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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

偽りの教えの例――異端グノーシス主義の構造(5)

4.グノーシス主義における「キリストの受肉」と、「原初的統合者」としてのキリストについて

こうして、グノーシスの教えにおいて、アダムは罪人ではないどころか、真の「父」である至高者をかたどった映像を基に造られた、創造神に勝る者であるとさ れ、アダムの堕落の事実と、キリストの十字架において全てのアダムが死の宣告を受けた事実は否定され、むしろ、アダムに属する人間は、本来的に真の至高者 に由来する光を内に宿す「神」のような者として高く掲げられます。ナグ・ハマディ文書のグノーシス文献『トマスによる福音書』には次のような記述がありま す。

イエスが言った、「もし彼らがあなたがたに、『あなたがたはどこから来たのか』と言うならば、彼らに言いな さい、『私たちは光から来た。そこで光が自ら生じたのである。それは[自]立して、彼らの像において現われ出た』。もし彼らがあなたがたに、『それがあな たがたなのか』と言うならば、言いなさい、『私たちは(光の)子らであり、生ける父の選ばれた者である』。もし彼らがあなたがたに、『あなたがたの中にあ る父のしるしは何か』と言うならば、彼らに言いなさい、『それは運動であり、安息である』と」(『トマスによる福音書』、荒井献著、講談社、p.202)

この偽りの教えは、人は「父」(もしくは「父―母」)であり「光」である「真の至高者」から生じたのだと し、それゆえに、神の御子を救い主と信じる信仰がなくとも、人は本来的に「光の子ら」なのであり、人の内には本来的自己、すなわち神性の「光」が宿ってい るとするのです。

さて、こうして人間の罪を否定し、人間を高く掲げ、キリストの十字架の贖いの必要を否定しているグノーシスの教えでは、一体、イエス・キリストは何のために登場するのでしょうか? 『トマスによる福音書』は述べています、
「イエスが言った、「私はこの世の只中に立った。そして、彼らに肉において現われ出た。」(同上、p.165)

この言葉はⅠテモテ3:16「キリストは肉において現われ、霊において義とされ…」というくだりに似ていますが、しかし、「イエスは肉において現われ出た」というグノーシスの福音書の言葉は、イエスが人となったこと(キリストの受肉)に対するグノーシス主義者の極めて独自な解釈に基づいています。

荒井献氏は『トマスによる福音書』の解説の中でこう書きます、「人間(の本来的自己)が「光」(「父」つまり至高者)の具現者としてのイエスから出て、イエスに帰するとは、グノーシス主義に基本的な立場である」(同上、p.240)

人間は元来、「光」から来た「光の子ら」である。この場合の「光」とは、文脈から見て「父」(至高者)のこ とを指す。人間はこの意味で「父の子ら」なのだ。しかし他方、「光が自ら生じた」、「それは[自]立して」人間の「像において現われ出た」と言われる。わ れわれはすでに、前章の冒頭で、「私はこの世の只中に立った。そして、彼らに肉において現われ出た」というイエスの言葉を確認している。とすれば、「光」 とはイエス自身のことでもあろう。<…>

 イエスが言った、「私は彼らすべての上にある光である。私はすべてである。すべては私から出た。そして、すべては私に達した。
 木を割りなさい。私はそこにいる。石を持ち上げなさい。そうすればあなたがたは、私をそこに見出すであろう」(七七)


イエスは「光」として、覚知(グノーシス)者にとっては、そこから出てそこに帰る「すべて」のもの――人間のみならず、木にも石にも内在する。――こうし て、「父」と「子」(イエス)と「子ら」は、「光」にあってその本質を一つにする。そしてこの「光」は、<…>「一人」あるいは「同じ者」と言い換えられ るのである。<…>この「一人」あるいは「同じ者」は、分裂を超えた原初的「統合者」――人間としては「単独者」――を意味するのであるが、これについては後述することにしよう。<…>

