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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

偽りの教えの例――弱者解放の福音の誤りとグノーシス主義(12)

罪による神との断絶の否定


では、一体、解放神学者はどのようにしてこの疎外を乗り越えるのであろうか。一言で言うならば、自分を疎外した神を否定し、新しい神の概念を考え出し、貧 しき者自身が自ら神に成り代わることによって、「本来的自己」を取り戻そうと試みることによってである。自分を疎外した神(この世を含む)を否定的に超 え、分離を統合した原初的存在への回帰を目指している点で、解放神学もグノーシス主義も本質的には同一起源の思想であると筆者はみなしている。

私たちは、グノーシス主義においては、死は罪のゆえではなく、分離のゆえにもたらされた、と解釈されていることをすでに見て来た。グノーシス主義において は、主イエスは人類を罪から救うための贖いとして十字架にかかるために地上に来られたのではなく、人類を分離がもたらされる前の原初的統合(本来的自己) へ引き戻すために地上に来たとされていることを、私たちはすでに見て来た。「分 離が死のはじめとなったのである。それ故に、はじめからあった分離を再び取り除くために、彼ら両人を統合するために、そして分離の中に死んだ人々に命を与 え、彼らを統合するために、彼(主イエス――筆者)が来たのである」(『ピリポ福音書』七八)。(『トマスによる福音書』、p.233より引用。)

確かに、分離は死をもたらすものである。その点について筆者は反駁するつもりはない。神と断絶したことはアダムにとって霊的死を意味した。だが、その断絶は何ゆえであったか。

そもそも一体、なぜ人類はこの世で疎外を感じながら生きなければならないのか。それは罪のゆえである、と聖書は言う。アダムとエバはいのちの木を退けて善 悪知識の木を選んだために、神に対して罪を犯し、神との交わりを失い、神と断絶した。その時、彼らは自ら恐れて、神の御前から隠れ、神は人にこう呼びかけ ねばならなかった、「あなたは、どこにいるのか。」(創世記3:9)と。 恥と恐れの意識による、神からの逃亡。自分が見失われ、自己義認によって取り繕った状態。この状態が人類の疎外された状態を指しているのであるが、不思議 なことに、それは人がただ自分自身を見失った状態を指すのではなく、何よりも、神から見て、人間が見失われた状態を指しているのである。

カインもやはり罪によって神と断絶した。カインの「疎外された状態」は、アダムの場合と同様、生まれながらの人類に属する全ての人々の状態を表す。「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず…」(ローマ3:23)

カインは罪のために神からの栄誉を失い、神によって拒絶され、疎外されたが、その時、彼は、弟は逆に神に義とされて神に受け入れられ、栄えているのを見た。その時、カインは心に侮辱を感じ、弟に対する妬みを起こし、恥と怒りのうちに顔を伏せた。主はカインに仰せになった。「な ぜ、あなたは憤っているのか。なぜ、顔を伏せているのか。あなたが正しく行なったのであれば、受け入れられる。ただし、あなたが正しく行なっていないのな ら、罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである。」(創世記4:7)

主がカインに罪を治めるようにとの警告を発したことは、人類が罪と戦ってそれに打ち勝ち、神との断絶を克服し、神の内に立ち戻ることが神の御心であることを示している。カインに対して主が言われた言葉、「罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである。」は、罪を犯したエバに対して神が言われた言葉、「あなたは夫を恋い慕うが、彼は、あなたを支配することになる。」(創世記3:16)というフレーズに酷似している。

罪はまずエバを通してアダムにもたらされた。アダムはエバを治めなければならなかったのだが、それに失敗し、妻と一緒になって罪を犯した。それゆえ、アダ ムがエバを治めようとする絶望的な試みは、生まれながらの人々の間では、今日に至るまで絶望的な形で続いている。同様に、罪は人を恋い慕うが、人は罪を治 め、支配しなければならない。人は霊によって、魂・肉体を治める人となり、御霊に従って、人が自分自身を治め、罪なる肉を治めることが、神が人に与えられ た命題であった(罪を治めることができずして、どうして全地を治めることができるだろう)。だが、アダムに属する人々は誰一人として、罪を支配することに 成功することはできず、かえって肉によって支配され、罪に敗北し続けて来た。それゆえ、神は初めから「女の子孫」であるキリストを地上に送って、彼を肉において罰せられ、彼によって蛇の頭を打ち砕き、人に罪に対する勝利の道を開くことを計画されていたのであるが…(創世記3:15)

神はカインに「罪を治める」ように言い渡し、カインがそれに成功するかどうかを ご覧になられた。しかし、カインは誤った方法で罪を治めようとして、さらに失敗を犯した。彼は自らの罪を認めようとはせず、かえって、神が義とされた弟ア ベルを殺すことによって、自分の疎外感を解消し、己を義としようとしたのであった。彼は己の内側にある罪を認めようとはせず、自分の面目を保とうとして、 罪を自分の外側にあるものに転化し、自分に疎外を感じさせる状況や対象を憎み、それを目の前から消し去ることで、あたかも神によって義とされ、受け入れら れているかのように思い込もうとし、また周囲にもそのように見せかけようとした。

