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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

偽りの教えの例――異端グノーシス主義の構造(6)――

1.世のバビロン化とグノーシス主義の関係

新約聖書学者ヴィルヘルム・ブセットは、グノーシス主義の起源が古代バビロニアとペルシアに求められるという学説を提示していますが、この説は私たちの関 心を非常に引きます。もちろん、クリスチャンは、人が啓示を受けて知識に目覚めることによって、神と等しくなるというグノーシスの教えが、エデンの園で善 悪知識によってアダムとエバを誘惑した蛇にさかのぼるであろうことは容易に想像できます。しかし、歴史的に見るならば、堕落したユダヤ教(神秘主義思想) がバビロン捕囚時代に古代バビロニア、ペルシアの宗教と「混血」し、ヘレニズム文化の影響を受けて生まれたものがグノーシス主義であると考えることは、非 常に聖書にかなった説であるように私には思われるのです。

預言者たちがあれほどまでに警鐘を鳴らしたイスラエルの堕落した宗教、預言者イザヤが陶器師と争う陶器と描写した人々の根底には、捕囚が神への背信に対す る罰として与えられたものであることを理解して、悔い改めて神に立ち帰ることを拒み、かえって神の代わりに自己を神としようとする願いがなかったでしょう か。そこには肉による捧げ物が神に拒絶されたことを恨みに思って、神に敵対して世に出て行ったカインの精神、人類の神に対する反逆として天にまで届く塔を 建てようとしたニムロデの精神が息づいていたのではないでしょうか。そして黙示録において終末における堕落した宗教がバビロンと呼ばれているのも、歴史を 越えて流れる霊的な文脈がそこにあることを示しているように思われるのです。

オースチンスパークスは書いています、人は自分に関する神の判決を認めて受け入れることを、これまで常に拒絶してきました。ですから、人は自己表現と自己実現の道を追い求めます。人は最初から、アベルのささげものによって神の道がはっきりと明らかにされた時でさえ、自分自身の道を追い求めました人は出ていってこの世を建設し、文明を創造し、王国を構成しましたバベルまたはバビロンがその名前ですそれは人の力、能力、栄光の表現であり、記念碑です「さあ、われわれは名をあげよう」(創世記11章4節)。「この大バビロンは、私が建てたものではないか?」(ダニエル書4章30節)。」

グノーシス主義の起源という問題はさて置くとしても、グノーシス主義はまさに世がバビロン化した時代にこそ隆盛を極める教えなのです。研究者が一様に述べ ていることは、グノーシス主義のような、この世に対する悲観主義的な哲学、そして自己超越の試みは、世の有様が混乱と矛盾に満ち、社会に政治的無関心が広 がり、人々の心に絶望が広がった時代にいつでも現われうるものであり、そのような時代にこそ、人を魅了するということです。いわば、宗教界と世の徹底的な バビロン化こそ、この偽りの教えが多くの人々の心を捉えるための酵母の役割を果たすのです。

グノーシス主義の研究者エレーヌ・ペイゲルスは次のように書いています。

一九三四年に――ナグ・ハマディにおける発見の十年以上も前に――二冊の重要な書物が公刊された。ハンス・ ヨナス教授は、グノーシス主義の歴史的源流を問う姿勢を転換して、それがどこで実存論的に成立したかという問題を提起した。ヨナスの提唱によると、グノー シス主義はある種の「現存在に対する姿勢」から生起した。

彼は、紀元後の最初の二世紀にローマ帝国東方に広まった政治的無関心と文化的停滞状態が東方宗教のヘレニズム文化への流入と同時に起こったことを指摘している。ヨナスの分析によると、当時、多くの人々が現世に深い疎外感を抱き、政治的・社会的実存のしがらみからの逃避として奇蹟的救済を切望していた。ヨナスは、得られるかぎりの数少ない原資料を駆使し、鋭い洞察力をもって、グノーシス主義の世界観を復元した。――それは、自己超越の試みと結びついた、この世に対する悲観主義の哲学である。彼の著書の普及版は英訳されて、現在でも古典的入門書になっている。
(『ナグ・ハマディ写本 ―初期キリスト教の正統と異端―』、エレーヌ・ペイゲルス著、荒井献訳、白水社、p.31)


