忍者ブログ

私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

偽りの教えの例――異端グノーシス主義の構造(8)――

さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。昔の人たちは、この信仰のゆえに賞賛された。信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉で造られたのであり、したがって、見えるものは現れているものから出てきたのではないことを、悟るのである

信仰によって、アベルはカインよりもまさったいけにえを神にささげ、信仰によって義なる者と認められた。神が、彼の供え物をよしとされたからである。彼は死んだが、信仰によって今もなお語っている。

信仰によって、エノクは死を見ないように天に移された。神がお移しになったので、彼は見えなくなった。彼が移される前に、神に喜ばれたものと、あかしされていたからである。

信仰がなくては、神に喜ばれることはできない。なぜなら、神に来る者は、神のいますことと、ご自身を求めるものに報いて下さることとを、必ず信じるはずだからである

信仰によって、ノアはまだ見ていない事がらについて御告げを受け、恐れかしこみつつ、その家族を救うために箱舟を造り、その信仰によって世の罪をさばき、そして、信仰による義を受け継ぐ者となった。

信仰によって、アブラハムは、受け継ぐべき地に出て行けとの召しをこうむった時、それに従い、行く先を知らないで出て行った。信仰によって、他国にいるようにして約束の地に宿り、同じ約束を継ぐイサク、ヤコブと共に、幕屋に住んだ。彼は、ゆるがぬ土台の上に建てられた都を、待ち望んでいたのである。その都をもくろみ、また建てたのは、神である

信仰によって、サラもまた、年老いていたが、種を宿す力を与えられた。約束をなさったかたは真実であると、信じていたからである。このようにして、ひとりの死んだと同様な人から、天の星のように、海べの数えがたい砂のように、おびただしい人が生まれてきたのである。

これらの人はみな、信仰をいだいて死んだ。まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして地上では旅人であり寄留者であることを、自ら言いあらわした。そう言いあらわすことによって、彼らがふるさとを求めていることを示している

もしその出てきた所のことを考えていたなら、帰る機会はあったであろう。しかし、実際、彼らが望んでいたのは、もっと良い、天にあるふるさとであった。だから神は、彼らの神と呼ばれても、それを恥とはされなかった。事実、神は彼らのために、都を用意されていたのである

信仰によって、アブラハムは、試練を受けたとき、イサクをささげた。すなわち、約束を受けていた彼が、そのひとり子をささげたのである。<…>

信仰によって、モーセは、成人したとき、パロの娘の子と言われることを拒み、罪のはかない歓楽にふけるよりは、むしろ神の民と共に虐待されることを選び、 キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる富と考えた。それは、彼が報いを望み見ていたからである。信仰によって、彼は王の憤りをも恐れず、 エジプトを立ち去った。彼は、見えないかたを見ているようにして、忍びとおした。<…>

信仰によって、人々は紅海をかわいた土地をとおるように渡ったが、同じことを企てたエジプト人はおぼれ死んだ。<…>

彼らは信仰によって、国々を征服し、義を行い、約束のものを受け、ししの口をふさぎ、火の勢いを消し、つるぎの刃をのがれ、弱いものは強くされ、戦いの勇者となり、他国の軍を退かせた。<…>

ほかの者は、更にまさったいのちによみがえるために、拷問の苦しみに甘んじ、放免されることを願わなかった。なおほかの者たちは、あざけ られ、むち打たれ、しばり上げられ、投獄されるほどのめに会った。あるいは、石で打たれ、さいなまれ、のこぎりで引かれ、つるぎで切り殺され、羊の皮や、 やぎの皮を着て歩きまわり、無一物になり、悩まされ、苦しめられ、(この世は彼らの住む所ではなかった)、荒野と山の中の岩の穴と土の穴とを、さまよい続 けた。

さて、これらの人々はみな、信仰によってあかしされたが、約束のものは受けなかった。神はわたしたちのために、さらに良いものをあらかじめ備えて下さっているので、わたしたちをほかにしては彼らが全うされることはない。」(ヘブル人への手紙第11章より)


