忍者ブログ

私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

新年、家族もろもろ

夜行バスでの帰省は、毎回、身体にとってはかなりの負担となる一方で、いつもいつも、主のユーモラスでチャーミングな采配を感じさせられる旅となります。

今年は昨年の大晦日から正月にかけて、山陰地方で大雪が降り、交通機関に多大な支障が出ました。新幹線の中で、車中泊にて元日とその翌日を迎えた乗客も多 くいたそうですし、帰省途上の道路で足止めを食らい、マイカーに一日以上、缶詰となって過ごした乗客もずいぶんいたそうです。この地方はもともと気候は温 暖で、冬に大雪が降ることは滅多にありません。ですから、楽しいはずの正月にこんな天候に見舞われるとは、誰も予想していなかったでしょう。食料のストッ クもなく、ガソリンが枯渇すれば暖房も切れてしまいかねない車中で、人々はどんな思いで正月を過ごしたのでしょうか。

しかし、異常気象も含めて、昨年から人々に恐れを抱かせる色々なニュースがまさに間近まで迫る中、私の今回の帰省は、まことに幸いな一年の始まりを予想さ せる平和なものとなりました。バスには大した遅れもなく、隣の席も空いていたため、ゆったりと過ごせたのです。しかも、前日になるまで、席の予約さえして いなかったという手配ぶりのまずさにも関わらず、天候をふくめ、全てをつかさどっておられる主の恵みと憐れみによって、幸いな新年を過ごすことができました。これはただ主の功績でしかありません。

大晦日の誕生日には色々と嬉しいことがありました。80代の祖父母の元気な姿をみられたことに加え、長らく音信の途絶えていた妹の一人からも、お祝いの便 りをもらいました。一年以上前に、さまざまなすれ違いの上、思いを通じさせることもできないままに、不本意ながら別れた妹です。しかし、私たちの思いをは るかに越えて、ただ私のうちに生きて働かれる御子の信仰によって、主自らがこの家族を保って下さっていたこと、そして私たちを一つにして下さろうとしてお られるのを感じました。ただ畏れのうちに主の御名をあがめるのみです。

これで、子ども時代を共に関西で過ごした私たち姉妹は、全員、関東に移住し、互いに富士山の見える場所でそれぞれ元気に暮らしていることになります。

誕生日には、父が私のために手作りケーキを焼いてくれました。中身はスフレチョコ。何歳であろうと、このような気遣いを受けられることは本当に嬉しいですね。

父の料理の腕前もなかなかですが、しかし、パティシエであり、プロの料理人である上記の妹の料理の腕前もピカ一です。下記は、妹が業務用に作ったケーキの 数々ですが(今は画像がありません m(_ _)m)、持ち前の美的センスが存分に生かされ、もはや芸術作品の域に達しているようにしか見えません。今は料理から離れている彼女ですが、このセンス と才覚をどんな風に将来に発揮してくれるのでしょうか、楽しみです。



そ してさらに、もう一人の妹には無事に赤ちゃんが誕生し、彼女は母となり、私は叔母となりました。この赤ちゃん、まだ会ったことはないけれど、何という愛ら しさでしょうか。会う人は皆メロメロになりそうですね。妹も美人ですから、将来、美人になることでしょう。おそらく、姪っ子だけでなく、妹とも再会の時が 近づいているのだろうと感じます。

私が不信仰のゆえに人生のどん底を歩いていた頃、一時、家族の絆はまるで空中分解したように見えた時がありました。交流は断ち切れ、心は通わなくなり、それぞれが修復不可能なほどに深い痛手を負って生きていたのです。

しかし、御言葉が我が家で実際となる時が来ました。神がキリストの十字架によって私たちの債務証書を無効にし、キリストにあって私たちの隔ての中垣を取り 除き、分裂したものを一つにし、和解をもたらして下さいました。その時が来るまで、罪の債務証書というものが霊的に存在するとは、私は夢にも考えたことも ありませんでしたが、しかし、家族の和解のテーブルで、私にははっきりと分かったのです――神はその見えない御手によって、我が家にはるか昔から存在して いた罪の債務証書を破り捨てて下さり、サタンの玉座を打ち砕き、人知を超えたキリストの愛によって、私たちを一つに結びつけて下さったのだと。

私は闇の王国から救い出され、愛する御子の支配下に移されました。以来、それぞれの立場や思いもはるかに超えて、神はただ信仰によって我が家の成員に恵み をもたらされ、その全ての計画を祝して下さり、明らかに、我が家は年々、完全な修復へともたらされつつあります。姉妹が再び、一つ心でまみえる日まで、あ とわずかでしょう。そして私たちが本当に主にあって一つとされた時、どのように喜びに満ちた生活が始まるのでしょうか?

