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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

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ミデヤンの地で…

モーセはイスラエルの民に生まれた男子に皆殺しの王命が出たとき、まだ赤ん坊だったが、エジプトの王の娘に拾われて九死に一生を得、王子として育てられ、成長してから、自分の本当の出自を知った。だが、同胞がエジプト人に虐げられているのを見て、解放しようとしたところ、かえって殺人者の汚名を着せられてしまった。

モーセはファラオに追われる身となり、自分の無力を知って、恐れ、逃亡した。そして、再び主によって、民の解放のために呼び出されるまで、ミデヤンの地で名もない市民として、知られざる平和で穏やかな生活を送った。

おそらく、家族を慈しみ、家畜を飼い、使用人を養い、財産を管理したことであろう。だが、その間の生活は、モーセの人生において、ほとんど記録もされておらず、それほど重要な意味を持っていたとは言えない。

モーセがミデヤンの地で何を考えていたのかは分からない。彼はエジプト人を殺し、同胞からその罪を非難された嫌な記憶を消し、自分自身から逃れようとしていたのかも知れない。あるいは、ファラオに立ち向かう力のない自分を恥じていたかも知れないし、追手を恐れていたのかも知れない。あるいは、エジプトの王家で育てられたのに、正義感に駆られて、イスラエルの同胞の味方になろうとした自分の浅はかさを恥じて、忘れようとしていたのかも知れない。

いずれにしても、ミデヤンの地で暮らしていた時のモーセの心境は不明だが、彼は自分に与えられたミッションそのものを忘れ去り、そこから逃れようとしていたのではないかと思われる。神は彼の心の準備が整うまでずっと待たれた。

主の軍隊に徴兵されたという事実は、信者の生涯において変わらない。神の召しは決して変わらない。それは私たち人間側からの決意ではないからだ。だが、そうは言っても、私たちの側では、常にそのミッションに対して準備が出来ているわけではなく、モーセがファラオの追手を恐れて逃げたように、あるいは預言者エリヤがイゼベルの追及を逃れて逃亡したように、あるいは預言者ヨナがニネベに罪を宣告するという召しから逃げたように、信者が神の与えられた召しの重さから逃げようとすることがある。

神はそんな時、決して強制はされないが、私たちが再びその召しに戻る準備が整うまで、根気強く待たれる。時に説得し、時に励まし、様子を伺われる。神は、それが決して人間の意志によって始められた戦いではなく、たとえ信者が逃亡したとしても、神が必ず信者を引き戻し、最終的に御旨を成就されるのだということを知らされるのである。

筆者の人生にも、度々、この「ミデヤン生活」の時期が現れた。

 以前、この記事に筆者は、就職面接の履歴書について書いていたようである。だが、それはミデヤンの地で、筆者が主の召しから逃れ、世の仕事に志願するために書いていた履歴書を指している。その当時、このブログの読者は、筆者がモーセのように、大胆に主に召され、何か大きなことを成し遂げるのではないかと期待していたと思うが、筆者はその期待には応えず、かえって世の中でも相当に低いとみなされている仕事に志願し、主の召しについては他の兄弟姉妹にバトンを預けた。

そんなことになったのも、当時のネット上で起きたバッシングの影響が大きかった。その事件は、それまで全生涯を主に捧げ、神の国の働き人となるという、筆者が固めていた決意に、大いに水を差したのである。ネット上のバッシングだけならば別にどうということもなかったかも知れないが、それとほぼ同時期に、当時、親しく交わっていた信者たちから、いわれなく誤解され、排除され、霊的な挟み撃ちに遭ったことが、筆者に大変な衝撃を与えた。

その頃の筆者は未熟で、影響されやすい、単純な人間であった。長い間、筆者は羊のような性格で、自分を未熟者と考えていた。平素は穏やかであるが、穏やかすぎるために、戦闘意欲に欠け、かつ、戦いの方法を知らなかった。敏感で、繊細で、感受性が強く、予想外の出来事が起きると、とにかく逃亡し、長い間、物陰に隠れてただ平穏が戻るのを待った。さらに、兄弟姉妹に裏切られると、少なくとも、一年間くらいは、その事件のショックの余韻を引きずっていたことであろう。

しかしながら、神は筆者よりもはるかに根気強い方であり、どんな信者の場合でも、信者が強くなるまで、あきらめることなく、根気強く訓練されるのである。恥じる必要はない。どんな信者も、初めから強力な戦士ではあり得ず、初戦からして勝利をおさめた者はほとんどいないであろう。コンピューター・ゲームでも、敵との初戦で勝てる人間がまずいないことを思うべきである。

だが、訓練されているうちに、信者は戦い方を会得し、強くなって行くのである。神は、筆者がいつまでも羊のままでいることを願わず、獅子のような羊になるようにと、似たような事件を二度、三度、引き起こすことによって、何が起きているのかを、否応なしに理解せざるを得ない状況を作り出された。そして、これは筆者一人の人生に関わる出来事ではなく、主の権益がかかっている、信者が全力で立ち向かわなければならない霊的な戦いであり、そこでの勝利には永遠の価値があるのだ、ということを知らされたのである。

