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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

キリストかセルフか(2)――神の武具で身を固めなさい――

キ リストの十字架を信仰によって信じずとも、人の内には何らかの「神性」が宿っていると唱え、生まれながらの人が神のようになれると説くグノーシス主義は、 過ぎ去った時代の異端ではありません。そこには人がエデンの園で善悪知識を選び取って以来、神に敵対する悪しき霊と、生まれながらの人々の内に連綿と受け 継がれて来た神に対する反逆の教え――蛇の致命的な毒――が凝縮されてこめられています。

人のセルフを高く掲げ、「人は神のようになれる」と述べるだけでなく「人は神である」とさえ説くこの教えは、人類史始まって以来の人に対する蛇の誘惑であ り、アダムの堕落以後、生まれながらの人の内に流れ続けている蛇の毒でもあります。現代ではセルフ教の形となってキリスト教に入り込もうとしているグノー シスの教え――それは終末におけるクリスチャンを襲う背教の中核であり、現在、教界で起こっている様々な腐敗した現象は、この悪しき霊的な源が結んでいる 実に過ぎません。

聖書は「日の下には新しいものはない。」(伝道の書1:9)と告げていますが、実際に、私たちは過去の異端を分析することを通して、これからの時代、私たちクリスチャンを見舞うであろう試練を予想することができますし、私たちを厳しくふるいわける基準となる「キリストかセルフか」という問いかけを最確認することができます。

さて今回は、グノーシスの話はさて置き、いかにして私たちの自己が十字架で対処されるのかということを話します。なぜなら、セルフを否んでキリストの命に生きることは、ただ十字架によってのみ可能だからです。

主を救い主として信じて受け入れた後も、私たちの生まれながらの自己は、神の御手によって絶えず取り扱われ、十字架の刻印を経る必要があります。血潮に よって罪が赦されただけで私たちは満足してしまうべきではありません。主と共なる十字架の死に私たちの自己が服するのでなければ、私たちはキリストのよみ がえりの命の領域を実際に生きて知ることはありませんし、私たちの自己はいつまでも敵の要塞であり続けます。

人に対する神のお取り扱いは、私たちの霊・魂・肉体の全ての部分に渡って、キリストの十字架が深く実際として経験として刻み込まれ、私たちの旧創造が対処されて、新創造がもたらされることにあります。十字架は生まれながらの人の全部分に渡って適用される必要があります。

しかし、生まれながらの人のセルフ(肉)の狡猾さは、悪だけでなく、善を行うことができる点にあります。かつての記事を基にもう一度繰り返しますが、肉には様々な長所や美徳があり、肉の性質とは、必ずしも人の目に否定的に見えるものだけではありません。

私たちは誰しも自分の生まれながらの長所に自信を持っているものです。人と自分を比べて、自分はかれこれのことをした、かれこれの能力がある、と自負し、 それを理由に自己肯定しようという欲求が人にはあります。時には、弱さや、罪や、失敗でさえ、誇ろうとすればできますし、さらに、人は神のために何かをし た時、必ずと言って良いほど、それを自己の手柄とみなそうとします。

とどのつまり、私たちの魂は常に自分自身の力によって自分にOKを出そうとしているのです。そうすることによって罪の意識から逃れ、自分で自分を贖おうと しているのです。さらに、自分自身だけでなく、周囲を見まわす時にも、私たちは自己保存にとって価値があるかどうかという基準だけで、物事の善悪を判断し ようとします。人は自分にとって心地よいもの、自分を優しく守ってくれるもの、自分を高めてくれるもの、自分を傷つけないものにOKを出し、それを善と考 え、自分にとって厳しく煩わしく破壊的に感じられるものを全て悪として罪定めしようとするのです。

しかし、私たちのそのような自己を基準とした善悪の判断は、神の善悪の判断とは全く一致しません。何よりも、私たち自身がどれほど自分に誇りを持ち、自分 にOKを出したとしても、たとえ人が私たちをどれほど高く評価したとしても、神の目に生まれながらの人間は徹底的に腐敗しています。自分の力によって神の 御前に義とされる人は誰一人いません! それなのに、依然として、私たちのセルフは神の基準で物事を見ることを拒み、何とかして、十字架の死という神の刑 罰を逃れて、自分の力で自分の生まれながらの自己を延命させられないだろうかと試行錯誤を重ねているのです。それだけでなく、あれやこれやの方法でセルフ を誉めたたえ、あまつさえ、セルフを神を越えるものとして提示しようとさえしているのです。あらゆるものを自分のために利用し、神をさえ自分のために利用 してはばからない、生まれながらの人の性質は、アダム以来の古い人に属するものであり、神の目には邪悪です。そして、それは私たちが御霊に従って歩むこと を絶えず妨げています。

