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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

あなたはどこにいるのか(3)

「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。・・・真の礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。」(ヨハネ4:21-23)

この山でも、エルサレムでもなく・・・

クリスチャンの交わりを求める時に、この御言葉は筆者の心に常に警告のように響く。霊と真理によって天におられるまことの父を礼拝する、その真の礼拝は、他でもなく信者の心の中にあり、まさに筆者自身の中に存在するのである。

だから、自分自身の中にキリストをいただいている者が、あの山、この山、エルサレム、はたまた聖地と名のつく様々なセンターを訪ね歩く必要は全くない。

さて、前回の記事で、ある愛に溢れた姉妹との交わりと、彼女の突然の死について触れたが、少しだけそれを補足したい。

彼女にまつわる思い出にはさまざまな不思議が溢れている。まず、彼女の死は、彼女自身にとっては決して思いがけないことではなかった。彼女は死に対して万全の備えをしており、遺書から、墓から、何もかも生前に準備を完了していた。しかも、生前から、長い間、病み患いながら生きていたいという願いを彼女は持っておらず、特に終末の時代になる前に召されたい、という願いを、筆者の前でもよく口にしていた。だから、ほとんど苦しむことなく天に召されたのは、周囲の人々にとっては残念でも、彼女の願いが叶えられた結果だったと言えるだろう。

前の記事に書いたように、彼女の葬儀の日、葬儀場から出たバスが、渋滞で進みそうにもないので、筆者が途中で降りて、鎌倉の土産物屋に入ったのも、偶然ではなかった。ちょうどその頃、筆者は、家族の誕生日に向けて、家でプレゼントを用意していたのだが、少し前に、その中に入れようと思っていた他ならぬ鎌倉の土産物屋で買ったお菓子が、賞味期限が切れており、送れないことが判明したのだった。

新しいものを買わねばならないが、鎌倉へなど行く用事がなく、そんな時間もない・・・。当時、仕事に明け暮れていた筆者がそう残念がっていたところ、折しも彼女の葬儀の日、バスが思いがけなく懐かしい観光地を通り過ぎたのである。まさしく主の采配と感じられた。そうして、プレゼントは揃った。

筆者には、神が筆者の必要を覚えて下さり、不思議な形でそれを満たして下さったことが喜びでならなかった。そんなわけで、葬儀のように悲しい出来事が起きている最中にさえ、事この姉妹に関しては、まるで天から恵みが降り注ぐような有様であった。
 
彼女の葬儀の日、バスを降りて後、筆者は喪服のまま、一人で海や、観光地や、思い出のコースを巡り歩いた。ゴールデンウイーク中だから、どこもかしこも観光客が溢れ、江ノ電も満員であった。そんな観光地での喪服の一人歩きは、さぞかし場違いであろうと思われるのに、まるで幽霊人間にでもなったように、誰一人として注意を払う者もなかった。

その思い出の場所に、数ヶ月後に、今度はロシアの学者たちが訪れて来た。筆者が紹介した思い出の場所の一つ一つは、彼らの感嘆を呼び起こし、こうして、その場所は、全く別の思い出へと変えられるのだが、そんなことになるとは、当時は夢にも想像せず、ただ親しい友が一人地上から取り去られたことを寂しく思いながら、思い出の記憶を辿っていただけであった。

筆者の当時の心の思いは、神の他には知る人もなく、葬儀の場に訪れていた見知らぬ大勢の人たちとも、思い出を分かち合うことはなかった。だが、神はたとえ信者が口にせずとも、信者の心の中で起きていることのすべてをご存知で、悲しみを慰めに変え、失意を喜びに変え、欠乏を豊かに補い、孤独を祝福で満たして下さろうと、常に愛をもって待ち構えておられることが、あらゆる出来事を通して分かるのである。

しかし、同時に、神は決して信者の心が、人や、物、場所に執着することを望んでおられない。この姉妹との交わりも、束の間のようであり、彼女は、「ただ神だけに信頼を置くように」という忠告を残して地上から去って行った。

