忍者ブログ

私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

村上密牧師の提唱する「カルト監視機構」の底知れぬ危険性について➀

村上密師から当ブログ記事と筆者に向けられたいわれなき非難について

(2016年補記: この記事は「東洋からの風の便り」の同タイトルの記事からの転載である。
   この記事の書かれたいきさつは次の通りである。

 アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の村上密牧師が提唱したカルト監視機構という構想の持つ重大な危険性について、筆者は2009年6月3日に「カルト監視機構という名の秘密警察」という記事にて指摘した。

 村上密氏は、これに対する反論として、筆者の記事タイトル全文を剽窃する形で、「『カルト監視機構』という名の秘密警察」の誤報」という表題の記事を書き自身のブログに投稿した。

 このようなタイトルのつけ方自体、初めから検索結果の意図的操作を狙ったものであり、ネット工作員を思わせるようなセミプロ的な手法で、とてもではないが、通常の牧師の書く通常のブログのタイトルとは思えない。それだけでなく、同記事においてさらに村上氏は、筆者の著した警告記事の趣旨を曲げて、論点を逸らす形で、本題をすり替えて反論しているため、その姑息かつ卑劣な答弁の論法を以下で指摘したものである。

 なお、村上氏は筆者の当ブログにおける指摘があたかも根拠のない「創作」であるかのように主張しているが、その村上氏自身が、たとえば鳴尾教会で自身が義理の父と一緒になって引き起きた事件に関して、自らの責任を巧みに他人に転嫁し、他者に濡れ衣を着せる「創作物語」を、約14年以上にも渡り、主としてインターネットを中心に流布して来た張本人であることを書き添えておく。

 また、同氏はカルト監視機構の設立に失敗したが、その後、インターネットを中心に、自身の活動の支持者らを手先のように使って、自らの活動に賛意を示さない信者を迫害・中傷し続けて来た張本人である。
 
 この事件については、以下の記事を参照されたい。

――アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の非聖書的で危険な活動――
~村上密牧師と津村牧師による鳴尾教会人事の私物化問題について~


罪と罰――カルト被害者救済活動はなぜ聖書に反するのか
――ブログ「随想 吉祥寺の森から」の著者 杉本徳久氏による
多くのクリスチャンに対する聖書と法に基づかない虚偽の告発と
 カルト被害者救済活動が持つ反聖書的な意義についての考察――

 村上氏の活動はこのように絶えず他人を中傷しては濡れ衣を着せる形で、自分の責任を他者に転嫁して、保身をはかって来た人物であり、また、自分の活動への反対者には工作員信者などを送り込んで、徹底的に信頼関係を破壊して分断するという手法で、反対者を抑圧して来た。


 果たして、このような人物が正義の味方をつけて「カルト被害者救済活動」を率いるにふさわしい人物であるのかどうか、また、このような信用ならない人物が本当にカルト監視機構を設立し、プロテスタントの諸教会の覇権を握った暁にはどのような異常事態が持ち上がることになるか、クリスチャンは上記の記事を参照の上、改めてその危険性を再考されたい。)



1.村上密師から当ブログ記事と筆者に向けられた非難について


 カルト監視機構について、私が過去に書いた記事に関して、ブログ記事「『カルト監視機構』という名の秘密警察」の誤報」の中で、村上密師が次のように非難しておられますので全文、紹介いたします。
 
 「『カルト監視機構』が設立へ向けて動き出した」というニュースは誤報です。この誤報の発信元はヴィオロンさんです。この誤報に多くの人々が確認もせず飛び付き、おもしろおかしく書き立てています人に迷惑をかけておきながら、次の話題作りに励んでおられるようですが、反省や謝罪はないのでしょうか

 ヴィオロンさんへ。あなたが見ている村上密はあなたが創作した村上密ですあなたはブログに書いているように、交流の少ない所で生活しておられます情報はインターネットが頼りのようです。そして、それをもとにあなたの世界を形成しておられます。