さらに、荒井献氏も、グノーシス主義と時代の風潮との関わりについて書いています。

それでは、グノーシス主義とは何か。それは、端的にいえば、人間の本来的自己と、宇宙を否定的に越えた究極的存在(至高者)とが、本質的に同一であるという「認識」(ギリシア語の「グノーシス」)を救済とみなす宗教思想のことである。

従ってこれには、人間の「現存在」――身体→この世→宇宙→宇宙の支配者たち(星辰)→宇宙の形成者(デーミウールゴス)――に対する拒否的な姿勢が前提されている。このようないわゆる「反宇宙的現存在への姿勢」は、「自己」の属する現実世界が、世界を包括する宇宙全体をも含めて、宇宙の支配者、その形成者によって疎外されているという極端なペシミズムの起こる時代と地域に、いつ、どこででも成立しうるものである。

これを古代末期に限って見れば、これは、ローマ帝国の圧倒的支配下にあって、政治的・経済的・社会的に宇宙内の世界のいずれの領域にも自己を同一化できる場を奪われた属州(具体的には、ユダヤ――とくにサマリア地方――、シリア、エジプトなど)民の間に成立した。(『トマスによる福音書』、pp.102-103)


この説明を読むならば、バビロン捕囚におけるイスラエルの民も、世における自己疎外、アイデンティティの喪失、強力な抑圧のために生まれる極端なペシミズムなど、まさに同じような条件下に置かれていたであろうことを想像できます。

人は抑圧の下に置かれ、世における自己疎外感を強く感じさせられる時、その苦しみを神の御旨に沿って与えられた試練として御手の下にへりくだり、神の解決 を待ち望むのか、それとも、あくまで自己を義として、神に立ち向かう道を選ぶのか、選択を迫られます。クリスチャンにとって「キリスト(と共なる十字架) を選ぶのか、それとも自己(セルフ)を選ぶのか?」は命に関わる重大な選択であることを御言葉は告げています。

「…自分の十字架をとってわたしに従ってこない者はわたしにふさわしくない。自分の命を得ている者はそれを失い、わたしのために自分の命を失っている者は、それを得るであろう。」(マタイ10:39)

たとえ自分の願いが全否定されても、私たちはただキリストの義により頼んで神を信じて生きるのでしょうか。それとも、自己の願いがかなわないことを苦にして、自己に厳しい十字架を退けて、神に敵対するのでしょうか? いかなる状況においても、「自分の中には「善なるものが宿っていない」(ローマ人への手紙7章18節)ことを認め、「自分のものではない義の土台のみに基づいて、行いからではなく信仰によって受け入れられ」ることを求める人は幸いです。

しかし、ある人々はカインと同じように、神の義を拒んででも、自己を義とする道を選びます。そのようにして神を離れて、十字架を退けて、居場所を求めてさ まよった人々の終着点が、グノーシスの思想なのです。それはとどのつまり、人が自らを疎外した神を否定的に越える「至高者」の存在を考え出して、それと自 己を同一視することによって、この世における一切の支配から解き放たれて、自分自身が何者にも支配されることのない「神」のような存在になろうという思想 です。自分の罪のゆえに、神と断絶してしまったことを認めず、かえって自分を罰した神を退けて、自己を神以上の存在とみなす反逆の思想(――「セルフ教」 ――)がグノーシス主義なのです。

現代では、グノーシス主義はその名ではもはや呼ばれていないかも知れませんが、それはあらゆる方法でキリスト教に侵入を試みており、クリスチャンにとって 他人事ではありません。これからの時代、クリスチャンは「キリストかセルフか」の厳しい選択を迫られるでしょう。もしもクリスチャンであっても、その人が 自己を手放さず、完全にキリストと共なる十字架の死に服すことを拒み、自己を誇り、自己の義により頼むなら、その瞬間から、すでにその人の内でグノーシス 主義(セルフ教)は始まっているのです。

もう一度、キリスト教界のバビロン化とセルフ教の蔓延についてのDr.Lukeの警告を転載しておきます。
 
「今後大衆が切に求める、また自身をすらそれに委ねるであろうもの-それは自己保存欲求を満たしてくれる存在。それは本来神だったのであるが、人類は『何か』に置き換えたいのだここにバビロン由来の宗教・経済複合体が侵入する隙があるのだ。『何か』がすなわちアイドル(偶像)となる。…アイドルとはかくも深く人間の実存性と関わるもの…」(記事