ローマ帝国時代、なぜ多くのクリスチャンは自ら殉教を選び取っていったのでしょうか。それは彼らが現に目に見ているものよりも、さらに良い都を神が用意し ておられることを信じ、地上での富と悦楽を全て否定し、捨て去ってでも、見えない天にあるふるさとを願い求めていることを自ら告白し、神を信じて従う者に は、神が豊かに報いて下さる方であることを身をもってあかししたからです。

私たちはアベル、エノク、モーセなど、信仰によって神に受け入れられた人々の人生を見る時、彼らが真の受難に遭って、それまでのふるさとの富や栄光を捨て て、命を脅かされたり、殺されたり、神のために大いなる犠牲を払う前に、彼らの信仰告白が神によって明らかに喜ばれていることが、はっきりと彼ら自身に も、周囲にも表されていたことを見ます。

受難は啓示の後に続きます。人々は信仰を告白し、神はその信仰を喜んでおられることを僕たちに示されます。その後で、信仰が試される時がやって来ます。最 初に告白した信仰を、次には命をかけて証明することが求められます。それによって、人々は自分が求めているものが、本当に、神のご計画に合致しているこ と、彼らが求めているものは、地上のものではなく、永遠に至る御国のために実を結ぶものであることを、代価を払っても証するよう求められるのです。

従順には代価がつきものです。アベルのささげ物も、アブラハムがイサクを捧げたことも、モーセの出エジプトも、イスラエルの民が紅海を渡ったことも、すべ てはキリストの十字架の死とよみがえりの予表でした。私たちが目に見えるものにしがみついて死を拒んでいる限り、そこによみがえりの命が働く余地はありま せんが、主と共に十字架の死を経過する者は、よみがえりの命に至るのです。

ローマ帝国時代、クリスチャンに厳しい迫害が臨んだ時、一部のクリスチャンは死を拒否しました。ある人々は、殉教を選ぶことは命を粗末にすることであるか ら、神の御心に反すると考えました。「キリストが私たちの身代わりに死んで下さったのは、私たちが死なないためです」、そう考えて生き延びる道を選んだ人 々もいました。

また、クリスチャン以外の権力者の中には、殉教を選ぶキリスト教徒は、自虐を見せびらかしているに過ぎないと考えて侮蔑する者もいました。さらに、グノー シス主義者の多くは、この世の支配者は下級神デーミウルゴスの手先に過ぎないと考えていたので、この世の支配者の手に落ちて、自ら犠牲となって果てていく クリスチャンを無知で愚かな人々だとあざ笑いました。

グノーシス主義者は、目に見えているこの世の秩序が、本来、霊的な秩序の下位に置かれるべきものであると認識していた点では、非常に進歩的で「霊的」な信 徒のように見えたことでしょう。彼らは前述したように、この世のふるさとを捨てて、神の御旨に従って旅立ったアブラハムやモーセのような人々の認識から、 そう遠くなかったとさえ言えるかも知れません。グノーシス主義者もまた、この世を超越して、彼らの考える「御国」に戻ること、すなわち天に、彼らの霊が解 き放たれる時を切に待ち望んでいたのですから。

しかしながら、クリスチャンとグノーシス主義者との両者には、ある決定的な違いがありました。グノーシス主義者は、天にあるふるさとにはただ信仰によって しか至れないこと、御子と共なる十字架の死を経ることによってしか、人は復活の領域には至れないことを否定したのです。彼らは信仰ではなく、覚醒によっ て、最終的に御国に至るのだと主張したのです。

もしも人が十字架の死を否定して、生まれながらの人がアダムの命に死ぬことなしに、よみがえりの命を得て、御国にいたりつけると考えるならば、必ずその人 は偽りと欺きによって道に迷うことになるでしょう。それはアダムの不死を追い求めることに他なりません。グノーシス主義者の考える「御国」の概念が、著し くゆがんでいたことについては、次回以降に詳しく触れますが、結局のところ、彼らが終局的に目指していた「御国」とは、原初回帰、子宮復帰の願望であり、 それは人が「その出てきたところ」(ヘブル11:15)を振り返り、そこへ戻ろうとする試み以上のものではないのです。