彼女は、筆者の働き方を見て、そのようにまで苦労して働かなくてはならない生き方に疑問を持っていた。それは筆者も同じであった。だが、ある時期まで、筆者はこの国の年々悪化していく雇用情勢に絶望感を覚え、国外に出れば事情は変わるのではないかと思い、かなりあけすけにその希望を周囲の兄弟姉妹に語っていたこともあった。

そんな中、まるで渡りに船のように、ある時、筆者に海外出張を提案して来た会社があった。仕事に採用される条件として、モスクワ出張に応じよというのである。しかも、かなり長い期間の出張を想定しているようであった。

以前の筆者ならば、その提案に喜んで飛びついたであろうと思う。筆者はそれまでに幾人もの知り合いの兄弟姉妹に向かって、いかにこの国にとどまることに希望がないか、という話をしており、一度は、ロシアの知り合いが、まるでその確信を補強するように、日本に居続けても将来がないので、早くモスクワに来なさい、と筆者を説得する始末だった。あまりにも彼らが親切に道を整えてくれたので、本当に、二度と戻って来ない決意で国を出る直前のところまで行った。

そんな筆者が決心を翻したのは、自分自身で何年かぶりにロシアを下見に行ったことがきっかけであった。飛行機が離陸する直前、富士山が窓からきれいにくっきりと見え、あたかもその旅路が、神に大いに祝福されているように感じられた。富士山が大好きだった亡くなった姉妹のことを思い出し、まるで彼女が天から見守り、背中を押してくれているようだと感じた。

しかしながら、どういうわけか、その短い旅の最中に、筆者の心境に大きな変化が起きて、ロシアに行けば、すべてが見違えるように変わることは決してあり得ない、という当然の結論に至った。別に、モスクワに失望したわけでもなければ、その旅が期待外れだったわけでもなく、ロシアは以前に筆者が知っていた頃よりも、格段に印象良くなっていた。この調子だと、悪評高いロシア的な無秩序と混沌も、間もなく数年のうちには駆逐されるのではないかという変わりようであった。

にも関わらず、これは何かが違うぞという気がしたのである。かつてアッセンブリーズ教団や、KFCや、ベック集会に信徒の交わりを見いだせるのではないかと模索していた頃と同じように、またしても、今度は別の種類の「この山、エルサレム」に心を惹かれているだけだ、という気がしてならなかったのである。

正しい順序はそれとは逆でなければならない。筆者が「あの山、エルサレム」に出向くのではなくて、「あの山、エルサレム」の方がこちらへ向かって来なければならないのだ。いや、もし、山やエルサレムがどうしても本当に必要だというのであれば、それは信仰によって呼び出すのだ。ちょうど、山をも動かす信仰について、聖書で語られているように。
 
一体、筆者が何を言おうとしているのか全く理解できない、何を馬鹿馬鹿しい作り話を並べているのか、という人もあるかも知れない。多分、これを誰にでも分かるように説明するのは無理であろう。

信者にあっては、すべては信仰によってのみ、始められるべきなのである。信者が地上にあるあの山この山に執着し、この聖地に行って跪いて祈れば、そこから祝福された偉業が始まるだろう、などと思っているならば、そんなことは決して起きない。そうではなくて、キリスト者の霊の内に、彼の信仰の中にこそ、すべてを引き起こす鍵があり、信者の内に住んでおられるキリストからのみ、すべてが始まらなければならないのである。

だから、目に見えるものに心惹かれ、自分にはあれが足りない、これが足りない、あそこへ行きさえすれば、あれがありさえすれば、あのような人と出会えさえすれ、すべては見違えるように変わるだろう・・・、などと考える前に、信者はまず自分の内に住んでおられるキリストこそ、「栄光の望み」であって、この方の内にこそ、全てを呼び出す秘訣がある、という原点に立ち戻らなければならないのである。

一歩まかり間違えば、このような言説を聞いた人は、あなたは自分を超人とみなしているのか、と言いかねないであろう。自分を何様だと思っているのか、神だとでも思っているのか、と問われるかも知れない。