イエス(と父)のいる「場所」は、「光」であると共に(二四)、「命」であるといわれる(四)。そもそもトマス福音書の語録は、「生けるイエスが語った、 隠された言葉」であった(序)。さらにイエスは端的に「生ける者の子」(三七)、「生きている者」(五二)と呼ばれ、他方「自己自身を見出す者」つまり覚 知者は「生ける者(イエス)から生きる者」(一一)、「生ける者」(一一)と呼ばれている。こうしてみると、父と子と子らは、「生者」として、「命」にお いてその本質を一つにすることが明らかであろう。(pp.301-303)


この表現を要約すると、次のようになるでしょう。グノーシスの教えにおいては、「父」であり「母」である真の至高者の「子」がイエスということになってお り、驚くべきことに、このトマスによる福音書では、キリストは人間の内に元来、光として内在しているだけでなく、木にも石にも、全ての被造物に内在すると いうのです! そして、この福音書において、イエスは後述するように、「原初的統合者」であるとされ、イエスが「肉において現われ出た」こ とにより、(つまり、キリストが受肉したことにより)、人はイエスの隠された教えに与り、この世を捨ててイエスの弟子となることにより、あらゆる分裂を超 えた「単独者」、すなわち、本来的自己に回帰することができ、そして、万物もキリストによって統合されるというのです。

このことは『トマスによる福音書』におけるグノーシスの教えの究極的目的が、人間を含めた万物のキリストへの回帰(原初的回帰による万物の一致)であるこ とを示しています。そして、それこそが「御国」の本質であると、この福音書は言うのです。このことを理解するためには、後述するように、「原初的統合者」 とは何であるかを踏まえておかなければなりません。

本来、
聖書の御言葉は、天にあるもの地にあるものすべてがキリストにあって一つ にされることが神のご計画であると述べています。しかし、それはただキリストの十字架を通して実現されるのであり、人の原初的回帰や、本来的自己による一 致によるのではありません。しかも、教会の時代には、御国は聖霊において人の只中に来ているのであり、最終的な神の国の実現は、来るべき時代のことです。

「神はその恵みをさらにまし加えて、あらゆる知恵と悟りとをわたしたちに賜り、御旨の奥義を、自らあらかじめ定められた計画に従って、わたしたちに示して下さったのである。それは、時の満ちるに及んで実現されるご計画にほかならない。それによって、神は天にあるもの地にあるものを、ことごとく、キリストにあって一つに帰せしめようとされたのである。わたしたちは、御旨の欲するままにすべての事をなさるかたの目的の下に、キリストにあってあらかじめ定められ、神の民として選ばれたのである。 」(エペソ1:8-12)

「しかし事実、キリストは眠っている者の初穂として、死人の中からよみがえったのである。それは、死がひとりの人によってきたのだから、死人の復活もまた、ひとりの人によってこなければならない。アダムにあってすべての人が死んでいるのと同じように、キリストにあってすべての人が生かされるのである。ただ、各自はそれぞれの順序に従わなければならない。最初はキリスト、次に、主の来臨に際してキリストに属する者たち、それから終末となって、その時に、キリストはすべての君たち、すべての権威と権力とを打ち滅ぼして、国を父なる神に渡されるのである。なぜなら、キリストはあらゆる敵をその足もとに置く時までは、支配を続けることになっているからである。最後の敵として滅ぼされるのが、死である。「神は万物を彼の足もとに従わせた」からである。

ところが、万物を従わせたと言われる時、万物を従わせたかたがそれに含まれていないことは、明らかである。そして、万物が神に従う時には、御子自身もまた、万物を従わせたそのかたに従うであろうそれは、神がすべての者にあって、すべてとなられるためである。」(Ⅰコリント15:20-28)


ところが、『トマスの福音書』では、キリストにあっての「一つ」の概念はこれとは全く異なっています。そこでは、御国の概念も歪曲されてお り、御国とは無知な創造主に属する「神」の国ではなく、真の至高者である「父の国」であるとされているだけでなく、その「御国」の支配も、キリストのまこ との命によるのではなく、グノーシス主義者の自己による支配であるとされ、その「御国」は現在「地上に拡がっている」というのです。

