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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

全地はあなたの前にあります


創世記第13章より
アブラムは妻とすべての持ち物を携え、エジプトを出て、ネゲブに上った。ロトも彼と共に上った。

アブラムは家畜と金銀に非常に富んでいた。彼はネゲブから旅路を進めてベテルに向かい、ベテルとアイの間の、さきに天幕を張った所に行った。すなわち彼が初めに築いた祭壇の所に行き、その所でアブラムは主の名を呼んだ。

アブラムと共に行ったロトも羊、牛および天幕を持っていた。その地は彼らをささえて共に住ませることができなかった。彼らの財産が多かったため、共に住め なかったのである。アブラムの家畜の牧者たちとロトの家畜の牧者たちの間に争いがあった。そのころカナンびととペリジびとがその地に住んでいた。

アブラムはロトに言った、「わたしたちは身内の者です。わたしとあなたの間にも、わたしの牧者たちとあなたの牧者たちの間にも争いがないようにしましょ う。全地はあなたの前にあるではありませんか。どうかわたしと別れてください。あなたが左に行けば私は右に行きます。あなたが右に行けばわたしは左に行き ましょう。」

ロトが目を上げてヨルダンの低地をあまねく見わたすと、主がソドムとゴモラを滅ぼされる前であったから、ゾアルまで主の園のように、またエジプトの地のように、すみずみまでよく潤っていた。そこでロトはヨルダンの低地をことごとく選びとって東に移った。

こうして彼らは互いに別れた。アブラムはカナンの地に住んだが、ロトは低地の町々に住み、天幕をソドムに移した。ソドムの人々はわるく、主に対して、はなはだしい罪びとであった。

ロトがアブラムに別れた後に、主はアブラムに言われた、「目をあげてあなたのいる所から北、南、東、西を見わたしなさい。すべてあなたが見わたす地は、永 久にあなたとあなたの子孫に与えます。わたしはあなたの子孫を地のちりのように多くします。もし人が地のちりを数えることができるなら、あなたの子孫も数 えられることができましょう。あなたは立って、その地をたてよこに行き巡りなさい。わたしはそれをあなたに与えます」。

アブラムは天幕を移してヘブロンにあるマムレのテレビンの木のかたわらに住み、その所で主に祭壇を築いた。


子供の頃からよく聞いたこの箇所を最近私はよく思い出すのです。

突然ですが、あなたに問いたいと思います。主の御前で、あなたはどれくらいへりくだった態度でいるでしょうか。私はあなたがどれくらい頻繁に主を礼拝して いるかを問うているのではありません。どれくらい熱心に礼拝に通っているかを問うているのではありません。どれだけ多くのものを主のために捧げ、どれだけ の時間を尽くして奉仕し、どんな風に兄弟姉妹と交わり、どんな賛美を歌い、どれほどの功績を積み重ねて来たかを問うているのではありません。失礼かも知れ ませんが、あなたがどれくらい主に対して、砕かれた、悔いた心を持っているかを尋ねているのです。

主の御前で、真に正しい人として立ちたいなら、私たちにはへりくだり、砕けた心を持つことが、どれほど重要でしょうか。もしその心がなければ、私たちには血潮も、十字架も必要なく、神の御前での私たちの礼拝は、成り立たないと言っても言いすぎではありません。

ルカによる福音書第18章には、「自分を義人だと自認して他人を見下げている人たち」(ルカ18:9)のたとえが登場します。

パリサイ人は次のように祈りました、「神よ、わたしはほかの人たちのような貪欲な者、不正な者、姦淫をする者ではなく、また、この取税人のような人間でもないことを感謝します。わたしは一週に二度断食しており、全収入の十分の一をささげています。」

それに対し、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともしないで、胸を打って言ったのです、「神様、罪人のわたしをおゆるしください」と。私たちはこの物語の結末を知っています。神に義とされたのは、行いの上では落ち度なく神を礼拝していた立派なパリサイ人ではなく、礼拝にさえ値しない自分を正直に認めて、神の御前に罪を悔いて告白した取税人でした。

詩篇の作者は言います、「神の受けられるいけにえは砕けた魂です。神よ、あなたは砕けた悔いた心をかろしめられません。」〔詩篇51:17)

私たちは御言葉を無視しないように注意しなければなりません。神は私たちの賛美よりも、祈りよりも、奉仕よりも、ささげ物よりも、他のどんなものよりも、 私たちの砕けた、悔いた心をお求めになっておられるのです。

砕けた、悔いた心とは何でしょうか。それは神の御前に自分は到底、立ちおおせることのできない 罪人であるという自覚を持ち、ただ神の憐みに満ちた贖いによって立たせていただき、神の御前で自己義認しないことです。

