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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

偽りの教えの例――弱者解放の福音の誤りとグノーシス主義(9)

ここに一冊の本がある。題名は『解放神学 虚と実』(荒竹出版、昭和61年)で あり、実は何年も前から、当ブログでも、グノーシス主義の分析と合わせて取り上げるつもりであった。なぜなら、この著書において取り上げられている弱者解 放の神学と、私たちが今直面しているキリスト教界の歪められた福音との間に直接の歴史的つながりはないものの、この二つが深いところで全く類似した構造を 持っており、霊的には結局、グノーシス主義と同じ起源を持つことは明白だからである。

「ありのままのあなたが高価で尊い」などと言っては、しきりにニンゲンの弱さや欠点をかばい、生まれながらのニンゲンに対する愛と赦し、受容や祝福を強調 し、ニンゲンの耳に心地よい内容ばかりを語り、ニンゲンの罪や腐敗を覆い隠してしまう、現代キリスト教界で今流行している「砂糖まぶしの甘えの福音」、こ の人間本位の甘えの福音が、いかに御言葉に反し、キリストの十字架に反し、神の福音を歪めるものであるかについては、すでにいくつもの記事の中で述べて来 た。このようにして、生まれながらの人間アダムを高く掲げ、アダムの罪や弱さを含め、アダムの腐敗した性質を「ありのままで」擁護しようとする偽りの福音 を受け入れたために、多くのキリスト教会はアダムの延命治療のための「病院」と化し、死すべきアダムの「集中治療室」と化してしまった。

こうして多くの教会では、アダムを終わらせたはずのキリストの十字架については語られなくなった。十字架は飾り物となり、罪の指摘もやみ、悔い改めの必要 も説かれず、主イエスの血潮についても、触れられなくなった。むしろ、いかにしてアダムの弱さを擁護し、アダムを居心地良く介抱するかが主目的となったた め、アダムを「冒涜」するようなもの、アダムの罪を明るみに出すもの、アダムの腐敗を思い起こさせるもの、アダムに不快を感じさせるものは排除され、いか にして十字架を回避させてアダムを生きながらえさせるかが、キリスト教界の焦眉の課題になった。こうして多くの教会はアダムの命を終わらせたキリストの十 字架を退けて、ありのままのアダムを擁護し、しかも、アダムの中でも最も弱いアダムを優しく抱きとめ、社会の最底辺で見捨てられているような罪人アダムを いかにありのままで受け入れるかが教会の課題であるとさえした。このようにしてキリスト教界は、十字架におけるアダムに対する神の裁きを否定してまで、ニ ンゲンを擁護し、ニンゲンを神以上に高く掲げて栄光化するグノーシス主義へと道を開いて行ったのである。

最近、この歪められた「砂糖まぶしの甘えの福音」の只中から、ニンゲンを冒涜するような者は全て異端者として告発すべしという、恐るべき過激な思想を持つ 人々が登場して来た。すなわち、自己を神として掲げ、主イエスの血潮を踏みにじり、十字架に激しく反対しながら、真理にとどまる兄弟姉妹をあらゆる偽りに よって告発し、まことのクリスチャンを追いつめて迫害する「自称クリスチャン」(彼らがクリスチャンではあり得ないことは明白である)が登場して来た。こ の人々は、ニンゲンの弱さを擁護して、被害者と称する人々をかばい、被害者の「正当性」だけでなく、彼らの「神聖」をさえ主張し、抑圧された弱者に味方せ ず、「被害者を冒涜」するような者は全て異端者であるとして、主イエスの十字架にとどまり、真理にとどまる兄弟姉妹を異端者として告発したのである。

カルト被害者救済運動という、抑圧された社会的弱者の解放を掲げる運動は、まさにこのようにニンゲン本位に歪められた、ニンゲンの弱さを擁護する「砂糖ま ぶしの甘えの福音」の中から登場して来た。この運動は端的に言えば、カルト被害者という、キリスト教界内で「抑圧された社会的弱者」の存在を原動力にし て、彼らを「正義」の担い手、神聖な核とみなすことにより、キリスト教界内の既存の秩序を覆そうとする新手の政治運動である。それは宗教に名を借りた革命 運動と呼んだ方がふさわしい。

私はここでキリスト教界の腐敗という事実を否定したり、そこで被害を受けたと主張する人々の実体験を否定しているのではない。しかし、私たちは個々人の体 験と、集合体としてのカルト被害者を利用してキリスト教界内の秩序を転覆させようとする政治運動とは、全く別個のものとして、切り離して考えるべきであ る。