この福音書は言います、「もしあなたがたが二つのものを一つとするならば、あなたがたは人の子らとなるであろう」、「イエスが言った、「二人の者が同じ家でお互に平和を保つならば、山に向かって、「移れ」と言えば、移るであろう」

荒井氏はこの言葉を次のように解説しています。

<…>トマスには、アダムは元来イブと原初的両性具有の対関係にあり、イブがアダムから離れて「男」と 「女」になったとき、死(分裂)が生じたという表象が前提されていることを確認した<…>。右の語録一0六の「二つのものを一つとするならば、あなたがた は人の子らとなるであろう」とは、分裂しているものが原初的統合を回復するならば、原初的「人」つまり分裂前の「アダム」の子孫となるであろうとの意であ る。

ここから当語録を「解釈」すれば、分裂状態にある「二人の者」が、元来両性具有であったことを覚知して、「一つの家」つまりグノーシス主義者の中で「平 和」裡に原初的対関係を保つならば、それは山を移すほどの奇跡を引き起こすであろう、ということになる。(同上、pp.200-201)


つまり、この福音書においては、驚くべきことに、本来的な「アダム」は、エバを対とする両性具有的な人間だったのであり、二人が分かれた時に、死(分裂) が起こったというのです。そこで、人は原初的統合者であるイエスにならうことによって、分裂を超越した「単独者」になり、それにより、イエスの「命」に 与って死んだ状態から回復し、分裂以前の「本来的自己」を回復すべきだといういます。イエスは本来的な自己の具現者として、分裂に統合をもたらすために肉 において現われたのだとされ、グノーシス主義者によれば、イエスは「統合者」であっても、「分割者」ではないとされます。

これと同様の考えは、他のグノーシス文献の福音書にも見られます。「分離が死のはじめとなったのである。それ故に、はじめからあった分離を再び取り除くために、彼ら両人を統合するために、そして分離の中に死んだ人々に命を与え、彼らを統合するために、彼が来たのである」(『ピリポ福音書』七八)。(同上、p.235)

しかし、このような教えは全く荒唐無稽であり、御言葉が示しているように、死が罪の結果として人類にやって来たことや、そして、人の内にある敵意を滅ぼし て二つのものを神にあって一つにできるのは、ただキリストの十字架だけであることを完全に否定しています。また、キリストが敵対している二つの人を一つの 身体として神に和解させるのは、「原初的統合」を回復するためではなく、神にあって「一人の新しい人」に造りかえるためなのです。

「キリストはわたしたちの平和であって、二つのものを一つにし、敵意という隔ての中垣を取り除き、ご自分の 肉によって、数々の規定から成っている戒めの律法を廃棄したのである。それは、彼にあって、二つのものをひとりの新しい人に造り変えて平和をきたらせ、十 字架によって、二つのものを一つのからだとして神と和解させ、敵意を十字架にかけて滅ぼしてしまったのである。」(エペソ2:14-16)

キリストの十字架は人を神との和解に導き、神を抜きにして人と人とを直接和解させたり、融合させたりすることはありません。しかし、グノーシス主義では、 人はイエスの十字架によって神と和解して、神の教会として兄弟姉妹と一つとされるのではなく、人は「原初的統合者」であるイエスにならって分裂を超え、分 裂以前の原初的な未分化の状態に逆戻ることによって、魂が救済に導かれるというのです。

元来、正統な教えにおいては、神の御言葉には「切断する」という重要な機能があります。キリストの十字架は、信じる者の霊においては一致、平和をもたらし ますが、肉に歩む者にとってはかえって分裂を引き起こすつまずきとなります。主イエスは十字架によらない肉の平和に対して、剣を、分裂をもたらすために地 上に来られたと言われました、「地上に平和をもたらすために、わたしがきたと思うな。平和ではなく、つるぎを投げ込むためにきたのである。」(マタイ10:34) 

さらに、ヘブル4:12に ある霊と魂の切り分けに関する御言葉にもはっきりと示されているように、御言葉は「諸刃の剣」よりも鋭く、神の霊に属するものと、そうでないものとを明確 に「切り分け」ます。御言葉は光であり、光は自ら闇とははっきり区別されるという意味においても、御言葉には切り分けの機能があります。「この言葉に命があった。そしてこの命は人の光であった。光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった」(ヨハネ1:4-5)