己が罪を認めたくないカインの神からの逃避と、義人への妬みと憤りに基づいた自己義認が、偽善というもの を生んだ。それは人間の目にはいかにも正しく敬虔そうに見えるさまざまな形式を伴う、外側だけを取り繕った、心の伴わない括弧つきの宗教を生んだ。たとえ 神の名を用いて、熱心に礼拝を捧げているようであったとしても、その実、それは神に逆らって、人間が己を義とするために考え出した、人間の人間による人間 のための宗教である。「自分のいのちを救おうと思う者は、それを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを救うのです。 」(ルカ9:24)。 神によって疎外され、いのちを失った人間には、悔い改めて、神のうちに立ち戻ることによってしか、いのちを取り戻す方法はない。だが、神の懐に身を避ける ことをせず、御前にへりくだることをせず、悔い改めを拒み、かえって、自分で自分のいのちを救おうとしたために、カインはいのちへ立ち戻る道を自ら閉ざし てしまった。カインのみならず、何と大勢の人々が、自分で自分を義としようとして、見込みのない礼拝を捧げていることだろうか…。

カインの偽善は、自分を義と見せかけるために、命の君なるキリストを殺したパリサイ人、律法学者たちに受け継がれる。人類は、神ご自身を抹殺してでも、己 を義とする道を選んだ。人類は、自分を救うために神が遣わした罪なき神のひとり子を死に至らしめてまでも、己に罪なしと宣告を下し、かえって、自分を疎外 した神に有罪宣告を与えたのである。そのために人間は神の名を利用して一大宗教を築き上げることさえした。これは人類が神に対して君臨しようとして作り上 げた似非宗教であるが、それは人類をよりいのちから遠ざけ、より一層ひどい疎外へと追いやった。終末の時代には、この反逆は、アダムの命を擁護して、神の 選びに敵対し、十字架に敵して立ち上がる反キリストの王国に属する全ての人々に受け継がれる。そしてこの似非宗教にどんなに恐ろしい裁きが下るかについて はすでに聖書が予告している通りである…。

解放神学者も、グノーシス主義者も、「砂糖まぶしの甘えの福音」も、それらは皆、人類が己を疎外した神を何とかして超越し、自力で自己肯定、自己義認しよ うとする、神に対する反逆の試みであり、それは最後のバビロンである獣の王国に至るまでの前奏曲である。それは神を介さずに、神のひとり子なるキリストの 十字架を介さずに、むしろ神のご計画を退けて、神ご自身をさえ否定して、無媒介で、己を義とすることによって、神からの疎外を解消しようとする点で、永久 に希望を持たないカインの哲学の継承である。どんなにキリスト教を装い、どんなに敬虔そうに振る舞い、どんなに弱者の耳に心地よい言葉をささやいていたと しても、それは罪なるアダムをありのままで擁護しようとする哲学であるから、神に受け入れられるはずもなく、また、信仰によって義とされたアベルに対する 嫉妬と歯ぎしりに基づいた兄弟殺しの哲学であるから、罪に罪を重ねるだけであり、自分を疎外した神を抹殺してでも、自分が神に成り代わり、己を義としよう とする、創造主に対する生まれながらの人類の絶望的な反逆と復讐の思想である。

それは神に義とされることを自ら拒み、命の君を拒んで、永久にいのちの書からその名を消し去られ、永久にいのちから疎外された人々の、外の暗闇における嫉 妬と怨念の歯ぎしり、憎しみと絶望の叫びが生んだ偽りの宗教である。神ご自身に敵対し、神の選びそのものに反対しているがゆえに、これらの歪められた福音 には決して救済の見込みはないのだが、それを支持する人々は、それほどまでに絶望的に神に逆らっているために、神に疎外された罪人たちをしきりに擁護し、 彼らへの「愛」や「憐み」を訴え、唯一の創造神を掲げる伝統的なキリスト教や、真理に立つ聖徒らに激しく敵対してでも、神に見捨てられた人々を何とかして 自己救済しようと絶望的に取り組むのである。

このようにして、神の義を否定して、罪人・悪人・弱者を無媒介に救おうとする解放神学の愚かさと不毛性を指摘して、大石昭夫氏は次のように書いている、「『主は言われる、『わたしはあなたがたを愛した』と。ところがあなたがたは言う、『あなたはどんなふうに、われわれを愛されたか』。主は言われる、『エサウはヤコブの兄ではないか。しかしわたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ』(マラキ一・二~三)。
このヤコブとエサウの関係と、それに関わる神の態度、それは極めて差別をしているように見えるが、この原型はカインとアベルにある。その展開としてイサク とイシマエル、ヤコブとエサウ、べレヅとゼラ、ヨセフとその兄弟と続く。神はなぜ弟を愛し、長男を憎まれたのであろうか。

ところでひとり子とはアベルであり、この世とはカインである。すなわちアベルを愛したのは、アベルを通してカインを愛するためである。事実、旧約において アベルはカインに殺されたが、ヤコブはエサウを愛することによって一致を向かえ、イサク一族の中で長子となったのはそのことを示している。ちょうどイエス が人類の長子となられたように。こうしてみるとき、神はイエスを通して人類を救われるという救いの方法論が成立する。

ところが解放神学は、アベル、ヤコブ、イエスを抜きにして、カイン、エサウ、この世を直接救おうとするそれは、直接的無媒介的な救済論理であるため、神の摂理と背反する結果をもたらすのである

ここに神の救済の摂理の不可解さ、困難性、逆説的弁証法(キルケゴール)がある。これを見抜かない限り、基本的宗教性すら失われてゆく。驚くべきイエスの 愛を感嘆の声をもって称えてきたキリスト教であるが、なぜ驚くべき愛なのか、直接的無媒介的論理ではそれは理解されない。こうした神の摂理の具体的方法論 を明確に、厳密にそして徹底的に(北森嘉蔵)究明しないところから生じてきたのが解放の論理、解放神学である。」(p.89-90)

<さらにつづく>
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