だが、クリスチャンは神の子であり、主イエスの御名を通して、天の父なる神に、何でも願い出ることのできる特権を与えられている。御名の権威を行使する権限が与えられているとは、信者がキリストご自身と一体であり、キリストの権威を代理で行使するよう委ねられていることを意味する。

さて、前述したモスクワ出張を提案して来た会社は、残業代は出ない、と但し書きをつけた。つまり、無賃で長時間残業せよと、あからさまに筆者に向かって言うのである。その時点で、この道はやはり主の道ではない、と筆者は思った。そこで、筆者は自分の家には色々なペットが住んでおり、一日に一回は必ず世話をせねばならないので、帰宅しないわけにはいかないと語ったところ、彼らにはそれがいたく心外だった様子で、表情ががらりと変わった。まるで、筆者のようなさして裕福にも見えない未熟な若者が、ペットを飼っているなど、あり得ない許されない贅沢である、とでも言いたげな表情であった。

筆者は平然と言った、誰にでも個人としての生活がありますからね、子供を持って働いているお母さんだっているし、若者にも自分の生活があります。仕事だけが人間にとっての全てではなく、人として豊かな生活を送るために、誰しも工夫すべきですよ、と。

彼らは口にこそ出さなかったが、若者から思いがけなく聞かされたこの「説教」に憤慨した様子であった。内心では、筆者のことを、働く覚悟が全く足りない甘えた人間、プチブル、労働者の敵、とみなしているようであった。

本当はその時、ペットのみならず、筆者の家には、観葉植物もたくさんあり、しかも、普通の値段で買えば、一つに一万円以上の値がつきそうな大型の植物もあった。その上、バイクもあれば、車もあり、家そのものも、何カ月も閉め切って放置するわけにはいかないのだ。

にも関わらず、こんな悪徳企業に万が一にも身を委ねるようなことがあれば、植物はみな枯れ、ペットは手放さざるを得なくなり、車などは長いこと放置したために余計な修理が必要となり、家は老朽化し、長時間残業のためにアフターファイブなど夢のまた夢となり、誰との出会いも不可能となり、それでももし子供でも身ごもろうものならば、まるで犯罪でも犯したかのように責め立てられ、子供も生まれる前にいじめ抜かれて殺されてしまうであろう、しかも、そこまで耐え忍んだ挙句に、毎月、口座に振り込まれる給与は、どんなに残業しても初任給のまま変わらないのである・・・と、そんな風に、まだ何も起こらない前から、そういう筋書きになるであろうことがはっきりと頭の中で思い描けた。大体、ペットを飼っていることすら罪悪とみなされるような企業で、誰が結婚して子供を産むことなどできようか。生きて人生を楽しんでいることさえ罪深い所業とみなされるのであろう。

マモン(悪魔)に支配されるこの世の経済も、こんなにも厚かましい要求を出会いがしらの人間にぶつけて来るとは、いよいよ彼らの支配も煮詰まって来た模様だ、と筆者は思った。敵は相当に焦っているらしい。

筆者は表立って対立こそしなかったが、本心を偽らず、彼らの失望を呼び起こす数々のネガティブな制約を列挙して、この会社の人々が筆者に何の期待も抱かないように釘を刺した。社会勉強も足りない若者のくせいに、甘えている、自己中心だ、働く覚悟が足りない、と思いたいなら、勝手に思いなさい。無賃の奴隷的労働は、そもそも労働とは呼べない。無給で自分を奴隷に差し出してまで、筆者には仕事に志願する必要もなければ、国外に逃れる必要もない。奴隷労働によって殺されることに比べれば、何もしない方がまだましである。ペットや植物も、筆者の家族の一員であり、筆者にはこれらを管理し、守る義務がある。いと小さき命も守れない環境で、どうして自分を守ることなどできよう。あなた方は、本質的に人殺しである。それが筆者に分からないと思うか。

人々は言うだろう、それでは、あなたは悪魔が猛威を振るい、世の情勢がますます悪化して、まともな仕事がますます減って行く時に、どのようにして生計を維持するつもりかと。そんなに自分を高く見積もって、えり好みばかりして、本当に大丈夫なのかね? と。

