忍者ブログ

私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

偽りの教えの例――弱者解放の福音の誤りとグノーシス主義(11)

十字架を抜きにした無媒介の救済


解放神学者たちは一様に、伝統的なキリスト教を非難して、「二千年間におよぶキリスト教の教会(コルプス・クリスチアヌム)を、コンスタンティヌス的帝国主義的キリスト教であった」(p.48)と主張した。そして、キリスト教神学は、貧しき人々、社会から打ち捨てられた人々、抑圧された社会的弱者に奉仕するものでなければならず、そのような役割を担わないような神学は、神学ではあり得ず、むしろ反キリストに奉仕する異端の神学であると論じた。

黒人解放神学の代表者ジェームズ・H・コーンはこう述べる、「もし神学が、ご自身を、抑圧された人々の自由への闘いの中で啓示したもう、イエスの神について語るべきであるとするならば、その場合には、神学もまた政治的になって、貧しき者、抑圧された者の神に味方して語ら『なければならない』」

「神学は常に、抑圧された者、卑しめられた者の解放についての言葉である。それは、抑圧者、支配者に対する裁きの言葉である。神学者が、この点を間違いよ うのない仕方で明瞭にできない時にはいつでも、彼らは、キリスト教神学ではなくて、反キリストの神学を遂行しているのである」

「われわれは神学者として、社会の中の助けなき者、声を発することのできない者の光に照らして、神学を遂行することによって、預言者的になる危険を犯さなければならない」(p.44)


解放神学はこうして、虐げられた人々、貧しき人々を擁護し、社会から疎外され、置き去りにされた人々の解放を訴えかけることによって、社会で自己同一の場 を奪われていた人々の心を強くゆさぶった。しかしながら、解放神学がその目的達成のための方法論として正当化していたのは、弱者を疎外することを暗黙のう ちに容認した既存のキリスト教会に対する激しい非難と、暴力革命によって、それまでの支配者と被支配者の関係を逆転することであった。それは要するに「解放者イエスを承認しないすべての言説を異端として断罪する革命の思想」(p.48)であった。

解放神学者たちは主張する、主イエスは虐げられた者の神、貧しき者たち、社会的弱者の解放者であると。コーンは言う、「貧 しき者とは、抑圧され、苦しめられている人々、権力ある者に対して自分を擁護できない人々のことである」、「神の国は、社会の反逆児、見捨てられた人々、 弱者のものであって、自称義人のものではない」、「イエスの生涯は、イスラエルの神は、弱き者、助けなき者への救いを欲したもう、ということの証明であ る」、「イエス物語とは、貧しい人間の物語である」(p.45)

こうして、解放神学者たちは、イスラエルの神とは貧しい者たちの神であって、富める者や、社会の支配者たちの神ではないと主張し、それを裏付けるために、文脈を無視して聖書に根拠を求める。

「わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」(マルコ2:17)
「貧しい者は幸いです。神の国はあなたがたのものですから。」(ルカ6:20)
「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現してくださいました」(マタイ11:25)
「まことに、あなたがたに告げます。取税人や遊女たちのほうが、あなたがたより先に神の国にはいっているのです。」(マタイ21:31)


ちょうどグノーシス主義者が、アダム、カイン、エサウ、ソドムとゴモラの住人、イスカリオテのユダなど、神に対して罪を犯し、神に反逆した 罪人たちを次々と擁護し、生まれながらのニンゲンの内にはもともと神的要素が宿っているため、自らの神性に目覚めることによって、人は神のようになれると 説いたように、解放神学者たちは、イスラエルの神は、社会から見捨てられた貧しい者たちの神であられると主張することによって、貧しい者たちと主イエスを 同一視し、暗黙のうちに、抑圧された弱者の中に「神性」を求め、貧しい人々を決起(覚醒)させることによって社会全体を救済に至らしめることができるとし たのである。

話が飛ぶようだが、このようにして聖書の文脈を捻じ曲げてでも、社会的弱者を無条件に擁護すべく、御言葉をふんだんに引用する解放神学の中に、私たちは、 今日、キリスト教界で流行している「何でも愛して赦して」式の、ニンゲン本位に歪められた「砂糖まぶしの甘えの福音」と本質的に同様の聖書の歪曲を見るの である。今日流行の「砂糖まぶしの甘えの福音」の中には、暴力革命の肯定こそ見られないかも知れないが、それでも、そこには罪人・病者・弱者を「ありのま まで」擁護するためならば、可能な限り、御言葉を歪曲して辞さない姿勢がある。

