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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

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我が栄光の望みなる方

オリーブ園より引用、オースチンスパークス著、「牢獄、幻、備え」

「そしてヨセフの主人は彼を捕らえて、王の囚人をつなぐ牢獄に入れた。こうして彼は牢獄の中にいた」。(創世記39章20節)

「そこでパロは人をつかわしてヨセフを呼んだ。人々は急いで彼を地下の牢獄から連れ出した。(中略)パロはヨセフに言った、『私は一つの夢を見た。(中 略)聞くところによると、あなたは夢を聞いて、解き明かしができるそうだ』。ヨセフはパロに答えて言った、『いいえ、私ではありません。神がパロに解き明 かしを与えて下さるのです』。」
「そこでパロは家来たちに言った、『我々は神の霊を持つこのような人を、他に見いだしえようか?』」
「飢饉はエジプトの国に激しくなった」 (創世記41章14-16, 38, 48, 49, 56節)

「フェリクスはユダヤ人の歓心を買うために、パウロをつないだままにしておいた」(使徒24:27)
「私たちがローマに入った時、百人隊長は囚人たちを近衛隊長に引き渡した」
(使徒28:16、欄外)
「イエス・キリストの囚人」(エペソ4:1)

「私ヨハネは、神の言葉とイエスの証しとのゆえに、パトモスという島にいた」
「そして私は大きな声がするのを聞いた。その声はこう言った、『あなたが見ていることを書き物にして、それを諸教会に送りなさい』」(黙示録1:9-11)


上に引用した節は、神の三人の僕たちの生涯と務めの要約です。彼らの経験が結んだ実は、神の民に対して完全 な方法で命となるためでした。しかし、神の主権的な選びの道はこの三人だけの特別なものではありません。聖書の時代とそれ以降、さらに多くの物語があるの です。聖書の時代の物語では、顕著な例としてエレミヤとダニエルを加えることができるでしょう。

<…>そこに記録されている人々が経験した苦しい道のりは、霊的に飢えている人のためのパンとなるためでしたし、今もそうです。この牢獄は必ずしも文字通りの鎖や投獄とは限りません。この牢獄は病床の場合もありますし、奉仕の地として神に定められた場所で経験する一人ぼっちの孤独である場合もあります。また、神の僕が経験する拒絶や追放である場合もあります。それは、力づくで追放する人たちの偏見、盲目さ、妬み、霊的狭量さのためです。その多くの場合について、それは「神の言葉とイエスの証しのため」であったと言えましたし、今もそうです。

このような「監禁」にはいくつかの特徴がありますが、それを書き記すことは有益でしょう。もちろん、全体的に言って、私たちは神の統治の確かさを確信する必要があります。 ただしこれは、そのような監禁が当事者のわがままで自分勝手な不従順な道のせいではなく、ヨナが陥った苦境の類でもない場合に限ります。この監禁は人の弱 さや過ちのせいだったかもしれませんが、それでも神はあらゆるものにまさって偉大な方であり、彼に対する真実な心が本当にあるなら、彼はすべてのことを御 旨にかなうものに転じることができるのです。「ご自身の御旨の御計画にしたがってすべてのことを行われる方」

困難で耐えられないように思われる状況のとき、その問題を引き起こした原因かもしれない間違いや過ちを反省する余地が往々にして大いにあるものです。 「もし」と惨めな気持ちで反省します。「もしパウロが皇帝に上訴さえしていなければ!」「もしヨセフがポティパルに主人の妻が実際に行ったことを話してさ えいれば!」。この類の反省は尽きることがありません。「かりにもう一度やりなおせたなら、別の行動で問題の大半を避けようとするだろう」と考えない人は ほとんどいません。

私たちは特別な罪のことを言っているのではなく、「過ち」について言っているのです。(筆者追 記:神に対して私たちが意図的に反逆した結果、もたらされる苦しみは、キリストのゆえの受難ではありませんし、それをまるで信仰ゆえの受難のように見せか け、手柄のように美化すべきではありません。たとえば、わがままで放縦な生活を送った結果、生活が荒廃し、人の信頼を失って、孤立したり、家庭に罪が入り 込んだ結果、家庭が崩壊したり、また、自暴自棄な思いや、過度な身体の酷使の結果、健康を損ない、病に陥ったとしても、それはキリストのゆえの受難ではあ りません。人が受難のように見せかけて誇っている「苦しみ」の中には、往々にして、ただ罪の結果でしかないものが混じりこんでいます。