それに対しては、筆者はこう答えるだけだ。「あなたがたの提案する方法では、どうせ誰も生きのびられやしませんよ。そもそもの最初から、残業代は出ない、などと脅して来る企業が、賃金だけはまともに払うと思うほど、こちらも浅はかで愚かではないんでね。そういう連中は、みな本質的に詐欺師であって、殺人者ですよ。そのうち彼らはきっとこう言うんです、企業が株で大損して巨額の負債が出来たから、これを切り抜けるために、社員同士で負債を山分けしてくれと、だから、賃金を払うどころか、金を寄越せと、脅して来るんです。我が国の経済は、まだその一歩手前でとどまっていますが、あと数年のうちに、どうせそういう話になるんですよ。

カラクリは教会と一緒です。信徒の人数に見合わない、採算も取れないような、豪華礼拝堂の建設など、まるで身勝手かつ無意味な強欲な計画を次から次へと立てておいて、そこへ詐欺師たちが群がって、ありもしないプロジェクトをさんざんぶち上げておいて、その夢もかなわず、最後には途方もない借金だけを抱えることになって、その時になると、今度はその借金を教会債という形で信徒に押しつけようとするんです。そんな場所に居残って、借金返済の道具とされて生きることが、信仰生活と呼べますか? それがクリスチャンの正しい生き方だと思いますか。誰も思いませんよ。その何が神の選民なものですか。

企業も国もこれと同じですよ。今、国が同じことをやっているじゃないですか。安いエネルギー源だと喧伝していたものが、巨大な爆発事故を起こして、巨額の負債が生まれたら、これを都合よく国民の連帯責任として、みんなに押しつけようというわけですよね…。国がこれだから、企業だって当然、同じことをやります。次から次へと勝手なことをやっておきながら、そのツケはみんな弱い者に回し、組織の存続のために人身を犠牲にしようとして来るんです。そんな強欲企業の犠牲となって、彼らの厚顔無恥な欲望の成就のために、正当な賃金も払われないまま、架空の正社員のバッジをもらったって、それに何の意味がありますか。何が正社員ですか。そんなものは、単なる奴隷のバッジ以外の何物でもありませんよ・・・。」

むろん、こんなことを誰かの前で面と向かって口にすることはないが、結局、事の本質はそういうことなのである。最後に見て来た企業では、ついに幹部が、会社の利益が出ない時には、給与を返上して無賃労働をしていると筆者の前で告白した。それを聞いて、筆者はどれほど呆れたことだろう。家族を犠牲にし、可愛い子供たちを犠牲にし、自分自身を犠牲にしながら、その高い地位に見合うだけの対価さえ、もらっていないというのである。こうなっては、役職もバーチャルなものに等しい。現実には、責任だけが増し加わり、ふさわしい報いは何一つ得られていないのである。上部がそれでは、部下に何の希望があろうか。馬鹿馬鹿しいにも程がある。もうお付き合いできない。これでは、囚人労働と変わらない。そこにどんな栄光が、どんな人間性があろうか。こうまで歪んだ労働の概念に、まともな神経の持ち主の誰が着いて行くことができようか。その先には組織との心中の道しか、残っているものはないだろう・・・。彼らには、マサダの自決のような命運が待ち構えているだけである。自分は選ばれた社員だ、立派な労働者だ、企業の幹部だ、役員だ、選民だ、などと誇っているうちに、そういう結末に至るのに違いない。彼らにどんな夢があっても、そんなやり方では、かなうはずもない。正義を曲げており、神の御心にかなわないからだ。それは共産主義ユートピアと同じで、ただ人間に果てしない犠牲を要求するだけで、決して願っているものを与えはしない・・・。
 
聖書にはこう書いてある、野の花を見よ、空の鳥を見よ、と。野の花も空の鳥も、労働によって自己を養っているのではなく、神が養って下さっている。信じる者のすべては、これと同じように、神によって創造され、神によって生かされ、養われている存在である。神は一羽の雀さえもお忘れにならないのだから、まして信じる者に何が必要かは、知り尽くしておられる。

