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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

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「わが義人は信仰によって生きる」

ロー マ帝国時代、グノーシス主義者が自分は霊的に死を初めから超越していると誇り、殉教を拒んだのに対し、クリスチャンたちが自ら殉教を選んでいったその根底 には、何があったのでしょうか? そこには、主の十字架の死を自分自身の死として受け取り、そして、受難を通じて、肉(旧創造)に対する神のお取り扱いを 受けたいという願いがあったのだと私は思わずにいられません。

「それからイエスは弟子たちに言われた、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。 」(マタイ16:24)

もしもキリストの十字架が(複数形の)罪の贖いのためだけであったなら、私たちにとっては、キリストが身代わりとして死んで下さったことだけで十分であ り、私たちが主と共に苦難を背負わなければならない理由は何もなかったでしょう。私たちは、苦行を通して自分の罪を贖うことは不可能であるのを知っていま す。新たな十字架を自分で作り出すことによって、自分を贖うことは誰にもできません。その意味において、キリストの十字架は完成されたのであり、私たちが 努力によって付け加えるものは何もありません。

しかし、十字架にはより深い働きがあるのです。それは私たちの旧創造(肉)を対処するという働きです。生涯を通じて、キリストの十字架は、信仰により、私 たちの肉を対処するために働きます。地上にいる限り、私たちは贖われない肉体の中でうめきながら生きていますが、それでも、私たちの霊、魂、肉体のすべて に渡って十字架が実際となることが神の御旨です。

「あなたがたは、終りの時に啓示さるべき救にあずかるために、信仰により神の御力に守られているのである。そのことを思って、今しばらくのあいだは、さまざまな試練で悩まねばならないかも知れないが、あなたがたは大いに喜んでいる。こうして、あなたがたの信仰はためされて、火で精錬されても朽ちる外はない金よりもはるかに尊いことが明らかにされ、イエス・キリストの現れるとき、さんびと栄光とほまれとに変るであろう。 」(Ⅰペテロ1:7)

この御言葉は、金が炉で洗練されるように、私たちの信仰も、試練という炉の中で試され、洗練されなければならないことを示しています。

私たちが信仰だと思っているものの中には、常に自分では気づいていない不純物があまりにも多く混じっています。人はたとえ自分が過ちの多い人間であること を認めたとしても、自分の自己が神の御前に真に罪深いものであり、汚れたものであるという事実を認めることができません。人は自分の目に旧創造の忌まわし さを見ることができません。肉は絶えず見栄を張り、自己の威信を主張し、自分は正しく神に仕えていると考え、神によって低められ、懲らしめられ、栄光を奪 われることを嫌います。

私たちは自分のこの手の中に自分自身をしっかりと握りしめています。そして、私たちの自己が神によって取り扱われる時、それに抗おうとします。しかし、このように巧妙に神に敵対する私たちの肉(セルフ)に対して、神は十字架を適用することを願っておられます。

そこで、主は私たちのために苦しみを用意されます。それは私たちが肉を信頼しないようになるために必要な経験です。シモン・ペテロが、自分たちの前途に苦難が待ち受けていると知った時、主の御前で次のように言ったことは有名です、「主よ、わたしは獄にでも、また死に至るまでも、あなたとご一緒に行く覚悟です」(ルカ22:33)

ペテロはこの言葉を魂の愛から告白したのでしょう。彼は主をとても愛しているがゆえに、主を失うことに耐えられず、だからこそ、どこまでも彼に着いていき たいと自分の願いを告白したのです。しかし、彼はその自分の言葉が、アダムの命に属する魂の愛から発せられたものであることを知りませんでした。彼はその 告白によって、主を失うまいとしていたのです。しかし、神のご計画は彼の思いよりはるかに高く、主イエスが十字架で命を捨てることが神の御旨でした。

アダムの命に属する愛は、常に自己を喜ばせてくれる何物かを失わずに済むよう確保しておこうとします。魂の愛は、自分の愛する者を手放すことを嫌います。 ペテロは自分の告白によって、主を失わずに済むと考えました。死に至るまで主に従えば、主が彼を是として下さるだけでなく、生きている限り、彼の目は主を 見続けて慰めを得ると想像したことでしょう。 

しかし、主イエスは、ペテロのその告白の後ろに、彼の自分を喜ばせようとする動機があることを知っておられました。そして、人が自分を喜ばせようとする動 機によっては、神に従うことができないのを知っておられました。主イエスにとって、死に至るまでも神に従うということは、「神にさえ捨てられる」ことを意 味していました。それは彼が自分の命を捨て去るだけでなく、神からも切り離されること、神に喜ばれ、受け入れられているという慰めに満ちた感覚さえも失う ことを意味していました。

多くの信仰の先人たちは、一様に口をそろえて言います、真実に主に従った人々は、いつもいつも、神の慰めと慈愛に満ちた側面だけを感じて、喜びの感覚だけ を享受することはできなかったと。苦しみの中で、神からあたかも捨てられたかのような経験を、何度も、味わわなければならなかったと。それは人が自分を喜 ばせる感覚によって生きるのではなく、真に信仰によって生きるために、避けては通れない試練だと言います。

