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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

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生きることはキリスト、死ぬことは益

「わたしにとっては、生きることはキリストであり、死ぬことは益である」(ピリピ1:21)!と、パウロは言った。私たちクリスチャンは決して死に急ぐ民ではないし、殉死を美化する思想の持ち主でもない。だが、主のために生き、主の御旨に従って、主のために死ぬ…、それ以上の幸いがあるだろうか。

グノーシス研究のためにある著書を読んでいた時のこと、私の目は皇帝ネロの時代にキリスト教徒が殉教していくシーンに釘付けになった。想像を絶する迫害の 苦痛の中で、喜びに満ちて主のために命を捧げることを自ら選び取っていく人々の姿を見た時、私はこれが来るべき時代の出来事であり、必ずや、私自身の身に も降りかかる出来事であると理解した。殉教か、それとも、携え上げか? それはまさに先週の交わりで飛び出したテーマでもあった。

そこで、私はずっと殉教というテーマを考え続けて来たのだった。それでも、このテーマを発表することへのためらいがあった。私が殉教を語ろうとしているの は、単に魂の気負いに過ぎないのではないか? 私の心には、殉教という言葉を自分の信仰の飾りとして利用しようとする不純な動機が隠れてはいまいか? ま るでミデヤンの地に逃れたモーセのように、私の心には何かしらくじけてしまった部分、自分の召しにまっすぐに向かえない部分があった。喜びに満ちて主に命 を捧げることを約束して以後、私はどれほど自分の無能さを味わい、心ひしがれて来ただろうか。

だが、今週、兄弟姉妹との交わりの中で、燃える芝が私の心に迫って来たのだった。まるで強い勢いで背中を押されるように、「殉教について語れ!」という後 押しを私は受けたように感じた。ある兄弟は交わりの最中に心に迫られてエジプトを捨て去る決意を宣言した! ああ、主はどれほどそのような告白を私たち一 人ひとりに願っておられるだろう。今、みどり子、乳のみ子のように頼りない私たちが、心の全てをかけて、自分自身を主に捧げますと告白すること、私たち自 身がそうして完全に主の御手の中におさめられ、主によって御旨のままに自由に取り扱われる器となること、それ以上に主が私たちに最も願っておられることは ないのではなかろうか。

私はかつて主と一つの約束を交わした。主を離れていた時に犯した罪のゆえに、人生を焼き尽くされて大切な宝をことごとく失い、絶望の淵をさまよい、主に向 かって助けを叫び求めていた頃のこと、まだキリストの御霊の内住を経験的に知らず、ただ苦難から逃れて、神の御心を知りたい一心で、自分のために祈ってく れる兄弟たちを涙ながらに探し求めていた時のこと、私はある兄弟にこう尋ねたのだった。

「私には分からないのです、このままこの牢獄のような環境で、世間から完全に忘れ去られたまま、理不尽な最期を迎えるのが、神様の私への御心なのでしょうか?」
兄弟は答えた。
「そんな御心はないと思いますよ」

その時、藁にもすがる思いで、私は自分を生かしてくれる主の御旨があるという希望にすがりついた。私の人生は絶望の坂を転がり落ちるようにして、死へと向 かっていた。死はもうすぐそこにあって、避けることのできない結果のように思われた。だが、そこで犬死することが主の私への御心ではないかも知れない。主 は私を絶望から助けて下さるかも知れない。悲しみのどん底で、私は心のうめきをしぼり出した。
「私には神様に聞いていただきたい願いがあるのです。もしもどうしても死ななければならないなら、私は主のためにこの命をささげたいのです…」

その時、ボロボロに傷つき、プライドを完全にへし折られ、人生の夢は微塵に砕け散り、世間からは完全に見放されて、誇るべき何物も持たなくなった人間、肉 親からさえ疎んじられて居場所を失い、無に等しい存在となっていた私の言葉を、全世界の誰も、真に受ける必要はなかった。なのにその時、私にはなぜか、私 の打ち砕かれた魂の奥底からしぼり出された告白を、主は非常な関心を払って聞いておられるという確信があった。

私の心は叫んでいた。主よ、どうかこの罪人の私を憐れんで下さい。私を憐れんで下さい。この恐るべき苦しみから私を助け出し、御旨に沿って私を生かして下さい。もしそうして下さるなら、私は残る生涯をあなたにお捧げします…。

そして、私の言葉を聞いた兄弟は、喜びに満ちてこう言ってくれたのだった。
「姉妹、それは啓示ですよ!」

その時交わりで交わした言葉は、今も忘れることができない。それは主に対する私の約束となった。そこから私の信仰は真の出発を迎えたと言っても過言ではな い。自分のために生きる人生を捨て去り、ただ神のために生きることを願うと告白したその時から、私の人生ははっきりと変わり始めたのだった。もちろん、そ の決意の中に、私の魂の気負いが混じりこんでいなかったとは言えない。いざ十字架を目の前にした時、私が横に逃げて飛び退らない保証はどこにもない。だ が、たとえ私の決意がどれほど不純であろうとも、主は真実な方であられるがゆえに、ご自分へ向けられた、取る足りない人間の貧しい告白をも、決しておろそ かには受け取られないと私は信じている。願いを与えられるのは主であり、それを遂げさせて下さるのも主である。

ああ、主よ、もしもそれを私に言わしめたのが本当にあなたの御霊であるならば、どうぞ私の心の願いを、私の能力によらず、私の権勢によらず、ただあなたの 霊によって、遂げさせて下さい。私が本当に自分を否んで、十字架を取って最後まであなたに従う者となれるよう導いて下さい! あなたの御旨の中で生きるこ との素晴らしさをどうぞ私に教えて下さい!