魂は、見られ、知られ、聞かれることを望む自分の中の『わたし』という自己愛、高慢の場所です。また、実際は『わたしは他の者のようではないことを神に感謝します』と言っている、宗教的高慢さに満ちた所でもあります。この宗教的高慢さは、最も霊的な魂の中にも忍び寄り、汚してしまいます。」(ウォッチマン・ニー全集第一巻、チャールズ・アシャー著、p.248 引用は福音書房の付録から。)

では、私たちは肉体と魂を支配するこの古い命の邪悪な性質を対処するために、何をすれば良いのでしょうか? 自分で自分を葬り去るために努力すれば良いのでしょうか? いいえ、自分の判断や自分の行動によって自分を対処できる人は誰一人いません。

ただカルバリがあります。主イエスの御血の清めは、私たちを罪の汚れから清めますが、キリストの十字架は、私たちの古い命の邪悪な性質そのものを対処します。チャールズ・アシャーは言います、「わたしたちの邪悪な性質を対処するのは、血の清めではなく、十字架です。『わたしたちは、この事を知っている。わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた』(ローマ六・六)。『キリスト・イエスに属する者は、自分の肉を……十字架につけてしまったのである』(ガラテヤ五・二四)。」(同上)

カルバリの十字架において、主イエスはご自身の肉に私たちの肉を含められ、それらを全てはりつけにされました。そこで私たちの古き人は、キリストと共に死 刑宣告を受け、刑罰を受けて殺されました。私たちの古い命は、カルバリで死に渡されました。サタンの思うままに支配されていた肉は死んだので、私たちを支 配する効力を失いました。これが霊的な事実です。自分自身や自分を取り巻く環境がどれほど絶望的に見えても、私たちがこの霊的な事実に信仰によって立ち続 けるならば、キリストの死と復活の力が私たちの内側で実際となります。

主イエスは十字架に向かわれる前にこう言われました、「…ちょうどモーセが荒野でへびを上げたように、人の子もまた上げられなければならない。それは彼を信じる者が、すべて永遠の命を得るためである」(ヨハネ3:14-15)

これはカルバリの予表です。モーセが荒野で青銅の蛇を掲げた時、それを見た民は、背信の罪のゆえに冒された致命的な蛇の毒から救われて、命を与えられました(民数記21:9)。この時、民がしたことは、掲げられた青銅の蛇をただ見上げることだけでした。

今日、私たちが求められているのも、自分から目を離して、ただ十字架を仰ぐこと――それだけなのです。主イエスがペテロに水の上を歩くよう求めた時にも、 彼はペテロが自分を見ずに、ただ主イエスご自身だけを見つめるよう求められました。主イエスご自身を見つめることだけが、私たちに水(死)の上を歩かせる のです。それはなぜでしょうか? 主イエスは私たちのために罪なる肉体のさまで十字架に向かわれ、十字架の上で、自ら神の呪いを受けて呪いとなられること によって、私たち信じる者の代表として、蛇の毒に冒された私たちの肉を死に渡されたのみならず、蛇(サタン)そのものをご自分の死によって対処されたから です。 

「キリストは、わたしたちのためにのろいとなって、わたしたちを律法ののろいからあがない出して下さった。聖書に、「木にかけられる者は、すべてのろわれる」と書いてある。」(ガラテヤ3:13)からです。主を誉めたたえます、御子は私たちのために神の呪いを受けられましたが、サタンが彼にもたらした最大の脅威である死によって、サタンに勝利されたのです。主イエスは「死の力を持つ者、すなわち悪魔を、ご自分の死によって滅ぼし」(ヘブル:14)たのです。ハレルヤ! 主イエスは死を打ち破ってよみがえられました! カルバリで滅ぼされたのは、主ではなく、蛇(サタン)でした!