しかし、真に神に従うために歩んでいるキリスト者も、不注意と愚かさゆえに、気づかない過ちを往々にして犯しています。いや、神に従うことを最優先するが ゆえに、キリスト者はあえて「空気を読もう」とはせず、世間の歓心を買おうとしないところに、一つの落とし穴があります。特別な苦難がやって来て、打撃に 打ち倒され、周囲の人々が私たちを名指しで非難しながら去って行く時、私たちは自分があまりにも「空気を読めなさすぎた」ことを思い出すかも知れません。 時代の悪しき空気がすぐそこまで迫って来ているのに、楽観的に警戒を怠っていたのではないか、もしくは、神の与えて下さる恵みを得意満面に誇りすぎたため に、人々の余計な妬みを買ったのではないか、もしくは、神に対して「魂の愚かさ」や「血肉の思いから」、「熱心でありすぎた」ゆえに失敗したのではない か、などと考えるかも知れません。逆境を通して神の与えられる沈黙の中で、自分の浅はかさ、子供っぽさ、不注意などを振り返り、自分は神のご計画に損害を 与えてしまったのではないかと不安にならない人はいません、否定的な事件が自分の身に起こっている時に、自分は完全で全く落ち度がなかったと考えることの できる人はいません!

しかしながら、主に忠実に歩もうとする僕に降りかかる受難はほとんど全て、特に初めの頃は、外的に、自業自得の苦しみとまさに紙一重のようにしか見えない のです。主のための受難であっても、最初からそうと分かるものはほとんどなく、むしろ、そんな出来事ほど、その人の「罪」のために起こっているようにしか 見えないのです。それは、サタンがその機をとらえて、見事なまでに本人に非難が集中するように仕向けるからです。

サタンが大祭司ヨシュアの隣に立って彼を訴えていた光景を覚えておられるでしょう。そのようにして、「兄弟たちを日夜訴える者」は、私たちの受難の時に、 そばにやって来て、盛んに私たちの「未熟さ」や「不器用さ」や「欠点」や「言葉の足りなさ」や「過去の罪」を吹聴し、私たちの尊厳をはぎとり、他の人々 も、私たちに敵意を抱いたり、あざけりの心を持つように仕向けるのです。ですから、その苦難の本当の原因をすぐに見分けられる人は周囲にほとんどおらず、 しばしば、最も身近な友や兄弟姉妹でさえ、原因を誤解し、その渦中に陥った当人でさえも、何が本当の原因であるのかを見分けるために、多くの時間を要する のです。もしかすると、原因は最後までわからないかも知れません。私たちにできることは、ただ神を信頼することだけです。)


過去の罪の問題は、言うまでもなく――今ある光により――繰り返すべきではありません。(私 たちは自分の未熟さや、不完全さや、愚かさが、神のご計画に損害や遅延を与えるかも知れないことに、あまり悠長であってはなりません。「もし~だったら」 と後悔しうるようなことは、可能な限り防ぐべきです。しかし、だからといって、同時に、自分で自分を徹底的に吟味して、完ぺき主義に陥ることが解決ではな いことも忘れてはなりません。私たちは、自分の手に余る事柄が起こっているような時には特にそうですが、自分の全存在を神に委ね、自分に与えられた救い も、受難も、すべては神の恵みによって与えられたという信仰に戻って、改めて、神の恵みに安息する特権が与えられています。)今私たちが過ちだったと見なしている事柄の多くは、その当時有していた最良の光にしたがって行ったものだったのです。これは主権的恵みのために広大な領域を開くものであり、主権的恵みはその仕事に全く等しいのです。

神と神と共なる私たちの歩みの敵は、訴えをもって私たちを激しく批判し、神に対する私たちの信頼を損なおうとします。このように、ある広大な領域が存在し、そこでは御父の理解とあわれみに断固として委ねる必要があるのです

ということで、逆境のもっと慰めに満ちたいくつかの特徴について見ることができます。

1. 神は決して非常事態に見舞われることはありませんし、反対活動で被害を被ることもありません。この事実は上記の事例から明らかです。

(このことは人の行動が神のご計画に何の損害も与えないと言っているのではありません。神が福音を人の手に 委ねられた以上、人の働きは神のご計画の進展と密接な関係があります。しかし、私たちは信じるべきです、たとえサタンと人とが力を尽くして神に反逆したと しても、それによって、神のご計画そのものが打ち破られたり、中断されたりすることは決してないと。私たちは、人の愚かさがどれほどのものであっても、倦 むことも、たゆむこともなく、絶えず御手を働かせる神のご計画の確かさ、揺るぎなさを信頼して良いのです。この永遠のご計画に従って、私たちは天地の基が すえられる前から、愛を持って神に選び出されたのです。)

