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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

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御父の愛


職場の同僚と帰り道のバスで話を咲かせ、お茶を楽しむ。主はさまざまな人々を送って、交流を補って下さる。年長者が適時に与えてくれる忠告、重要な事件に ついて、思いがけない時にやってくる打ち明け話…。パズルのピースが一つ一つ合わさるように、人々の眼差しを通して、主は私の人生に光を当ててくださる。 これは何と楽しいことだろう。

以下の記事で、ある出来事について述べたが、その話にはまだ続きがある。人を責めるのが大好きなギョウカイ人たちは、優しいクリスチャンのふりをしながら、そばにやって来て、他人が困っているときには指一本貸そうとせ ず、根掘り葉掘り噂話を聞き出し、さらに、無実にも関わらず苦しめられている人を見ても、その弁護のためには一言も述べようとしないのに、誰かを石打にするチャンスを得たと思うと、ここぞとばかりに殺到し、教師然と己の義を主張して、他人を罪定めしようとするのを楽しんでいるらしいが…(これがクリスチャンに偽装してカルト被害者活動に携わるネトウヨたちの主たる特徴である)、そのような人々には気の毒な話である。
 
上の出来事について振り返り、主に問うて見る時、主の私への答えは、いつも全く同じなのであった、「人間の思惑が人を義としたり、罪に定めたりするのではありません。私があなたを赦したのに、誰があなたを責めるのでしょうか」

「女よ、みんなはどこにいるか。あなたを罰する者はなかったのか」。
女は言った、「主よ、だれもございません」。
イエスは言われた、「わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように。」(ヨハネ8:10-11)


私は何度も、何度も、主の答えに耳を傾ける。主は私の砕かれた魂をご覧になって、こう言われる、「誰かあなたを罰した人がいましたか? 私 はあなたの砕かれた魂の悲鳴を聞きました。私はあなたが多くの無関係な人からも、絶えず誤解され、絶えず責められ、石を投げつけられているのを見ました。 あなたが全く助けのない、寄る辺ない状態に置かれるのを見ました。あなたがどれほど自分を責め、悔いたかは、私が知っています。しかし、私は言います、私の血潮があなたを義としているのです。行きなさい。あなたを罪に定められる人は誰もいません。あなたを責める人は、あなたではなく、私に敵対しているのです。」

「あなたは依然として無力かも知れません。あなたは依然として弱いかも知れません。あなたは依然として腐敗している、と自分では思うかも知れません。けれども、勇気を出し なさい。私の十字架の贖いは、ただあなたの複数形の罪のためだけでなく、あなたのアダムの命に存在する単数形の罪のためでもあるのです。私があなたを砕くのは、力はあなたの中になく、私こそ力であることを知らせるためです。私があなたを砕くのは、義はあなたの中にはなく、私こそあなたの義であることを知らせるため です。私が砕かれたあなたの中で、あなたの新しい命となり、力となり、あなたのために日々、神にとりなしながら、すべての必要を供給しているのです。あなたと私とはもはや一つであり、私の義があなたの義となり、私の命があなたの命になっているのです。なのに、私のとしなしを、あなたは無効と思うのですか? 私の判決を不服とするのですか? 私の命では不足だと言うのですか? いいですか、あなたを訴え続ける者は、あなたにではなく、私につまずいているのです…」

主の変わらない返事を、何度も、確かめているうちに、不思議な喜びと力が心に溢れる。主が血潮によって、私を義として下さり、主に身を避ける者はだれも罪に定められない。告発者がどれほど吠えたけっていても、キリストと共に死んで、神のうちに隠されて生きる特権を奪い去ることのできる者はいない。

一部、クリスチャンを名乗っている人たちが、いつまでも他者を責め続け、罪悪感によってがんじがらめに縛ろうとしていることは不思議な自己矛盾である。そういう人たちが、もしも十字架における罪の赦しをさえ、「手前勝手な自己弁護」として退け、自分で自分を赦さないなら、それはもはや福音の形をなさない、何か別の残酷な責苦に変わるだろう…。

彼らが宣べ伝えているものは一体何なのだろうか? 人を罪に定めることを、彼らは「福音」だと勘違いしているのだろうか? だからクルシチャンとして生き、彼らはどんなに長い間、信仰生活を送っても、罪の自覚が増し加わる だけで、神の赦しに決してたどりつかないのである。根本的に罪の問題をはき違えているからである。彼らはクルシチャンと言うより、むしろ、兄弟たちを訴える者に近い。自分自身をも訴え、仲間をも訴え、可能な限り、大勢の人たちを罪悪感の虜とするために、キリストが十字架で流された血潮の価値を、彼らは今日も否定し続けているのである。