お尋ねしますが、あなたが神の御前で最後に心を痛めて、嘆き悲しんで、自分の罪を悔いたのは、一体、いつのことだったでしょうか。どのくらい長い間、あなたは神の御前に己が罪を照らされようともせず、己が恥を悔いることもしないで、自分は正しいという思い込みのもと、頑なに他人の罪ばかりを責め、周りにいるクリスチャンたちの非をあげつらい、不器用に生きる人々を嘲笑し、砕かれない心を持って、そのような哀れな人たちとは違って、自分は恵まれており、神に愛されている幸福な人間だと自己義認していたでしょう。

あなたはあまりにも当然のごとく自分には神の御国に入る権利があると思って、神を信じない人たちを哀れんでいますが、本当にそうでしょうか。もしかすると、あなたは御国を遮っているのではないでしょうか。
 
さて、話を戻しましょう、「全地はあなたの前にあります」、そう言われたとき、 ロトはおじアブラムの前で、ためらわず低地を選び取りました。彼には自分にとって有利な選択をするにあたり、おじへの遠慮はありませんでした。たとえ相手が年長の身内であっても、目上の人であっても、ロトはためらわずアブラムを押しのけて、自分の分を主張し、自分にとって有利な選択をためらわずに選んだのです。彼はそれを良心に鑑みて恥とは思いませんでした。そして多分、アブラムの性格をよく知っていたので、彼が自分の選択に異議を唱えることもないと知っていたのではないかと思います。

確かに、アブラム自身がロトに選択の自由を与えたのですから、ロトのこの選択は許容範囲内であり、罪と呼ぶほどのものではなかったかも知れません。しかし ながら、ロトのこの行為には、敏感な人であれば誰でも気づく厚かましさ、霊的鈍感さが含まれていました。彼はまずアブラムの方にこ そ、最初に選ぶ資格があることを考えませんでした。彼は何のためらいもなく、真っ先に自分の取り分を主張しました。そのことは、アブラムに対してだけでな く、神に対する彼のへりくだりも欠けていたことを示しています。

この世を生きるに当たり、ロトのように、自分にとって損がないように上手く立ち回り、他人の前で自分の取り分を明確に主張し、絶えず自分に有利な選択を重 ねて生きることは、あたかも美徳のように思われていることでしょう。それができる人がこの世では成功者とみなされ、賞賛を受けるのです。それにひきかえ、 アブラムのように、相手により良い方を与え、自分は不利な選択に甘んじる態度は、ともすれば臆病さや、不器用さ、女々しさ、弱々しさと考えられ、嘲笑の対象となるだけです。

ロトの前で自分の威厳を守るために、自分の取り分を先に主張しようとしなかったアブラムは、ともすれば、その行為によって自分の僕たちにも侮られる危険がありました。にも関わらず、彼はロトに完全な選択の自由を与えたのです。

なぜアブラムにはそのようなことが出来たのでしょうか。それは彼が主に対して全幅の信頼を置いていたからです。彼は事なかれ主義が原因で、ロトとの争いを 避けようとして、あえて甥に有利な選択をさせたのではありません。アブラムはロトの選択も含め、全てのことが主の御手の中にあることを信じていればこそ、 安心して、ロトに最大限の選択の自由を与えたのです。

それは、アブラムは、ロト以上に地上の宝から心が自由であったからです。神への信仰によって生きていた彼は、ロトの選択の如何によって、つまり、地上における所有物の状態によって、自分が脅かされたり、圧迫されるという不安を持たなかったのです。そして、ロトが何を選んでも、神はそれに劣ることのない最善の祝福を自分に与えて下さり、自分はただ主の最善を主の御手から受けるだけだと確信できたのです。
 
他方、ロトの選択は、彼がアブラムに比べ、地上のものにより心惹かれていることをはっきりと示しました。彼は地上の目に見える豊かさに誘われて、低地(天からより遠い場所)を選び取り、そして何よりも悪いことに、天幕をソドムに移しました。ロト自身は「義人」(Ⅱペテロ2:7)と 呼ばれていることから、ソドムやゴモラの住人のような悪人でなく、主を畏れる人であったことが分かりますが、それでも、彼の選択は、神のご計画に対する彼の無関心さ、霊的鈍感さをはっきりと示していたのです。

自分を喜ばせることを第一に考えて、何が神に喜ばれることであるかを第一にわきまえなかったがゆえに、 彼は地的なものに惹かれ、やがて地にあるものによってひどく心煩わされることになるのです。最終的には、自分が選び取った低地をすべて失ってしまいました。

従って、この世的な観点からすれば、ロトは最高の選択をしたように見えたかも知れませんが、霊的な秩序においては、彼はかえって(致命的な)損失をこうむり、そのことが、後にはっきりと明らかになったのです。ロトの選択が、彼と彼の家族に何をもたらしたかは、私たちの誰もが知っていることです。