しかし、グノーシス主義者の中にも、キリストの受難に意味を見出し、殉教を語っていた人々が若干いなかったわけではありません。それでも、グノーシス主義 者にとっての受難とは、クリスチャンの考える受難とは意味が異なっていました。グノーシス主義者にとっての受難とは、彼らがより本来的な自己を知って、よ り世を超越し、より神(キリスト)に近いものとなるために必要な自己修練の過程とみなされていたのです。彼らの受難は、自己を否んで主に従うためではな く、彼らがより本来的な自己を発見し、それに生きるための手段でした。

グノーシス主義者たちのほとんどは殉教を嫌いました。殉教に対するこのような否定的な見方は、彼らがキリストの十字架におけるまったき「死」と「よみがえ り」への信仰を否定していたことと、密接な関係があります。グノーシス主義者も、あたかも表面的には、キリストの受難、死、復活と言った言葉を用いて、そ れを肯定しているかのように語っていたかも知れません。しかし実際には、その文献を読むならば、彼らがキリストの死の意味を引き下げることによって、キリ ストのよみがえりをも否定していたことが分かるのです。

すでに紹介したグノーシス文書『トマスによる福音書』では、死と復活の順序が逆転して語られています。荒井氏はこう解説しています。

<…>イエスの苦しみ<…>と死の意味は当福音書において、『真理の福音』や『三部の教え』その他と共に承認されている。それは「収穫」(本来的自己)を「得るため」の苦難なのである。<…>

それでもなおトマスは、イエスの死からの復活は認めていない。<…>トマスによれば、真実の意味で「生ける者」は、たとえ――肉体的に――殺されても、「死なないであろう」(一一)。――「『主はまず死んで、(それから)よみがえった』と言う者は間違っている。なぜなら、彼はまず復活し、(それから)死んだからである。もしある者がまず復活を得ないなら、彼は死なないであろう」(『ピリポ福音書』二一)。(『トマスによる福音書』、荒井献著、講談社、p.227)


なぜこのグノーシスの福音書はこのように死と復活の順序を逆転させるのでしょうか。それは「トマス福音書において「死」とは、肉体的死ではなく、むしろ原初的関係の断絶」とみなされていたからです。すでに述べたように、グノーシス主義者にとっての死とは、人間の罪のゆえにもたらされた避けられない結果ではなく、人が原初の統合関係から「分離」されたがゆえにもたらされた悲劇であり、その分離を取り除き、原初の「関係を回復し、「はじめに立つ者」に「死ぬことはない」とされていたからです。(同上、pp.319-320)

今、詳しい説明を全て省略して、端的に結論から述べるとこうなります。グノーシスの主張とは、「原初、アダムは神であった。アダムこそキリストであり、創造主を超える真の至高者である父の本質であり、アダムは不死であり、よみがえりであった。従って、原初的アダムに回帰することが、人類の救済への道である」ということになります。ですから、それを理解するならば、グノーシス主義が、人が本来的自己に覚醒し、原初の状態へ回帰することによって、よみがえりの命を得られるとしているのは不思議ではありません。

そのため、この教えにおいては、人がよみがえりの命を得るために、主と共なる十字架で死を経る必要は完全に否定されます。死がなくて、どうして、よみがえ りがあるのか、という単純な問いもここでは無視され、むしろ初めによみがえりがあったので、人は初めにあった「光」に立ち戻れば、死から救い出されて、復 活を得ることができるとされるのです。さらに進んで、この教えにおいては、その時、人は自らキリストとなるのであり、主と共なる十字架の死など経ずとも、 隠された啓示を受けて、本来的自己に回帰するならば、それによって人は神と合一できるのだ、とされるのです。

「隠されているもの」が啓示されるのは、人間がイエスの「口から飲む」とき、それによって自らが「イエス」 となるときである。イエスと共に「父」の本質――「光」と「命」に象徴される「同じもの」に与り、自らにこの原初的「自己」の統合を回復するときなのだ (六一)。なぜなら、覚知(グノーシス)者にとって終末とは「始源」なのだから。(同上、p.309)