「あなたはいけにえを好まれません。
 たといわたしが燔祭をささげても
 あなたは喜ばれないでしょう。
 神の受けられるいけにえは砕けた魂です。
 神よ、あなたは砕けた悔いた心をかろしめられません。」(詩篇51:16-17)

 
「だれがわれわれの聞いたことを信じ得たか。
 主の腕は、だれにあらわれたか。
 彼は主の前に若木のように、
 かわいた土から出る根のように育った。

 彼にはわれわれの見るべき姿がなく、威厳もなく、
 われわれの慕うべき美しさもない。
 彼は侮られて人に捨てられ、
 悲しみの人で、病を知っていた。

 また顔をおおって忌みきらわれる者のように、
 彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。

 まことに彼はわれわれの病を負い、
 われわれの悲しみをになった。
 しかるに、われわれは思った、
 彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。

 しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、
 われわれの不義のために砕かれたのだ。
 彼はみずから凝らし目をうけて、
 われわれに平安を与え、
 その打たれた傷によって、
 われわれはいやされたのだ・・・」(イザヤ53:1-5)

「今見よ、わたしこそは彼である。
 わたしのほかに神はない。
 わたしは殺し、また生かし、
 傷つけ、またいやす。
 わたしの手から救い出しうるものはない。」(申命記32:39)

「わたしは主であって、あなたをいやすものである。」(出エジプト15:26)

 
御子をさえ惜しまないで、私たちのために死に渡された方が、どうして御子のみならず、万物をも賜らないことがあろうか。この御言葉をじっくり読んでみるなら、人が自らの力によって、罪の償いをしようとすることの無意味さがよく分かる。

私のなすべきことは何も残っていない、ただ御言葉を信じて従う他には。主が私のあらゆる弱さのうちに働いて、すべてを成して下さるのだから。ただ主の御業を信じて、すべてを主に委ねれば良いだけなのである。

面白いことに、主が私を義とされるとき、主は私に今以上に強くなるように促されることはなく、弱いままで、主を信じて血潮の中に隠れよとおっしゃる。主は、決して私が自分で完全無欠な人間であるかのように振る舞い、大勢の人たちと不自然な和解のセレモニーをしたり、できるだけ人の目に正しい人間と映るように行動したりするようにはおっしゃらず、何事にも、私が自分の力で立ち向か わないようにと釘を刺される。

なぜなら、それは私が行うのでなく、主が代わって行なわれるからだ! 

このことを上手く言い表すのは難しい。

たとえば、年明けに帰郷した時、私は子として迎えられる幸いを改めて知った。相変わらず言葉少ない父が、黙って、私の好物を含めた、たくさんの食料を買い込んで来て、贅沢な料理を作ってくれる姿を見た。その時、今まで我が家に起こったすべての出来事を、父が黙って背負い、すべてを耐え、すべてを受け入れ、私の分の重荷も、いつもそばにいなくとも、共に担ってくれているのが分かった。
 
彼は何も言わない。甘ったるい会話はなく、過去の出来事についても誰も振り返らない。不自然に明るい慰めや励ましの言葉が飛び交うわけでもないが、言葉がなくとも、一人一人が歩んで来た道を、たとえつぶさに知らなくとも、みなが無言のうちに共有していることが分かる。

家人は完全に私を受け入れており、私は家族と一つであり、言葉を通してでなく、みながそれぞれの心を何とかして慰めようと考えているのである。そこには、私を責める者はおらず、もしも私を責める誰かが現われるなら、父はその人に向かっ て、こう答えるだろう、「この子を責めるなら、その前に私を責めなさい。私が最高責任者なのだから、もし責任を取らされるなら、私が取ろう。誰か私を責める勇気のある者がいるならばの話だが、この子を責めるのでなく、私に立ち向かって来なさい。」

父は物静かながら、相当に知的で、議論に長けた人で、洞察力も鋭い。怒る時には、火砕流のようなパワーがある。実務肌で現実的な人なので、物事についての分析力が並大抵でなく、私も議論で勝ったことがないくらいだから、今まで父と議論して勝った人は誰もいないのではないかと思われる。

私を未熟者とみなし、軽んじている人々も、私に対するのと全く同じような態度で、父を責めたり、嘲笑することはできないだろう。何しろ、父には私にはない威厳があり、実績があり、人生経験があるのだ。父は私よりもはるかに強いのである。

