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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

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私の目があなたの御救いを見たからです

今週は体力的に相当に大変な一週間でしたが、とても安らかな気持ちで週末を迎えています。あまりにも安らかすぎるので、グノーシス主義についての記事はちょっとだけおあずけです。

職場では人の異動があり、毎日の行き帰りも、昼ご飯も一緒だった親しい同僚が一人、会社を去って行きました。寂しさを感じていた私に、主は助け手となる人 を新たに備えていて下さいました。何の約束もしていなかったのに、残業を終えてビルを出て来るまで、私を待っていてくれた同僚の姿を見た時、言葉を失うよ うでした。

祈りさえしなかったところに、必要が備えられている不思議。どんなに人が去って行っても、あるいは期待を裏切られようとも、必ず、必要な助け手が与えられ る不思議。ただ主の采配に目を見張り、キリストの命の不思議さに心打たれるだけですが、まるで恵みが後から追いかけて来るようです。

そして兄弟姉妹たちとの交わりが、どれほど私を自然に生かし、健やかに力づけてくれているでしょう。きっと主が新しい家族を編み出して下さっているのに違 いありません。生まれ育った家では、決して得られることのなかった率直で温かい交流がそこにあり、私は背伸びすることもなく、逞しい兄たちや、優しい姉に 囲まれて、妹として、ただ心の重荷を下ろして休んでいるのです。

本当に、こうして安らかにいられるとは、何というぜいたくでしょう。罪定めされたり、虚しい議論に陥ったりすることなく、兄弟たちと一つの同じ心で、喜びに満ちて平和に賛美し、共に時間を忘れて語らい、共に食事し、一堂に会することができるとは!

そして、何という安心感でしょう、たとえ疑いや、やるせなさや、悲しみであったとしても、ただ本心から真実を求めて扉を叩いた時に、確かにそれを受け止めてくれる存在があるとは!

私が一人で歩かねばならなかった間に、一生懸命負っていた重荷は、ふっと上に担ぎ上げられて、取り上げられていきました。まことに、私は自分を否んで十字架を負うのですが、気づくと、十字架が私を負っているのです。

喜びも、涙も、叫びも、悲しみも、悔しさも、真理を得るための命がけの探求は報いを得て、安息しました。「求めなさい、そうすれば与えられます」との御言 葉通り、たとえ食卓から排除され、犬のように見下げられたとしても、パン屑でも良いからもらおうと、懇願し続けた結果、思いもかけないことに、家の主人が 現れて扉を開けて、私を賓客のように迎えて、給仕して下さるのです。

扉を叩いていたのは私のように見えたけれども、その扉の向こうで、主もやはり扉を叩いていた――いや、いつでも、主こそ扉を叩いておられるのです。ただ十 字架という狭い道を通ってしか、主にお会いすることはできない。それでも、たとえ全ての宝を失っても良いから、神の聖なる火によって焼き尽くされ、身一つ で命からがらになっても良いから、自己の尊厳を失っても良いから、ただ十字架の道を通って行き、主の御思いと私の思いが合致した時、主は私を喜んで迎えて 下さり、それまでの狭い部屋から外に連れ出し、広い世界の展望を見せて下さるのです。

その時、苦しみはもはやなく、つらさも、悲しみも、孤独も過ぎ去り、ただ永遠に感謝と喜びの中で安息があるだけです。

もちろん、私たちの地上での探求はまだまだ続きます。悩み苦しみもあるでしょう。主の再臨の時まで――。私たちは未だかつてない困難な時代にさしかかろう としているのですから、心の武装が必要です。けれども、私の心は、何だか前もって待ち望んでいたものの保証を得たという喜びで満たされているのです。

まだこの言葉を言うには早すぎると笑われるでしょうが、シメオンの言葉を引いておきます。

「主よ。今こそあなたは、あなたのしもべを、みことばどおり、安からに去らせてくださいます。私の目があなたの御救いを見たからです。御救いはあなたが万民の前に備えられたもので、異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの光栄です。」(ルカ2:29-32)
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神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)

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