ある自称クリスチャンたちは、自分の同胞であるはずのクリスチャンに尽きせぬ憎しみを燃やして、今も虚偽の告発を続けている。彼らにとって私の「罪状」 は、私が十字架のキリストを宣べ伝えたことにある。キリストの十字架の死とよみがえりを宣べ伝えたことが、私が告発される最大の理由となっているのであ る。何という恐るべき時代であろうか。ネロの精神はまさに現代にも息づいているのである。真の迫害が起こるのはもはや時間の問題であろう。悪しき闇の勢力 は、すでに今から、あらん限りの威嚇と中傷によって、地上で真理をあかしする兄弟たちの言葉をかき消し、キリストの十字架と血潮を覆い隠そうとし、キリス トのよみがえりの命をこの世から除き去ろうと願っている。

このような真理と虚偽との激しい衝突は、ちょうど教会時代の初期のクリスチャンと異端グノーシスとの戦いを彷彿とさせる。現代にあって、教会はまさにその当時と同じように背教に襲われているのである。

だが、私たちは決して、自分自身や、教会の権威を絶対化することによって偽りに立ち向かうことはしない。

私たちはこれからも誤解されるだろう。虚偽の告発を受けるであろう。圧迫されるであろう。罪定めされ、裁判にさえ引き出されるであろう。私たちの教会は脅 かされ、私たちは追い散らされ、あらゆる方法で痛めつけられるであろう。しかし、私たちは自らの権威を絶対化することによって、悪しき勢力に立ち向かおう とはしない。私たちは自らを権威とはせず、エクレシアを絶対化したりはしない。自分たちの教会こそが普遍的教会だと主張したりはしない。私たちの武器は血 肉のものではなく、御言葉であり、私たちが服従すべきは、目に見える人ではなく、キリストである! 私たちが常に立ち戻るべき場所は、キリストの流された 血潮の中、キリストの十字架というゼロ地点であり、そこは私たちが自己を権威化する場所ではなく、私たちの自己が徹底的に砕かれ、無化される場所である!

エクレシアはキリストなしに自存できる存在ではない。花嫁が花婿を抜きにして自分ひとりだけ栄光を受けるなど忌まわしいことである。教会がキリストご自身よりも自分自身を高く掲げるようなことは決してあってはならない。

だから、私たちが赴く場所は、絶えず主と共なる十字架というゼロ地点、私たち自身の終わりの場所である。ゴルゴダ――キリストと共に十字架につけられて、 私たちが死んでいる場所、全てのアダムが最大の恥辱をこうむって死に至らしめられている場所――ただそこだけが、私たちにとっての揺るぎない守りの砦であ り、この世と私たちとを分ける境界なのである。ただ十字架の死だけが、キリストのよみがえりの命を私たちに受けさせる場所なのである。もしも私たちがキリ ストの十字架の死という地点を離れ、自分自身の何かによって敵に立ち向かおうとするならば、ただちに私たちは罪に定められ、サタンの火矢が私たちを貫き、 私たちは命を失うであろう。

ゴルゴダにとどまり自分の命を拒む者が、この世で命を保ち、永遠の命をも受けるのであり、この世で自分の命を保とうとしてゴルゴダを捨て去る者が、この世 でも命を失い、永遠の命さえも失ってしまいかねないのである。殉教とは、日々ゴルゴダにとどまることなしには考えられない。ただ日々のゴルゴダだけが私た ちを殉教へと導くのである。そして殉教とは、何も肉体的な死という最後の瞬間だけを指すのではなく、私たちがキリストの十字架の死とよみがえりの証人とし て絶えず立ち続けることと同義である。

●ウォッチマン・ニーの黙想集『荒野に宴をもうけ』から

6月29日

いと高き神のもとに身を寄せて隠れ/全能の神の陰に宿る人よ-詩篇91:1
 
  誘惑者の目的は、つねに私たち自身が何かをするようにさせることです。対日戦争の初 期において、私たち中国人は数多くの戦車を失いました。また次の作戦を取るまでは、日本の兵器に対処することもできなかったのです。待ち伏せした狙撃兵が 一発の弾丸を日本の戦車に撃ち込みます。しばらく時間が経ってから、再び次の弾丸を撃ちます。またしばしの沈黙があって、次の弾丸を・・・と。すると戦車 の操縦者がいらいらしたあげく、そのうっとおしさの原因をつかもうとして、周囲を見回すために頭を出します。この瞬間、次の狙い済まされた一発が彼の最期を告げるのでした装甲の中に隠れている限りは、彼は完全に安全なのです。私たちの策は彼を外へとおびき出すことでした。同様に、サタンの誘惑も私たち自身をおびき出すことです私たちが隠れ場から出て、キリストの覆いから動き出し、自分自身に頼る状態に陥るならば、ただちに勝利を得ることをサタンはよく知っているのです


ああ、誰がこのような神の知恵を想像できたであろうか。キリストと共なる十字架の死という最悪 の終わりだけが、私たちにとっての完全な防衛となり、キリストと共によみがえらされるという、最善の始まりになるとは! 信仰によって主の十字架の死を自 分自身の死として受け取る者だけが、主の復活の命の領域を実際に味わい、生きることができるのだとは!

「人に命を与えるものが知識や本なのであればイエスキリストの十字架は全く必要がなくなったであろう。むしろ善悪の知恵により生きる知恵ある者をはずかしめるために、主は十字架により愚かさを選ばれた。そこに深遠な知恵がある。」ユテコ・ウー兄弟)
 

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