サタンが今日、何よりもクリスチャンの目から隠したいのは、主と共なる十字架の死の必要性です。闇の軍勢の目的は、クリスチャンが決して主の十字架の死 を、信仰によって自らの死として受け取らないように仕向けることにあります。なぜなら、完全な死がない限り、完全な復活があり得ないことを、彼らも知って いるからです。

暗闇の勢力は、クリスチャンが十字架を自分のものとして受け取ることを嫌い、クリスチャンが十字架を離れるよう働きかけます。十字架上のイエスに向かって投げつけられたあざけりは、私たちに対する嘲笑でもあるのです。「他 人を救ったが、自分自身を救うことができない。あれがイスラエルの王なのだ。いま十字架からおりてみよ。そうしたら信じよう。 」(マタイ27:42)、「神殿を打ちこわして三日のうちに建てる者よ。もし神の子なら、自分を救え。そして十字架からおりてこい」(マタイ27:40)

生まれながらの人は十字架の意味を理解できません。十字架は真に反人間的なものであり、十字架の死には、人間を喜ばせる何の偉大さもないか らです。そこには人目を惹くものは何一つとしてなく、ただ人間にとって究極的に苦しい限界、制限があるだけです。そこにはアダムの命を高揚させるものは何 一つとしてなく、むしろ、アダムの命にはただ霊的死があるだけです。しかし、この十字架の死を土台としなければ、私たちを全く新しく生かす、キリストのよ みがえりの命はあり得ないのです。

サタンは十字架の死が信徒にとって恐ろしく、無価値で、無用なものであると思わせることに失敗したならば、次には、十字架を、人の肉にとって心地よいもの へと変え、アクセサリーのように飾り立て、美化されたストーリーに変えてしまおうとします。暗闇の軍勢は、十字架がアダムに対する神の刑罰であったことを 人に忘れさせ、アダムにとって心地よい物語を作り出すか、あるいは、十字架に穴をこじあけてでも、生まれながらのアダム来の何かを、私たちが十字架の向こ う側に持ち込むことができるかのように思わせたいのです。

グノーシス文書『ヤコブのアポクリュフォン』では、一見、あたかもキリストの受難と死が肯定されているかのように見えます。そこでは、ヤコブとペテロが拷問と死を目前にした時、主が彼らを励ますために現れて、「まことに汝らに告ぐ、わが十字架を信じない者はなんぴとも救われることはない。しかし、わが十字架を信じた者は、神の国が彼らのものである。」と語ったと述べています。もし記述がそれだけならば、異議を唱える理由は何もありません。

しかし、ここにも非常に巧妙なあざむきがあることを私たちは次の文章から見るのです。

……まことに汝らに告ぐ、死を恐れる者はなんぴとも救われることはない。なぜなら死の国は、自らを死に渡す者に属するからである。(『ナグ・ハマディ写本』、エレーヌ・ペイゲルス著、白水社、pp.163-164)

ここにもまた、キリストは初めから死を超越していたのであり、だからこそ、キリストに従う信徒は自らを愚かにも死に渡す必要はない、むしろ、自分が始めから死を超越していることを見出すことによって死に打ち勝つべきだ、という主張が透けて見えます。

別のグノーシス文献、『真理の証言』は、キリストは神的な力に充ちているので、受難や死にはもとより異質な存在であったと主張して、十字架は主イエスに とって神の刑罰や呪いではなかったのであり、むしろ、彼を肉体から解き放つ解放であり、彼は積極的に十字架で己が肉体を破壊したのだとさえ言います。

人の子は不滅より[来り〕、汚れとは異質で(あり)、……陰府(ハデス)に降って、大いなる業をなされた。 彼はそこで死者を起こし、……また、人々のなかから、彼らの業を毀ち(こぼち)、こうして、足なえや盲人や中風患者や聾唖者(や)悪霊にとり憑かれた者た ちが癒された。……このために彼は、彼が背負った〔十字架〕から己の肉体を〔破壊した〕。(同上、p.166-167)