 Dr.Lukeさんへ。あなたは無責任な同調者です。あなたもヴィオロンさんの創作話に悪乗りして、批評をしておられます。会ったこともないブログの主に対して、なれあいのコメントを書き続ける「専門家」はあなただけでしょう。あなたは牧師だそうですが、誤報への同調の後始末をどのようにとられるつもりですか。はっきりと文章に書いてください。

 お二人の共通点は、「カルト監視機構」を針小棒大に書き立てていることです。「秘密警察」にまで発展する発想にあきれました。牧師がそのような組織を作ると思うあなたがたの思考は非常識です。このような非常識に踊らされる人々も思慮の足りない人々です。

 誤報の発信者のヴィオロンさん、そして同調者のDr.Lukeさん、明確な誤りは削除をお願いします。ヴィオロンさんのブログを読み確認のために電話をくださったのはおひとりです。多くの人々が確認作業をしないで記事を書いておられることに不愉快な寒さを感じます。」

(太字および下線、フォントサイズによる強調は筆者)


2.村上密師に対する筆者からの反論

 たとえ誰からいわれない非難を向けられたとしても、私は主イエス・キリストにあって、非難を甘んじて耐え忍ぶことを喜びとしています。ですから不当な非難を恐れません。私は今、良心にやましいところがなく、また、主イエス・キリストご自身が私を弁護して下さることを確信しておりますので、根拠のない非難に対して、黙っていることは、少しも苦痛ではありません。ですが、他の信徒が惑わされることのないために、私の反論をここに記しておきます。

 村上師、あなたが書いておられることには、残念ながら、十分かつ明確な根拠がありません。そのことはここに記さなくても、誰にでも容易に理解できると思います。

1)「誤報」問題について

 「『カルト監視機構』が設立へ向けて動き出した」というニュースは誤報です」と村上師は書いておられますが、カルト監視機構が設立へ向けて動き出したことが、私による誤報とはどういう意味なのでしょうか!?

 私が当該記事を投稿した時点において、アッセンブリー京都教会の関連ホームページから、ウィリアム・ウッド氏の真理のみことば伝道協会のホームページの「■ 『カルト監視機構』、設立へと題する記事へリンクが貼られていました。このことについては、複数の証人が存在するでしょう。

 さらに、今日の時点でも、真理のみことば伝道協会の記事は削除されておりません。こちらをご参照ください。そこからもう一度、全文を引用します。

■ 「カルト監視機構」、設立へ
 村上密(アッセンブリー京都教会牧師)とウィリアム・ウッドは、「カルト監視機構」の設立に向けて、具体的に動き始めました。この機構の目的は、カルトと疑問視されている団体を調査し、適正な判定を下し、発表することです。構成は、カルト問題に精通している宗教家、臨床心理士、弁護士、法律家など、6人から12人ほどです。先日、プロテスタント教会、聖公会、日蓮宗、及び天理教の教職者で、カルト問題に取り組んでいる方々への協力要請の手紙を出し、六月中に最初の会合を持つことを予定しています。また、「集団のカルト度に関するアンケート調査」も作成しています。その内容は六つの項目(組織、指導者、信者の実生活、組織活動、家庭生活、被害)に分かれており、百以上の質問からなっています。一つの団体に関する、正確でかつ公正な判断を下すのに不可欠な資料になると思われます。自分の属している団体の「カルト度」を計りたい方に、「集団のカルト度に関するアンケート調査」をお送りします」

 この文章が、カルト監視機構の設立計画が確かに存在していたことを何よりもはっきりと証拠立てています。なのに、どうしてそれが私による「誤報」になり得るのでしょうか。 

 たとえ今は計画が中止されているにせよ、私の記事掲載当時、村上密師とウィリアム・ウッド氏が協力して、カルト監視機構の設立へと向けて活動を予定していたことは紛れもない事実です。すでにネット上に公に報じられていた情報を、私がブログに転載したことが、私個人による誤報(事実の捏造)となることはあり得ません。そのように主張することは、事実を曲げて嘘をつくことになります。
 キリストを宣べ伝える者として、牧師であられる方がそのような行為を平然と行われることを深く憂慮します。