そこで、筆者は、それまでのように、妨害が起きて来たからといって、そそくさと退却するという姿勢を捨てた。そして、今まで不意に起きたように見えた事件に何一つ偶然はなく、その背後には暗闇の勢力が故意に信者にしかけた妨害が大いにあり、それ自体が攻撃であったということを理解したのである。

何のための攻撃か? 信者を天的な高さから引きずりおろし、御霊による命によってではなく、天然の命によって歩ませるための攻撃である。我々を信仰ではなく、常識に従って、この世の基準に従って歩ませるための妨害である。

「キリストだけに頼り、信仰だけによりすがって歩むなど、馬鹿げたことですよ。あなたはあまりにも大それた夢を見ているんです。あなたは自分の人間としての分を超えて、高慢になっており、ありもしない戯言を信じているだけです。もっと周りを見てみなさい。特に、周りの人間たちの思惑をもっと気にしなさい。あなたはあまりにもマイペースで、自分のことしか考えていません。誰がそんな風に行動していますか? もっと社会に嫌われないように、人に誤解されないように、信者たちから理解してもらえ、生意気な人間とみなされないように、周囲に波風立てないように、人々の仲間として、礼儀正しく生きなさい・・・」
 
そんな風に、世間の「常識」や「道徳」を巧みに盾にとって、そこから外れないように生きることを是とする価値観そのものが罠なのである。悪魔とその軍勢は、信者が決して神の御業が成就することを願わず、キリストの復活の命が生きて現されることを信じず、むしろ、この世の常識的な価値観の中だけに閉じ込められて、束縛の中で一生を送るようそそのかして来る。

しかも、その攻撃が、多くの場合、世人だけからではなく、「兄弟姉妹」を名乗っている人々からもやって来るのだとは、当時の筆者は、十分には理解していなかった。
 
 暗闇の勢力からの攻撃は、一つの方向だけからやって来ることは稀である。時期を同じくして、二方向以上からやって来るのが常であり、それは表面的には全くつながりのないように思われる異なる集団や人々を通してであることが多い。特に、信者を精神的に混乱させ、袋小路に追い詰めるために、暗闇の勢力は信者のそば近くに裏切り要員を前もって準備しておき、決定的瞬間に、あからさまに敵と分かる勢力からの攻撃と同時に、味方による背後からの裏切りという挟み撃ちに遭わせて苦しめるのが常套手段なのである。

それはちょうど主イエスを殺そうとかねてより敵意を燃やしていたユダヤ人たちと、十字架の直前まで主イエスのそばにいて弟子として仕えていたユダの二方向から、主イエスに対する攻撃が行われたのと同じである。信者に対して暗闇の勢力が何かを仕かける時には、あかたさまな敵対勢力による真正面からの攻撃と、背後から来る身内の裏切りという二種類が同時に起きるのは全く稀でない、このことは覚悟しておいた方が良い。

それが分かってから、筆者は、身内のように親しくしていた「信者」たちから、突然に悪口を言いふらされたり、いわれなく非難され、排除されたり、決定的な瞬間に、密告や裏切りを知らされたり、予期せぬ反応を起されても、あまり動じなくなった。そういう異常な出来事は、望ましいことではないにせよ、筆者にとって、想定内でしかなくなったのである。
 
少なくとも、霊的な戦いを戦い抜くためには、敵の卑劣な作戦を知り抜いていることは、どうしても必要である。敵の悪しき攻撃の意図を予め見抜くことと、御言葉によってその成就を妨げ、攻撃を退けることは、悪しき策略にはまらないために必要である。

だから、信者はいつまでも善良でお人好しで臆病な羊のような人間であってはならず、神に召され、悪魔の軍隊と対峙する軍隊の中に置かれた限りにおいては、悪魔の卑劣さについても、学習せねばならず、その卑劣な策略に全く無知であることはできないのである。

そんなわけで、筆者は身内のような信者たちからの評価も、世人の態度にも、一喜一憂させられることがなくなり、誰かの突然の裏切りに衝撃を受けたり、人の癇癪を恐れて逃亡するということもなくなり、そもそも人の歓心を買うために努力するということがなくなった。

わざわざ波風を起こして事を荒立てる必要はないが、世と同調して歩むことが、信者にはもとより不可能なのだから、世からの理解を乞うてはいけないし、それを失ったからとて嘆いてもいけないということが十分に理解できたのである。
 
さて、筆者のミデヤン生活はそろそろ完全な終わりに近づいているが、ミデヤン生活の間に、筆者の履歴書には、羊飼いの職歴だけが長くなった。むろん、これは比喩である。

さて、一般に履歴書というのは、この世の人々に向けて書くものであるが、本当は履歴書には二種類あって、世人に宛てた目に見える履歴書と、神に宛てた霊的な見えない履歴書の二通があり、重要なのは後者、つまり、神に対する履歴書である。

