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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

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神は彼らとともに住み、彼らはその民となる

「日曜日が週に二日あったらいいのにね!」

兄弟たちとそう言って笑い合った。二日であろうと、三日であろうと構わない、もしも時間が許されるなら、私たちはきっと永遠にでも、力の限り、主に賛美を捧げ続けるだろう。

24時近くまで語り合うのが恒例になり、半ばエンドレスになりつつある私たちの交わりで、今日も健やかに、身も心もいっぱいに満たされて帰って来た。先週 の日曜日には礼拝の興奮さめやらず、月曜日まで一睡もしないまま職場に駆けつけ、仕事の合間にもまだ賛美を歌っていたのは、どうやら私だけではなかったら しい。明らかに私たちの交わりに何事かが起こっているのだ。しゅろの枝を持って、御座と子羊の前に立つ数え切れない群集の姿が、瞼を閉じればまざまざと目 に浮かび、その賛美の声が耳に聞こえて来るかのようだ。何をか恐れることがあろう。今日は、もはや礼拝の枠組みを超えて、ただいついつまでも主が私たちと 共におられるという喜びと平安だけが心に残った。

「その後、私は見た。見よ。あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、だれにも数えきれぬほどの大ぜいの群集が、白い衣を着、しゅろの枝を手に持って、御座と小羊との前に立っていた。
 彼らは、大声で叫んで言った。
「救いは、御座にある私たちの神にあり、小羊にある。」

御使いたちはみな、御座と長老たちと四つの生き物との回りに立っていたが、彼らも御座の前にひれ伏し、神を拝して、言った。
「アーメン。賛美と栄光と知恵と感謝と誉れと力と勢いが、永遠に私たちの神にあるように。アーメン。」(黙示7:9-12)


殉教という言葉が、周囲でかなりよく聞かれるようになった。私だけではない。兄弟姉妹の皆が同じ感じを抱いている。私たちはもう言葉の上だけで信仰を語ることのできない、抜き差しならない時代に入ったのだと。

だが、そんなにも切迫した感じを受けているにも関わらず、交わりの中にいると、不思議なほどに爽やかに軽やかに心が満たされるのはなぜだろう。悲壮感、気 負いはなくなっていき、ただ普通に、極めてごく普通に、ただ一つの願いだけが心に残る。全ての被造物が主の御前に膝をかかめ、全ての肉なるものは主の御前 に静まり、ただ主の御名だけが高く掲げられ、主の御名だけが誉めたたえられますように!! 私たちの名がどれほど低められようとも、そんなことはもはや問 題でない、迫害も、圧迫も、苦痛も、恐れも、もはや何の意味も持たない、ただ主だけが栄光をお受けになりますように!! ただ主の御名だけが天と地で高ら かに誉め讃えられますように!! それだけが私たちの願いであり、喜びであり、希望なのだ。死も生も、天使も支配者も、現在のものも、将来のものも、力あ るものも、高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできません!!

今日、メッセージの中で兄弟がゼカリヤ書の次の言葉を引いて語った、「私の神、主が来られる。すべての聖徒たちも主とともに来る。」(ゼカリヤ14:5)、この箇所によれば、主の再臨の時、聖徒たちは地上で主を迎える人々の一群と、先に主を迎えに行った人々の一群との二つのグループに別れるという。先に主を迎えに行った人々とは、携挙されたか、あるいは殉教を遂げた人々のことであろう。

それを聞き、今後、私たちの命運は別れるであろうことを感じた。だが、たったそれだけのことなのだ、地上での別れが意味するものは。私たちは引き離されても、すぐに互いにまみえるであろう、それほど時間をかけることなく。しかもその時には、主が我らと共におられるのだ! 

自分は殉教するだろうと固く思い込み、命を捨てる気満々でいるような人にも、あるいは、主は別の道を用意されるかも知れない。私たちにはまだまだこの先、 自分の道がどう定められるのか分からない。だが、いずれにせよ、私たちを待ち受けている前途は、人の目にどうみすぼらしく見えようとも、私たちにとって は、希望に満ちている。なぜなら、私たちの希望は、自分の運命にあるのではなく、主が来られて私たちを迎えて下さるという事実にあるからであり、復活の身 体で主にまみえ、顔と顔を合わせて主にまみえるその時へと、私たちの願いは今からまっしぐらに向かっているからだ。

スミルナの教会へ向けられた言葉。「わたしは、あなたの苦しみと貧しさとを知っている。――しかしあなたは実際は富んでいる。――またユダヤ人だと自称しているが、実はそうでなく、かえってサタンの会衆である人たちから、ののしられていることも知っている。
あなたが受けようとしている苦しみを恐れてはいけない。見よ。悪魔はあなたがたをためすために、あなたがたのうちのある人たちを牢に投げ入れようとしている。あなたがたは十日の間苦しみを受ける。死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。」(黙示2:9-10)


今、主の御前にこう言おう、私たちは来るべき苦難を恐れていませんと! ただ、どうか私たちが死に至るまでもあなたに忠実であれるよう、あなたの御名に恥 とならないように、私たちのうちで、主よ、あなたが忍耐となって下さい。たとえどのような苦難の中を通らされようとも、世の終わりまであなたが共にいて下 さり、あなた自らが私たちの目の涙を拭い取って下さるという約束を信じています。

「また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。
私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。
そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。

「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」

すると、御座に着いておられる方が言われた。「見よ。わたしは、すべてを新しくする。」」(黙示21:1-5)

主よ、来たりませ! 


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ひとこと

神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)

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