主イエスが私たちのために呪いとなられました! だから、十字架にかかられたキリストを見る時、御子を信じる者は、蛇(サタン)の死の毒から救われて生きるのです、もはや罪に汚されることのない、清く、新しい、神の霊なる命によって生きるのです。 

ただカルバリのキリストだけが、私たちの負債を全額返済するのです。「神は、わたしたちを責め て不利におとしいれる証書を、その規定もろともぬり消し、これを取り除いて、十字架につけてしまわれた。そして、もろもろの支配と権威との武装を解除し、 キリストにあって凱旋し、彼らをその行列に加えて、さらしものとされたのである。」(コロサイ2:14-5)
 
カルバリ以後、御子を信じる全ての人には、主と共なる十字架を経て、堕落したアダムの命に死んで、キリストのご性質によって形作られる新しい命によって、復活の領域に生かされる新しい人となる道が開かれたのです。

「創造主はその御子のパースンにおいて、全世界の罪をご自身の上に担い<…>、血と肉にあずかり、堕落した 種族へと結合されるという束縛を受けられ、その神聖な性質において、あの堕落したアダムの命を十字架へともたらし、避けることのできない当然支払うべきも のでもあり、またその結果でもある死の刑罰をそこで受けられました。それは、彼がその堕落した被造物のために、神へと立ち返る道を切り開き、彼の性質と実質そのものから建造され、形づくられた新しい種族のかしらとなるためです。」(付録5、ジェシー・ペン-ルイス、「十字架は蛇を滅ぼす」、p.297)

十字架は堕落したアダムに属する私たちの古い命が、神の刑罰を受けて死に渡される場所であり、そして、私たちが神の命と性質にあずかる新しい種族として生 まれる場所でもあります。このカルバリに立ち、主の死に自分の死を同一化し、私たちの罪なる肉がすでにキリストと共に死刑に処せられたという事実を信仰に よって受け取り、どんな試練の中でも、そこに立ち続けることを通して、私たちはそれまで罪の肉による支配から解放されて、キリストの復活の新しい命によっ て生きるのです。

私たちの堕落した肉、魂、古き人は、これまで、邪悪な暗闇の勢力のもろもろの支配と権威に服し、邪悪な勢力によって思うがままに占有されてきました。わた したちの内の古き人は、常に、サタンとその邪悪な霊たちを強めるための武具となり、彼らの家財道具となってきました。しかし、主イエスはカルバリで彼らに 打ち勝たれ、強い人であるサタンを縛り上げ、サタンの武具とされて来た私たちの罪の肉を永久にさらしものとされたのです。こうして、サタンの霊的な支配と 権威は、私たちから解除され、サタンと邪悪な霊たちの支配と権威は永久に打ち負かされて、恥辱をこうむり、カルバリで、主と共に私たちも凱旋にあずかって いるのです。

「これが、その神聖な目的における十字架の意味であり、堕落した人がこの世、肉、悪魔に打ち勝つ勝利の道です。これが、堕落、すなわちサタンの霊によって占有された堕落した肉の意味です。これが、サタンに対する、また罪に対するカルバリの答えです。堕落した被造物が十字架につけられたのは、すべての人が古い種族から離れ去るという選択を持ち、最初のアダムという共通のかしらから離れ去り、『キリストにあって』再び新創造を始めるためです。」(同上、p.297-298)

私たちは長い間、罪に支配されてきたので、そこから抜け出すのはあまりにも困難である、と言うかも知れません。私はあまりにも弱く、罪や誘惑に打ち勝つ力 が少しもない、と言うかも知れません。しかし、私たちは決して、自分自身の弱さだけを見つめてそこでひしがれてはなりません。カルバリには神の勝利の命が あります。私たちは絶えず、十字架を通して、自分がすでに暗闇の支配から愛する御子の支配下へ、まことの新しい命の領域へと移し出されたことを信じるので す。

