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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

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キリストの身体の一つについての覚書


「一粒の麦もし地に落ちて死なずば、ただ一つにてあらん、
 死なば多くの実を結ぶべし」(ヨハネ12:24)


「愛する人たち。自分で復讐してはいけません。
神の怒りに任せなさい。
それは、こう書いてあるからです。
「復讐はわたしのすることである。
わたしが報いをする、と主は言われる。」
もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。
渇いたなら、飲ませなさい。
そうすることによって、
あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです。
悪に負けてはいけません。
かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。」(ローマ12:19-21)

人の自己が地に落ちて死ななければ、
永遠に至る実は決して結ばれない。
…そのことをあらゆる機会に
確かめさせてもらっています。

しかし、地に落ちるなら、そこから死を補って余りある多くの実が結ばれるのです。

この死とは、肉体の死ではなく、人の古き自己全体に適用される十字架における霊的な死です。

人には数々の場面で、主張できる「自己の正当性」があります。

立派な教育を得た人間が、物事の見方、人間洞察力に関して、
誇ろうと思うなら、いくらでも、まことしやかな話を作り上げられるでしょう。

理不尽な事件に出遭った時には、もちろんのこと、人の手には
自分を守るために作り上げた「立派な正論」があるでしょう。

情に訴えて、自分を悲劇の主人公のようにみせかけ、
他者の同情を引く技術に長けた人たちも大勢います。
  
物事が悪くなった原因を自分以外のところに見つけることにおいて、
 人の頭脳はまさに天才的な業を持ちあわせています。

そして、カルト被害者救済活動を率いる人々が、絶え間なく、
自分の失敗を他人に転嫁しては、「自分は被害者」だと居直る場面を
私は幾度も見せられて来ました。

こういう人々は、他人の中にある「私は被害者だ!憐れまれて当然だ!」
という感情を刺激し、不満を軸にして人々を結集させ、
悪をやっつける正義の味方のように行動しようとします。

彼らは常に他者を懺悔させることに喜びを見いだし、
その一方で、自分だけは決して責められることはないと思っているのです。

しかしながら、よくよく確かめてみると、こういう人々は昔からずっと
他者にばかり濡れ衣を着せ、責任転嫁を繰り返しながら、
卑劣で自己本位な活動を繰り広げて来たことが分かります。

人を貶め、懺悔させることに、彼らは悦楽を見いだしているのです。

そういう人々が、正義の仮面をつけて行動していることの忌まわしさを
私たちはよく考えてみなければなりません。

そして、どんなに義憤に駆られる瞬間があっても、決して
彼らの行動にならわないようにする必要があります。

なぜなら、以下のような人々は、自分自身が神のような裁き主だと思い込み、
もはや自分自身が神の御前に罪人であるという事実すら、忘れてしまっているからです。

大いなるバビロンからの脱却 反キリストの原則の明確な発展 
――アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の非聖書的で危険な活動――
~村上密牧師と津村牧師による鳴尾教会人事の私物化問題について~

罪と罰――カルト被害者救済活動はなぜ聖書に反するのか
――ブログ「随想 吉祥寺の森から」の著者 杉本徳久氏による
多くのクリスチャンに対する聖書と法に基づかない虚偽の告発と
 カルト被害者救済活動が持つ反聖書的な意義についての考察――

  
主の御前で、人の「正当性」ほど、役に立たないものはありません。
どんなに人が自分を振り返って、仮になんらの罪を見出せなかったとしても、
(そのようなことは極めてまれだと言わざるを得ませんが、)
それでも、主は人を懲らしめられる時があるのです。

それは、人が神の愛する子であり、神が父としてその人を訓練なさるからです。

そういう時、人に求められているのは、主の懲らしめの御手の下に
徹底的に従順にへりくだること。
そして忍耐を持って、ただ主が与えて下さる解決だけを待ち望むこと。
どんなに時間がかかり、どんなに苦しんだとしてもです。

ところが、性急な人の自己にはそれができません。
 人の自我は自分が蔑まれたり、苦しめられることに耐えられないのです。
だから、人は主の御手の下から何とかして逃げようともがきます。

それは仕方のないことであり、人の本性が現れているだけです。 

けれども、自己を対処なさるのは主の側からのわざであり、
もし人がそれに同意さえするならば、主はみわざを完成されます。

もがいても、もがいても、主の御手からは逃れられないので、
何の解決もなく、やがて人の自己の力尽きる時が来ます。
 
その時、人は主の御前で「降参!」を叫びます。
そして、それまで身を守るために作り出してきた
「あれやこれやの正論」を捨て去ります。

そして「私は正しい」と思ってきた考えを、放棄し、
 主の御前に、「私も罪人の一人です!」と叫ぶのです。

これが「塵と灰の中で悔い改めます」という義人ヨブの叫びです。
 
しかし、ヨブが義人と呼ばれているように、
そうして神の御前に自己の正当性を放棄したことによって、
神はその人を見捨てられるのでしょうか?