ところが、グノーシス主義は「分割」や「切断」を「死」として否定的に捉えて遠ざけ、人間が分裂によって2分され、切断される前の未分化の状態、原初的統 合の状態を理想とし、イエスは人を分裂前の状態に戻すために「統合者」として「肉において現われ出た」のだとします。この教えにおいて、このような原初的 統合状態に回帰した人は「単独者」と呼ばれています。


5.グノーシス主義における「御国」と「幼子」との関係

『トマスによる福音書』には次の記述があります、「イエスが言った、「単独なる者、選ばれた者は幸いである。なぜなら、あなたがたは御国を見出すであろうから。なぜなら、あなたがたがそこから(来て)いるのなら、再びそこに行くであろうから」

このように、このグノーシスの教えにおいては、男女の区別さえなくなるほどに未分化的、原初的統合を回復した人間――単独者――こそが、「御国」にふさわ しい住人とされ、さらにこのようにして本来的な自己に回帰した者が、自己による支配を打ち立てることが「御国」だというのです。荒井氏はこの福音書におけ る「御国」の概念を説明して言います。

トマスにとって「選ばれた者」とりわけ「単独者」とは、分裂を超えて原初的統合を「自己」の中に回復する者 の意であり、この本来的「自己」支配が究極的には「御国」であった<…>。この意味で、元来人間は「御国」の出自であり、同時に「御国」は人間の還帰すべ き目的地である。当語録には典型的なグノーシス的人間観が言述されている。――「このように(自己を)認識する者は、自分がどこから来て、どこに行くかを 知る」(『真理の福音』二二・一三―一五)。(同上、pp.201-202)

こうしてこの福音書は、「御国」の概念を聖書の御言葉とは全く違うものへとすり変えてしまいます。ここで言われている御国とは、神の御子の贖いを信じ、自 己を否んで、キリストの十字架の死に自らを同形化し、聖霊を内にいただいている信仰者の只中に来ている神の国のことでは決してありません。むしろ、人が本 来的自己に目覚めて自己によって支配することが、「御国」だというのです。

御言葉は言います、「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞くが、それがどこからきて、どこへ行くかは知らない。霊から生れる者もみな、それと同じである」(ヨハネ3:8)。この世の知識や、人の肉による思いは、御霊に関する事柄をわきまえることはできません。そして、神の思いは人の思いを超えて高いのです。「わが思いは、あなたがたの思いとは異なり、わが道は、あなたがたの道とは異なっていると/主は言われる。天が地よりも高いように、わが道は、あなたがたの道よりも高く、わが思いは、あなたがたの思いよりも高い。」(イザヤ55:8-9)。ダビデはこう歌いました、「主よ、わが心はおごらず、わが目は高ぶらず、わたしはわが力の及ばない大いなる事と/くすしきわざとに関係いたしません。」(詩篇131:1)。しかし、グノーシス主義者は、自らの知識を誇り、自分たちは自分がどこから来て、どこへ行くのかをはっきりと知っていると断言するのです。

『トマスによる福音書』は、「御国」について次のように言います、「イエスが言った、「<…>御国はあなたがたの只中にある。そして、それはあなたがたの外にある。あなたがたがあなたがた自身を知るときに、そのときにあなたがたは知られるであろう。そして、あなたがたは知るであろう、あなたがたが生ける父の子らであることを。<…>」

荒井氏はこう書いています、「御 国はあなたがたの只中にある」。この文章は、「御国」を「神の国」に置き換えれば、ルカ一七・二一b と正確に一致する。トマスは、その反宇宙的二元論の 立場から、「神」や「天」を否定の対象にしているので、「神の国」や「天国」の表現を避けて、ほとんどの場合「御国」あるいは「父の国」の表現をとってい ることについてはすでに述べた<…>(同上、pp.125-126)。