ちょうどアダムを神聖視することによって、人を覚醒させて神に至らせようとするグノーシス主義と同じように、カルト被害者救済運動とは、被害者の「被害者 性」や「弱者性」を神聖な核とみなすことによって、彼らの存在を基盤にして、既存のキリスト教界内の秩序を変革を主張し、そこに新たに理想的秩序を打ち立 てることを目的にしている、神の義によらない、ニンゲンの義によるニンゲンの自己救済運動である。

しかし、これらの運動を見れば、ニンゲンによるニンゲンの自己救済の試みは、ニンゲンによるニンゲンの自己懲罰という悲惨な結末と切り離せないことがよく 分かる。被害者救済運動は、キリスト教界の浄化を掲げているが、そのために用いている方法論は極めて破壊的なものであり、自己懲罰的なものである。この運 動はまず、既存の教会への激しい攻撃と批判を繰り広げることにより、既存の教会の権威失墜と、教会の弱体化をはかり、それから、裁判等の実行力行使をしか けて既存の教会組織に対する破壊行為と吸収合併を行い、最終的には、カルト監視機構という、統一的な警察的な権力の設立による、キリスト教界内での中央集 権的組織の樹立(権力奪取)と相互監視社会の樹立を目指している。

これが少しも福音と呼ばれるべきものではなく、むしろ福音とは何の関係もない、キリスト教界内の利権をめぐる過激な政治闘争に過ぎないこと、それが十字架 によらず、血潮によらず、神の義に逆らってまで、生まれながらの人間が裁き主として諸教会に君臨し、人間の義によってそこに理想的秩序を打ち立てようとす る、神の福音に敵対する絶望的な運動であることは、あえて言う必要もない。これは神の裁きを模倣したニンゲンによる裁きであり、ニンゲンによる自己懲罰で あるから、成功に至ることは決してない。このような運動の推進者がもしも実権を握るようなことがあれば、必ずやキリスト教界に恐怖政治と独裁的支配を生 み、教界を今以上に恐るべき場所へと変えてしまうであろう。それはこの運動が発生してからこの方絶え間なく行なってきた破壊活動と、反対者への無差別的な 粛清を見るだけでも、ほとんどの人の目にはすでに明らかであろう。

とにかくも、グノーシス主義の流行と、カルト被害者救済運動という、どちらも生まれながらのニンゲンの弱さを擁護し、生まれながらのニンゲンを義として、 ニンゲンを栄光化する危険な潮流が、キリスト教界にもともと広がっていたニンゲン本位の「砂糖まぶしの甘えの福音」をバックに登場して来たものである事実 は見逃せない。

今回の記事で訴えようとしているテーマはこうである。福音を弱者解放の手段にし、アダムを擁護する手段とすることはただ間違っているだけでなく、大変危険 な試みである。それはカインがアベルを殺してでも、自分を義としようとしたのと同じように、生まれながらのニンゲンによる、神の知恵に逆らった、嫉妬と恨 みに基づく歯止めのきかない、愚かで絶望的な自己義認の試みなのであり、それはキリストの十字架を退けて、旧創造を延命させようとする試みであるから全く 希望がない。弱者解放(=弱者介抱)という言葉は、ニンゲンの耳にはまことに優しく、正しいことのように聞こえるであろうが、そのようにして、ニンゲンの 自己保存の願望に基づき、ニンゲンの弱さを擁護し、旧創造を弁護するために、セルフのパン種を福音の中に忍び込ませることは、真理を歪め、神に敵対する試 みであるから、決して成功を見ることはないだけでなく、神の怒りを引き起こす。神がキリストの十字架で全てのアダムに滅びの宣告を下したにも関わらず、ニ ンゲンが神の御前で依然としてアダムの命を擁護し、セルフを弁護し、旧創造を保ち、自己の義によって立ちおおせようとすることは、結果的に、ニンゲンに命 を失わせ、滅びへ至らせる結果になる。