 存在しない事実を原因として、実害が生じることはあり得ません。村上師は「人に迷惑をかけておきながら」、と書いておられますが、誤報の事実が存在しない以上、それによって引き起こされる「迷惑」など、存在するはずがありません。
 さらに、一体、どのような迷惑がかかったとおっしゃりたいのか、文章では何も具体的に明らかにされていませんが、もしも、あくまで、迷惑が存在したとおっしゃるのであれば、村上師に対して、誰が、いつ、どのような行為に及んだのか、その証拠を提示し、また、私の記事とその人の行為との間にどのような明確な因果関係があるのか、その証拠をはっきりと提示された上で、さらに、それによって村上師に生じたとされる実害の具体的内容を明らかにして下さい。

 内容も不明であり、因果関係も証明されておらず、証拠もなく、存在もしなかった事実に基づいて生じたとされる「迷惑」なるものについて、謝罪や反省を求めるなどナンセンスですし、それに応じるような人は一人もいないでしょう。


2)「創作」問題について

 
 村上師は私に向けて書いておられます、
「あなたが見ている村上密はあなたが創作した村上密です。あなたはブログに書いているように、交流の少ない所で生活しておられます。情報はインターネットが頼りのようです。そして、それをもとにあなたの世界を形成しておられます。」

 こうして、私が交流の少ない所に住み、インターネットの情報(だけ)を便りに、自分の世界を築き、村上密師のイメージを「創作」してネットに記述しているので、私の主張には根拠がないとおっしゃりたいわけですね。
 しかし、まず、どのような点が、私による「創作」なのでしょうか。どうぞ具体的にお示し下さい。

 さらに、残念ながら、人はどんなに親しい間柄にある相手であっても、他人のことを生きているうちに完全に正確に理解することはできません。どこかで必ずバイアスが入ってしまうことは避けられないのです。けれども、そのバイアスによる「創作」が深刻に懸念されるのは、私よりもまず、村上師の方であるようにお見受けします。

 まず、私が「交流の少ない所で生活して」いると書いておられますが、一体、何を根拠にそのように思われるのでしょうか、不可解です。実際には、私共は自営業を営んでおりますので、大勢の人たちが、日々、この地を訪れて来ては、互いに言葉を交わしております。
 私個人といたしましては、かつて教会で出会った人と今も連絡を取り合っていますし、地域のNPO法人にも度々、出かけておりますし、度々、人と旅行し、また地域に対する理解を深めるべく、各地をめぐり歩いて人と接しております。それでも、これが「交流の少ない所で生活」することを意味するのでしょうか?

 恐らく、村上師のこのようなご意見は、私の住んでいるところが都会ではなく、過疎化しつつある田舎だということから、こんな片田舎には、交流すべき住人も恐らくいないはずだという一方的な思い込みに基づいているように受け取れます。しかしながら、そのような考えは、あまりにも、田舎住民を馬鹿にした、都会中心主義的発言だと、世間からもひんしゅくを買いかねません。
 京都ほどではございませんが、田舎にも、人はいっぱい住んでおりますよ。近所には幼稚園があり、小学校があり、子供だけでなく、若い父母さんたちが毎日、沢山、来られて、役場があり、いくらでも交流できる世界が広がっています。

 毎日、どの人と会って、何を話したかまで詳しくネット上に書きませんが、だからと言って、私が「交流の少ない所に生活して」いると決め付けるのでは、それこそが、「情報はインターネットが頼り」だと言われても、仕方がないと思いますが…。

 そして、以下をお読み下されば分かるように、私が村上師について持っている見解は、私が頭の中で「創作」したものではなく、現場で実際に人々と接触することによって収集した確かな事実に基づいています。

 ① N教会で起こった事件について、私が記事に掲載した文書、および情報は、村上密師の活動に関わるものでありますが、インターネットから入手した情報ではございません。

 ② 私は村上師と直接の面識があります。これもまた、当然ながら、インターネットから入手したのではありません。昨年、私はカルト化教会で起こった事件の解決を求めて、アッセンブリー京都教会に、約半年間、電車で片道2時間をかけて通い続けました。往復4時間です。毎週、休まず日曜礼拝に通い、日曜礼拝に出席するために、自分に合っていた職場を辞めて、転職さえしたほどです(そのために、経済的に苦労を背負っただけでなく、職場の皆さんにも、お詫びせねばなりませんでした)。