主が我が家に打ち立てて下さった十字架の堅固さを、こうして確かめ得ることは、えも言われぬ幸い、えも言われぬ感動です。主イエスの十字架の意義を真に 知って以後、どんなに不安を感じさせられる出来事があっても、ただ主の達成された御業が、我が家において、何によっても、永遠に揺るがせない事実であるこ とを信じ続けました。その結果、次の御言葉が、理屈をはるかに超えたところで成就しつつあるのです。

「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」(使徒16:31)

―――――――――――――――――――――――――――
さて、兄弟の和解ということを思う時、私は旧約聖書のヨセフの物語を思い出さずにはいられません。

ヨセフの生涯に与えられた神の召しは真に偉大なものであり、ヨセフの後の栄光につながるものでした。しかし、その栄光ある啓示がヨセフ自身の中に作りこま れて実際となるまで、彼は他の兄弟たちの誰よりも、苦難の時を経なければなりませんでした。彼の受けた啓示は誰にも理解されず、彼は神の選びゆえに栄光を 受けるどころか、ただ周囲の不興とねたみを買って、故郷や父の愛からも遠く引き離されて、異国の地に奴隷として売り飛ばされねばならかったのです。

神の召しは相応の代価を人に要求します。神は召された人に、すぐに栄光や満足をおあたえになることはあまりありません。むしろ、苦難や裏切りや誤解や迫害 という苦しみの中を通らせ、神の懲らしめの御手の下にへりくだることをまず学ばせることの方が多いようです。それは、人が相応の代価を払うことなしには、 神に従うことができないからです。

ヨセフは初めから他の兄たちにまさって父イスラエルに愛され、そして、神にも愛されていたのですが、天の御父の愛が彼に実際に示される過程は、逆説に満ち ていました。彼は地上で愛される子どもとしての特権を全て失い、外的には、神からもあたかも見捨てられたかのような逆境にあって、目に見えるものによら ず、ただ信仰によって働く、神の愛を信じ続けなければならなかったのです。

しかし、ヨセフは逆境に置かれても、決して打ちひしがれませんでした。また、自分を脅かした者たちを恐れ、おびえながら、沈黙のうちに世を避けて口を閉ざ し、貧しい人生を弱々しく送ったわけでもありません。それどころか、逆境の中で、人としての彼の弱さにも関わらず、神の強さが彼の上にはっきりと臨んだの です。神の溢れるほどの愛と祝福がヨセフの上にとどまり、神ご自身が彼と共におられることが、周りの人たちの目にも、はっきりと認め得るほどに示されたの です。

聖書には、何度も、何度も、次のような言葉が出てきます。

主がヨセフとともにおられたので、彼は幸運な人となり…」(創世記39:2)
主はヨセフのゆえに、このエジプト人の家を、祝福された。それで主の祝福が、家や野にある、全財産の上にあった。」(創世記39:5)
「こうして彼は監獄にいた。しかし、主はヨセフとともにおられ、彼に恵みを施し、監獄の長の心にかなうようにされた。」(創世記39:20)
「監獄の長は、ヨセフの手に任せたことについては何も干渉しなかった。それは主が彼とともにおられ、彼が何をしても、主がそれを成功させてくださったからである。」(創世記39:23)
「そこでパロは家臣たちに言った。『神の霊の宿っているこのような人を、ほかに見つけることができようか。…神がこれらすべてのことをあなたに知らされたのであれば、あなたのように、さとくて知恵のある者は他にいない。あなたは私の家を治めてくれ。私の民はみな、あなたの命令に従おう。私があなたにまさっているのは王位だけだ。…さあ、私はあなたにエジプト全土を支配させよう。』」(創世記41:38-41)


もしも、ヨセフと私たちとは違うから、私はヨセフのような者にはなれない、と言う人がいるならば、私たちは、自分たちのうちにおられる方がどのような方であるか、本当には分かっていないのです。主はヨセフと共におられたように、私達にもこう言ってくださいます、「見よ、わたしは世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイ28:20)「あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」(ヨハネ16:33)