神の履歴書には、地上的なわざとらしい職歴や、輝かしい学歴の羅列など一切なく、ただこう書いてあるだけだ、

「権勢によらず、能力によらず、わが霊によって」。

そして、血潮による署名と、御霊の証印というスタンプが押してある。この世の人々を説得するためのいかなる修辞もそこには存在せず、ただ神の霊的な事実が単純に記してあるだけだ。それが、筆者を含め、信者たちの本当の履歴書の内容なのである。

この履歴書があれば、恐れることは何もない。時代の趨勢がどうあろうと、世人の思惑がどうあろうとも、ミデヤン、エジプトにどんな深刻な不況や、飢饉が訪れようと、あるいは戦いが起こり、ファラオの軍隊の追手が来て、信者がお尋ね者にされようとも、この神の履歴書(身分証明書)は永久にものを言って、信者の潔白を証明し、かつ安全のうちにかくまうのである。

それだけではない、その署名と証印によって、信者はどんなことでも神に願って良い、主イエスの御名によって求めなさい、と言われている。

主が私の牧者であって、私には乏しいことは何もない。
主は私を緑の牧場に伏させ、憩いの水際に伴われる・・・。

生きる限り、恵みと慈しみが私を追う。
私の魂は生きる限り、主を誉めたたえる。

これは筆者の人生、あるいは、一人や二人の信者の人生の解放を意味するだけではない。主の民全体の解放と大いに関係があることだ。

モーセの召しは、ヘブライ人全体のためのものであった。モーセはミデヤンの地で羊を飼い、そこに骨をうずめる覚悟をしていたかも知れない。自分はこのまま忘れ去られ、エジプトの王子として育てられた過去などなかったかのように、へブル人の解放のために立ち上がったことなどなかったかのように、普通の人として死ぬのだと考えていたかも知れない。だが、彼のミッションは消し去られることなく、彼は信者全体の代表として立たされたのである。

モーセの心の準備がどのようにして整ったのかは分からないが、彼がもうかつての「言葉にもわざにも力がある」勇者のような若者だったとは誰にも見分けられなくなった頃、神がモーセに近づいて来られた。そして、勇気を持って立ち上がり、あなたの召しを果たしなさい、と言われたのである。

燃える柴は、私たちの前に輝いている。それは燃えているのに、燃え尽きない、御霊の炎である。私たちが最初の主の召しを受けて、それからどれくらいの時間が経過し、その間に、世の情勢がどれくらい絶望度を増して、私たちがどのくらい無力になったかは関係ない。

2009年8月30日の政権交代は今やはるか昔、年越し派遣村に批判が殺到していたのもはるか昔、今や不法にも搾取にも誰も異議を唱えなくなり、アハブ王がイゼベルと共に王座に就いて勝ち誇っている。腐敗が至るところに横行し、占い師が国を動かし、真実も、正義も、誠実さも曲げられて、誰も尊ばなくなった。もともと悪魔の支配するこの世であったとはいっても、随分、絶望度が増したものである。キリスト教徒は嘲られ、中傷されて、世の片隅に追いやられ、真理の証は損なわれ、今や聖徒らに対する迫害の刃がこっそり研がれている。
 
このような時だからこそ、虐げられている民のうめきは神の耳に届いているのだと筆者は信じている。神はこの状況に対して、答えを持っておられないような方ではない。何よりも、悲惨な状態に置かれている主の民が、解放されなければならない。そのためには、山上の垂訓が、今こそ、信じる者たちのうちで、現実となるべきである。

時は満ちた。忘れていた頃に、地上の戦争に赴くための召集令状ではなく、神の軍隊への召集令状が、信者のもとへ届く・・・。
  
雄々しくあれ、強くあれ。神の勇士たちよ! 立ち上がり、主の民に、御名によって、解放を宣言しなさい。あなたにはイエスの御名によって、悲しむ者に慰めを、捕われ人に自由を告げる権威が与えられている。勇気を出して、立ち上がりなさい。あなたが私を選んだのではなく、私があなたを選び、あなたを立てたのだ。それはあなたがたが行って実を結び、その実が、いつまでも残るためである・・・。

ただ聖霊があなたがたに臨むとき、あなたがたは力を受けて、ユダヤ、サマリヤの全土、さらに地の果てまで、イエスの復活の証人となります・・・

時は満ちた。立ち上がれ、神の勇士たちよ!
ミデヤン生活はもう終わったのだ。その間のことが嘘であったかのように、筆者も思い出を振り切って、燃える柴の中に歩みを進める。焼き尽くす炎によって、信者は自己の命を惜しむことなく注ぎだし、「生きることはキリスト、死ぬことは益」と言える生活に入って行くのである。

弟子たちが主イエスに出会って、漁師から人間を取る漁師に変えられたように、単なる羊飼いは、人間を養う羊飼いへと変えられる。牧者である主がそばについておられるので、イエスの弟子たちはみな主と同じ性質を帯びるのだ。悪魔の囚われ人ではなく、解放者へと。
 
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ひとこと

神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)

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