私たちは多くの場合、自分が一生懸命に何かをすることで、神を喜ばせ、神の心を獲得できると考えています。そして自分の努力が神に受け入れられ、神に評価 されることだけを願います。カインの捧げものも、人間の努力という点では、人の目には十分に評価されておかしくなかったでしょう。カインも、弟アベルに劣 らず、主のために心を砕き、自分の考える最も良いものを神に提供しようとしたのです。

しかし、神がお受け取りになったのは、人が自分の努力によって勝ち得たもの、人の考え出した最善のものではありませんでした。神がお受け取りになったの は、ただ信仰によって捧げられたものだけでした。そして、信仰は、人に文字通りすべてを要求したのです。私たちの考える最善のものよりも、さらに上回るも のを、神はお求めになるのです。

アベルはキリストの型です。信仰によって捧げられたアベルの捧げ物は、主に喜ばれ、受け入れられました、しかし、神がアベルに求められた捧げ物は、それで 終わりませんでした。アベルの信仰は、彼に地上での栄誉を何ももたらしませんでした。彼は神に愛され、受け入れられましたが、それゆえに、世の憎しみを向 けられ、世からは拒絶されて、自分の命を手放さなければならなかったのです。

主が好まれるのは、目に見える犠牲ではなく、私たちの砕かれた心です。「神の受けられるいけにえは砕けた魂です。神よ、あなたは砕けた悔いた心をかろしめられません。」(詩篇51:17)  義人ヨブでさえ試みに遭って悔い改めねばならなかったように、神に忠実であろうとする人々は、試練の中で、自分が最善と思ったものよりも、さらに多くを求 められます。アブラハムはイサクを連れて山に登るように促されました。結果的に、イサクを手にかけることはなかったとはいえ、その山で捧げられたものは、 確かに、彼にとって最も大切なイサク、彼が自分自身のように愛するイサクだったのです。

私たちは自分の命のごとく愛するもの、自分自身のように愛するものを手放すように求められ、自分の望み、自分の義に対して死んで、自分自身が碾き臼で挽か れるようにして砕かれていく光景を見て、耐え忍ばなければならないかも知れません。理不尽な経験を味わい、人には嘲笑され、屈辱を味わい、それでも、神を 信じ、神を愛するかどうかを試されるかも知れません。

多くの殉教者たちが、処刑台の前で、大胆に信仰を告白し、勇気ある死へ赴いて行きました。そのような話を聞いて、私たちは興奮するかも知れません。私たち は彼らの勇気に心打たれ、心に喜びを感じ、自分も同じように、断頭台に立たされても、神を誉めたたえようと決意するかも知れません。

しかし、私の予想を述べさせて下さい、恐らく、この先、殉教者からは、殉教によって得られる栄光は何もなくなることでしょう。世間から隔絶された場所で、 トラクターの上に荷物のように積まれ、ぼろ切れのように死んで行く光景には、何の栄光もなければ、興奮もありません。その死の事実さえ、長い間、覆い隠さ れてきたため、それを聞いて拍手喝采を送る人もいなかったのです。この先、主に忠実であろうとするクリスチャンたちは、それよりもさらに無名の最期を遂げ ることになるかも知れません。私たちが神のために何を手放したのか、それを知る人も、神ご自身の他には誰もいなくなるかも知れません。しかし、それでも、 もしも神が許されるなら、「彼は死んだが、信仰によって今なお語」るのです…。

「信仰によって、アベルはカインよりもまさったいけにえを神にささげ、信仰によって義なる者と認められた。神が、彼の供え物をよしとされたからである。彼は死んだが、信仰によって今もなお語っている。」(ヘブル11:4)

私たちは殉教が本当に何を意味するのか、今、時間のあるうちに、考えてみたいと思います。主イエスは、十字架にかかられたあの恐ろしい苦しみの間中、完全 に神に見捨てられていました。それまで彼が御国を宣べ伝える働きを支え、常に共にいて下さり、彼の知恵となり、力となり、彼の命となって下さった御霊は去 りました。神との親しい交流は失われ、彼はたった一人ぼっちで、全世界の憎しみの前に立たされ、その怒りと憎悪を一身に向けられて、屈辱的な死を迎えねば ならなかったのです。

サタンの集中砲火が主の上に降りかかりました。神に愛される者への全人類の敵対、神のご計画への全人類の敵対、そして、神に永遠に捨てられた者であるサタ ンの尽きせぬ憎悪に満ちた攻撃が、主に一身に向けられました。しかし、その時、天でさえ彼の上に閉ざされたのです! まさか、こんな決定的な瞬間に神がご 自分の愛する子を見放されるなど、あってよいでしょうか? これ以上に、彼が神の助けを必要とした瞬間が他にあったでしょうか?

今まで絶えず彼に注がれて来た神の温かい眼差しは、一体、どこへ消えたのでしょう? 主が十字架を負って、人々の怒号の中を歩き続けた瞬間、主の手足が木 に釘づけられていた瞬間、彼が十字架の上で恐ろしい苦痛を味わっていた瞬間、神の愛なる眼差しはどこに向けられていたというのでしょうか?