私たちは絶えずセルフかキリストかの選択に直面している…。すなわち肉とはセルフの実体化であり、信仰とはキリストの実体化である。…かくしてこの世はセルフのぶつかり合いであるからともかくとして、ニッポンキリスト教の根本病理は、前からずっと指摘しているとおり、『セルフの病理』なのだ。個々の現象をあれこれあげつらったところで、それは『実』に過ぎない。根本にあるのは自分で自分の生存を担保し、自己増殖を試みる動機である。…

このために経済・宗教-いずれもセルフがセルフを救うシステム-が偶像となり、またセルフを喜ばせるもの、セルフを増長させるもの、これが肉の欲・目の欲・暮らし向きの自慢の3つのチャネルから侵入する。かくして経済・宗教複合体の侵入により、ニッポンキリスト教は、否、世界的にもバビロン化されてしまっているキリスト教はまさにセルフの要塞と化し、むしろセルフを否む信仰あるいは福音にとっての最大の障害、あるいは敵にすらなっている。」(記事


神のご計画は、私たちがキリストの十字架の死と一体化されることにより、十字架で死に、キリストのよみがえりの命を受けて、新創造とされて 生きることです。私たちが「新しい人間」とされる道は、ただキリストの十字架を通して、私たち自身がアダムの命に死んで、自己を否んで、神のまことの命に よって生きる以外にはありません。

キリストが十字架で死なれたことを信じるだけではまだ十分ではありません、私たちはキリストと共に私たち自身が十字架につけられて死んだことを信じるべき です。私たち自身がキリストの内にあって、キリストと共に十字架につけられて死んだのです! どうかその事実を神が私たちに実際として見せて下さいますよ うにと願います。その時に初めて、私たちの狡猾なセルフに対して霊的な死が実際となるのです。

「わたしは、神に生きるために、律法によって律法に死んだ。わたしはキリストと共に十字架につけられた。生 きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。しかし、わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛 し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子の信仰によって、生きているのである。」(ガラテヤ2:19-20)

神はアダムの堕落の結果としての死と永遠の滅びから人を救うために御子を送られ、アダムの代表として罪のない御子を身代わりに死に定められました。しか し、死に打ち勝つことによって、キリストはアダムとは異なる新しい種族の始まりとなったのです。このキリストの十字架を個人的に信じ、さらに主と共に十字 架の死を経てアダムの命に死ぬことにより、私たちはキリストにある新創造とされるのであり、それが神の御旨なのです。ところが、サタンは常に神の模倣を行 います。そこで、暗闇の軍勢にとっても、いかにして十字架によらずに偽りの「新創造」を生み出すかが焦眉の課題なのです。

これまで生まれながらの人類の悲願は常に、キリストの十字架によらずに、自らの力で「新しい人間」を生み出すことにありました。革命思想などのあらゆる ユートピア主義思想、そして心理学を含めた様々な学問の領域では、人が自己の力によって人間を改造し、理想的な新しい人間を生み出し、理想的な社会を生み 出すためにあまたの理論が考え出されました。その理論を実行に移すために、革命や動乱さえも起こされました。しかし、それは人を救わなかったどころか、理 想とは逆の以前よりもはるかに恐ろしい社会を作り出したのです。宗教界においても、人間を改造し世直しをするために様々な運動やプログラムが日々考案され ています。反キリストの支配は、世俗と宗教とを一つにした世界の統一(世界の救済)という形でやって来るでしょう。

これらの人が人を救済するという思想は、つまるところ御子の十字架の否定であり、学問にさえ、神に対する反逆の精神が流れています。歴史を振り返るなら、 マルクス主義も含めた人類救済の思想は、グノーシス主義と同じく、世が悲劇的な様相を呈し、多くの人々が社会から疎外され、自己の居場所を担保してくれそ うな新たな秩序を模索する時代と場所でこそ、支持を集めました。マルクスが自らの理論が歴史的に先駆的なものであると考え、歴史の進んだ先進国においてこ そ革命が成就するはずであると考えたにも関わらず、実際にその理論に基づき革命を起こしたのは、どちらかと言えば、歴史的な停滞を抱える比較的後進的な諸 国であったのもそのためです。

生まれながらの人は、何とかして神によらずに、自分で自分を救済したいのです。混沌とした希望の見えない世の中で不安を感じている人々の内で、そのような 願望が互いに響きあった時、人類救済の思想が生まれ、それが人々を魅了し、人類の一致という結束へと駆り立て、その願望を象徴する誰か(反キリスト)を歴 史の頂点へと押し上げるのです。長くなりますが、もう一度、シュテファン・ツヴァイクの文章を引用したいと思います。