『ユダの福音書』が、キリストの十字架を彼の肉体からの解放、霊が天界へ戻る手段であるとみなしていることについては、すでに述べました。同じくグノーシ ス文献の『ペテロ黙示録』は、キリストは初めから死を超越していたがゆえに、キリストの十字架において死んだのは、ただ彼の肉体的部分だけだったのであ り、それゆえ主イエスは十字架で苦痛を感じることさえなく、喜びに満ちて笑いながら十字架にかけられたのであり、彼の「原初的部分」、すなわち叡智の霊 は、十字架によって肉体から解き放たれて、まったき光に結ばれたのだと主張します。

「……あなたの見た、十字架の上で喜び笑っている者は、生けるイエスである。しかし、彼らが手足に釘を打ち つけているその人は、生けるイエスの肉体的な部分であり、それは身代りである。彼らは、彼の似像に残ったものを辱めているのだ。だから、かれを 見なさ い。そして、私を[見なさい]。」(p.168)

これよりもさらに複雑なグノーシス主義のヴァレンティノス派は、キリストの受難と死の重さを確かに認めながらも、主イエスの十字架の死は、彼自身にとって は死であったが、人間、すなわち、グノーシスを得る者にとっては、「木になる実」、すなわち、生命を生み出す「知識の木」の新しい「実」であるから、それ はアダムにとっては何の脅威でもなく、刑罰でもないと主張します。

少し長いですが、エレーヌ・ペイゲルスの説明から、私たちはグノーシス主義者が、キリストの十字架をいかに生まれながらの人間にとって心地よいもの、人間 本位なものに変えてしまっているかを見ることができます。ヴァレンティノス派のグノーシス文献、『真理の福音書』はこう述べています。

……木に釘づけにされた。彼は父の知識(グノーシス)の実になった。しかし、それは食べ[られ]ることによって破滅を与えるものになるのではないそうではなくて、それを食べた人々が見いだすことに喜ぶようになる原因を与えたのである。なぜなら、彼は彼らを自らのなかに見いだし、彼らは彼を自らのなかに見いだしたからである。……

キリストの死は人間を誤ちと罪から贖うための犠牲と解釈する正統派の諸資料とは反対に、このグノーシス派の福音は、内なる神的自己を発見する機会として十字架刑をとらえている。<…>

……いつくしみ深い忠実なイエスが、苦難を身にひき受けて耐え忍んだ、……なぜなら彼は、彼のこの死が、多くの人々にとって命であることを知っていたからである。……彼は木に釘づけにされた。……彼は自らを死に至らせるが、彼は永遠の命を身につける。滅びの衣を脱ぎ捨てて、不滅をまとうのである。……

もう一つの注目すべきヴァレンティノス派の文書『三部の教え』は、救い主を「生まれいで、受難すべき存在」として紹介している。人間に対する憐みの情に動かされて、彼は進んで

彼らのごとくになった。こうして彼は、彼らのために、自発的ならざる苦難のなかに顕れることになった。……彼が救おうとした人々の死を自らにひき受けたばかりか、彼はまた、彼らの小ささも受けいれたのであった。……彼は自らを孕ませ、身も心も幼子として生まれた

<…>同様に『真理の福音書』は、イエスの人間としての死について述べた後、さらに次のように言っている。

≪父≫の≪言葉≫が万物のなかに入り込み、……それを清め、≪父≫のなかに、≪母≫のなかに連れ戻す。――優しさの限りなきイエスが。

ヴァレンティノス派の第三の文書『グノーシスの解釈』は、同じような逆説を表明している。一方において、救い主は苦難と死に感じやすい存在になるが、他方において、神的力に充ちた≪言葉≫である。救い主は説明する。