神が面倒をみて下さっているのに、信者が自分の努力によって生きていると思うのは傲慢である。人が自分で自分を支えていると思っているのは、むなしい錯覚でしかない。人は自分の力では天候一つ変えることはできず、自分の健康を維持することもできず、まして己が労働によって自分を支えることなどできはしない。我が国の労働システムは途方もなく歪んでおり、それは社会主義と同じ呪われた優生思想から発生して来た、死の恐怖に基づく人間の終わらない自己犠牲の苦役である。アダムが罪のゆえに呪われて、一生、地を耕さなくてはならなくなった時から、人間の労働は不毛となったのである。だから、もがいても、もがいても、人は労働によって自己の魂を贖うことはできない。自分を救うことはできない。

にも関わらず、人が組織を作って、互いの弱さをかばい合うイチヂクの葉同盟を作って、神によらずに、人間の努力によって互いの生存を保障し合おうと試み、そこに偽りのヒエラルキーを築いて、あたかも立身出世や、裕福になることが可能であるかのように思い描いて、富を増し加えて組織を拡大し、天にまで届く摩天楼を建てようとしているのは、単なる幻想であり、驕りである。

企業も、教会と同じく、組織から逃げ出せば救いを失う、暮らしの安定を失い、命を失うという恐れを煽ることによって、人々を組織に拘束し、逃げ出せないようにしているだけのことで、これらの人々をそこにつなぎとめているのは、生存の恐怖であって、自由ではない。しかも、弱者を犠牲として踏みしだき、彼らに当然支払うべきものさえ支払わないで、弱い人々を貧しさと死に追いやり、嘲笑し、罪に罪を増し加えながら、肥え太り、勝ち誇っているそのような罪深い共同体は長続きしない。だから、ある日、自分を養ってくれていると思っていたその体系全体が、音を立てて崩れるのを彼らは見る日が来よう。

「聞きなさい。金持ちたち。あなたがたの上に迫って来る悲惨を思って泣き叫びなさい。
 あなたがたの富は腐っており、あなたがたの着物は虫に食われており、あなたがたの金銀にはさびが来て、そのさびが、あなたがたを責める証言となり、あなたがたの肉を火のように食い尽くします。あなたがたは、終わりの日に財宝をたくわえました。

 見なさい。あなたがたの畑の刈り入れをした労働者への未払い賃金が、叫び声をあげています。そして、取り入れをした人たちの叫び声は、万軍の主の耳に届いています。
 あなたがたは、地上でぜいたくに暮らし、快楽にふけり、殺される日にあたって自分の心を太らせました。
 あなたがたは、正しい人を罪に定めて、殺しました。彼はあなたがたに抵抗しません。」(ヤコブ5:1-6)

このように、最低限、支払うべき賃金さえ支払わないような呪われたシステムは、崩壊することが定められているのである。どんなにそこで信者が頑張っても、それ自体、神の目に忌むべき呪われた体系である以上、彼の努力に報いが与えられる日は来ないであろう。

神が養って下さると言ってくれているのに、どうして信者はそのように先がないと分かっている不法で罪深い条件に身を委ねてまで、悪人の仲間入りし、悪魔に自分を生かしてくれと懇願し、跪く必要があるのか?
 
そんなものは社会勉強でもなく、努力とも呼べない。人が自分で自分を奴隷として売り飛ばし、強欲な人々が彼らに君臨し、その恐れにつけ込んでいるだけの話である。そんな愚かしい奴隷的奉仕を得るために奔走するのはもういい加減にやめて、信者であれば、本当に心から納得が出来る道が開かれるまで、天の父なる神に直談判して、条件を申し上げるが良い。そのために時間を使え、と、今の筆者ならば答えるであろう。