「人間性の奥底に、自分を社会のなかに溶けこましていこうとするふしぎな欲求があることは疑う余地がない。私たちの心のなかには、人類のすべての成員にとって公正な永遠の平和と秩序をもたらす特定の宗教的・国家的・または社会的な制度がやがて発見されるにちがいないという昔からの見はてぬ夢が抜きがたく残っている

ドストエフスキイの作品に登場する大審問官は非情な論理を駆使して、大半の人間はもともと自分自身の自由を恐れているのだということをあきらかにした。がっかりさせられるように雑多な問題や解決を必要とする人生の複雑な困難や責任をまえに疲労困憊したひとびとは、彼らにものを考えるという面倒な手間を一切はぶいてくれるような世界の劃一化、いつどこでも通用するような固定した秩序に実はあこがれているのだということをあきらかにした。

さし迫った問題がすっかりかたづいてしまうような状態にたいするあこがれ――救世主にたいするあこがれにもにたこの熱烈なあこがれこそ、あらゆる社会的予言者に道をひらいてやる酵母の働きをするのである。ひ とつの世代の理想がそのいきいきとした生命の火と色彩を失ったときにはいつでも、つよい暗示力に富んだひとりの人間が立ちあがって、この自分こそはあたら しい真実の体系を発見した、あるいは編みだしたと厳然とした調子で宣言しさえすれば、幾千幾万のひとたちはたちまちこの自称民族救済者または世界救済者を 信用してしまう

あたらしいイデオロギイというものは、いつでもこの世にまずあたらしい理想主義を生みだすものである(おそらくこれがあたらしいイデオロギイの形而上学的な意味なのであろう)。なぜかというと、ひとびとに統一と純粋というあたらしい幻影をもたらす人物は誰でも、まず第一に彼らからもろもろの力のうちで最も神聖な力である献身と熱狂とをひきだすからである。何百万というひとたちが、まるで魔法にかけられたように自分の方から進んで身を任せ、はらませられ、陵辱されるままにさえなる。

そして、この予言者または予言者が彼らに多く要求すればするほど、彼らは随喜の涙を流す。彼らはこの予言者に対する愛著から、いささかも抵抗することなく 指導されたいばかりに、つい昨日までは彼らの最大のよろこびであった自由を棄てさってかえりみないのである。『われわれは奴隷状態におちる』(Ruere in servitium)という古いタキトゥスの言葉はすでに一度ならず実現されてきた。人間の連帯という考えに酔いしれた民衆はみずから進んで隷属のなかにわが身を投げこんでいったし、彼らが鞭うたれているその鞭さえも賛美したのであった。」
(『ツヴァイク全集17 権力とたたかう良心』、ツヴァイク著、高杉一郎訳、みすず書房、1973年、p.11-13。)


グノーシスの教えが、人は自己の内に抑圧されていた知られざる「神性」に目覚めて、それを核として「覚醒」することによって、それまでの抑圧を否定的に超 えて、自己をさえ超越して、「神のようになれる」と説くならば、その発想を全社会的に拡大して捉えたものが、「革命」思想だと言えるでしょう。革命思想 は、いわば社会全体を「一人の団体の人」として捉え、社会を覚醒させることを目的とする思想なのです。

その思想は、グノーシス主義と同じように、社会という「団体の人」の内に埋没し抑圧されている何らかの「聖」なる分子を見つけ出し(それは大概、「貧しき 民衆」や、「虐げられた弱者」、「社会的弱者」、「被害者」などの美名で呼ばれる)、その分子を核として、全社会の「悪」なる支配構造を覆そうとするだけ でなく、その分子を基盤として、社会を理想的な秩序の状態へ持って行くことができると仮定しています。それらの思想においては「聖」や「絶対」といった概 念が公に用いられることはないかも知れませんが、実質的にその思想が生まれながらの人の自己の内にある何らかの要素を絶対化していることは疑いがありませ ん。

憂慮すべきことは、今まさにキリスト教界においてこのような肉による偽りのユートピア主義の教え、革命的な秩序転覆の構想が広まりつつあることです。キリ スト教界の腐敗を強調して、カルト被害者などの「虐げられた弱者の救済」を口実に、教界に新たな秩序を打ちたてることを目的としているカルト監視機構設立 などの計画、そしてカトリックとプロテスタントの相違さえも解消して、場合によっては宗教の違いさえ超えて、クリスチャンの融和、一致を唱えているエキュ メニズムは、その典型例だと言えるでしょう。

