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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

見えるものにではなく…

先日の冬とは思えないほどに暖かい一日、ある姉妹に誘っていただき、ドライブを楽しんだ。私には見るもの全てが新しく、まるで子供のように車内から歓声を上げた。富士山がこんなにも間近に見えるなんて! 湘南の海がこんなにも美しいなんて!

真鶴でお昼に海鮮料理をいただき、熱海を抜けて、伊東市へ向かう。静かな山道を、枯葉を踏みしだきながら歩いた。帽子が吹き飛びそうな海風にも負けず、吊 り橋の上から海に向かってシャッターを切る。停車し、機会あるごとに、短い感謝の祈りを捧げる姉妹の姿を見ながら、自然体で主と生きる楽しさを共に感じ た。日が傾いた頃に、風雅な喫茶店での休憩。夜は湯河原の温泉でゆっくりと温まりながら、終わりのない会話に花を咲かせる。ファミレスで夕食を終えて、車 に戻ってみると、なんと十時を過ぎていた。
 
  この日、改めて確認した。私たちは御言葉を第一として生きようと。生きた人であろうと、書物であろうと、どんな人の言葉をも、御言葉以上に高く掲げるよう なことを決してすまいと。先人たちの書物も、信仰の先輩たちの言葉も、しょせん、参考書程度と割り切っておけばよい。私達が真に耳を傾けるべきは、内にお られるキリスト、御言葉なるお方である。

また、私たちの目指す都はこの地上にはない。目に見える交わりがどんなに麗しいものであろうとも、それ自体を決して偶像視するようなことがあってはいけな い。エクレシアはキリスト以上に高く掲げられてはならない。神が喜ばれるのは、交わりが目に見える形で発展を遂げること(たとえば家庭集会の増加)ではな く、ただ一人でも多くのクリスチャンが、見えない内住のキリストを仰ぎ、御霊の導きに従って、信仰に生きるようになることだ。だから、私たちは、目に見え る現象に一喜一憂させられる不安定な生き方をやめて、揺るぎない御言葉を立脚点として生きるように心がけたい。

「キリストの言葉を、あなたがたのうちに豊かに宿らせなさい。」(コロサイ3:16)

・・・残念ながら、2016年の時点で、この姉妹ももはや関東にいなければ、この姉妹と出会った際に存在していた交わりもない。この記事での交わりの風景は美しく描かれてはいるが、私とこの姉妹との間に、堅い信仰の絆があったわけではない。むしろ、当時、キラキラと輝いて、始まったばかりのように見えた私たちの交わりは、すべて間もなく散り散りになり、互いに密告と裏切りが横行し、誰が兄弟姉妹なのかも分からないほどの有様となり、おそらくはこの姉妹も、たとえ健在であったとしても、筆者とはおよそ相容れない信仰的立場に立っているものと推測する。

姉妹自身が関東を去ったことから見ても分かるように、この時に姉妹が気前よく筆者に紹介し、共に享受することのできた豊かさは、ほとんどすべて失われたのである。

だが、それでも、筆者はほとんど当時と変わらないまま、ここに残っている。あの時に、姉妹が運転していた真っ赤な車と、姉妹の元気に溢れた活動的な様子と、共に観た風景の美しさを昨日のことのように覚えている。それから今に至るまで、この国の何という恐ろしい変わりようだろうか。あの時の自由さ、伸びやかさ、豊かさは、どれほど失われたろうか? 姉妹は当時、独立心旺盛で、仕事もし、運転もしながら、しっかりと自分の人生を生きていたのに、なぜあの時の水準を、そのまま維持しようとしなかったのか――? どんな不安に駆られたのだろうか――老いには勝てなかったのか――? 筆者の祖父母は90歳を超えているが、自活している。それを思うと、もし望みさえあるならば、ずっと同じように生きられたのではないかと思うのだが。

福島原発事故以来、あたかもこの国と関東は終わったかのように思われているのかも知れない。だが、筆者は、あくまでこれから何かを始めようとしているのである。この当時、2010年当時、始まろうとしていたように見えたものを、今もまだ構築しようとしているのである。その時、周囲にいた人たちがみんな去っていなくなったにも関わらず、筆者はその時と全く変わらない望みを心に抱いて、彼らが語り合っていたことを、そのまま継承しているのである。

先輩たちよ、本当のことを言うならば、あなたがたにもっと頑張ってお手本を示してもらいたかった、と私は思っている。あなたがたが当時、目指しているように見えたエクレシアを、その基礎だけでもいいから、しっかりと切り開いてもらいたかった。でも、あなたがたにとっては、エクレシアとはきっと有閑倶楽部のようなものでしかなかったのだろう。

あなたがたがずっと後から来た他人の批評ばかりに明け暮れ、自分自身は何の手本も示さないまま、心の赴くままに移動し、後学に何も残さず退場して行ったことは、ひどく責められてもしかるべきではないかと私は思っている。

あれほどかつての仲間を批判していたではないか。そのレベルで終わってはいけないと言っていたのではないか。それはすべて他人だけに当てはまることで、自分自身には関係ないと思っていたのであろうか。大それた目標を提示して、他の信者のあり方に不満を示すならば、自分自身が、せめてある程度の納得できる功績を残し、ある程度の展望が見えて来るまで、頑張って踏みとどまってもらいたかったのである。世人が誰しも遭遇するような、老いだとか、世の先行き不安のような、あまりにもありふれたマイナス要因に負けることなくだ。
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ひとこと

神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)

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