忍者ブログ

私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

自分の十字架を負うてわたしに従って来なさい


何度か書いて来たように、この邪悪で曲がった時代は、神がキリストの十字架において全てのアダムに対して下された滅びの宣告を否定しています。この時代は 神の知恵に逆らい、十字架を経ていないものは何一つとして永遠に至ることはないという事実を否定し、生まれながらの人の自己救済を打ちたてようとし、人を 神のようにまで(いや、神以上に)高め、祭り上げ、肉を神とすることを目的にしています。

この時代は、朽ちるものは朽ちないものを相続できないという事実そのものを否定し、人の肉が神の御前で徹底的に腐敗している事実を認めません。そうである がゆえに、この時代においては、罪の贖いとしての十字架についてはまだ語られることがあったとしても、キリストの十字架にこそ私たちのアダムの命、古き 人、肉に対する死の効力があること、神は「御子を、罪の肉の様で罪のためにつかわし、肉において罪を罰せられた」(ローマ8:3)こ と、主は私たち全てのアダムの肉を着て十字架に向かわれたこと、それゆえ、キリストの十字架の死と一つになることによって、私たちはアダムの命に死に、肉 に死に、自己に死に、この世に死に、キリストのよみがえりの命によって、全く新しい復活の命の領域に生かされるという事実については、あらゆる手段を尽く して沈黙を守ろうとしているのです。

さて、「罪」、「血潮」、「霊」、「肉」、「十字架」、これらのキーワードが、今、どのくらいクリスチャンの間で急速に失われているでしょうか? どれほど多くの人々が、自らの罪、特に単数形の罪、肉の腐敗、アダムの命の腐敗について語らなくなったでしょうか。

しかし、いずれにせよ、肉は神を喜ばせることはできません。肉に生きることは、神の御前に決して受け入れられることのない働きを積み上げることであり、い つかその成果は全て焼き尽くされて灰燼となる日が来ます。しかし、クリスチャンを名乗りながら、あまりにも多くの人たちが、肉とは何であるかを考えようともせず、肉の腐敗を照らし ていただくことを神に求めようともしないで生きていることには驚き、呆れるのです。

御言葉は次のように言います。

「まちがってはいけない、神は侮られるようなかたではない。人は自分のまいたものを、刈り取ることになる。 すなわち、自分の肉にまく者は、肉から滅びを刈り取り、霊にまく者は、霊から永遠のいのちを刈り取るであろう。」(ガラテヤ6:7-8)

「人の子は父の栄光のうちに、御使たちを従えて来るが、その時には、実際のおこないに応じて、それぞれに報いるであろう。」(マタイ16:27)

私たちは行いに応じて裁かれ、報いを得るのです。ですから、もしも主から評価される行いをしたいと願うならば、何が霊に属することで、何が肉であるのか を、まず御霊によって識別することを求めないわけにはいきません。もし両者を全く識別できないとすれば、一体、どうやって私たちは肉の行いを避け、神に喜 ばれることが何であるかをわきまえることができるのでしょうか。

「肉の働きは明白である。すなわち、不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、 党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、宴楽、および、そのたぐいである。わたしは以前も言ったように、今も前もって言っておく。このようなことを行う者は、 神の国をつぐことがない。」(ガラテヤ5:19-21)

さて、以上のような肉の目に見える悪しき働きについては、それが罪であり、神の憎まれるものであり、神の国の相続を失わせるものであることを、あえて否定する人はあまりいないでしょう。

しかし、もっと巧妙な肉の働きがあります。それは肉が善を行なえるということです。クリスチャンが「神のために」と言って捧げる熱心な礼拝、祈り、さまざまな良 き行い、友情、あるいは愛情のように見えるもの、自己犠牲的な奉仕など、人の目にもっともらしく見え、私たち自身も、とても良いものだと思い込んでいる、 さまざまの善き行いや思いの中に、実は、どれほど十字架につけられていない、生まれながらの自己、そして肉が含まれているか、この点について、私たちは主の光によって目を開かれる必要性があります。

肉は見栄を飾って自分を素晴らしく見せかけることができます。敬虔そうに見せかけることも、へりくだって、教養がありそうに、知的に見せかけることも可能です。色々な種類の肉があります。しかし、どのように上品そうな肉であっても、あるいは劣悪な肉であっても、神は肉を受け入れられません。
 
