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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

導きうるのはただ神のみ


「あなたがたは自分のために、偶像を造ってはならない。また刻んだ像も石の柱も立ててはならない。またあなたがたの地に石像を建てて、それを拝んではならない。わたしはあなたがたの神、主だからである。」(レビ記26:1)

道端に立つ地蔵のように、石で刻まれた像を拝む人々を、クリスチャンは愚かだと笑うかも知れません。しかし、人の目に最も分かりにくいのは、心に刻まれた 像ではないでしょうか。どれほど多くのクリスチャンが、自分を適切に導いてくれる指導者を求めて、神ではなく人につき従うという罪を犯し、荒野で倒れて 行ったことでしょうか。そこには、モーセの帰還を待ちきれなくて、自分の目を喜ばせるために金の子牛を造り、それを見て、踊り、戯れた民と同じような姿が あります。そのような背信の民にどうして神の妬む愛が焼き尽くす火となって燃え上がらないわけがあるでしょうか。

主の日は盗人のようにやって来ます。人々がおのおの自分の心に好ましい像を造り、それを愛し拝んで人生を楽しみ、娶り、嫁ぎ、飲み、食い、売り、買い、植え、建て、踊り、戯れ、平安だの、無事だのと言っているその矢先に(Ⅰテサロニケ5:3)。神の焼き尽くす火は、不意に人々の人生を襲い、朽ちるもの全てを灰燼に帰するでしょう。

その時、指導者があなたを適切に導いてくれなかったと言って、どんなに人を責めても無駄です。神は決して栄光を他の者に渡されはしません。神はご自分の他 には、決してあなたを正しく導きうる者はないことを、はっきりと世に証明されるでしょう。なぜなら、あなたを造られた創造主である神ご自身の他に、あなた を完全に理解し、助けうる存在はないからです。

「わたしは主である、これがわたしの名である。わたしはわが栄光をほかの者に与えない。また、わが誉を刻んだ像に与えない。」(イザヤ42:8)

ただお一人の創造主を敬い、創造主を畏れることがこの地に回復されなければなりません。この父なる神が私たちを贖うために独り子を世に遣わして下さったの です。それなのに、私たちはどれほど長い間、自分の罪について聞くのを拒んでいるでしょうか。どれほど長い間、真摯に悔い改めをしていないでしょうか。ど れほど長い間、神の裁きの峻厳さについて、神が焼き尽くす火であられることや、神の妬む愛について聞いていないでしょうか。特に、単数形の罪、すなわち、 私たちの古き人がキリストと共なる十字架により死に渡され、私たちが単数形の罪に対して死ぬ必要性について、どれほど私たちの目は閉ざされているでしょう か。

この邪悪で曲がった時代は、単数形の罪が十字架で取り扱われる必要性について、何とかして隠しておきたいのです。なぜなら、古き人がキリストと共に十字架で死に渡される時、初めて本当に、私たちはキリストの似姿へと変えられ、新しい人とされるからです。

「わたしたちは、この事を知っている。わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。それは、この罪のからだが滅び、わたしたちがもはや、罪の奴隷となることがないためである。」(ローマ6:6)

「…あなたがたは、以前の生活に属する、情欲に迷って滅び行く古き人を脱ぎ捨て、心の深みまで新たにされ、真の義と聖とをそなえた神にかたどって造られた新しき人を着るべきである。」(エペソ4:22-24)


この時代は、霊と魂との切り分けを否定し、肉を弁護し、生まれながらのニンゲンを賞賛し、私たちが自分の内の古き人を死守し、弁護し、手放さないように仕 向けていますが、それは私たちが主と共なる十字架を経て、実際に古き人に死に、単数形の罪に対して深い取り扱いを受け、新創造とは何かを実際に知り、真に 自由とされて復活の領域を生きることを妨げるためです。

「肉と血とは神の国を継ぐことができないし、朽ちるものは朽ちないものを継ぐことがない」(Ⅰコリント15:50)と、 はっきりと御言葉に定められているにも関わらず、この時代は私たちの内在の罪という問題を覆い隠し、私たちの血肉を新創造であるかのように呼び変え、私た ちの肉欲や、罪をさえ、あたかも神に由来する神聖なものであるかのように見せかけようとしています。(しかし、もしもこのような偽りの教義に身を任せるな らば、私たちは放縦の結果、滅びへと至ります。)

この時代がどれほど切り分けを曖昧にしようとも、神が定められた区分を変更できる人は誰もいません。何が永遠の御国を相続する朽ちないものであり、何が朽 ちるものに過ぎないか、何が御霊に属するものであり、何がそうでないか、何が新創造であり、何が旧創造であるか、神ご自身がはっきりと明らかにされます。 ただ神だけが、ご自分に属するものは何であるかを知っておられます。私たちはこの事実に対し、目を開かれたいと強く願うのです。

ノアの後ろで「戸は閉ざされた」のです(創世記7:16)。 ですから今日、まだ恵みの時であり、救いの日が過ぎないうちに、畏れを持って、私たちも神の御声に応答しようではありませんか。神は愛を持って、私たちを 霊・魂・肉体のすべてにおいて十字架の中へエクソダスさせようと呼びかけておられます。私たちは古き人の絶望性と、肉の腐敗について強く照らされる必要が あります。それは私たちが互いに裁き合うためではなく、神が私たちを適切に取り扱われることを信じて待つためです。

「あなたがたは、罪と取り組んで戦う時、まだ血を流すほどの抵抗をしたことがない。」(ヘブル12:4)

このことは、私たちの罪に対する取り組みに、より深い段階があることを示しています。自らの肉の腐敗、罪を知らされることは、痛みを伴うか も知れませんが、それでも、私たちがもし光を拒まないならば、キリストの十字架はこの問題のすべてに完全な解答を与えることができると知るでしょう。私た ちは絶えず主の死と信仰によって一つになることにより、肉に対して死んで、神の国の霊的秩序の中にエクソダスしたいと願うのです。十字架を経ていないもの は何一つとして神の火のテストに耐え得ません。両手、両足そろって永遠の火に投げ込まれるよりは、たとえ片手、片足になっても、身体ごと復活の命の領域で ある御国に入ったほうがよいのです…(マタイ18:8)

合わせてご参照下さい:オリーブ園、新着ブログより 「導きうるのはただ神のみ!」
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神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)

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