忍者ブログ

私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

隠れた内なる人


最近、神の御前に静まる必要性をとても感じています。兄弟姉妹の交わりにおいても、礼拝においても…。若者には大きな情熱が与えられています。それゆえ、 尽きせぬ語らい、高揚感溢れる礼拝が生まれ、知的な議論も終わりなく繰り広げることができます。いいえ、若者だけがそうなのではありません。

人は天然の力を使っても、どれほど人の目に素晴らしいものを作り上げられるでしょうか。才気溢れる人々が集まれば、どれほど素晴らしい礼拝を編み出せるでしょうか。主が恵みを雨のようにお与え下さる時、何と私たちは子供のように有頂天になってはしゃぐことでしょうか。

しかし、「人を生かすものは霊であって、肉はなんの役にも立たない。」(ヨハネ6:63)の です。御霊のか細い声に耳を傾けるためには、静けさが重要です。それは決して瞑想などによって得られるものではなく、静かな環境に由来するものでもなく、 ただ私たちの心のへりくだりによります。高慢は常に霊的鈍感さに直結します。肉なるものが主の御前にへりくだり、砕けた心を持って進み出ることなしに、御 霊の声を敏感に聞き分けることはできないでしょう。

それなのに、多くの信者たちは何としばしば、神のために熱心に「活動する」ことにより、自己肯定、自己顕示しようとしていることでしょう。熱烈な賛美、長い祈り、 倦むことを知らない交わり、麗しい礼拝…。確かに一時、主はそれらを私たちのために恵みとして配剤されます。しかし、それらの活動に身を投じることに比 べ、何もしない(何もできない)状態は、何という忍耐を私たちに要求することでしょうか。

クリスチャンはしばしば、主によって閉じ込められます。孤独の中に、静けさの中に、誤解の中に、病の中に、困難な状況の中に。それでもなお、ある人たちは閉じ込めと いう主の訓練を避け、拒否しようとするのです。自分が世間から忘れ去られ、没落しているがごとくに思われたくないために、兄弟姉妹との交わりを求め、活発な行動を求めます。 神によって懲らしめられているその弱さと傷みを隠そうとして、恵みの数々を誇ります。神の手によって打たれ、病床に伏してもなお、自己の正しさを求めて、 「神のために」熱心に活動しようとします。
 
それほどまでに、生まれながらの人間は、何もしない(何もできない)ことに耐えられません。沈黙に耐えられません。忘れ去られることに耐えられません。活動しないでいることができません。人間の自己はあまりにも軽薄であり、絶え間なく自己顕示し、絶え間なく自分の正しさや、優位性を誇らずにいられないので す…。

しかし、キリストの十字架は、これらの自己から来るやむことのないむなしい活動に対して、ただ死を啓示します。人の自己から出た活動は、御国の富のために何の役にも立たないと言われます。

犬を飼う時には、主人が「良し」と言うまで、犬が餌に飛びつかないように訓練するものではないでしょうか? もし犬にわきまえがないままであれば、主人と共存することはできません。主人との関係を楽しむことはできません。犬でさえ、そのように「待つ」訓練にあずかるというのに、クリスチャンの大勢は、人間でありながら、な お、主が「待て」と言っているのに、何のわきまえもない野良犬のごとく、浅ましく餌に飛びついているのではないでしょうか。神を口実に、絶え間なく自分の 栄光と楽しみを求めているのではないでしょうか。多くの人たちは、主が栄光をお与え下さる前に、自分の栄光を自分で掴もうとします。そのような姿を主はご覧になっ て、みっともない、情けない、見苦しいと思われないでしょうか?

「あなたがたは、髪を編み、金の飾りをつけ、服装をととのえるような外面の飾りではなく、かくれた内なる人、柔和で、しとやかな霊という朽ちることのない飾りを、身につけるべきであるこれこそ、神のみまえに、きわめて尊いものである。」(Ⅰペテロ3:3-4)

悲しいことに、ある人々は、エクレシアというものを全く誤解しています。美しく着飾った花嫁の写真をたくさん並べて、それを自分たち信者の姿と同一視して、「私たちは神に選ばれた美しい花嫁である!」と言って、自己満悦に浸っています。しかし、その人たちは完全に一つの事実を忘れています。それは、結婚式の主役は、花婿だということです。確かに、花嫁の役割も大きいですが、花嫁は誰よりも花婿の喜びのために存在します。花婿あってこその花嫁です。それなのに、花嫁が花婿を差し置いて、自分一人、美しく着飾り、自分一人だけを主役として舞台の中央に据えて、花婿を隅においやり、花婿の思いをよそに、一人だけ注目を浴びて自己満悦に浸っているとすれば、そんな結婚式に何か意味があるでしょうか? もし私が花婿であれば、まっすぐに一人で出口へ向かい、そんな花嫁との結婚は考え直すと思います。

以上に挙げた御言葉は、主の花嫁たるエクレシアが身につけるべき品性として語られています。飾られなければならないのは、外面ではなく、内面です。私たちは御霊がよしとされる時まで、忍耐して待つことを知らねばなりません。それは生まれながらの人間の活動的で自己顕示欲に満ちた自己にとっては、死の苦痛以外の何ものでもないように感じられるでしょう。その死は私たち自身の力によってはなし遂げられず、また修道生活のような禁欲的苦行によるのでもなく、ただ御霊により、十字架によるのです。

御霊は、信者たちに本当のわきまえというものが何であるかを内側から教えてくれます。いつ私たちが口を開くべきか、何を語るべきか、どのように行動すべき か、行き過ぎに至らないよう警告して下さいます。それは決して、私たちが操り人形のようになって自主性を失うことを意味するのではなく、御霊が私たちの内で品性そのものとなり、私たちが自分自身を霊によって治めるべく導いて下さるということです。

アダムの死だけでは、自己の死だけでは、十分ではありません。主と共なる十字架を経て、私たちはいのちに与らねばなりません。それは霊によって自分自身を治める人となることを意味します。

ですから、信者たちはいつまでも自己中心で軽率で浅はかな、自分の欲求だけに基づいて行動するわきまえのない動物のようであってはなりません。神が私たちの主人です。どれほど派手に、どれほど上手く活動し、どれだけ多くの注目を集めることができるかが、私たちの成功な のではありません。主人の命令に服さないような僕は、どんなに活発に活動しても、僕とは呼べません。主人が「待て」と言う時、忍耐して待つことのできる僕になることの方が、主人の命令を無視して活動することよりも、はるかに重要な訓練です。そのようにして忍耐して待つ僕を、どうして主人がかえりみて下さらない理由があるでしょうか。

なのに、あまりにも多くの信者を名乗る人々が、信仰生活を自己顕示の手段と取り違え、他者を押しのけ、神をさえ押しのけて、自分が舞台の中央に立って脚光を浴びることだけを追い求めていることに、私は大いなる疑問を抱かざるを得ません。また、そのような人たちと同じ道を行きたいとも思わないのです。私たちの内側にキリストが形作られることの意味を、今一度、静まって考えてみたいと思います。
PR

ひとこと

神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)

ヴィオロンのブログ

最新記事

アーカイブ

ブログ内検索

カテゴリー