ここで、それでは自分に不利な選択をすればそれがクリスチャンにとっての勝利なのかといったむなしい議論に陥らないようにしましょう。私たちはただ神の御前での自分の分をわきまえるべきなのです。たとえ全ての選択の自由が与えられていたとしても、何をすれば神が喜ばれるのか、何が永遠の報いを得ることなのか考えてみるべきなので す。

すべてのことは許されている。しかし、すべてのことが益になるわけではない。すべてのことは許されている。しかし、すべてのことが人の徳を高めるのではない。(Ⅰコリント10:23)

ですから、「全地はあなたの前にあります」と いうような提案を受けるとき、私たちは用心しなければなりません。それは私たちに対する霊的なテストかも知れないからです。目の前に豊かさがおとぎ話の絵巻物のように開かれるとき、まさに望んでいたものが差し出されるとき、恥をさらさないよう用心せねばなりません。同じような提案を、サタンが主イエスにしたからです。

次に悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華とを見せて、行った、「もしあなたが、ひれ伏してわたしを拝むなら、これらのものを皆あなたにあげましょう」。

するとイエスは彼に言われた、「サタンよ、退け。『主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ』と書いてある」。(マタイ4:8-10)


主イエスは全世界が目の前に置かれても、自分の取り分を何一つとして主張しませんでした。それは全てのものが神の所有であることを知っておられたからで す。誤解してはなりません。彼は無産階級の代表者として立っているのではありません。彼は全てのものを自分の主張によって得るのではなく、ただ神の御手から、御旨に従って受け取ることを望まれたのです。

神がサタンの提案する以上の栄光を彼に下さらないことがあるでしょうか? 神はすべての名にまさる名を彼に賜ろうとなさっておられたのです。

しかし、それはただ神の御前での徹底的なへりくだりを通してのみ得られる栄光でした。人としての弱さを身にまとい、神に対する死に至るまでの従順によってのみ得られる栄光でした。彼が自分からその栄光に手を伸ばしてはいけなかったのです。

キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむ なしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられ た。それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜った。それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あ らゆるものがひざをかがめ、また、あらゆる舌が、「イエス・キリストは主である」と告白して、栄光を父なる神に帰するためである。(ピリピ2:6-11)

これと同様に、アブラムはロトに対して自分を低くしてへりくだり、仕える姿勢を取ったのでした。地上においては臆病さや敗北とも見られかねない彼の姿勢は、神に喜ばれました。そこで、ロトが自分に有利なものをことごとく選んで立ち去って行ったその後に、主はアブラムを特別に祝福されたのです。アブラムは何も選びま せんでした。自分の取り分を主張しませんでした。にも関わらず、神は彼に言われたのです、見渡す限りの土地は、全て彼の所有として与えると。

このことは、地上における所有と、霊的な所有との二重の支配構造を示しています。地上における所有という点では、アダムが地を治めることに完全に失敗して 以来、人類には希望がなくなりました。人は地を治めるべく創造されたのに、罪のゆえに、かえって地は彼のために実を結ばなくなったのです。人々はむなしく 地上での所有権を争い、我勝ちに自己主張し、互いに押しのけあいますが、地を治めようとする人の努力は実を結びません。

ところが、神は霊的な秩序において、信仰によって、再び、人に地を治めさせることを計画されたのです。神の国の霊的な秩序は、この世の秩序に優先します。 神は人が御霊にあって、霊によって治める人となるよう計画されたのです。この世の秩序においては、早い者勝ちで、他者よりも声高に自己主張し、力強く要求した者がその権利を得るかも知れませんが、霊的な秩序においては、そのような自己主張はほとんど役に立ちません。

ただ信仰によって待ち望んで与えられた神の御言葉だけが成就するのです。アブラムの目の前に広がる豊かな土地は、ロトによって持ち去られ、彼の所有は何も残ってないかのようです。しかし、霊的な秩序においては、アブラムの己を低くした姿勢は神 に評価され、御言葉により、すべてが彼の所有として与えられたのです。そして神の御言葉は時至って必ず成就するのです。

アブラムの例は、人が主と共なる十字架を通してアダムの命に死に、キリストにあって真に地を治める新しい人となることの予表です。私たちは選ばなければなりません、日々のパンを得ることを最優先して、神の前で貪欲に自己主張して自分の取り分を選び取るのか。それとも、「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言葉によって生きるものである」(マタイ4:4)との信仰に立ち、地的な富と栄誉を退けてでも、神がまず御言葉をお与えくださるのを待つのでしょうか。
  
「自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを見いだすであろう。 たとい人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか。また、人はどんな代価を払って、その命を買いもどすことができようか。」(マタ イ16:25-26)

「あなたがたの知っているとおり、異邦人の支配者たちはその民を治め、また偉い人たちは、その民の上に権力をふるっている。あなたがたの間ではそうであっ てはならない。かえって、あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、僕とならねばならな い。それは、人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためであるのと、ちょうど同 じである。」(マタイ20:25-28)
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神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)

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