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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

死に至るまでも命を惜しまなかった

私 の個人的な経験を語るなら、主は人の自由意志をとても尊重しておられるがゆえに、私たちが御国のために大切なものを捧げるように求められる時に、無理強い はなさいません。永遠に至る実を結ぶような犠牲を私たちに求められる時、主は大抵、前もって私たちの同意を得られるか、もしくは、私たち自身が自主的にそ れを手放す決意を固めてから、それを実行に移されます。

焼き尽くす火であられる神は、私たちの内の不純物をろ過するために、時に、私たちが恐るべき苦難の中を通過するよう求められることがあります。しかし、そ のような時でさえ、御霊は前もって、私たちに来るべき苦難について教え、また、その時、何を手放すべきかを教えて下さり、私たちが自らそれを願い求めるよ うになるまでに、心の準備を整えて下さるのです。

ですから、殉教を選び取るクリスチャンは、その時が来るまでに、自分の命を手放す心の準備がしっかり出来た人たちです。その人々は、その時が来る前から、 主に命を捧げる覚悟をすでに固めており、それが彼らに対する主の御旨であることを十分に分かっているのです。だからこそ、実際に死を目の前にした時、喜ん で死を選び取っていくのです。

御言葉は主の来臨についてこう言います、「…主の日は盗人のように襲って来る。その日には、天は大音響をたてて消え去り、天体は焼けてくずれ、地とその上に造り出されたものも、みな焼きつくされるであろう。 」(Ⅱペテロ3:20)

「だから、あなたが、どのようにして受けたか、また聞いたかを思い起して、それを守りとおし、かつ悔い改めなさい。もし目をさましていないなら、わたしは盗人のように来るであろう。どんな時にあなたのところに来るか、あなたには決してわからない。 」(黙示録3:3) 

「(見よ、わたしは盗人のように来る。裸のままで歩かないように、また、裸の恥を見られないように、目をさまし着物を身に着けている者は、さいわいである。) 」〔黙示録16:15)


主の来臨の時がいつであるかを知ることのできる人は誰もいません。その日には、大いなる災いが地球を襲うでしょう。目を覚ましていない人にとっては、それはまさに青天の霹靂のような完全に不意打ちの打撃となります。

「しかし兄弟たちよ。あなたがたは暗やみの中にいないのだから、その日が、盗人のようにあなたがたを不意に襲うことはないであろう。 」(Ⅰテサロニケ5:4)

けれども、ハレルヤ! 主に忠実な僕らは、怖じまどうことはありません、その日が近いことを御霊がはっきりと告げて下さるからです。御霊は、私たちが主の ご計画に対して目を覚ましているよう、絶えず語りかけています。もし私たちが御霊に聞くならば、不意打ちのように災いが臨むことはなく、主はご計画の一端 を私たちの心に明らかにして下さり、どのような準備が必要かを予め知らせて下さるでしょう。「…真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。」(ヨハネ16:13)

殉教は決して強制される出来事であってはなりません。私たちが主に捧げるものは、何一つ、強制されてではなく、自主的なささげ物であるべきだからです。しかし、それでも、主のために命を捧げることのできる人は幸いです、主の御心は、次の御言葉から明らかだと思うからです。

「だから人の前でわたしを受けいれる者を、わたしもまた、天にいますわたしの父の前で受けいれるであろう。 しかし、人の前でわたしを拒む者を、わたしも天にいますわたしの父の前で拒むであろう。 」(マタイ10:32-33)  

「また、からだを殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、からだも魂も地獄で滅ぼす力のあるかたを恐れなさい。」(マタイ10:28) 


殉教について語ることで、私たちはいたずらに苦難を美化したり、奨励したりしているのではなく、また未来の絶望的な展望を提示して、人を不安に陥れている わけでもありません。ただ主が私たちに何を求めておられるのかに、しっかり注意を払いたいのです。自分自身の決意によっては何一つ成し遂げられないとはい え、終わりの時に、自分の命を失うことを恐れて人前で主を拒むことのない、勇気ある者でありたいと願うのです。注意して下さい、黙示録の次の御言葉は、 「おくびょうな者」を、「人殺し」や「姦淫を行う者」、「偶像礼拝者」と同列に並べ、おくびょう者は第二の死に定められるとさえ述べているのです! 

「しかし、おくびょうな者、信じない者、忌むべき者、人殺し、姦淫を行う者、まじないをする者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者には、火と硫黄の燃えている池が、彼らの受くべき報いである。これが第二の死である」(黙示録21:8)

恐らく、ここで言う「おくびょうな者」とは、マタイ25章に出て来る1タラントを地中に埋めた僕のような者のことではないかと私は思います。主を信じてい ると告白しておきながら、恐れや不安に支配されて、いざという時になるといつも主のために何かを捨てることを惜しみ、御旨に従うことをためらって足踏み し、しかも自分の信仰の薄さを、神の厳しさや残酷さのせいにして言い訳している人々を指しているのではないかと思われます。

主は言われました、「自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを見いだすであろう。」(マタイ16:25) 

この御言葉そのものが、セルフかキリストか、アダムの命かキリストのまことの命か、人類による人類の自己救済かそれとも御子の十字架による救済か、善悪の 路線に生きるのか命の御霊の法則に生きるのか、と言った二者択一の問いを発しています。終末の時代には、とりわけこの選択は厳しいものとなるでしょう。私 たちがこれ以上、何とかして自分の弱さを言い訳して、主の私たちへの要求の水準を引き下げ、自分の不信仰や不従順を神に大目に見てもらおうと、人の耳に優 しい水増しした「福音」ばかりを語るなら、恐らく、私たちはきっとセルフを選んで十字架を捨て去る結果となってしまうでしょう!

私たちは試練の日に、ロトの妻のようにならないよう主の憐みを希いたいと思います。主の名を三度に渡って否むという、ペテロには許された過ちが、もしかす ると、その日には、もう私たちには許されていないかも知れません。どうか私たちが、かの日の火のテストに耐えうるよう、今から、神の子供として十分な訓練 を受けることができますように。もし私たちが不要なものを沢山抱えているなら、主が今からそれを剥ぎ取って下さいますように! どうか私たちが今日富める 者として生きる一方で、かの日に主の御前で貧しい者として恥をかくことがありませんように! フィラデルフィヤの教会のように、かの日に主の誉め言葉にあ ずかり、主が保護したいと願って下さるような、忠実な者となることができますように!

「見よ、わたしは、あなたの前に、だれも閉じることのできない門を開いておいた。なぜなら、あなたには少し しか力がなかったにもかかわらず、わたしの言葉を守り、わたしの名を否まなかったからである。<…>忍耐についてのわたしの言葉をあなたが守ったから、わ たしも地上に住む者たちをためすために、全世界に臨もうとしている試練の時に、あなたがたを防ぎ守ろう。」(黙示録3:8-10)

「兄弟たちは、小羊の血とあかしの言葉とによって、彼にうち勝ち、死に至るまでもそのいのちを惜しまなかった。それゆえに、天とその中に住む者たちよ、大いに喜べ。」(黙示録12:11-12)


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ひとこと

神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)

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