――「私は非常に小さくなった。それは私が、私の卑下によって、あなたがたがそこから落ちた大いなる高みにあなたがたを連れ戻すためである。」

これらの資料の一つも、イエスが実際に受難して死んだことを否定してはいない。すべてがそれを前提にしている。しかしながら、すべての資料は、いかにキリストがその受肉において人間の本性を超えており、その結果彼が神的力によって死に打ち勝つことができたかを示すことに関心をよせている。」(同上、pp.169-171)


このようにして、グノーシス主義者は、イエスの「優しさ」や、「愛」、イエスのまとわれた卑下、イエスの「幼子性」ばかりを強調することにより、十字架を 人間本位に解釈し、十字架が生まれながらの人にとって、大変心地よいものであるかのように説き、十字架が全ての人に対する罪の宣告であり、滅びの宣告に他 ならず、呪いであり、罪定めであった事実を覆い隠してしまうのです。

以前に私は、キリストの神性・人性をどのように解釈するかが、クリスチャンの信仰的なアイデンティティを決定してしまうということについて述べました。キ リストと私たちエクレシアとは決して引き離すことの出来ない運命共同体であり、花婿をどのようにとらえるかが、花嫁の運命も決定してしまいます。

私たちは十字架についての美談に欺かれないようにしなければなりません。キリストは初めから死を超越していたために、十字架の死にさえも、神的な力をもっ て打ち勝ったのだという主張には、何らかの説得力があるかも知れませんが、そのような主張をもしも信じてしまうならば、私たちはまず第一に、キリストの十 字架が、全てのアダムに対する神の破滅的な刑罰であったという事実を見なくなります。彼がアダムの代表として十字架に向かわれ、ご自分の肉に全てのアダム の肉を含められ、ご自分を死に渡されたのだという事実は失われるでしょう。そうすれば、私たちをアダムの命の腐敗や、罪から救う方法は、もはや全くなく なってしまいます。

次に、キリストは神であられたがゆえに、神的な力によって十字架に耐えることができたのだと考えるならば、彼の完全な人性は否定され、「彼の十字架の死」 は、決して、「私の十字架の死」ではあり得なくなります。そのように考えるなら、キリストは神であったから十字架を負うことができたが、私たちは人である がゆえに、十字架を耐え忍ぶ必要はなく、自分に耐えられるほどほどの苦しみがあればそれで結構であり、命をかけて主に従う必要はないという主張が生まれる でしょう。

このような考えは、私たちを巧妙に十字架から外に連れ出します。私たちはキリストの十字架の死の意味を引き下げないようにしなければなりません。あるい は、十字架を人間にとって甘く、優しく、受け入れやすくするために、割り引いて考えたり、飾り立てたりしないようにしなければなりません。キリストの十字 架の死には、何の栄光もなければ、人を喜ばせるどんな要素もありませんでした。それは彼自身にとっても、解放ではなく、死であり、刑罰であり、呪いだった のです。 

「キリストは、わたしたちのためにのろいとなって、わたしたちを律法ののろいからあがない出して下さった。聖書に、「木にかけられる者は、すべてのろわれる」と書いてある。」(ガラテヤ3:13)

キリストは私たちのために呪いとなって、十字架の苦しみを余すところなく背負って、神にさえ捨てられて、自らを奴隷としての死に渡されました。しかし、彼 が死に至るまでも従順であることが、彼に対する神の御心だったのです。そして、ご自分の命を捨てても、神の御心に従ったがゆえに、神はキリストに全ての栄 光を賜り、彼を全ての名に勝る名とされたのです。

「キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれを むなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられ た。それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜った。」(ピリピ2:6-9)

神はキリストの十字架の死によって、朽ちるものと朽ちないものとの境界をはっきりと定められました。十字架によって、何が神の国を継ぐことのできるもので あり、何がそうでないか、全ての人の前に明らかにされたのです。御子の十字架を信じず、十字架を経ない者を、神が滅び行くものとして罪に定められないこと はありませんし、そのような者たちが神の国を継ぐことはありません。