たとえば、「砂糖まぶしの福音」が、十字架を否定し、血潮を踏みにじり、神に反逆する罪人たちをも、無条件に擁護し、病者、弱者、悪人、社会から疎外されたあらゆる人々を優しく抱きとめるべく、頻繁に引用するのはこのような聖句である。

「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」(マルコ2:17)
「しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるので す。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。自分を愛してくれる者を愛したからといっ て、何の報いが受けられるでしょう。」(マタイ5:44-46)
「あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。祝福すべきであって、のろってはいけません。」(ローマ12:14)
「…たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。」(Ⅰコリント13:3)
「しかし、主は、『わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである。』と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。」(Ⅱコリント12:9)
「まことに、あなたに告げます。あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、はいれません。だから、この子どものよう に、自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人です。また、だれでも、このような子どものひとりを、わたしの名のゆえに受け入れる者は、わたしを受け入れ るのです。」(マタイ17:3-5)


聖書は、生まれながらの人間は誰一人として、神の御前に義とされないとはっきりと述べているにも関わらず、この歪められた福音は、上記のような御言葉を手 前勝手に解釈して、聖書が罪人や病人や悪人を無条件に擁護していると根拠として主張するのである。主イエスは弱く、貧しく、寄る辺ない者たちを愛された、 だから、弱く、貧しく、寄る辺ない人々こそ、最も神に近しい人々であり、我々はそのような人々のうちに神を見るのだ、そう言いながら、弱く、貧しく、寄る 辺ない弱者に味方しないような全ての人を糾弾しようと詰め寄るのである。

本来、聖書の言う神の「愛」とは、決してニンゲンにとって優しいものではなかったはずである。神の愛は、ノアの一家8人を除いて、当時生きていた人類の全 員を洪水で溺れさせて死に至らしめるような、一見すると、反人間的とさえ思われるようなものであった。神の愛は、ソドムとゴモラの住人を死に至らしめて、 ただ義人ロトの家族だけを救った。神の愛は、一杯の食のために長子の権を売り払ったエサウを罪に定め、弟ヤコブを祝福した。神の愛は、愛する対象に常に聖 別を要求し、神の聖を拒み、その聖にあずかろうとしない者を神の愛の対象外に定めたのである。

しかし、「砂糖まぶしの甘えの福音」は、妬む愛である神の愛のこのような聖なる厳しさを何ら考慮することなく、「愛」という言葉を用いて、ただ、貧しく、 寄る辺なく、打ち捨てられた人々への無条件の肯定を求める。そこで使われている「愛」という美化された言葉のうちには、弱さを隠れ蓑にして、弱き者が無条 件に自己肯定したいという願望が隠されている。そこには、弱者が、自分を追いつめた強者を、無条件に自分の前にひれ伏させたいという願望、強者を罪に定 め、あわよくば、両者の支配構造を逆転させたいという復讐の意図が含まれている。その意味において、この「砂糖まぶしの甘えの福音」は、社会で自己同一の 場を奪われて、疎外された人々の、自分を疎外した人々に対する無意識の怨念と復讐に基づいているのであり、そこには、「愛」や「憐み」などの美名を用いな がら、何とかして自分を疎外した人々との支配関係を逆転して彼らに復讐し、無条件に自己肯定したいという、疎外された人々の憤りと妬みの歯ぎしりが感じ取 れるのである。

同様に、私たちは解放神学をじっくり見るうちに、それが罪人、弱者、病者、幼子を、十字架の贖いを抜きにして、無条件に是認しようとする「砂糖まぶしの甘 えの福音」に通じるだけでなく、カルト被害者救済活動とも、全く同じ構図を持っていることが分かる。虐げられた人々、貧しき人々を解放するという名目で、 それまでの「支配者―被支配者」を逆転させようとした解放神学の秩序転覆と同じ構図を、今日のカルト被害者救済活動の中にも見て取れる。カルト被害者救済 活動も、十字架を介さず、「被害者性」という「弱者性」を無条件に擁護し、神聖視していればこそ、「被害者」という虐げられた人々を擁護しない教会やクリ スチャンを異端として断罪し、あわよくば、旧来のキリスト教界の秩序全体を打ち壊して、抑圧された者たちの「名誉回復」を図ろうとしているのであろう。こ れも解放神学と同様に怨念に基づいた活動であり、本質的には、被害者を疎外した人々に対する反逆と復讐の思想である。