神は彼の苦痛に対して完全に沈黙されました。愛する御子の叫びに沈黙されました。全人類の不正に目をつぶり、罪なき者が罪ある者として濡れ衣を着せられ、 最も屈辱的な死刑に処されるという忌まわしい事実に対して沈黙されました。神の愛はあたかも消えうせ、神が不正を憎まれる方だという事実も、あたかも消え うせたかのようでした。さらに、主イエスはその時、全世界から見捨てられ、裏切られ、憎まれただけでなく、彼の上には神からの呪いが下ったのです。死に至 るまでも神に忠実であった、完全に罪なき神の愛する御子が、神に拒絶され、捨てられたのです!

だからこそ、主はこのように、叫ばないわけにはいかなかったのです。「…三時ごろに、イエスは大声で叫んで、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と言われた。それは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。 」(マタイ27:46)

私たちはこの事実をよくかえりみなければなりません。十字架で命を捨てる、そのことの中には何の甘やかさもありません。そこには何の自己陶酔もなく、人を 喜ばせる要素は何もありません。この決定的瞬間には、自分が神によって愛され、受け入れられているという安心感、甘ささえ全くないのです。そこには、残念 ながら、私たちクリスチャンが常に愛している神の慈しみ、愛に満ちた優しさ、神の保護、祝福といった側面は見いだせません。

確かに、私たちは御子の十字架のゆえに、神に受け入れられた者なのですから、神によって拒絶されることはもうありません。しかしながら、真実に自分の十字 架を取って主に従うならば、私たちも、御子の味わわれた苦しみにならうことを求められるでしょう。私たちがそれに耐えうるのは、ただひとえに、御子がすで に肉体を裂いてその道を作られ、すべてを完成されたからであり、その彼が私たちのうちに働いて、来るべきすべての試練に耐える力となって下さるからです。

ですから、死に至るまでも神に従うという決意を、自分自身の力で守りきれる人はいません。なぜならそれは人としての栄光のすべてを奪われることを意味する からです。誰一人、自分の力でその苦痛、恥辱、恐怖に耐えうる人はいません。そこには私たちの安心、安全、喜びはなく、私たちの心の最も愛する感覚、神に 喜ばれ、受け入れられているという感覚さえもないかも知れないのです。


「たといまた、わたしが自分の全財産を人に施しても、また、自分のからだを焼かれるために渡しても、もし愛がなければ、いっさいは無益である。」(Ⅰコリント13:3)

パウロが言ったこの言葉は、殉教は私たちの内で働いて下さるキリストの神への愛、ご自分のすべてを捨てて、死に至るまでも神に忠実であられたキリストの神 への愛によってしか遂げられないことを意味しています。その愛は人の考える愛、魂の愛とは異なっています。自分を喜ばせてくれる対象を常に自分のために 取っておこうとして、すべてを手放すことを拒む魂の愛とは異なっています。

自分で自分を義とするために、あるいは命を捨てる人もいるかも知れません。多くの人々は自分の政治的・社会的・宗教的信念を全うするために実際に命を捧げ てきたのです。しかし、神は私たちの信仰の中からそのような自負を取り除き、自分で自分を義としようとする願いを取り除き、そして、真に栄光を剥ぎ取られ た、真に無化された形で、私たちが召しを全うするように導いて下さると信じます。

「すべて肉なる者よ、主の前に静まれ。主はその聖なるすみかから立ちあがられたからである。」(ゼカリヤ2:13)

私たちの真の保護者は神です。私たちの名誉の守り手は神です。地上のどんな権勢も、能力も、私たちに真の栄誉をもたらすことはできません。私たちは低めら れ、ただ主の御名だけがたたえられるべきです。ですから、私たちは自分の冠を投げ捨て、神の懲らしめの御手の下にへりくだり、私たちはどのような試練を受 けても、ただ主の御名だけが讃えられることを願おうではありませんか?

私たちがこれ以上、肉を頼みとし、己を義として、旧創造に生きることのないように、神は私たちが自己を否んで、十字架を取って主に従うよう、あえて私たち に苦しみの中を通ることを許されるのです。これは罪の贖いのための十字架ではなく、私たちの自己、肉に深く適用される十字架です。これは私たちに深い痛み をもたらすでしょう。それは私たち自身にとっては死に他なりません!

しかし、内におられるキリストに生きていただくために、目に見える栄光を全て剥ぎ取られ、アダムの命を捨て去ることになっても、自分自身の何かによってで はなく、ただ「信仰によって生きる」ことを願うでしょうか? そのために燃える炉の中を通らされ、神の聖なる火によって自己の不純物を焼き尽くされても、 絶えず主の死に自分自身を同形化することを私たちは願うでしょうか? 

ただ主だけが私たちに何が必要かをご存知です。どうか主が御心を私たちの上になして下さいますように。

「わが義人は、信仰によって生きる。もし信仰を捨てるなら、わたしのたましいはこれを喜ばない」(ベブル10:38)


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