御子の十字架に基づき、私たちは古い命ではなく、新しい命である聖霊によって支配されて生きることを、大胆に神に願い求めようではありませんか! 十字架 は私たちをアダムの種族から連れ出し、新創造へ入らせる道をすでに開いてくれているのです! 私たちはこのあたりで、十字架をただ複数形の罪の贖いとして 受け取るだけの初歩の教えから一歩前に進み、十字架のより深い働きを実際に経験し、十字架で主イエスが肉体を割いて開かれた道を通って、キリストの新しい 命の領域を生きようではありませんか! しかし、よみがえりの命や、昇天だけを追い求めることがあってはなりません。私たちは絶えず十字架の死にとどまる ことによって、よみがえりの命を受け、暗闇の勢力に実際に勝利し、キリストの支配をこの地にもたらす人となるのです。

「キリストにある信者と、やみの力に関する神の目的は何でしょうか? これを見るために、わたしたちはカル バリにおけるキリストの働きへと目を向け、カルバリの勝利を理解しなければなりません。カルバリの十字架において、彼はご自身から邪悪な支配と権威とをか なぐり捨てて、彼らをさらしものとされました。

キリストの死において彼と同一化された魂は、彼と共に、また彼にあって、『やみの王国』から昇天された主の『統治する命』の中へと移されています。カルバリの勝利を通して、あなたは神の目的にあってやみの王国から移し出され、その領域の中を歩かず、その視点、尺度、方法、邪悪さを受け入れないのです。

しかし、これが実際の経験となる前に、あなたはまず、あなたに対する神の全き目的と、彼があなたをやみの力から移し出してくださったことを理解する必要があります。それは、やみの君がもうあなたに要求したりせず、あなたに対する権利も持たないようになるためです。というのは、神はその統治する命にあって、『(わたしたちをキリストと共によみがえらせ、共に天上で座につかせて下さった』からです。

たとえどれほどあなたがその経験に不足していようとも、あなたは自分に対する神の目的を決して引き下げずに、常に彼の意図を見つめ続け、彼が目的としておられる命へと、あなたを導いてくださるよう彼に求めなければならないことを覚えてください。あなたの立場は、『やみの力から移し出されている』というものです。

それでは、どれだけあなたは自分自身の中で、また自分の生活の中で、実際的に敵を縛っているでしょうか? <…>あなたの願いは、『やみの力から、その愛する御子の支配下に移され』、『キリスト・イエスにあって、共によみがえらせ、共に天上で座につかせて下さった』という神のみこころと同じでしょうか?(コロサイ1:13 筆者註)」(付録6、ジェシー・ペン-ルイス、「やみの力から移し出される」、p.300-301)


敵は何と活発にクリスチャンが主と共なる十字架の死を経験し、キリストのよみがえりの命の領域に生きることを妨げているでしょうか。敵は何と激しく、上げ られた青銅の蛇――すなわち十字架のキリスト――をクリスチャンの目から隠そうとしていることでしょう。主と共なる十字架の死を通して、クリスチャンが自 己に対して死に、肉に対して死んで勝利し、キリストと共に凱旋の行進において敵の武装を解除してさらしものにし、キリストと共に天で座につかせて下さった という事実、この事実をはっきりとクリスチャンが認識し、経験することを、サタンと闇の軍勢はどれほど恐れ、嫌っているでしょう!

キリストの命は統治する命であり、暗闇の全ての悪しき力に対する勝利の命です。もしもクリスチャンの存在を通して、地上にキリストの支配が及ぶなら、暗闇 の勢力は必然的にその領域から出て行かなければなりません。私たちは自分の力を奮うことによって敵に勝利するのではありません、組織や、計画や、何らかの 人為的な結束によって、霊的圧迫に立ち向かうのではありません。十字架の死によってサタンを打ち破られたキリストのよみがえりの命が、信仰によって生きる クリスチャンの内で実際となり、命なる御霊がクリスチャンの内側から流れ出すことによって、暗闇の軍勢はおのずから正体を暴かれて退去せざるを得ないので す。このような領域にクリスチャンは生きるべきです。

クリスチャンはキリストの十字架からもっと信仰によって勝利を引き出さなければなりません。キリストの十字架は信仰によって私たちに与えられている無限の 預金通帳のようなものです。そこから私たちが得られる勝利の一つ目は、罪に対する勝利であり、私たちが肉や、古い人に対して死んで打ち勝つことです。ローマ人への手紙第六章は、十字架によって、私たちが「罪に対して死んだ者である」ことを認めるように教えています。

