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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

偽りの教えの例――異端グノーシス主義の構造(4)

3.グノーシス主義におけるアダムの「神化」

クリスチャンは、全世界が堕落したのは、神にサタンが反逆したためであり、さらに、サタンにそそのかされた人間が、神に背いて罪を犯したためであることを 知っています。アダムとエバは神の御旨に従って全地を統べ治めるために創造されましたが、善悪を知る知識を選ぶことによって神に逆らって罪を犯し、彼らの 罪を通して、全人類に罪と死が入り込みました。そこで、人類は地を正しく統べ治めるという、神から任せられた本来の使命を遂行することができなくなり、堕 落の瞬間から、生まれながらの人間の力はサタンの支配下に渡されることとなったのです。

こうして、アダムは不名誉な堕落によって、肉の象徴、朽ちる命の象徴、罪と死の象徴となりました。「あなたは、ちりだから、ちりに帰る」(創世記3:19)、これが第一の人であるアダムに対する神の宣告です。アダムという名前は「塵」を意味する「アダマ」を語源としていますが、アダムに属する生まれながらの人は、すべて罪のうちに滅び、塵に帰る他なくなったのです。

「このようなわけで、ひとりの人によって、罪がこの世にはいり、また罪によって死がはいってきたように、こうして、すべての人が罪を犯したので、死が全人類にはいり込んだのである。」(ローマ5:12)

アダムによってもたらされた罪と滅びから人々を救うため、神は罪を知らない第二の人、神の独り子であるイエス・キリストを地上に送られました。キリストは 人類の罪の身代わりとして十字架にかかられ、私たちのために贖いとなられました。第一の人(アダム)はただ失敗しましたが、第二の人が私たちに救いの道を 開いたのです。しかし、人がキリストの救いを受けるためには信仰が必要であり、罪を悔い改めて、神の御子キリストの十字架の贖いを個人的に信じて受け入れ ることのない人が、再生されておらず、救われていないことは言うまでもありません。

信仰により、私たちはイエス・キリストの十字架を信じて永遠の命に与り、キリストの十字架を通して、古きアダムの命に死に、罪と死の法則に対しても死に、もはやアダムの種族としてではなく、キリストにある新しい種族とされて生かされています。

信じる者のうちに生きて働く聖霊によって、クリスチャンは日々、キリストの十字架の死と復活により深くあずかり、悪鬼やサタンを駆逐してこの地上に神の国 の統治をもたらし、キリストの命にあって地を統べ治めるという使命を帯びています。アダムが失敗した任務を、神はキリストのまことの命にあって、キリスト 者が実現するよう願っておられます。

「もし、ひとりの罪過によって、そのひとりをとおして死が支配するに至ったとすれば、まして、あふれるばかりの恵みと義の賜物とを受けている者たちは、ひとりのイエス・キリストをとおし、いのちにあって、さらに力強く支配するはずではないか。」(ローマ5:17)

しかし、私たちはキリストの支配を地上にもたらすためには、信仰によって、日々主と共なる十字架の死にとどまらなければなりません。アダムの古き命によって、肉に従って歩むなら、私たちは神を喜ばせることはできません。

繰り返しますが、キリストの十字架の贖いは一人ひとりが個人的な信仰によって受け取るべき個人的な救いであり、御子を信じない者までも、自動的に一括救済 するような救いではありません。その意味で、今日、信仰の有無に関わりなく、「全ての人の内にキリストが住んでおられる」と説いている人々の主張が、完全 に偽りであることは明白です。御子を信じない者の上には神の怒りがとどまり、裁きと滅びが臨むのです。「信じない者は、すでにさばかれている。神のひとり子の名を信じることをしないからである。」(ヨハネ3:18) 「御子を信じる者は永遠の命をもつ。御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまるのである」。 」(ヨハネ3:36)

十字架が試金石であり、十字架の死が、アダムにある種族とキリストにある新しい人々とを決定的に隔てます。生まれながらの人は誰一人、御子の十字架を信じ ることなくして、キリストの復活の命に与ることはできませんし、生まれながらの人は誰一人、御国には受け入れられません。「イエスは答えられた、「よくよくあなたに言っておく。だれでも、水と霊とから生れなければ、神の国にはいることはできない。 」(ヨハネ3:5)

しかし、驚くべきことに、こうした御言葉に逆らって、グノーシス主義の教えは、堕落したアダムを栄光化し、アダムこそ御国にふさわしい住人だというので す。彼らはアダムをギリシア語のアダマスという栄えある名前で呼ぶことにより、彼から「塵」という不名誉な語源を取り去ります。そうして、アダムをあたか も不滅の人間のようにみなすのです。この転倒した教えにおいては、アダムは「真の至高者」、すなわち 『偉大なる唯一のもの』 と密接な関係にあり、グ ノーシスにおける「神」(至高者)と「人間」とは本来的なつながりを持つものとされ、アダムは神のような者、いや、創造主に勝るという点で神以上の者とさ れるのです。再び、マービン・マイヤーの説明を引用しましょう。

