世界は、ネブロ(「反逆者」の意)またはヤルダバオートという下位の創造神が支配している。この創造神は狭量で悪意に満ちており、私たちの世界が 問題だらけなのはそのせいだ。それゆえ知恵の言葉に耳を傾け、内なる神聖な光に気づかなければならない。

グノーシス派にとって、宇宙の最も深遠な謎は、特定の人間が神性を帯びた魂を宿していることにある。私たちが生きる世界は欠陥だらけで、暗黒と死に支配さ れることが多いが、それでも暗黒を乗りこえ、生命を取り込むことは可能である。イエスはユダに、私たちはこの世界より優れている。なぜなら私たちは神聖な 世界に属しているからだと語った。もしイエスが神性を帯びた存在の息子であるならば、私たちもまたその子どもであるはずだ。私たちに必要なのは、神聖な知 識を頼りに生きること、そうすれば悟りが得られるにちがいない。(p.12)


こうして、この異端の福音書は、人は自分の内なる神聖な光に気づき、悟りを得ることにより、狭量で悪意に満ちた創造神の作ったこの世の不条 理を逃れて、霊魂が救済されると教え、この神聖な知識をイエスは弟子のうちでも、ユダだけに明かしたのだと主張するのです。グノーシス主義の世界観が、こ の地上における存在としての人間に関しては、徹底的に悲観的なものであることが分かります。この教えにおける人間の救済とは、この地上における生を健全に 生きよう目指すものでは全くありません。むしろ、人の霊が天界に運び去られることを解決としている点で、地上における人間の生についてはどこまでも悲観的 なのです。

本来のキリスト教はそれとは正反対です。私たちは、キリストと共なる十字架の死と復活を経ることによって、クリスチャンは罪と死の法則に対して死に、命の御霊の法則によって、死ぬべき肉体をも生かされることを信じています。「も し、イエスを死人の中からよみがえらせたかたの御霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリスト・イエスを死人の中からよみがえらせたかたは、あなたが たの内に宿っている御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも、生かしてくださるであろう。」(ローマ8:11)

キリスト教はこの地上における生を悲観的に眺めて、ただ来世を待ち望む現実逃避的な宗教ではありません。御言葉は、この地上においても、キリストのよみがえりの命が私たちを生かす力であることを大胆に宣言しています、「なぜなら、もし、肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬ外はないからである。しかし、霊によってからだの働きを殺すなら、あなたがたは生きるであろう。」(ローマ8:13) 「見よ、その魂の正しくない者は衰える。しかし義人はその信仰によって生きる。 」(ハバクク2:4)

しかし、グノーシス主義においては人の霊が肉体の制限から解き放たれて天界に戻ることが救済であるとされており、『ユダの福音書』において、啓示を受けた イスカリオテのユダが光り輝く雲の中で変貌し覚醒するというくだりを読むなら、クリスチャンはただ唖然とする他ありません。

この福音書には、すべての人は自分の星をもっていて、星が運命を導くというプラトン思想と通じる部分もあ る。ユダにも彼の星があるとイエスは語る。そしてこの福音書の終わりのほう、ユダが光り輝く雲のなかで変容し、覚醒する直前に、イエスはユダに、空を見上 げ、たくさんの星と光の輝きを見よと告げる。空にはあまたの星があるが、ユダの星は特別なのだ。「皆を導くあの星が、お前の星だ」(p.11)

グノーシス主義においては、私たちクリスチャンが信じ、また知っている霊的な秩序体系がことごとく覆されて いますが、中でもこの捏造された福音書においては、イスカリオテのユダこそが、弟子の中でも最も正統な弟子であったという、正統な福音書に真っ向から逆ら う筋書きとなっています。ユダはイエスを裏切ることによって、逆説的にイエスに仕え、彼の願いをかなえる手助けをしたとされています。ユダの裏切りはただ 神のご計画が成就するために必要悪として存在したというのではありません。イエスが肉体から解き放たれて天界に戻るという、師の最上の願いを手助けした点 で、ユダの行為は罪に定められるどころか、むしろ最高の善であったと主張するのです。

このような主張が荒唐無稽であることは、クリスチャンならば誰しも分かります。しかしこのような転倒した論理には、ともすれば、私たちでさえ欺かれそうに なることがあるかも知れません。たとえば、こんな問いを訴えかけられた時、私たちはどう答えるでしょうか? もしもユダが主イエスを売り渡すことがなけれ ば、十字架も成就しなければ、復活もなかった。だとすると、ユダの行いは、神のご計画の成就のために、なくてはならないものであったのであり、その意味に おいて、ユダでさえ、神に奉仕したのであり、従って、彼の裏切りは善であったと言えるのではあるまいか? 