それでも父は被造物であるから、私をかばうには限界があるが、私のまことの父は、天におられる全知全能の神であり、この宇宙の時空間を含め、万物を造られた全ての創造主なる神なのだ。

この神が、全ての父と呼ばれる者の父として、私を子とみなして、かばわれるのだ。神は御子を地上に送って、私たちの負うべき罪の責任を、身代わりに担わされた。神はそれほどに私たちが罪に定められ、死に定められることを望まれず、むしろ、ご自分が私たちの代わりに罰せられ、罪を負わされて、十字架にかかられることを望まれたのである。

だから、神は今日も信じる者たちすべてに向かってこう言っておられるのだ。
 
「私が創造主である。私が全ての最高責任者である。あなたは私が造った被造物である。それでも、私は被造物に過ぎないあなたの代わりに責めを負うために、独り子を送 り、十字架につけて罰した。この十字架と、流された血潮と、聖霊が、私があなたをかばい、あなたを赦し、あなたを子として受け入れたことの証しである。この十字架を通して、あなたは罪に対して死に、義に対して、神に対して生きる者とされ、私の子となったのである。あなたが子である限り、私があなたを永遠に守る。あなたがどんな苦しみにあっても、どんないわれない非難をこうむっても、私があなたを守る。私があなたの潔白の力強い証人であり、永久にあなたの保護者であり、父である。私を信じなさい。さあ、立ち上がって、勇敢に生きなさい。」

これが神の強さのなせるわざである。神はその強さを持って、私たちの無力を覆って下さり、私たちの弱さの内側から、強さとして働かれるのだ。

御父に守られること、それは子供であるからこそ、享受できる特権ではないか? 弱さを知っているからこそ、守られることの特権が分かるのではないだろうか。もしも私たちが強く、完璧で、自分の限界を知らず、腐敗などとは無縁で、強くされる必要もないほど、完全であったならば、いや、もしも私が自分で強くなり、義となることが できると考え、神に向かって守りを叫び求める必要もなかったなら、私は御父に守られる子どもではない。天の父なる神に庇護され、かくまわれる幸いを生きて知ることもなかったろう。
 
主に明け渡すとは、多くの人々が考えているように、大仰な罪の告白を人前で繰り返し、「私を主に明け渡します」と幾度も涙ながらに叫び(本当に明け渡しているなら、そのような告白はむしろ不要である)、派手なデモンストレー ションを伴う、あまたの告白や儀式を通して、いかにも自分を主に明け渡したかのように、いかにも自分にはもはや悩みなく、いかにも自分が義人であるかのように見せかけようと骨折ることとは違う。

神は私たちをさまざまな逆説的な状況、時に耐え難い状況にも遭遇させ、その困難の只中で、私たちが無であることを知らせ、主が力となって下さることを私たちに学せる。神は私たちから自己安堵という栄光を奪い去り、自分で自分を義とし、かばおうとする全ての努力を無効化し、徹底的な無力の中に留め置いて、 ただ主だけを頼りとし、見上げることを学ばせる。

そして、私たちが自分で自分に対する責任を果たそうとする思いあがりを捨てさせ、私たちが自分の弱さと限界と重荷の中で、呻きながらでも、自分によりすがることをやめて、ただを仰ぎ、ただの栄光を待ち望むようになる時、が私たちの保護者として、自ら力強く立ち上がられるのである。
 
神は全てのことをご自分でなさりたいのである。私たち自身から出た努力は不要である、だが、そうでありながら、不思議なことに、神は私たちと協力して、私たちの意志を尊重して、私たちと共に事を運ばれる。私たちはただかばわれ、かくまわれるだけの弱い子供ではなく、神のパートナーであり、僕でありながら同時にキリストと共なる共同相続人であり、主イエスは私たちを友と呼ばれたのである。これは極めて不思議なことである。

この不思議は人間に対する神の愛の測り知れない深さを示している。

「もし、神がわたしたちの味方であるなら、だれがわたしたちに敵し得ようか。ご自身の御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡されたかたが、どうして、御子のみならず万物をも賜らないことがあろうか。

だれが、神の選ばれた者たちを訴えるのか。神は彼らを義とされるのである。だれが、わたしたちを罪に定めるのか。キリスト・イエスは、死んで、否、よみがえって、神の右に座し、また、わたしたちのためにとりなして下さるのである。」(ローマ8:31-34)

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ひとこと

神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)

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