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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

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主に叫ぶ私の叫びがその耳に達しました


 
「わたしが低くされたとき、主はわたしを救われた。 」(詩篇116:6)
 
80代の祖父母にプレゼントを贈ると、早速、電話が返って来た。懐かしい声が郷愁を誘う。祖母の少女のように無邪気な笑い声。新しくしたばかりの快適な風呂で、祖父はゆっくりくつろいでいるようだった。いつまでこの声をこうして聞くことができるだろう。

子供時代、受話器越しに聞く祖父の声に、ふるさと懐かしさのあまり、何度、こっそり物陰で涙を流しただろうか。都会暮らしが嫌いで、夏休みに田舎に帰郷する度に、何度、ここに住みたいと憧れたか知れない。
 
だが、田舎への憧れは、いつもはかない夢のように終わり、短い帰郷の後には、より重く感じられる都会の現実が待ち受けていた。田舎は私に長い間、ユートピアのように見えていた。だが、本当のユートピアは、そこではなかった。
 
私たちは苦難に見舞われる時、今すぐに神の御業を見たいと願う。すぐに奇蹟が起こって欲しい、すぐに主とお会いして、窮地から助け出され、愛と慰めと平安 を得たい、すぐに生活が安定して欲しい、などと願う。そして、自分の落ち着かない心の状態や、平安からは程遠いような世の中の状況を見て、苦境に立ち向かおうと奮起したり、可能な限り、正しいクリスチャンであるかのように演技し、「正しい心の状態」を作り出 そうとする。

状況が悪い時、悪いままで、主に向かうことが、多くのクリスチャンにはできない。彼らは何とかして、自分がそれなりの満足できる正しい状態があるように装い、なければそれを作り出そうとする。時にあらゆる理屈を並べて、現実を美しく塗り替えながら。
 
しかし、私が主に出会うためには、長い、長い、待ち望みの期間が必要であった。主に出会うためには、なりふり構わずの信仰が必要だった。食卓のパンはもらえなくても良いから、せめて食卓から落ちるパン屑だけはいただきたい…、衣の裾に触れさせていただくだけで良いから…、お言葉をかけていただくだけで良い から…、自分が惨めで盲目で裸であることを嫌というほど知らされ、もうこれ以上、そのような状態に我慢はならないので、主に振り返っていただくまで、絶対にあきらめずに、主にすがり続け、祝福を与えて下さるまではここを去りませんと懇願し続けるほどの強い決意と信仰が必要であった。

それを信仰と呼ぶべきなのか、叫びと呼ぶべきなのか、分からない。そこには、とてもきれいごとでは済まされない、戦いがあるからだ。

そこには信仰者らしい美しい振る舞いもなければ、神に振り返っていただくに値するだけの立派な行動は、何もなかったように思う。

だが、神が必要としておられるのは、人が見て喜ぶ見てくれの良さではなく、何が何でも神に出会うまでは、絶対にあきらめないというほど、神以外のものに絶望し、なおかつ、神だけを待ち望む打ち砕かれた魂をなのである。

そういう魂を、主は放って置かれない。主が私に目を留められたその理由は、私の心が打ち砕かれていたこと、主のみを希望として、主に向かって叫んでいた、というただその一点だけであっただろうと思う。

神は、人の力が尽き果てて、自分の力では、もはやいかなる正しい状態も維持できなくなり、信仰さえなくなろうという限界状況で主に呼ばわるとき、すみやかに応答し、同情の手を差し伸べられる。

十字架が内に啓示されるためには、キリストと同じくらいのへりくだりがなければならないのである。主の御霊が上から臨むためには、キリストと同じくらい、砕かれた魂が必要なのである。そのために必要な状況を、主が用意される。人が神に出会うための道は、神ご自身が整えられる。

だが、主に出会う時、すべての状況が変えられる。それまでの疲れは癒され、悲しみは癒され、対立は解消され、まるで心に軟膏を塗ってもらうように、主の霊の中で、人は慰めを得、休みを 得る。

本当に主に出会うために、人はまず自分の限界に達しなければならないのである。

以来、私のユートピアは、地上のどこか気に入ったあれやこれやの場所ではなくなった。このような美しい自然に囲まれた、このように開放感ある場所に住めたら、きっとさぞかし幸福な人生が送れるだろう…といった浅はかな空想はなくなった。人にとっての故郷は、主の霊の中にしか存在しない。そして、私はそれが存在することを確かに見、知らされたのである。
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ひとこと

神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)

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