前述した姉妹は亡くなって久しいが、ようやく筆者も、姉妹の警告を理解し、当時の彼女と変わらない見解に達したのである。

悪魔は言うだろう、「もう時間がないよ。あなただっていつまでも若くないんだから、この辺で妥協して、手を打たないとね。あなたはいつも高望みしすぎなんだ。理想が高すぎるし、潔癖すぎるんだよ。そんなにも難しい注文ばかりつけていれば、開かれるものも開かれないよ。今の世の中では、あなたの言うことは贅沢だ。もっとハードルを引き下げなくちゃね。もっと世と妥協して、口うるさく注文をつけるのはやめて、正義だの、真実だの、聖書の御言葉だの、神の御心だの、青臭い主張はひっこめた方が、身の為だ、その方が、あなた自身も格段に生きやすくなるよ」と。

だが、悪魔にはご退散願おう。そんな理屈は成り立たないことを筆者は知っている。人が何をしてみたところで、この先の世界に輝かしい未来の展望はなく、従って、どんな取引をしてみたところで、「格段に生きやすくなる」道などもとより存在しないのである。悪魔に対しては、一歩譲歩したが最後、百歩譲歩を迫られるであろう。だから、一歩たりとも譲ってはいけないのである。

もともと新卒・既卒などという馬鹿馬鹿しい区別から始まって、次には年齢差別、性別による差別、学歴による差別、経験による差別、果てはペットの有無による差別まで、あらゆることをきっかけに、人を値切りに値切っておいて、ついに最後には無賃労働を耐え忍べとまで言おうとしているわけだから、そんな殺人者に対してどんな妥協が、譲歩があるというのか。全く、がめついにもほどがあるというものだろう。「ハードルを引き下げよ」というのは、結局、「我々のために無賃労働し、奴隷的苦役に従事せよ」と言っているも同然であって、日本の労働市場は年々、そこへ近づいているのである。一旦、契約を結んだが最後、勝手にその内容が書き変えられ、明日には、戦地に赴かされる羽目になっていないとも限らない。ここはそういう国に成り果ててしまったのである。その他にも、あらゆる不法行為に目をつぶって、人権を自ら手放し、自分の不利益を一方的に耐え忍び、あらゆる不当な出来事に見て見ぬふりと泣き寝入りを続けなければ、ヒコクミンという話になるであろう。悪魔はずるくて卑怯なので、そのように不法な条件と理不尽をとことん耐え忍ぶよう要求しておいて、それらが暴かれ、明るみに出される頃には、巧妙にあなたに濡れ衣を着せて、トカゲのしっぽ切として、あなた一人を監獄に送って済ませようとするかも知れない。詐欺師の仲間入りをしておいて、自分だけは無傷で済むと思うのは甘いのである。誰がそんな取引に身を委ねようと思うだろうか? 人を甘く見、馬鹿にするのもたいがいにしてもらいたいものである。
 
そもそも、賃金も支払われない「労働」のために、誰が労働市場に身を売りに行くのであろうか? 負債を抱えるために行くのであろうか? 馬鹿馬鹿しいにも程があるだろう。そういうものを、誰が労働の概念に含むことができるだろうか。だが、悪魔の論理はいつもこんな調子である。神の救いを求めて教会に赴いたはずの信者が、愚かな指導者が思い描いた欲深い計画の言いなりとなって、教会債を抱えさせられて重荷に喘ぎ、四苦八苦している始末である。神の救いが、いつの間にか、人間の負債にすり替えられていることの愚かしさに、そうなってもまだ気づかないとすれば、呆れるほどの愚かさである。企業も同じなのだ。給与も払わず、生きるに必要な糧を与えず、どんなに尽くしても、会社が倒産するかも知れないなどと絶えず脅して来るだけの連中が、自分の味方だと思っているならば、それは暴力を振るう夫から何年たっても別れられない愚かな妻と同じく、自ら招いた災難である。
 