完全に魂を打ち砕くような経験に対するヨセフの有名な判断は、「あなたたちは悪を図りましたが、神は善を図られたのです」でした。こうして彼は「神は善を図られた」という完全に正当な理由を与えます。パウロとヨハネはこの判断に心から同意するでしょう。

(時として、人間の悪意や、ののしりや、裏切りが、私たちを心底、驚かせ、落胆させ、神のご計画に対する信 頼さえも疑わせるかも知れません。人の犯しうる悪事の深さを見て、嘆き、叫び、言葉を失わずにいられない時もあるでしょう。しかし、神は善であられ、サタ ンと人の悪行を用いてでも、私たちに善を図ることがおできになること、いや、神は私たちにただ最善しか図っておられないという事実を、私たちは信じるで しょうか? 私たちはどんな事柄の中からも、神の善意を掴み取ることができるのです!)

神は彼の僕たちを選んで召し、彼らの心を利己的でこの世的な野心から清められますが、これは彼の予知によります。神はまた、僕たちが神への献身の道で遭遇する出来事をも予知しておられます。ヨブほどひどく困惑させられる経験をした人はいませんが、そのヨブでさえ、「神は私が選ぶ道を知っておられる」と言うことができたのです。(神は私たちの限界をよくご存知であり、たとえ苦難の中で心ひしがれそうになっている時でも、私たちの曲がりそうになった道を根気強く修正することがおできになります。)

人の最大最悪の過ちやサタンの見かけ上の勝利――「堕落」――ですら、神はご自分の道を用意して備えておられなかったわけではありません。その必要が実際に生じる前から、神はその解決策を持っておられました――その解決策とは「世の基が置かれる前から屠られていた小羊」です。神の目的が彼の容認を正当化しました。恵みと栄光が苦しみを圧倒的に超越するでしょう神に予見できないことはありません。「神は万物の主です」(ハレルヤ!)

2. 問題になっている僕が「牢獄」という暗く冷たい孤独な試練を経過している間、彼はその意味がまったくわかりません。せいぜい彼にわかるのは、主は神である ということです。見たところ、彼は断ち切られ、閉じ込められているかのようです。忘れ去られ、人々の裏切り、不忠実さ、残忍さ、移り気のせいで苦しんでい るかのようです――兄弟たちからさえも苦しめられているかのようです。また、人と悪魔の邪悪な軍勢のひどい悪意に苦しめられているかのようです。

ヨセフの場合にそうだったように、重苦しい気持ちが魂をむしばむ可能性があります。苦々しい精神、失望、抑圧、絶望に対する戦いは熾烈かもしれませんヨセフは自分の正当性の証拠である来るべき十四年間、彼の苦しみの成果について何も知りませんでした。幻滅は冷酷な敵でした。なぜなら、悪霊どもは栄誉を受けるという彼の初めの夢をあざけるために、当時の経験を口実として利用したからです。

パウロとヨハネは、自分たちの牢獄から発したものを二千年間にわたって人々が読んで大きな益を受け、そしてそれを獲得するとは、決して想像していなかったでしょう。彼らは後世ずっと続いて永遠にまで及ぶ霊的歴史を形成したのですが、そのことを何も知らなかったのです。

(キリストのゆえの苦難は人々に地上的な栄光をもたらさないかも知れません。しかし、ここに、「信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである」(ヘブル11:1)と いう御言葉の意味を見ます。栄光ある御言葉が、私たちのうちで、時を待たずにただちに実際となり、私たちが絶えず順境だけに置かれて、目に見えるものに満 たされているなら、どうして私たちが信仰とは何であるかを学び、私たちのうちに真の望みが宿る余地があるでしょうか? パウロははっきりと言っています、「…目に見える望みは望みではない。なぜなら、現に見ている事を、どうして、なお望む人があろうか。 もし、わたしたちが見ないことを望むなら、わたしたちは忍耐して、それを待ち望むのである。」(ローマ8:24-25)