さらに、私たちがキリストの御名のために人々に誤解され、そしられ、迫害され、罪に定められるようなことがあったとしても、最後には命そのものも脅かされ るようなことがあったとしても、その苦難を最後まで耐え忍ぶことによって勝利を得ることができます、子羊の血とあかしの言葉によって全ての偽りに立ち向か うなら、彼(サタン)に打ち勝ち、しかも「勝ち得て余りがある」(ローマ8:37)ことが約束されているのです。

「悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、彼はあなたから逃げ去るであろう。」(ヤコブ3:7)と聖書は告げています。キリストの御名によって悪魔に堅く抵抗する(Ⅰペテロ5:9)ことは、とりわけ、終末の時代には必要となるでしょう。クリスチャンに対する激しい迫害が起こり、私たちは偽りの勢力に命がけで立ち向かわなければならないことでしょう。火のような試練(Ⅰペテロ4:12)が降りかかるだけでなく、最後には、反キリストの姿をとったサタン自身がまことのクリスチャンを霊的に圧迫し、肉体的にも殲滅しようとすることでしょう。

この激しい試練に血肉の力で打ち勝つことは、誰にとっても不可能です。しかし、ただ「しし―小羊」であるキリストの命によって、私たちは圧倒的に強くされ るのです。そのことを私たちは今から実際に学ぶよう求められているのではないでしょうか。激しい試みが臨んだ時には、すでに遅いかも知れません。

暗闇の圧迫は、しばしば、身近な人々(ほとんどはクリスチャン)を通してやって来ます。身近な人々が私たちに真理から逸れるように要求したり、圧力をかけ たりすることがよくあります。それらの要求は、私たちが御霊ではなく、再び、肉に従って歩むようにという内容であるかも知れません。もしも私たちが彼らの 助言や要求を拒否するならば、私たちは罪定めされ、彼らの愛を失って孤立し、多くの人たちから非難されるかも知れない状況に直面することでしょう。私たち の心は愛する者を失うことに苦しみ、極限まで圧迫されるかも知れません。その上、生活上のあらゆる問題が一挙に襲いかかって来るかも知れません。全ての名 誉を剥ぎ取られ、カルバリの他には何一つ私たちを生かすものはなくなるかも知れません。それでも、「あらゆる人を偽り者としても、神を真実なものとすべきである。」(ローマ3:4)。神の眼差しは常にカルバリのキリストに注がれています。カルバリこそが神のご計画の中心であり、私たちにとっても圧倒的な勝利の場所なのです!

エペソ人への手紙第六章は、敵に抵抗することにおける、勝利の生活のこの最後の面を描写しています。主イエスは人に対して『小羊』であると共に、悪魔に対しては『しし』でした彼はもろもろの支配と権威との武装を解除し、彼らをさらしものとされました。そして、人の目には敗北であったことが、神の目には勝利となったのです。人の目には『恥』であったことが、神の目には勝利であったのです。サタンとその邪悪な軍勢すべてに対しては、キリストはしし、すなわち、ユダ族のししでした

エペソ人への手紙第六章でわたしたちは、やみの力に対する何か霊的な戦い、ししの命を見ます。ここでわたしたちは、兵士の霊を持った兵士を見ます。『こういうわけで、強くなりなさい』。人の側では、キリストは『弱さのゆえに十字架につけられた』(Ⅱコリント13:4―筆者註)のでした。しかし、彼は『強く』、『強い人』よりももっと強いのでした。彼の名は『強い』です『もっと強い者が襲ってきて』(ルカ11:22―筆者註)ですから、キリストの名は『もっと強い者』です。彼は『強い人』よりもっと強いのです。

ですから、『キリストの中に』立ち、サタンへと立ち向かう信者に対するメッセージの言葉は、『強くなりなさい』です。もはやあなたは、『弱さ』について語ってはなりません。あなたは人性と自分自身においては弱いかもしれません。しかしあなたは『主にあって強く』ならなければなりません」(付録4、ジェシー・ペン-ルイス、「勝ち得て余りがある」、p.291)


「あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている。」(ヨハネ16:33)

「最後に言う、主にあって、その偉大な力によって、強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立ちうるために、神の武具で身を固めなさい。」(エペソ6:10-11)

 

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神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)

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