 こうして礼拝に出席した他、私は村上師のカウンセリングを受けて、個人的に一対一で長い時間をかけてお話しましたし、その後の教会諸行事でも師とざっくばらんに接し、師について、他の信徒がどのように考えているのかについても、率直な意見を複数人から聞きました。

 その当時、私が京都教会への転会を望み、それを村上牧師に申し出ていたことは、村上師ご自身が誰よりもご存知です。ですから、私は決して、初めから、否定的で批判的な先入観や、決め付けに立って、村上師やアッセンブリー京都教会の活動を観察していたわけではございません。にも関わらず、その後、残念なことに、そのような期待や好感をもはや捨てねばならない結果となったのです。そのいきさつはすでに幾度も詳しく書いてきたので、ここでは繰り返しません。

 私の村上密師についての見解は、このようにして、現場で人とじかに接することから得た情報を基に構築されています。しかも、私個人の見解だけから成り立っているわけではありません。

 ③ さらに、そのようにしてアッセンブリー京都教会を訪れる以前にも、私は10~15年近く、アッセンブリー教団に属する他教会に、最初は非正規の信徒として、次に、正会員として所属して、実際に通っておりました。村上師の義理の父であられるT師の教会に属していたのですから、村上師に関する話を、その教会で、幾度も、耳にしていたのは当然です。さらに、村上師がN教会に来られたこともあり、その際、私は師の開かれたセミナーに参加しましたし、幼い頃にも、CAキャンプで直接、お会いしています。

 村上師に関する私の知識はこうして、20年以上の歳月をかけて、直接、村上師自身と彼に深い関わりのある人々と接することによって得られたものであり、その事実認識に基づいて私は判断を下しました。にも関わらず、それが私の「創作」であり、「情報はインターネットが頼り」だとおっしゃるのであれば、事実認識が歪んでいるのは、私の方ではないということは、誰でも容易に判断できるでしょう。
 

3) ネットから得た知識には信憑性がないのか?

 さらに、ネット上で入手した知識は、果たして、現場から得た知識に比べて、信憑性がないのでしょうか? 村上師ご自身がネット上でブログを公開されているのですから、ネット上の情報にはまるで現実性がないかのようにほのめかされる理由が、どこにあるのか、私は理解に苦しむのです。

 以下のビデオにて紹介しましたように、今、日本のみならず、世界各国で、ネットを通して、偽キリスト、偽教師、偽預言者などを告発する活動が盛んになっています。教会のカルト化問題についても、英語、その他の外国語で多くの議論が展開されているのを誰でも見ることができます。
 そういった意味では、ネット上の情報は、まさに最先端を行っており、日本のキリスト教の世論はそれに比べるとまだ遅れを取っている部分があると言えるでしょう。ですから、クリスチャンがそれぞれ、自分のできる範囲で、最新の情報を広めることに貢献していきたいと考えるのは当然です。

 私はこのブログを自らの信仰告白の場であると申し上げましたことを、すでに読者の皆さんはご存知です。私は村上師のおっしゃるように、ブログで「話題作りに励んで」いるのではなく、また自分の「創作」活動を行っているのでもなく、また学術論文を書いているわけでもなく、キリスト者として、主イエス・キリストへの愛と信仰から、主イエス・キリストの溢れる恵みが私の人生にいかに豊かに注がれたかを証し、また、聖書を冒涜する者たちの危険な活動について警告し、危険な活動からは早急に離れるようにクリスチャンに平和的に呼びかけているだけです。

 私は政治運動や、暴力的な活動を展開、組織し、指示したことはこれまで一度もありません。むしろ読者が私の主張を基にして、どんな組織的な運動をも起こすことがないように幾度もブログで呼びかけて来ました。悪に対しては、ただ「非暴力、不服従」が私のモットーであるからです。暴力を用いず、平和的に警戒を呼びかけることは、聖書が禁止していることではありません。