ある人々は、ここまで極言せずとも、主イエスの愛は最後までユダに注がれていたのであり、従って、ユダの行為そのものは悪かったかも知れないが、彼の魂は救われていると主張します。

しかし、主イエスはユダに関してはっきりとこう言われました、「…人の子を裏切るその人は、わざわいである。その人は生れなかった方が、彼のためによかったであろう」(マルコ14:21)。これは、御子を裏切って死に追いやった彼の背信が、どのような点でも、決して赦されることのない罪であったことを示していると私は思います。

ユダの名誉回復というグノーシス主義の転倒した教えを見る時、私にはそれが根底では、今日クリスチャンの間で流行している「何でも愛して赦して式の甘えの 福音」に通じているように感じられてなりません。なぜなら、義人を罪に定めることの恐ろしさを見ようともせず、むしろ、すすんで罪人や悪人を擁護し、悔い 改めの必要性さえ説かずに、生まれながらの罪人を母性的な愛で優しく抱きとめようとする「砂糖まぶしの甘えの福音」の教えは、神の御前には絶対的なもので あるはずの善悪の概念を骨抜きにしてしまうという点で、どのみち、ユダの名誉回復の物語とほとんど変わらないからです。そのような教えは、罪に対する鋭敏 な感覚を人から失わせ、悔い改めなしには罪の赦しもあり得ないという基本的な事実さえ、クリスチャンに忘れさせてしまうのです。

現在、多くのクリスチャンの間では、ちょうど、キリストを十字架につけることを正当化し、バラバを赦せと叫んだ民衆と同じ心理が働いているように思われて なりません。キリストのまことの命に生きようとし、真理に従っている人々が苦難にあっても、多くの人々はそれに対して驚くほど無感覚であり、むしろ、彼ら を苦しめた悪人が赦されることだけを願い、罪人に対する愛と憐みだけを叫び求めているのです。

けれども、バプテスマのヨハネが人々に語った言葉は、「悔い改めよ、天国は近づいた」(マタイ3:2)でした。主イエスも人々に向かって悔い改めを呼びかけました(マタイ4:17)。主イエスは悔い改めのない町々をはっきりと責められ、彼らに対しては厳しい裁きがあることに言及されました(マタイ11:21-24)

ペテロとヨハネは、人々に向かって、イエスを十字架につけた罪を悔い改めるよう語りました、「ア ブラハム、イサク、ヤコブの神、わたしたちの先祖の神は、その僕イエスに栄光を賜ったのであるが、あなたがたは、このイエスを引き渡し、ピラトがゆるすこ とに決めていたのに、それを彼の面前で拒んだ。あなたがたは、この聖なる正しい方を拒んで、人殺しの男をゆるすように要求し、いのちの君を殺してしまっ た。しかし、神はこのイエスを死人の中から、よみがえらせた。わたしたちは、その証人である。<…>だから、自分の罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて本心に立ちかえりなさい。」(使徒3:13-19)。

私たちは地上を歩まれた主イエスと共に生きたわけではありませんが、私の罪が命の君を十字架につけてしまったのだ、という認識は、クリスチャンにとって極 めて基本的な認識であるものと思います。私たちは主を十字架につけたその罪を悔い改めて、神と和解したのです。なのに、再び、罪のない子羊を死に定めてま で、バラバやユダを擁護するようなことがあって良いでしょうか?

正常な福音とは、人に罪を自覚させ、悔い改めて、神と和解するよう呼びかけるものです。人の罪を大目に見て、悪人のために憐みの涙を流し、彼らを無罪放免 するようひたすら叫び求めるのが福音ではありません。正常な福音は、罪人をキリストの十字架へと導きます。十字架こそが、神の愛の全てであり、神の憐みで あり、人の罪からの救い、神との和解の唯一の方法だからです。「神がわたしたちをとおして勧めをなさるのであるから、わたしたちはキリストの使者なのである。そこで、キリストに代って願う、神の和解を受けなさい。」(Ⅱコリント5:20) 

ですから、私たちは人間本位に歪められた、人の罪を認めようとしない、人に優しく、人の自己を高く掲げる偽りの教えに惑わされてはなりません。今日、この ような人間本位の偽りの福音の中から、「全ての人の内には生まれながらに光が宿っており、全ての人の内には生まれながらに神(キリスト)がおられる」と主 張する人々が現れたのです。この主張はその背後に働いているものがまさにグノーシス主義であることを示しています。この偽りの霊の影響は今日の多くの教会 にも知らぬ間に入り込んでいるのではないかと危惧します。

しかし、当然のことですが、生まれながらの人は、聖なる光など全く宿していません。アダムとエバは神のようになろうとして知識を求めましたが、その知識は 彼らを救済するどころか、むしろ彼らに自分の裸の恥を知らせ、彼らを罪によって堕落させて、死に至らしめたのです。私たちは、魂の知識が人を迷わせるだけ であり、悟りや覚醒といった知識によっては誰も救済されないことを知っています。私たちの生まれながらの命の中には、いかなる神性もなく、私たちの自己の うちにはいかなる救済も見出せません。人が神のようになろうとすることは、サタンから来る誘惑であって、主の御前には忌むべき高慢なのです。

「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3:16)


感謝します、私たちの救いは尊い神の御子、永遠の贖いの子羊なるキリストを信じ、そのよみがえりの命をいただいて信仰によって生きることにあります。私た ちはこの世においても、贖われない肉体の中にあっても、悲観的に生きる必要は決してありません。なぜなら、私たちの内におられる方は世に勝ったお方だから です。ですから、私たちはこの肉体の贖われる日を待ち望んでうめきながらも、主と共に日々、自分の古き人、肉、アダムの命が十字架の死に渡されたことを信 じ、いかなる状況があっても、自分自身を信ぜず、ただキリストが十字架でなして下さった御業を信じて、その事実に立ち続けるのです。

「わたしたちは、この事を知っている。わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。それは、この罪のからだが滅び、わたしたちがもはや、罪の奴隷となることがないためである。」(ローマ6:6)
PR

ひとこと

神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)

ヴィオロンのブログ

最新記事

アーカイブ

ブログ内検索

カテゴリー