企業、教会、国家を問わず、地上の組織や団体は、みな人間が自己防衛のために築き上げた「カインの城壁」であって、その本質はバビロンであるから、近寄らないに越したことはないと、筆者は考えている。それらのものは、人間が己が恥、弱さ、無力を隠すために築き上げた「イチヂクの葉同盟」に過ぎず、本質的には、神に逆らうものなのである。だからこそ、そこでは、組織の存続、すなわち、人間の恥が暴かれず、人間の威信が保たれることだけを第一として、組織に逆らう人間や、弱い人間はとことん犠牲にされて行くのである。そして、組織のプライドを建て上げて、組織が一刻も早く天に到達するのを手助けするような人間がけが重宝され、勝ち残って行くのである。そこにあるのは、歪んだ優生思想である。そこにあるのは、人間を集団化・道具化することによって、人類が自力で神に到達し、神に挑戦しようという願望だけである。

だが、そうまでして生き残りを図っても、その先に未来はないのだ。いずれバビロンは罪の借金を決済しきれなくなって倒壊する日が来るからである。キリスト以外の土台に建てたものは、どんなものであっても、どうせ長くは続かないのである。

だから、本当は、時間がないと焦っているのは、神ではなく、悪魔の方である。聖書には書いてある、「ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。」(Ⅱコリント4:16-17)

キリスト者はこの地上や肉体の制約にとらわれて、年々、衰えて行くような存在ではない。世人ならば、自分は年を取ったからもうこの辺りが限界で、この世の常識と妥協せねばと言うかも知れないが、キリスト者はむしろ逆である。私たちは、この肉体を宿としながらも、地上の法則の制約に逆らって、これを超越して、この有限なる幕屋の上に、無限の幕屋を着ようとしているのである。また、不法なこの世にありながら、そこに神の御心にかなう霊的統治を打ち立てようとしているのである。

だから、悪魔の提案になど心を動かされず、世の常識や言い分に耳を貸さず、あくまで神の正義と真実に立って、御心に反しない正当な条件を、信者は何事についても、願い続けるべきである。世がそれを提供しないというならば、主と同労して自分自身でそれを打ち立てるくらいであって良い。

さて、最後に、筆者がこのような考えに至ったきっかけの一つに、さらに別な出来事もあった。筆者が車を買った際に、車屋が筆者に提案して来た保険の補償金額を、別の保険屋が見て、「安すぎる」と言ったのである。「もしあなたの車にお医者さんが同乗していたら、こんな金額では効かないかも知れませんよ」と、その保険屋は言うのである。

筆者は自分の車に医者を乗せる予定はなく、医者もろともに事故死する予定も全くなかったので、神の守りにより、保険など決して使うはずがないと心の中で確信していたが、それでも、自分とキリストの命の値段をあまりにも安く見積もりすぎていると悪魔に後ろ指を指されない為に、金額を引き上げた。(かと言って、筆者にその助言をした保険屋には何の利益もなく、その保険屋は間もなく廃業となった。)

その後、ある時、筆者は少しでも経費を節約するために、補償額を引き下げることで、保険料を浮かせようという考えを思いついた。ところが、そのような連絡の電話を保険屋に入れたまさにその日の午後、ある駐車場に車を止めると、思いもかけない激しい海風が吹いて来て、筆者が車の扉を開けた瞬間に、風で扉が全開に開き、隣に止めてあった車に思い切りぶつかったのである。

結果的には、大したことのない事故で、相手の車の扉の取手の小さな部品を一つ取り替えるだけで済み、それにかかった金額もまるで大したことなく、保険すらも使う必要がなかったのだが、それでも、引き下げた保険料分を上回る金額が修理費に消えた。

筆者は経費を節約せねばという恐れに駆られたことを反省した。これは上からの警告であって、そんな事件は決して偶然に起きるものではない、ということがよく分かっていたからである。キリスト者の人生に決して偶然はない。だから、この事件を受けて、筆者はただ生活の不安だけを理由に、自分の生活の規模を自ら縮小するようなことは二度とすまい、と決意したのであった。(ただし本当に無駄なものは削って差し支えないが。)筆者は、キリストと筆者の命の値段は、断固、引き下げられるべきではない、と確信し、またもとの値段に戻した。むろん、これまでに一度も保険を使ったことがないのは言うまでもない。
 