クリスチャンは、肉が徹底的に腐敗しているという事実を、自分自身で知ることはできません。ただ上よりの御霊の知恵によって、内側からはっきりと啓示していただけるよう神に願い求めることができるだけです。

主イエスは言われました、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを見出すであろう。たとい人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの特になろうか。」(マタイ16:24-26)

この御言葉は決して、人が自分の力で徹底的に自己犠牲したり、禁欲的苦行を実行することにより、キリストの命にあずかれると言っているのではありません。そのような外面的な努力が、人をキリストのよみがえりの命にもたらすのではありません。

この御言葉は、私たちが信仰によって、主イエスと共なる十字架において、主の死と同一化することにより、アダムの命に対して死に、その古き命の死の上に働くキリストのよみがえりの命によって、神に対して生かされる者となることを告げているのです。

以前、記事の中で疎外という問題について語りました。福音書には、己が魂を楽しませるために、蔵を建て、富を築いた金持ちのたとえがありますが、彼を待っ ていたのは、神の裁きとしての死だけでした。アダムの命に属するものは全て神から疎外されており、神に受け入れられません。私たちがアダムの命にあるもの を死守し、古き人を擁護し続けるならば、たとえ私たち自身は救われていたとしても、私たちの人生はキリストの香りを失うでしょう。そして、神との親しい交わりを失い、聖化とは何であるかを知ることもなく、キリストの似姿へ変えられることもなく、永遠に至る報いを失うでしょう。

罪の贖いとしての十字架はキリストによって永遠に完成されました。しかし、十字架にはその次なる段階としての、より深い働きが存在します。それは私たちが自分の十字架を取って主に従うという段階であり、この段階において、キリストの十字架は、私たちのアダムの命、肉、古き人を対処するという働きをなすので す。

私たちが上よりの光に照らされ、自分の内に取り扱われなければならない内在の罪があることを知り、肉の腐敗を知らされ、古き人の絶望性を知らされ、神に問題の解決を求めて叫ぶならば、キリストの十字架にこそ、その解決があることを、主はレーマとしての御言葉をお与え下さることにより、必ず明確に知らせて下さいます。キリストの十字架以外に、私たちの肉に、私たちの自己に、私たちの古き人に死の効力を及ぼせるものは何もありません。キリストの十字架以 外に、私たちの自己に死を経させ、神の新しいまことの命によって生かし得るものはありません。

「わたしは、神に生きるために、律法によって律法に死んだ。わたしはキリストと共に十字架につけられた。 生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。しかし、わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを 愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子の信仰によって、生きているのである。」(ガラテヤ2:19-20)

私たちの古き人が十字架で取り扱われることは、一度限りの経験でなく、生涯かけて受け取ることのできる経験です。神はそれを望んでおられます。なぜなら、それなしには、私たちは神に対して生きることができないからです。

もしも私たちが主の御前で朽ちるものを弁護しているなら、私たちには勝ち目がありません。神は十字架により、永遠に至るものと滅びに至るものとの境界を はっきりと定められたのです。ですから、今、主の御手の下にへりくだり、今、何が神に喜ばれるものであり、何がそうでないのかをわきまえ、信仰を 火によって精錬され、焼き尽くされるべきものを焼き尽くしていただきたいと願うのです。

もしそのような願いを全く持たない信者がいるならば、いずれその人たちは、神に敵する道を歩んで行かざるを得なくなるものと思います。

どうかこの地上にあるうちに、大祭司なる主イエスが、私たちの上で執刀医となって下さり、霊と魂とを切り分けて下さり、何が神に喜ばれるものであるかを、 知らせて下さいますように。どうか私たちの内でキリストに属するものと、アダムに属するものを、主イエスが御言葉の剣を持って明確に切り分けて下さいます ように。こうして、日々、自分の十字架を取って主に従うことの意味を、知ることができますように。

「すべて肉なる者よ、主の前に静まれ。主はその聖なるすみかから立ちあがられたからである。」(ゼカリヤ2:13)
PR

ひとこと

神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)

ヴィオロンのブログ

最新記事

アーカイブ

ブログ内検索

カテゴリー