アダムの命を「ありのままで」擁護する者は、キリストの十字架に反対しているのであり、それは神の裁きを退けて、ニンゲンによる義、すなわち、ニンゲンに よる裁きと自己懲罰を打ち立てることを意味する。だが、人間の裁きは、神の裁きのように憐み深くもなく、公正でもないから、人間による自己懲罰ほど、人に とって最も不利で、最も厳しく容赦なく、最も不公平で、反人間的なものはない。人が己が力によって自分を義とし、自分の力で生まれながらの命を守ろうとす ることは、結局、人にとって最も過酷で容赦ない処罰を招くことになる。サタンには神の公正な裁きを模倣することはできない。キリストがすでに十字架で達成 された御業により頼み、子羊の贖いの血潮により罪赦されて、神の義によって義とされることだけが、人が救われる方法であり、それ以外の方法でニンゲンが自 己義認しようと試みることは、全て救済ではなく破滅に至るのである。これは動かせない法則性であり、今回はそれを解放神学という過去の事例を通して、明ら かにすることが課題である。

さて、冒頭に挙げた『解放神学』に話を戻すと、この著書は、20世紀に主として中南米のプロテスタントのキリスト教界で最も広がりを見せた「弱者解放の福 音」を分析したものであり、この著書においては、福音を社会的弱者の解放という政治的イデオロギーの手段にしようとする解放神学の試みの不毛性と危険性 が、興味深いことに、学術的な視点から述べられている。

今、私たちはこの本を手がかりに、「解放神学」とは何であったのか、また、福音を弱者解放の手段にすることがどれほど愚かで不毛な試みであるかを、歴史を振り返ることで探ってみたい。

この著書において解放神学に分類されているものの中には、主に四つのタイプがあげられる。

一つは、中南米において、貧しく虐げられた第三世界の解放を目的に登場して来た神学であり、それは、中南米のゲリラ闘争の最中で発生して来た。この神学 は、欧米の政治的・経済的な支配体制からの解放を叫ぶ立場から、既存のヨーロッパ的なキリスト教を、欧米の支配を正当化する反キリストの異端として非難し た。その代表的著書は、グスタボ・グティエレス(Gustavo Gutierrez)の『解放の神学』(1971年)である。プリンストン大学の神学の教授であった米国人リチャード・ショール(Richard Shaull)も、この南米の解放神学に属する神学者に含まれる。

二つ目のタイプは黒人解放の神学であり、黒人という抑圧された者の側に立って聖書を解釈しない神学は、反キリストの神学であるとして非難した。その代表者 は、1969年に『イエスと黒人の革命』を著したジェイムズ・コーン(James H.Cone)であり、彼はさらに『解放の神学』(1970年)、『抑圧された者の神』(1975年)を書いている。

三つ目のタイプは、女性解放の神学である。これは60年代のアメリカで流行した女性解放運動の只中から発生し、伝統的なキリスト教を男性中心主義の倫理を 打ち立てるものとして非難した。その代表は、メアリー・デイリー(Mary Daly)などであり、リューサー(R.Ruether)の『人間解放の神学』(1972年)も、女性解放の神学に含まれる。

四つ目のタイプは、韓国の反政府もしくは反体制運動の只中から登場したいわゆる民衆神学である。

これらの解放の神学者たちは、いずれも伝統的なキリスト教を(グティエレスの言葉を借りれば)、「一つの文化、一つの人種、一つの階級と密接に結びついて来たもの」と して批判する。すなわち、既存のキリスト教は、政治的な支配者の側にのみ都合良く作られた強者の論理であり、搾取や抑圧をむしろ正当化しており、このよう に抑圧された弱者の側に立って、虐げられた弱者を擁護しないような福音は全て異端であり、本来の主イエスの教えを歪曲した偽りだと主張するわけである。 ショールは、「この様な伝統的なキリスト教と、その神学を解放しなければならない。"神学の解放"を行なうべきである」、「今や必要なのは、民衆の、民衆による、民衆のための神学である」と述べている(p.5)

ドストエフスキー研究者として、また、ロシアの政治思想史の研究者として名高い勝田吉太郎氏は、解放の神学の特徴を次のように説明する。

「解放神学の教説の一番のポイントは、一言で言えば、『神は貧しき者、また抑圧された者たちの、悩める生の 中に現前する』と主張する点にある。こういう立場で解放神学者たちは次のような言葉を述べる。『神の国は、社会の反逆児、見捨てられた人々、弱者のもので あって、自称"義人"たちのものではない』。これはコーンの言葉である。『イエスの生涯が証明するのは、イスラエルの神が弱者、助けなき者への救いを欲し 給うということなのである』。」(p.5)
<つづく>
 
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