世に勝った方が私たちのうちにおられます。なのに、何を恐れるべきでしょうか。なぜこの世が私たちを脅かし、私たちを支配しなければならないのでしょう か? 私たちは弱くとも、神は強くあられます。使徒パウロは、私たちが内に住んで下さる方のゆえに、どれほど絶大で栄光に富んだ望みを受けているのか、真 に知るようにと促しています。

「イエス・キリストの神、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくだ さいますように。また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどの ように栄光に富んだものか、また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知るこ とができますように。

神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせ、すべての支配、権威、権力、 主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世におてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。また、神は、いっさいのものをキリストの足 の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。

教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。」(エペソ1:17-23)


私たちはエクレシアであり、この世に遣わされ、この世に身を置いていますが、この世の者ではありません。私たちはこの世から愛する御子の支 配下に移され、神の宮とされ、キリストの身体とされたのです。一切のものを一切のものによって満たす方が、私たちの内にお住まいになり、私たちのうちに満 ちて下さるというのです。これは普通では考えられないことですが、事実です。その方はただ私たちを満たすだけでなく、私たちの内から溢れ、流れ出し、その まことの命の統治が、私たちの見るもの触れるもの全てに及ぶでしょう。御霊が生ける水の川々となって、私たちの腹から流れ出すのです。神が共におられるの に、どうして私たちの人生が祝福されない理由があるでしょうか。

時に私たちは、とてつもない苦しみや、耐えがたい誤解や、裏切り、別離、非難、断絶の悲しみに遭遇します。にも関わらず、どんな状況にあっても、御言葉に 基づき、信仰によって、神の愛と慈しみ、憐れみの変わらないこと、神の私たちへの最善の采配を信じ続けるならば、信仰のうちにすべてを保っておられる神 が、絶えず私たちに恵みを施して下さり、失われたものを再び回復して下さるだけでなく、主ご自身が私たちと共におられることを、はっきりと分かるように世 に示して下さるのです。

主と共に生きる、それ以上の幸いが、人にあるでしょうか? 神ご自身が私達についておられ、神ご自身が私たちと共にとどまって下さり、神ご自身が私たちの うちに住まいを設けて、私たちと共に住んで下さり、私たちの喜びも悲しみも、全てのことを共に分かち合って下さるだけでなく、それらをご計画のために有益 に用いて下さり、あらゆる良き物を持って、私達の人生を満たして下さるのです。ですから、私たちは何が起ころうとも、恐れる必要はありません、ただすべて のことの後ろに働いておられる主の御手を信頼し、我が人生を神ご自身に委ねるのです。

「あなたがたは、光に照らされて後、苦難に会いながら激しい戦いに耐えた初めのころを、思い起こしなさい。 人々の目の前で、そしりと苦しみとを受けた者もあれば、このようなめに会った人々の仲間になった者もありました。あなたがたは、捕らえられている人々を思 いやり、また、もっとすぐれた、いつまでも残る財産を持っていることを知っていたので、自分の財産が奪われても、喜んでしのびました。

ですから、あなたがたの確信を投げ捨ててはなりません。それは大きな報いをもたらすものなのです。あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。

『もうしばらくすれば、
来るべき方が来られる。おそくなることはない。
わたしの義人は信仰によって生きる
もし、恐れ退くなら
わたしのこころは彼を喜ばない。』

私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です。」(ヘブル10:32-39)


ですから、私たちはキリスト教界で見舞われた苦難、不信仰のゆえに人生を焼き尽くされた苦難、また、主の御名を信じ、従うようになってから受けた数々の迫害、侮辱にも関わらず、喜びに満ちて主を賛美するのです。

「苦しみに会う前には、私はあやまちを犯しました。
しかし今は、あなたのことばを守ります。
あなたはいつくしみ深くあられ、
いつくしみを施されます。

高ぶる者どもは、私を偽りで塗り固めましたが、
私は心を尽くして、あなたの戒めを守ります。
彼らの心は脂肪のように鈍感です。
しかし、私は、あなたのみおしえを喜んでいます。

苦しみに会ったことは、私にとって幸せでした。
私はそれであなたのおきてを学びました。
あなたの御口のおしえは、私にとって
幾千の金銀にまさるものです。」(詩篇119:67-72)


我が心は主を賛美します。我が唇は主を誉めたたえます。まことに「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。」のです(伝道の書3:11)。
PR

ひとこと

神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)

ヴィオロンのブログ

最新記事

アーカイブ

ブログ内検索

カテゴリー