 

霊・魂・肉体の関係の逆転


解放神学に話を戻そう。私たちは、解放神学者たちが既存のキリスト教界に下した容赦のない診断を振り返る時、解放神学が、単に「弱者」を「解放」するため に、支配者と被支配者との関係を覆そうとしたにとどまらず、そこで唱えられている「解放」とは、根本的に、生まれながらのニンゲンの(肉的)欲求をあらゆ る抑圧から解放することを指していたのであり、それは要するに、人間における霊・魂・肉体の秩序そのものの転覆をはかり、肉によって霊を治めさせようとす る試みであったことが分かる。霊と魂との関係を逆転させることは、最終的には、神による人間に対する支配の否定へとつながり、それは神と人間の関係そのも のの否定、自分を疎外した神に対する人間の復讐・反逆となる。

女性解放の神学の代表者、ローズマリー・リューサーは言う、解放神学は、魂と肉体、主体と客体の二元論的構図を克服せねばならないと。彼女は女性解放とい う文脈の中で、古典的キリスト教は、男性だけが神の像に似て造られた、「人間性」の真髄を備えた存在であり、女性は頭である男性と共にあって、初めて真の 人間性を持つことができるとしている点で、キリスト教は女性を男性の客体とし、「対象物」におとしめていると非難した。

リューサーは独自の理論を展開し、キリスト教的社会においては、この男女二元論が原型となって、社会の全ての抑圧形態に作用していると言う。彼女は言う、 伝統的なキリスト教はグノーシス主義を非難していたにも関わらず、結局は、グノーシス主義と同じように肉体を蔑視し、また、そこから来る肉欲の軽視、及び 禁欲主義的な苦行を励行したがために、グノーシス主義と同じ穴の狢となり、「文字通り死の倫理を形成」するに至ったと。

伝統的キリスト教において、「救いとは、肉的なものを抑えることによってくるものであると解釈 される。肉欲と感情の抑制、そして内的・超越的・霊的自己への逃避。食べること、眠ること、入浴さえもが、また、視覚的・聴覚的楽しみ、そして何にもまし て、一番強烈な肉体感覚である性の喜びなどが真の『悪魔の住処』とされた。文字通り、死の倫理を形成したのである。救いは死を目指しつつ生涯かけて『苦 行』を実践することによって与えられる『魂の肉体からの分離』である。創造を堕落と見るグノーシス主義的思考を訂正しようとして苦心したにもかかわらず、 キリスト教はその同じグノーシス的精神性の多くをそのまま保存するにとどまった」(p.61-62)

キリスト教における「救い」が、「死」を目指して、生涯、禁欲主義的に肉体を抑圧するという「苦行」を通して、「霊的自己」へ「逃避」することだと結論づ けているリューサーの主張には、笑いを禁じえないが、これに対する反論は後回しにすることにして、今はさらに彼女の主張に耳を傾けることにしよう。彼女 は、グノーシス的肉体嫌悪の視点から罪を考えるようになった古典的キリスト教は、肉体を魂の牢獄(プラトン)であるとして、これを抑圧するようになったの であり、このような反物質的精神性は、近代のデカルトに至ってもまだ克服されていないと言う。

「デカルト流の認識論がプラトン主義と同様の前提に立ち、知識に関する概念を主観―客観の二 元論ということで言い表し……思惟と知ることはひとつの経過であり、そこで非物質的思惟主体が、自分の肉体も含め周囲のあらゆるものを支配さるべき客体へ と引きずりおとす……『真に存在するもの』(リアリティー)は、『非物質的思惟実体』と『非思惟的延長』もしくは『物体』とに引き裂かれる。主観―客観の 二元論と『外的実体』とが、近代科学の基礎である。……リアリティーの二元論的近くは、人間を彼自身および物的存在として知覚しうるすべての現実から疎外 する」(p.62)