その人の苦しみや弱さを忘れ、その人を虐げた悪者を忘れられるでしょうか?

不正義に加担して、弱い者が圧迫され、罪を着せられることを黙って容認されるのでしょうか?

いいえ、そんなことは決してありません。

むしろ、その時、その人の義は、自己の義から神の義に変わるのです。

自己の義はどんなに振りかざしても意味のないものですが、
 これを十字架につけた瞬間から、その人は神の義を帯びるようになるので、
その人の置かれている戦いが、人の手から、神の御手に移行するのです。

主からの圧倒的な愛と憐れみが人に注がれます。

人はもはや自分自身の手で敵に手を下そうとはしません。
しかしながら、敵に対しては、神自らが容赦のない報いを宣告されます。
神は侮られるような方ではないからです。

人がもし御言葉に服するならば、神がその人の正当性を証明なさるのです。

神はご自分だけを頼って御もとに身を寄せた者を決して見捨てられることのない方です。
 
神は「復讐するのは私である。だから、私に任せない」と言われるのです。
  
そこで、神が報復して下さるためにも、人は自己の正義をいったん、手放す必要があるのです。
 
カルト被害者救済活動に関わる人々には、この十字架の死を通るという過程がありません。
だから、彼らの主張は、人間的な観点から見て、
どれほど正しく見える場合にも、 決して神が擁護して下さることはないのです。

そこで、結局、彼らの主張は、混乱と争いを生むだけに終わります。

しかしながら、筆者が自分の人生を振り返っても分かることは、
もし筆者自身が、自己の義を手放し、
キリストの十字架の死に身を置くならば、
神は筆者が侮られるままにしておかれることはなく、

筆者に対して不当に立ち向かって来たすべての人間に対して、明らかに、
神ご自身が報いをもたらされて来たということです。

注意しなければならないのは、自己の義を放棄するとは、
御言葉の正当性まで主張するのをやめるということではありません。
自分が通って来た出来事の全てを忘れ去り、なかったこととして
闇に葬るということとも違います。

ただ「自分が被害を受けたから」、「自分が傷つけられたから」、
「自分が貶められたから」という自分の利益を中心とした物事の主張の仕方をやめるということです。

そして、神が物事をどうご覧になるのかを聖書的な観点を頼りに探り出し、
御言葉に立脚して、神の権益の観点から物事の是非を訴える方法に切り替えるということです。

要するに、御言葉を根拠に、神に御言葉の正しさを、ご自身の正当性を証明して下さるように求めるのです。

まあ言えば、筆者の主張を完全に御言葉の中に入れ込んでしまうのです。
自分を神の中に隠し、御言葉を根拠に、神が守って下さることを要求するのです。
 
神の報復が現されるまでには少しばかり時間がかかります。
 
それは筆者自身とは関係ないところで、あたかも偶然のような形で
その人たちの人生に報いとして降りかかります。

例をあげましょうか?

筆者の貧しさをあざ笑った人は、自分の家を失いました。
筆者に対して、自分の役割を勝ち誇った人は、病に倒れ、死にました。
筆者に対して異端者の濡れ衣を着せた人は、自分の職業的な高い地位を失い、
かつ、自分を神として、自ら異端の伝道者となりました。
そのようなことになったのは、神がその人に惑わす霊を送られたからだとしか考えられません。
神を敵に回した人には、学歴も教養も社会的地位も、何も守りの盾となるものはないのです。

他に、筆者がある活動の機会を望んでいた時に、その機会を与えようとしなかった人は、
自分自身が活動家として全く役に立たなくなりました。
自らの結婚を人前で堂々と誇っていた人々が子供を失うということもありました。

こうしたことは、すべて筆者とは関係ないところで起きていることで、
筆者が彼らと直接の関わりを全く持っていない時期に起き、
しかも、風の便りのように他の信者を通じてもたらされるニュースでした。
 
筆者は他人の不幸を聞いて喜ぶことは決してしませんが、
しかしながら、このようなニュースを聞くとき、
「ああ、やはりそうなったか」という
思いを禁じ得ませんでした。

それは、聖書が言う通り、神は驕り高ぶる者を遠くから見分けられ、へりくだる者に恵みを授けられるからです。高ぶりというのは、その本人には分からないが、周りの人々には遠くからでもよく分かるのです。

もし人が主以外のものを誇るなら、主は多くの場合、それを取り上げられるか、もしくは、壊されるという結果になります。それが人の交わりであろうと、自分の財産であろうと、欲望であろうと、キリスト以外のものを誇っている人々は、次の瞬間、その誇りとするものを失うことになります。
 