そして、キリストを長子として、キリストによって生まれた全ての兄弟姉妹たちは、キリストにならうことを求められます。主が世から憎まれたように、主の僕たちも必ず、世から憎まれるようになることを、主イエスははっきりと予告されたのです。「も しあなたがたがこの世から出たものであったなら、この世は、あなたがたを自分のものとして愛したであろう。しかし、あなたがたはこの世のものではない。か えって、わたしがあなたがたをこの世から選び出したのである。だから、この世はあなたがたを憎むのである。 」(ヨハネ15:19)

もしも真に十字架によって私たちが世から隔てられているならば、主の御名のゆえに苦難を受けることは、私たちにとって、決して避けて通ることはできない道です。「またあなたがたは、わたしの名のゆえにすべての人に憎まれるであろう。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。 」(マタイ10:22

「…イエスもまた、ご自分の血で民をきよめるために、門の外で苦難を受けられたのである。したがって、わた したちも、彼のはずかしめを身に負い、営所の外に出て、みもとに行こうではないか。この地上には、永遠の都はない。きたらんとする都こそ、私たちの求めて いるものである。だから、わたしたちはイエスによって、さんびのいけにえ、すなわち、彼の御名をたたえるくちびるの実を、たえず神にささげようではない か。」(ヘブル13:12-15)

主イエスの弟子たちも、初代教会のクリスチャンたちも、主イエスの御名のゆえに受ける苦しみを恥とは考えませんでした。「今わたしは、あなたがたのための苦難を喜んで受けており、キリストのからだなる教会のために、キリストの苦しみのなお足りないところを、わたしの肉体をもって補っている。」(コロサイ1:24)

「むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど、喜ぶがよい。それは、キリストの栄光が現れる際に、よろこびにあふれるためである。」(Ⅰペテロ4:13)


しかしながら、グノーシス主義者はキリストの十字架を全てのアダムに対する神の刑罰として考えることを拒みました。彼らはキリストの十字架は、彼の肉体か らの解放だったと捉えることによって、十字架はアダムの罪を示すために存在するのではないと考え、また、キリストを信じる者が、主の十字架の死に自分自身 を同一化する必要もないと考えました。彼らは、あるいは、主イエスは初めから死を超越していたので、十字架は彼にとって苦痛ではなかったはずだと述べ、あ るいは、十字架の死とよみがえりの事実そのものを否定し、あるいは、主イエスの十字架は、主イエス自身にとっては苦痛に満ちた死であったが、彼の死は、人 間にとっては、「グノーシス」という甘く麗しい実を与えるものであるとし、十字架を人間本位なものにゆがめ、かえってアダムに栄光をもたらすもの、アダム の延命措置に変えてしまおうとしたのです。

このような論拠に立って、多くのグノーシス主義者は、主の御名を人前で拒まず、自ら死に赴くことで、神への従順を証ししようとしたクリスチャンの殉教者たちを軽蔑しました。グノーシス文献『真理の証言』は、殉教を選び取ったクリスチャンをあざけってこう述べています。

「愚かな者たち――彼らは、力をもってではなく、言葉だけで「私たちはキリスト教徒だ」と告白すれば生きる と心のなかで思っているが、(ほんとうは)迷っているのだ。無知に、人間の死に自らを渡し、自分がどこに行くのかも、キリストは誰であるかも知らないで。 ――このような愚かな者は、権威と権力に走る。彼らは、自分のうちなる無知のゆえに、権威と権力の手中に落ちるのだ。」

[虚しい〕殉教者である。なぜなら彼らは、自ら〔のため〕にのみ証しをするだけだからである。……彼らが(殉教者の)死によって「全う」されるときでも、 彼らが考えていることはこういうことである。――「われわれが主の御名のために、自らを死に渡すならば、救われるであろう。」しかし、そうはいかないの だ。……彼らは、〔命〕を与える≪言葉≫を持ち合わせていない。(同上、p.165)


多くの異端反駁者たちは、主の御名のゆえの受難を否定し、殉教を嘲笑ったグノーシス主義者に激しく反対し、そして自らも殉教や苦難の道を選び取っていきました。
<つづく>
PR

ひとこと

神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)

ヴィオロンのブログ

最新記事

アーカイブ

ブログ内検索

カテゴリー