明日のことを思い煩うな、明日のことは明日が心配する、と聖書に書いてある通り、キリスト者は明日の責任を自分自身で引き受けるべきでなく、必要の全てを天の父なる神に願い求め、神が必要を満たして下さることを確信し、神に全幅の信頼を置きつつ、悪魔の脅しに対してとことん対抗し、彼らに対してキリストの勝利を誇ることで、見栄を張るべきなのである。

神にとって不可能なことはなく、人が日々思い悩んでいるような事柄は、神にとっては全く些末な事柄でしかなく、采配一つで、それをお与えになることもできれば、あるいは、その何倍もの損失を一挙にこうむらせることも可能である。なのに、どうしてこの全能の神を信頼しないのか。信者の生存は、御手に委ねられている。それなのに、信者が自分の生存を神に委ねず、自分で何とかしようとすればするほど、罠にはまって行き、悪魔がその不安につけ込んで来るであろう。

多分、世人のほとんどには、いや、信仰者であっても、こういう話は理解されないことであろう。ほとんどの場合、「あなたの考えは尋常ではない。それは現実的ではなく、楽観に基づく、危険な夢物語だ」、「あなたは若いので、人生の苦労を知らず、自分に都合の良い夢を思い描いているだけだ」などと言われて終わるだけであろうと思う。

実際に、筆者の周りでは、以前に豊かだった人たちが、最近、どんどん持ち物を手放し、生活を縮小している。たとえば、筆者がボロボロになるまで同じバイクカバーを後生大事に使っていた頃には、ピカピカのカバーを何度もかけ変えていた人が、筆者よりも先にバイクを手放した。駅前の駐輪場は、以前には定期券を申し込むために長蛇の列ができていたのに、今はもうガラ空きである。

NHKが「縮小ニッポン」という番組を放映したらしいが、多分、この先、生活を縮小しようとの世の傾向はますます強まるのではないかと筆者は思う。今、筆者の周りで車を維持している人は、生活の足や、趣味や、行楽のためではなく、ただ仕事のための必需品として持っているだけである。若者の車離れが激しいなどと言われて久しいが、今や若者のみならず、大人から老人まで、必要最低限のものしか持たない生活へとどんどん切り替えて行っているのである。

だが、それにも関わらず、筆者は確信している。キリスト者は、世の情勢に左右される存在ではなく、世が不況になったからと言って、それに合わせて自分の生活を拡大・縮小を決定する必要はないと。キリスト者は、安易に縮小すべきではない。特に、恐れに駆られて生活を縮小するなど、もっての他である。それでは悪魔の笑い者になるだけである。

これは貪欲のために言うのではなく、キリストが約束して下さった命の豊かさに達するまで、信者は決して諦めて退却すべきではない、ということを述べているのである。さらに、キリスト者は悪魔と取引して違法な条件に身を委ねてまで、自分の力で生きようとすべきでもない。たとえ明日の保障がないように見える時にも、信者の生存を支えるのは、神の仕事であって、神が共にいて心配して下さるのだから、信者は焦ったり、悩んだりすることをやめて、神に全幅の信頼を置いて、良心に恥じないで済む、恐れからでなく自分の願いに基づく正当な生き方を、天に向かって乞うべきである。

そして、神はそのような願いを喜んで下さり、必ず、信じる者の願いに応えて下さる、と、筆者は確信している。主に信頼する者は、失望に終わることはないと、聖書に書いてある通りだ。神は、信者の存在を通して、御名の偉大な力を世に示したいと願っておられる。神の愛と憐れみの深さ、神の恵みと助けの大いなることを、世に示したいと願っておられる。だから、信者は自らの信仰によって、神がどのようなお方であるのか、生きて世に証明すべきである。それによって、悪魔は敗北し、恥じ入るであろう。自分を責めて、恥じるべきは、キリスト者ではなく、絶えず無実の信者を迫害し、苦しめ、あざ笑おうとしている悪魔と地獄の勢力なのである。

<2106年>

 
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神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)

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