 ネットには光と闇の両面がありますが、聖霊の導きによって、上からの知恵を与えられ、情報を取捨選択する能力を与えられたクリスチャンにとっては、ネットの情報はもはや危険ではなく、現場から得た情報と同様に、頼りになる部分が大いにあります。
 そして安易に情報を鵜呑みにしないために、私がこれまで常にディベートの方法論に基づいて議論を展開して来たことも、読者はご存知です。

 しかしながら、もしも、ネット上の情報に基づいて事実認識を深めることが誤りであるか、もしくは、稚拙な行為であるとご判断されるのであれば、どうぞその根拠を明確にお示し下さい。


4)「針小棒大」問題


 カルト監視機構のことを私が「針小棒大に書きたてている」とのことですが…。
 
 ① 私には、カルト監視機構が秘密警察であると主張するだけのはっきりした根拠がございます。ですから、この意見を「明確な誤り」として削除する必要を感じません。

 繰り返しますが、カルト監視機構とは、教会がカルト化していないかどうかを調査するという名目で、信徒の告発に基づいて、諸教会に内政干渉を行い、カルト化していると判断された教会を現実に抑圧し非難するための、実力行使を伴う機関となる可能性が初めから予想されていたのです(そのために法律家がメンバーに加えられているのだと世間の人々が考えるのは当然です)。

 しかも、すでに述べたように、本格的な調査を行うためには、調査を(指導者連には悟られないよう)秘密裏に行わなければ、誰一人、決して正確な情報を得ることはできません。秘密裏な調査を行う以上、調査方法を明かすことはできません。ですから、カルト監視機構には、人々の目につかないところで、悪事についての情報を収集し、それに現実的な制裁を加える秘密警察と呼ばれるだけの十分な根拠が実際にあったのです。さらに、ドストエフスキーなどに関する研究を根拠にして、これに新たな根拠を付け加えることも可能ですが、今はあえてしません。今後の記事をご参照下さい。

 ② それでも、もしも、私のこのような意見が少数派であり、一方的な決めつけであったならば、私の意見が、多くの人たちに理解されることはなかったでしょう。読者は決して愚かではありません。たとえ私のような一個人がブログにどのような反対意見を書いたところで、それがもしも根拠薄弱、事実無根の主張であれば、読者は賢明にその意見を無視したことでしょう。

 ですから、今回、村上師が書いておられるように、一人の書いた記事が引き金となって、多くの人がカルト監視機構の設立計画について騒ぎ始め、それが計画を中止させるまでの反響に至ったのだとすれば(そのような事実があったのかどうか私は詳しく知りませんし、そのようなことが起こった証拠もありませんし、仮にそのような事実があったとしても、それはあくまで個々人の選択であり、そこに私の指示など一切ないことは明白ですが)、それは、クリスチャン世論がそもそもの初めから、この機構の設立を望んでいなかったという事実を示しているに過ぎません。

 このことは、カルト監視機構の設立計画に関するニュースを聞いて、私と同様の危惧や、戦慄を覚えた人たちが多数存在したことを、何よりも明確に証拠立てています。つまり、私の書いた記事が、ただ私一人の意見にとどまらず、クリスチャン世論の一般的思惑に合致していたからこそ、この話題に関して、多くの人が真剣に考え、「多くの人々が…書き立て」るという反応が起こったと考えるのがふさわしいのです。

 村上師は書いておられます、「確認のために電話をくださったのはおひとりだけだったと。
 なぜたった一人しかじかに確認しなかったのでしょうか? どうしてカルト監視機構を擁護し、あなた方の活動を弁護するために立ち上がった人が他にいなかったのでしょうか? どうか、その理由についてご自身で深くお考え下さいますように。私の記事以前にも、もしも、監視機構設立という活動を賛同の意をこめて見守っていた人が多かったならば、果たして、そのような結果が起こったでしょうか。

 ですから、なぜ反対の声が起こったのか、その原因がどこにあったのか、深く探ることなく、その原因をただ私のブログだけに求めようとすることは、ナンセンスです。クリスチャン世論が何を望んでいるのか知ろうとすることなしに、人々の声を無視して、一方的に行動することは誰にもできません。