これらは十字架によらず、世の方法論によって世直しを試みる絶望的な運動以外の何物でもありません。しかもその上、このような構想は、クリスチャンは神の 代理権威であるということを口実にして、自らを神に等しい存在とみなし、キリストの統治という言葉を利用して、教界における従来の秩序を打ちこわして権力 の統一を目指し、やがて来るべき世界支配という終局的な目的に向かって進んでいるのです。

グノーシスの教えにおいて、「グノーシス」が自己を覚醒させるための不可欠な媒介としての啓示であるならば、上記のような構想は、その理論そのものが社会 を目覚めさせるための「グノーシス」の役割を果たしていると言えるでしょう。「知識」に魅了された人々の内には変化が起こり、かつてなかった尊大さが生ま れ、次第に、彼らは自己を絶対的なものとみなすようになります。その人は知識に目覚めるや否や、これまで自分がおとなしく服従して来た権威にもはや隷属す る必要はなく、これ以上、世の不条理にただ弄ばれるだけの客体として生きる理由はないことを見出すだけでなく、自分は本来的に全ての支配の上に立つ権威を 持つ神のような存在であるとさえ思い始め、これまで自分を虐げて来た支配の縄目を大胆にふりほどき、その下で呻吟する人々を高みに立って見おろし、自分た ちこそ真理を知って、弱者を救いに導き、人々を統治するにふさわしい存在だと自負するようになるのです。

私たちは、カルト被害者などを含め、社会的に虐げられている人々を核として、彼らを守るためにクリスチャンが共同戦線を作り出し、連帯することによって、 キリスト教界により良い秩序をもたらせるというような主張が、全くの虚偽であることを知っています。そのようなものは新しい種類の革命理論に過ぎません。 クリスチャンを連帯させることができるのは、弱者を救うという使命でもなければ、虐げられた人々に対する同情でもなく、ただ主の血潮、キリストの十字架だ けです。

キリストによって、救いはすでに達成されたのです。私たちはキリストの御業から信仰によって全てを引き出します。私たち自身の力によって達成できるものは何もありません。十字架は目に見える一致ではなく、霊的な一致をもたらします。「もはや、ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もない。あなたがたは皆、キリスト・イエスにあって一つだからである。」(ガラテヤ3:28)  すでに十字架が達成されているのに、どうして人は改めて自分たちの力で一致や連帯を作り出そうとして奮闘するのでしょうか? どうして自分の力で「弱者」 を救おうと試みるのでしょうか? なぜ神に介入していただくことを願い求めるのでなく、自分の「善意」によってやり遂げようとするのでしょうか?

生まれながらの人間はどうしても、目に見える形で一致や連帯を作り出したいのです。自分が参与する機会が欲しいのです。それによって自己肯定することを 願っているのです。その心の奥底には罪に対する恐れがあります。多くの人は自分で自分の罪を贖おうとして今も奮闘しているのです。多くのクリスチャンは自 分の義を積み重ねることによって、神の義に届こうとして日夜奉仕を重ねています。神は生まれながらの人から出た何ものもお受けになることはなく、ただキリ ストに属するものだけを喜ばれるという事実が受け入れられないのです。人間の義を積み重ねて神の義に達しようとする試みは、今やクリスチャンを名乗ってい る人々の間に世界的連帯を生もうとしています。しかし、人間の負債は人間によっては払いきれません! すでに十字架が与えられているのに、それを退けてま で、子羊の血によらない肉の方法で、目に見える形での一致や連帯を作り出そうとするなら、その努力は、ことごとく痛ましい破滅に至るでしょう。

もう一度、オースチンスパークスの次の文章を引用して終わります。

人は自分の王国を建設し、それを雲にまで届かせるかもしれませんしかし、天は人に対して閉ざされていますキリストの十字架は、神はそのすべてをずっと昔に終わらせたことを宣言します。ですから「カルバリ」はゼロです! 神の永遠の御旨に関する限り、死によらずに、信仰によってキリストと一体化されることによらずに、十字架を通り過ぎる道はありません。この立場を取り、その意味をすべて受け入れる時、キリストとの復活による合一により、新しい人が生じます。「だれでもキリストの中にあるなら、その人は新創造です」(コリント人への第二の手紙5章17節)
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神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)

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