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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

2010年を終えて

いつものように夜行バスで帰郷してみると、美しい雪景色…。家族とともにゆっくり食卓を囲み、父の手料理を味わい、ピアノを弾いて、愛犬と遊びながら、平和な年末を迎えています。
 
2010年、まことに色々なことがありました。失業も、迫害も、別れもありました。しかし、驚くべきことに、主はその全ての問題に対して、必要な助けと、豊かな解決を与えて下さいました。

困難に見舞われたとき、恵みの御座に進み出て、御言葉に基づいて、悪しき霊のカルバリでの敗北を宣言し、そして主の取られた勝利を大胆に証し、御名によって心の願いを言い表したことによって、どれほど多くの恵みを私はいただいたことでしょう。

時代はカインとアベルの相克を見せています。しかし、真理に立つ者を主がどれほどの愛で愛し、守って下さるか、その愛の深さを今、私ははっきりと見せてい ただいています。多くのクリスチャンたちが、ただ物事のうわべだけを見て、人の耳に都合の良い事実を語ってくれる教師の方へそれていき、真理につまずきま した。

しかし、この先、神は私たちの隠れた動機をご覧になって、真理を喜ぶ者と、不義を喜ぶ者の違いを明確に明るみに出されるものと確信しています。

「というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。」(Ⅱテモテ4:3-4)

今年の大きな収穫のひとつは、この時代の霊、そしてキリスト教界を見舞っている背教が、グノーシス主義と密接な関係があることを発見し、このテーマについ ての分析に具体的に取りかかれたことです。キリスト教界で流行している、何でも愛して赦して受け入れて…の、「砂糖まぶしの甘えの福音」が、本質的に真理 に敵対していること、そのような教えがアダムを高く掲げ、人を最終的にはアダムを神とする方向へ導くことを、明確に理解することができたのは幸いでした。

仮にどんなに人間が人間の罪を弁護し、人の弱さを大目に見、生まれながらの人間に属する全ての要素を愛し、赦し、受け入れるべしと主張したとしても、アダ ムに由来するものは全て、キリストが十字架ですでに廃棄されたため、アダムにはもはや何の希望もなく、旧創造はただ滅びにしか値しないということが、神の 事実なのです。

この神の事実に逆らって立ちおおせる者は、一人もいません。今、キリスト教界を含め、時代は、人間の罪という問題から必死になって目を背けようとし、むしろ罪人を公然と弁護し、罪人に対しては神の裁きがあるという明確な事実をさえ、何とかしてかき消そうと抵抗しています。

「光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行いが悪かったからである。悪いことをする者は 光を憎み、その行いが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。しかし、真理を行なう者は、光のほうに来る。その行いが神にあってなされたことが 明らかにされるためである。」(ヨハネ3:19-21)

今、自分の行いの義により頼む人々は、信仰による義によって生きる人々を、あらゆる機をとらえて罪定めしようと目論んでいます。それはちょうどキリストが この世に来られたのに、人々が彼を受け入れず、自分の罪が明るみに出されることを恐れて、己を義とするために、命の君を十字架にかけてしまったのとまった く同じ構図です。「除け。除け。十字架につけろ。」(ヨハネ19:15)、これが命の君に対する世の反応でした。僕は主人以上の者ではないのですから、主が世から憎まれたように、私たちも、世から敵意が向けられるのはむしろ当然であることを覚えておく必要があります。

しかし、神は自ら報復される方です。何が真理であり、何が虚偽であるか、神は必ず、ご自分の威信にかけて証明なさいます。御言葉は、諸刃の剣よりも鋭く、 霊に属するものと魂に属するものを切り分けます。大祭司なる主イエスご自身が、何が神に属するもので、何が肉から出たものに過ぎないか、はっきりと切り分 けて下さいます。神はご自分により頼む者を、決して失望に終わらせません。ですから、どのような出来事に遭遇したとしても、私たちはただ平安のうちに主を 誉めたたえるのです。