 ③ 私の考えるところによれば、カルト監視機構に対して反対が起こった最大の理由は、カルト監視機構を設立しようとした方々が、何よりも、カルト監視機構の設立の意義を、あらかじめ諸教会とクリスチャン世論に十分に周知せず、彼らの同意を得ないままで、いわば、彼らの頭越しに、教会の内政干渉を行うような活動を前提とした組織の設立へ向けての話し合いに移ろうとした点にあります。

 第一に、「今、なぜ、カルト監視機構なのか」という説明を十分に行わないままで、機構の設立について一方的に検討しようとしたことに対して、非難の声が上がったのです。それは当然すぎるほど当然の結果だったと言えるでしょう。

 第二に、日本脱カルト協会がすでに存在していたにも関わらず、それに加えて、カルト監視機構を新たに設立せねばならない理由が、多くの人にとって不明だったことも、反対の原因となっています。

 第三に、カルト監視機構の活動が、必然的に、教会の内政に干渉するものとなることは、私の指摘を待たずとも、誰の目にも明らかですが、それが、牧師の自主独立性を尊重し、牧師が他の牧師によって干渉されずに自立した牧会活動を行うことを前提としていた、これまでのプロテスタントの伝統となじまなかったこと、つまり、多くの牧師たちが(役員、信徒たちもそうですが)、教会に外部の者たちからの調査のメスが入れられることに同意できず、それを教会の自立を損なう内政干渉であると受け止め、深い懸念を示したことが、反対の根本原因だったものと私は考えています。

 まとめるならば、「なぜ、今、カルト監視機構なのか」という理由を、ほとんどのクリスチャンが理解できず、また脱カルト協会に加えて新たな機構を設立する必要性が理解されず、諸教会が、自主性を損なう内政干渉的な調査を受けることに拒否反応を示したことが、反対の声が上がった最大原因なのです。

 カルト監視機構のみならず、他の形であれ、諸教会への根回しや、クリスチャンへの周知活動(宣伝キャンペーン)を十分に行わずに、教会の独立性を犯し、内政干渉を行うような組織の設立を計画する人々がいたとすれば、それが反感を呼ぶのは当然のこととして予想できます。

 これまで牧師の自主独立性を大目に見すぎるほど認めてきた(それゆえにカルト化が放置されてきた)プロテスタントのキリスト教界において、牧師の独立性を犯しうる権威を持った組織の設立が、そんなに容易に認められるはずがないことは、誰が見ても、すぐに理解できます。

 ですから、これは一個人に過ぎない私の記事が作り出しうる影響力の範囲を超えた出来事です。カルト監視機構設立の計画に対する世間の反応は、私の記事を原因として生まれたものではなく、これまでのプロテスタントの伝統になじまない活動を繰り広げようとした人たちに対する、クリスチャン世論からの当然の拒否反応だったと考えるべきなのです。
 そういった歴史的・伝統的背景をどうぞ深く考慮に入れた上で、今回の事件の真の原因がどこにあったのか、ご理解下さいますように。今回のことは、キリスト教界に大きな変革を促すような構想を持った計画を作ったにも関わらず、発案者がそれについて、あらかじめ、十分な周知活動を行わなかったことに対する手痛い結果であったのです。その事実を見据え、カルト監視機構に関する反対の声が上がったことの責任を私のブログに転嫁しようとすることをお控えいただきたいと存じます。

 このように、キリスト教界が全体として、恐らく、設立を望んでいないだろうと思われるカルト監視機構ですが、もしも今後、どうしてもカルト監視機構を平和裏に設立されたいと望む方がいらっしゃるのであれば、前もって宣伝キャンペーンを行い、その意義と必要性をクリスチャン全員に周知し、全国津々浦々の諸教会に対してもれなく、内政干渉としての調査を行うことについて、あらかじめ同意を得た上で、日本脱カルト協会にも設立について同意していただき、私が述べたような反論も含め、これから起こるであろうあらゆる反論をあらかじめ封じ込めてしまうほどに、説得力のある強力な根拠を提示して、この機構の透明性、安全性、有効性を万人に示し、その活動内容を詳細に定義して分かりやすく公開して説明し、いかにカルト監視機構がキリスト教界の平和に貢献する善良で安全な機関かということを、教養のあるなしに関わらず、どんな人にでも分かるように、徹底的に世間に周知した上で、設立計画を平和に推し進めていくべきでしょう。そうすれば、いつか反対なしに機構を設立することが可能となる日が来るかも知れません。