<…>「御国」は、客観的に可視的な特定の領域なのではない。そうではなくて、人間が「自己」の本質(「生ける父の子らであること)を「知る」ときにおの ずから「知られる」、人間の「只中」に内在し、同時のその「外」に外在する一つの「支配」状態なのである(「国」はギリシア語でもコプト語でも元来「支 配」を意味する)。従って、「御国」あるいは「父の国」とは、覚知者に啓示される「自己」支配と言い換えてよいであろう。(同上、p.305)


神の国が統治であり支配であることについては、クリスチャンにも異存はないと思いますが、しかし、何によって統治されるのかという点におい て、クリスチャンとグノーシス主義者の考える「御国」の概念は決定的に異なっています。前者では、人がキリストの十字架の死に自分を同形化し、自己を否ん で、キリストのまことの命に服することによって、キリストの支配がこの地にもたらされるのに対し、後者では、人間がむしろ本来的な自己を高く掲げ、それに 回帰することによって、「御国」の支配がなされるというのです。

さらに、この福音書においては、「御国」の支配領域に入ることを許されているのは、「子供」、「単独者」、「貧しい者」だといいます。「単独者」が、男女 の性が分かれる前の両性具有的な人間を指していることはすでに述べました。「貧しい者」とは、本来的自己に属さないこの世的なものをすすんで捨てた人々を 指しています。これに加えて、グノーシスの教えは、「子供」、すなわち、「幼子」を特別に御国にふさわしい住人として高く掲げるのです。

「イエスが言った、「日々にある(高齢の)老人は、(生後)七日(目)の小さな子供に命の場所について尋ねることを躊躇しないであろう。そうすれば、彼は生きるであろう。なぜなら、多くの先の者は後の者となるであろうから。そして、彼らは単独者になるであろうから」

荒井氏は、ここで「幼子」が「御国」の住人に最もふさわしい存在として、老人よりも高く評価されている理由を次のように説明しています。

<…>ユダヤ人は生後八日目に、人間に対する神の契約のしるしとして割礼を受けた<…>。生後七日目の子供といえば、ユダヤ人の価値基準から見ると、まだ 割礼を受けていない、人間としての資格のない存在ということになる。それに対して「老人」は、律法に基づく知者あるいは預言者として高く評価され、尊敬さ れていた<…>。とすればこの語録では、「老人」と「子供」にかかわる価値の逆転がテーマとなっている<…>。

もちろんマルコ(一0・一三―一六並行)でもQ(マタイ一一・二五//ルカ一0・二一)でも、イエスは「幼な子」を弟子たちや知者に優先している。しかし そこでは、律法や知恵を基準とした価値判断をイエスは批判的に逆転しているのに対し、トマスでは「子供」が「原初的なるもの」の隠喩として評価されている のである。それ故に老人は小さな子供に「命の場所」について尋ねることをはばからない。この場合、「命の場所」(topos)とは、イエスがいる「場所」 すなわち「光」(二四)、あるいは「父の場所」(六四)、――要するに「御国」(三)のことであろう。」(同上、pp.126-127)


つまり、グノーシスの教えにおいては、物質世界の現実に汚染されておらず、創造主によって作り出された律法的な善悪の判断も未分化の状態に 等しい、性の区別もさほど進んでいない、裸同然の「幼子」が、分裂を超えた原初的なるもの、理想の人間像とみなされ、「御国」にふさわしい住人として高く 評価されているのです。

前述の『ユダの福音書』では、「しばしばイエスはそのままの姿で弟子たちの前には現われず、一人の子供として弟子たちの中にいた」と記述されています(『ユダの福音書』、p.23)。 つまり、この教えにおいては、イエスが肉体に縛られることなく、自在にさまざまな姿になることができたと示唆されているだけでなく(これがキリストの人性 の否定であることは言うまでもありません)、さらに、イエスが一人の幼子の姿になってわざわざ弟子たちの前に現われたと記述されていることは、グノーシス の教えにおいて、「幼子」が原初的な統合の象徴であり、「御国」に最もふさわしい理想的な存在とみなされていることを示しています。
 


<つづく>

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神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)

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