恐らく、この難解な文章を一読して意味を把握し得る人は多くないであろうと思うが、筆者も理解できないままに、拙い言葉で言葉で言いかえを試みるならば、 リューサーが異議を唱えているのは、「知るもの」と「知られるもの」との分離であり、支配する者と支配される者との関係性の断絶であり、最終的には、それ は霊と魂との切り分けの否定、そして、創造主と被造物との間に横たわる超えがたい溝を否定しようという試みへとつながる。

私たちキリスト者の認識において、神は全知全能であり、永遠そのものであり、"I AM"と言われるお方、つまり、天地万物を造り出した真のリアリティで ある。歴史のいかなる場面においても、神は自ら支配し治める方であり、永遠のいのちの源であり、パースンであり、その意味において、神は常に主体であっ て、客体となることは決してない。だが、人間は全知全能ではなく、神に造られた被造物に過ぎず、それゆえ、人間は最初から神によって「知られる」者であ り、神によって「治められる」対象である。創造の初めからすでに、人間は客体性を帯びており、神と人との間には超えることのできない一線が横たわってい る。

たとえこの世界がどれほど素晴らしくとも、創造主と比較するならば、全被造物は影のようなものであって、真のリアリティとは言えない。それだけでなく、ア ダムによって全被造物に罪と死が入り込み、被造物が滅びを運命づけられたことを考慮するならば、被造物はただ期限付きで存在を許されている影のようなもの である(「見えるものは一時的であり…」(Ⅱコリント4:18))。 この事実は人間存在からリアリティの感覚を失わせ、人が神から常に疎外されている事実を想起させる。たとえ人が信仰によって救いを得たとしても、肉体が完 全に贖われる瞬間までは、完全なリアリティに到達することはできないし、神を完全に(顔と顔を合わせて)知ることはできない。

アダムは地を治めるべく創造されたという点においては、統治者であり、主体であったが、同時に、地上での人間存在は初めから、神によって知られ、治められ る対象としての限界を運命づけられていた。解放神学者(またグノーシス主義者たち)は、このような神による人間への支配(神と人との断絶、神による人の疎 外)を何よりも非難する。彼らは、キリスト教はここから始まって、この断絶をあらゆるものに応用して、社会に無限の断絶をもたらしたのであり、それゆえ に、社会には「もろもろの権威と支配」が成立し、疎外が満ち溢れたのだと言って、伝統的なキリスト教を非難するのである。そして、分離や断絶による疎外を 解消し、人間を「客体性」から解放せねばならない、それが人間の救済である、と主張するのである。

解放神学者の見方はこうである、人は何者かによって「知られ」、「支配される」対象物とされる時、彼を「知り」、「治め」ようとする主体によって物質化さ れ、手段化され、疎外される。社会的弱者は、そもそも弱者とみなされた時点で、すでに強者の「対象物」に貶められている。だが、他者によって「知られ」る 客体となり、対象物として扱われるという、屈辱的な従属の縄目を断ち切り、自ら「知り」、「支配する」側に立ち、自分を支配しようとする全ての存在からの 自由を得るなら、人は解放され、救済されるというわけである。

リューサーは、社会の全ての疎外は伝統的キリスト教の二元論的分離のゆえにもたらされたとして、伝統的なキリスト教に痛烈な非難を浴びせる。「こ の常軌を逸した精神主義の歴史をひとつにまとめてみると、自己疎外、世界からの疎外、そのほか多種多様な社会的疎外、すなわち性差別主義、反ユダヤ主義、 人種差別、階級間の疎外、そして最後に植民地主義的・帝国主義など実に荒廃しきった状況を示す一枚の絵ができあがる。この異常とも言うべき精神主義の文化 の担い手であり、世界中にそれを広める原動力でもあったキリスト教は、この歴史に対して有罪者として極めて重い責任を負っている。この踏み違えた精神性 は、国内の意見の対立を偏執狂のごとく鎮圧しようとする一方で、大地を全滅の危機にさらす死のテクノロジーによって世界を分割しようとする状況の中に明白 に表われている。そしてこれが『もろもろの権威や支配』の全体像であり、われわれはそこからの解放を求めているのである」(p.65)

PR

ひとこと

神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)

ヴィオロンのブログ

最新記事

アーカイブ

ブログ内検索

カテゴリー