『ユダの福音書』に登場する人物の中では、アダムとイブの三番目の息子セツが重要な位置づけにある。キリス トとも呼ばれるセツは、この世界を支配する天使の一人に挙げられており、その名は「セツの世代」(「偉大なる世代」、「あの世代」、「その上にいかなる支 配者も頂かない世代」とも呼ばれる)という表現でも登場する。また、セツの両親アダムとイブは、アダマスという名でも呼ばれ、光り輝く雲の中、天上に住むアダムとして描かれている。<…>

<…>『ユダの福音書』に登場するアダムは、下界の人間というだけでなく天上における理想的人間像でもある。アダマスと呼ばれるアダムは、「天使ですら見たことがない第一の光輝く雲の中で、『神』と呼ばれるものたちに囲まれていた」(チャコス写本四八ページ)。アダマスという名には、ギリシャ語adamasの「鋼のような」とか「打ち破られない」という意味が込められているようだ。<…>

『ユダの福音書』では、天上のアダマスが第一の光る雲の中に存在すると記されているが、これはアダマスが神聖なる栄光の中、『偉大なる唯一のもの』の身近 に暮らしているという意味だ。理想的な人間アダマスと『偉大なる唯一のもの』が密接な関係にあることは、グノーシス主義の研究者としても有名だったドイツ の学者ハンス-マルチン・シェンケの説の正しさを裏付けている。

シェンケによれば、グノーシス思想における至高神と人間の原型との間には密接な関係があり、卓越した人間と至高の存在である『偉大なる唯一のもの』とがさ まざまな方法と形態で結びつけられるという。セツ派の書では、この至高の『神』と『人間』とのつながりを示す具体例が、神聖なるものの最初の啓示の中に示 されている。<…>(同上、pp.179-181)


グノーシス主義者がこのようにアダムを神のような者にまで高める根拠の一つとされているのが、創世記の次の記述です。

「神はまた言われた、『われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家 畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」。神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造さ れた。」(創世記1:26-27)

グノーシスの教えにおいては、この御言葉は歪曲されて独特に解釈されます。彼らはアダムは劣った創造神である「神」のかたちに似せて造られたのではなく、創造神にまさる「真の至高者」にかたどって造られたのだと主張するのです。

『創世記』一章二六節には創造主が神をかたどり神に似せて人間を造るとあり、セツ派の伝承ではこれを、地上 のアダムが天上に住むアダマスの完全無欠な姿をまねてかたどられたという意味に解釈している。地上を支配する者が、天の御国に住む崇高なる人間の姿かたち を模してこの下位の世界の人間を造るというグノーシス主義思想は、創造神デミウルゴスがイデア(理想)の王国の理想と原型を基にこの世界を造ったというプ ラトン哲学の考え方にそっくりだ。(同上、p.182)

グノーシス文献である『ヨハネのアポクリュフォン』においては、グノーシスの教えにおける人の創造神話が、 さらに詳しく説明されています。そこで、人は創造主にまさる真の至高者の姿をかたどって、初めに水の上に像となって映し出され、その映像を見た劣った無知 な神であるヤルダバオートが、自らが人によって光を得たいと願って、人を造り出したという二段階の創造神話が展開されています。そこでは人間は無知なる神 に「光を与える」ほどにまで、創造主に勝る存在とされており、神と被造物たる人間の関係は完全に逆転されているのです。こうして、この教えにおいてアダム は栄光化され、神は罪なるアダムに対し、キリストの十字架において死の宣告を下されたのだという事実は否定されます。

天上にある至高の王国から声が発せられた。「人間が存在する。そして人間の子も」。その声を聞いた第一の支配者ヤルダバオートは母が発した ものと考えた。どこで発せられた声なのか気がつかなかったのである。神聖で完全なる『母-父』、完全なる『先在の知識』、『見えざるもの』の像、あらゆる ものの存在をもたらした『万物の父』であり、第一の人間であるもの、これが彼らの前に人の姿で現れたものだった。

第一の支配者の王国全体が震えおののき、奈落界の基盤が揺れ動いた。物質世界の上方にある水の底が、現われ出たこの人の像により照らし出された。すべての権力者と第一の支配者がこの様子を眺めていると底全体が明るく輝くのが見えた。

そして、この光を通して水の中にその人の像が見えた。ヤルダバオートは彼に付き従う権力者たちに「来なさい、神の姿に似せ、我々に似せて人間を造ろう。そうすればこの像が我々に光を与えてくれるだろう」

彼らは、各々に付与された性格に応じた力を用いて人間を造り出した。各権力者は彼らが見た像のかたちに合わ せて霊的特性を与えた。彼らは、完全なる第一の人間によく似た生き物を造り出すと、こう言った。「その名前が光の力を我々に与えてくれるように、それをア ダムと呼ぼう」(Ⅱ・14-15) (同上、p.182-183)
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