預言者エリヤは450人のバアルの預言者と対決して、たった一人で神の側に立ちました。彼は民に向かってはっきりと言いました、「あなたがたは、いつまでどっちつかずによろめいているのか。もし、主が神であれば、それに従い、もし、バアルが神であれば、それに従え。」(列王記Ⅰ18:21)

エリヤは神が僕に望んでおられることが何であるかを明確に知っていました。それは彼が情勢や人の思惑に流されて妥協することなく、どれほど不利な状況に立たされても、虚偽を虚偽としてきっぱり退け、人を恐れることなく、信仰によって、大胆に真理だけを証することでした。

「たとい、すべての人を偽り者としても、神は真実な方であるとすべきです。それは『あなたが、そのみことばによって正しいとされ、さばかれるときには勝利を得られるため。』と書いてあるとおりです。」(ローマ3:4)

時代は真理と虚偽との切り分けを否定し、キリストとベリアルを調和させようとし、神の宮とされた人々を、自己を偶像とする人々の前に再び、ひざまずかせよ うとしています。しかし、私たちは真理に堅くとどまり、どのように脅かされても、十字架に敵対する教えに屈服することはしません。私たちは知っています、 神は偽りを言う者たちを必ず滅ぼされること、悪を行なう者は断ち切られること(詩篇37:9)、神が義とされた者を罪に定める者は、自らが罪に定められること(詩篇34:21)、義人は信仰によって生きること(ハバクク2:4)、己の力を神とする者は罰せられること(ハバクク1:11)、十字架に敵対する者の最後は滅びであること(ピリピ3:19)を。

アベルは殺されましたが、信仰によって今もなお語っています。バプテスマのヨハネは首をはねられましたが、彼は今なお荒野の声として語っています。私たちも闇の行いを捨てて、光あるうちに、光の中に来ようではありませんか。「悔い改めなさい。天の御国は近づいたから。」(マタイ3:2)

この2010年、私たちは時代の霊がどのようなものであり、自分たちが今、何に直面しているのかを把握しました。しかし、2011年、真理に立つ者と、虚 偽を選んだ者との行く末の違い、キリストのまことの命を選んだ者と、アダムの命にとどまることを選んだ者との人生の違い、信仰による義を選んだ者と、律法 による義(自分自身の行いによる義)を選んだ者との末路の差はいよいよはっきりと現れてくるでしょう。それはますますむなしい言葉の議論を離れて、命対命 の対決として現れるでしょう。すなわち、罰せられ、廃棄されるしかないアダムの古き命と、とこしえに新しいキリストの支配するまことの命との差がますます 明らかになるでしょう。

ハレルヤ! この先の時代には、たった1人でも神を選んだエリヤの祭壇に火がつけられるのか、それとも、バアルの450人の預言者の祭壇に火がつけられる のか、神ご自身が答えを出されるでしょう。人間の力によらず、能力によらず、神ご自身の霊によって、神はご自分に属する民が誰であるか、はっきりと答えを 出され、証明して下さるでしょう。 「主はご自分に属する者を知っておられる。…主の御名を呼ぶ者は、だれでも不義を離れよ。」(Ⅱテモテ2:19)

ですから、私たちは何も恐れません。

主の御名は何と栄光と力に満ちているのでしょう! 主の裁きは何と正しいことでしょう! 主の御腕は何とご自分により頼む羊を力強く守って下さることでしょう! 主こそ私の魂の守り、高きやぐら、私は絶えず御翼の影に身を避けます。

「主はこころの打ち砕かれた者の近くにおられ、
たましいの砕かれた者を救われる。
正しい者の悩みは多い。
しかし、主はそのすべてから彼を救い出される。
主は、彼の骨をことごとく守り、
その一つさえ、砕かれることはない。

悪は悪者を殺し、
正しい者を憎む者は罪に定められる。
主はそのしもべのたましいを贖い出される。
主に身を避ける者は、だれも罪に定められない。」(詩篇34:18-22)
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ひとこと

神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)

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