ここに患難の中で特別に忍耐と希望とがはぐくまれる必要を見ます。ここに患難を受ける時の私たちの喜びがあります。「な ぜなら、患難は忍耐を生み出し、忍耐は錬達生み出し、錬達は希望を生み出すことを、知っているからである。そして、希望は失望に終ることはない。なぜな ら、わたしたちに賜っている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからである。」(ローマ5:3-5) 苦 難と試練の中をくぐらされる時、私たちの信仰は試され、目に見えるものを頼ろうとする期待は打ち砕かれて、そぎ落とされていくでしょう。しかし、それと同 時に、もはや、朽ちるものによって阻まれたり、害されることのない、真の希望が内側にはぐくまれるのです。御言葉は、私たちの真の希望が決して、失望に終 わらないことを告げています。私たちの真の希望とは、自分自身の何かではなく、地上の何かでもなく、世の罪を取り除く贖いの子羊なるキリストです! そし て、来たるべき時が来れば、私たちはその希望が失望に終わることがないのを実際に見て知るでしょう! そして花婿と共に、その希望が到来した喜びを存分に 楽しむでしょう!)

3. これらの拘禁と明白な制限における主要な要素は、その成果が訪れるのはしばし先のことであったということです。パロの夢とヨセフの解き明かしは、まだ実現していないしばらく先の事と関係しており、完全に信仰によって備えなければならないものでした。神は将来起きることをご存じであり、神ご自身が将来の状況のために準備して備えて下さるのです。逆境の深い暗闇の中、神は何かを行っておられ、「多くの人々を救って生かす」何かを確保しておられるのかもしれません。私たちの今の時代、現在の供給源の貧しさと浅薄さゆえに、「天の幻に従順」であるには大きな代価を払う必要があったこれらの時代の、さらに強く、さらに強力で、さらに心を満足させる務めへの回帰とその再生がなされています

(私は感じずにいられませんが、今この時代にあって、使徒時代がそうであったように、絶えず主の死をこの身 に帯び、朽ちる目に見える世の現象や秩序を圧倒的に超える、キリストの霊なるよみがえりの命によって生き、たとえ燃える炉の中をくぐらされても、害を受け ず、どんなに追いつめられても、「義人は信仰によって生きる」!という事実に立ち続ける人々の一群を、主は選び出し、回復しておられると信じます。パウロ は言いました、

「見よ、今は恵みの時、見よ、今は救いの日である。この務がそしりを招かないために、わたしたちはどんな事 にも、人につまずきを与えないようにし、かえって、あらゆる場合に、神の僕として、自分を人々にあらわしている。すなわち、極度の忍苦にも、患難にも、危 機にも、行き詰まりにも、むち打たれることにも、入獄にも、騒乱にも、労苦にも、徹夜にも、飢餓にも、真実と知識と寛容と、慈愛と聖霊と偽りのない愛と、 真理の言葉と神の力とにより、左右に持っている義の武器により、ほめられても、そしられても、悪評を受けても、好評を博しても、神の僕として自分をあらわ している。

わたしたちは、人を惑わしているようであるが、しかも真実であり、人に知られていないようであるが、認められ、死にかかっているようであるが、見よ、生き ており、懲らしめられているようであるが、殺されず、悲しんでいるようであるが、常に喜んでおり、貧しいようであるが、多くの人を富ませ、何も持たないよ うであるが、すべての物を持っている。」(Ⅱコリント6:2-10)


<…>すべての人が――生きている間に――その正しさを立証されるわけではありませんが、「逆境の時、神は将来のために準備して備えてくださる」というこの原則は有効です。

それゆえ、イスラエルは兄弟たちの裏切りにも関わらず、その後、数世紀保たれました。これはヨセフが牢獄へ行き、そこで彼の神を立証したからです。

それゆえ、私たちはパウロの手紙の中に彼の牢獄の無限の宝を持ちます。それゆえ、私たちはヨハネのパトモスにおける幻と書き物というかけがえのない富を持 ちます。この書き物に関して、彼らに出来たのは書くことだけでした。そしてこの書き物は――彼らは何も知りませんでしたが――後世の多くの世代にわたって 聖徒たちの食物となったのです。

牢獄。人々の不親切や逆境の到来――のように見えるもの――によって魂が排除されて閉じ込められる時、ただ神だけがその魂の熱い心の動きをすべてご存じです

幻。しかし、そのような時は、「天が開かれ」て霊的に大いに富む時となりえます

備え。そして、その実は霊的飢饉の時、多くの人々に対して命となるかもしれないのです

「わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである。」(Ⅱコリント4:18)


 

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ひとこと

神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)

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