神の御前で慎ましくへりくだって自己主張をしなかったエクレシアに対し、
己の栄華を勝ち誇ったバビロンに対する滅びの宣告を思い出さないわけにはいきません。

いずれにしても、
筆者を呪って無傷で済んだ人間はおらず、
筆者を陥れて、自分が凋落しなかった人もおらず、
筆者を嘲笑した人間には、別の方面からの嘲笑が降りかかったのです。

その人々は、筆者を踏みつけにしたとき、筆者があまりにも弱く見えたので、
自分たちは余裕で勝ったのだと高笑いしていたものと思います。
筆者が抵抗しなかったのは、神が働かれる余地を作るための
故意の行動であることが見抜けなかったのです。

そこで、少し間を置いて、主が彼らに報いを下されました。
それは彼らの自滅、凋落、異端化、大切なものを失うこと、などなどの形で証明されて行きました。

多分、そのことはこれからも不思議な方法でずっと証明されて行くでしょう。

最近も、筆者は自分で告発しないために、キリスト教界で起きたある事件に
言及するのをやめましたが、
それを見て、これは筆者が負けを認めたのだ、牧師制度に譲歩したのだ、
キリスト教界の方がやはり正しかったのだ、と考えて喜び、
あざ笑っている人々がいるとすれば、

そのような人々は、当該人物にこれから起きる末路をよくよく観察して下さい。
今までそのようなケースで無事に終わった人は誰一人ありませんので。

こうしたことは主の驚くべきみわざで、筆者の意志を超えたところで、
神がなさっているとしか思われないことの連続です。
 
上記に挙げたカルト被害者救済活動の二人の支持者もそうですが、
初期の頃には、筆者の意見に賛同せず、彼らの活動を支持していた人々は大勢いましたが、
今や、彼らの支持者はクリスチャンの間にはほぼいなくなりました。
すでに信仰を捨てた者だけが、この人々の活動を支持しています。
 
自己の正義を主張するのか、神の義の中に隠れるのか。
それによって人の命運は大きく変わります。

多くの人々は、神の復讐などない、自分が立ち上がらなければ、
誰が擁護してくれるのか、と思っていますが、それは間違いです。

筆者自身は、この世の手練手管に長けているわけでもなく、
自分の周りに人数を集めてこれを組織することによって
自己防衛をはかろうとしたこともありません。

そういう人間が自分で自分を守るのは困難だと人は思うことでしょう。
しかし、主が絶えず私を守り、すべての危難から救い出し、
私に対抗する人に、直接、報いを注いで下さったのです。

権勢によらず、能力によらず、神の霊だけに頼って
物事を成していく時、人にどんな力があるのかないのか、
といったことは何の障害にもならないのです。

ですから、 自分で復讐するよりも、神の復讐に任せるのが、
一番、安全な道です。
  
神が報復して下さるために、あえて十字架の死にとどまって、
神の復活の力がそこから輝き出るのを待つべきなのです。

その時、失ったものをはるかに超える価値あるものを、
必ず、神は虐げられ、蔑まれた人のために用意して下さいます。
  
十字架の死は復活の前提なのであって、単なる死として無駄に終わることはありません。

神の義が人の義を上回らないこともありません。

そのことは、これまでの経験からほぼ確実に言えます。
  
クリスチャンを罪に定め、人を自分の前に懺悔させては
それを悦楽として生きる人々に与しないことです。
そのような呪われた所業をずっと繰り返していると、
いつか必ず、その人は自分が足元に跪かせた人間よりも、
もっとひどく決定的に自尊心を傷つけられる形で、
大勢の人々の前でさらし者とされ、嘲笑されながら、
ハマンのように絞首台にかけられることになるでしょう。

絞首台に吊るされたのは、モルデカイではなく、大臣ハマンだったのです。
これが実現するために必要だったのが、王妃エステルがキリストと共なる十字架の死に赴くことでした。彼女は神の御言葉の正当性を主張するためならば、自分の死をも厭わなかったのです。これは信者のキリスト共なる十字架の死の予表です。

神はこのような人々の信仰を喜んで下さいます。
 
神はご自分の民が誰であるかを知っておられ、これを瞳のように守られるのであって、主の民を踏みつけにした悪党を放置なさることはありません。異端者への裁きも昔から滞ることなく行われています。
 
筆者は、自己の義に基づいて、クリスチャンに濡れ衣を着せようと
訴え続けて来た人々に、神がどういう末路を用意されるのか、
非常に興味深く見守っています。
これらの人々の人生の末路をよく目を開いて見て、学ぶことです。
これまで神に敵対して、人生が無事に済んだ人は誰もいないのです。
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神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)

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