 ですが、私のような一信徒がブログで批判した程度で、このような非難が返って来るのであれば、村上師の活動は、初めから反対者の意見を汲み上げない、異論を考慮に入れない、一方的で独善的な正義なのだと、世間から受け取られても仕方がありません。広く深い見識を持ち、深い人間洞察力を持ち、何よりもキリスト者としての愛と謙遜に満ち、自分と異なる多様な意見にも、冷静に客観的に耳を貸す心の余裕を持つ指導者が、監視機構を設立するのであれば、まだ良いかもしれませんが、もしもそうでない人が、カルト監視機構を作り、それを実際に動かすようになると、どのような危険な事態が持ち上がるでしょうか? 独善的で視野の狭い正義を振りかざし、明確な根拠もないのに、次々と反対者を攻撃・非難し、気に入らない信徒を排除するばかりの非人間的な機構が出来上がらないとも限らないと、世間が憂慮するのは当然ではないでしょうか。

 カルト化した教会で神のようにふるまっている牧師の腐敗のニュースを沢山、耳にして来たクリスチャンは、今や、反対者の意見であっても、穏やかに耳を貸すことができ、自己への批判にも冷静に耳を傾ける余裕がある指導者の登場を心から待ち望んでいるのです。村上師がそのような方であるかどうか、世間は注目しているのです。


5)牧師だから過ちを犯すことがないのか?

 村上師は書いておられます、「牧師がそのような組織を作ると思うあなたがたの思考は非常識です。このような非常識に踊らされる人々も思慮の足りない人々です」と。

 「牧師が誤った組織を作るはずがない」、そうおっしゃりたいことが伺えます。
 ですが、このような台詞をまさに村上師から聞くことになるとは皮肉です。なぜならば、今日、牧師という職業についている多数の人たちが、牧師にあるまじき、非道な行為を平然と行っていることを、誰よりも、カルト防止活動に関わって来た村上師はご存知のはずだからです。

 「牧師だから誤った計画を作るはずがない」というのは、それこそが、誤った先入観です。このような先入観に基づいて、牧師を無条件に信頼してしまったことこそが、カルト化教会の信徒たちが人生の破滅へと導かれた原因だったのです。
 どんな牧師も人に過ぎません。ですから、どんな牧師をも、信徒は無条件に信じるべきでなく、「牧師だから間違うはずがない」と考えることをやめて、「牧師でも、間違うことはある」と考え方を転じるように心がけなければならないのです。そしてもしも牧師に誤りがあるならば、率直に指摘するようにしなければならないのです。そして牧師はそれに冷静に耳を貸さなければなりません。この「良心のブレーキ」が有効に効くことこそ、牧師の独裁者化や、教会のカルト化を防ぐのです。そのことを村上師はご存知のはずです。

 にも関わらず、どうしてこの「良心のブレーキ」を師はご自分に適用されないのでしょうか。牧師としてご自身もまた信徒の批判に注意深く耳を貸さなければならない誤りやすい存在であるということをなぜ冷静にお認めになれないのでしょうか。
 村上師は、「牧師がそのような組織を作ると思」った私たちが、「非常識」な人間であった決め付けておられます。こうして、世間の意向を無視して、私とDr.Lukeに一方的に非難を向けられるだけならばまだしも、あまつさえ、私たちと意見を同じくして、カルト監視機構に反対した人たちにまで、「非常識に踊らされる…思慮の足りない人々」だと、蔑みと怒りの言葉を向けておられます。

 これは、村上師が現時点で、すでにご自分の活動への反対意見に冷静に耳を貸す余裕を失っておられ、反対者をまとめて「思慮の足りない人々」だと決め付けて、彼らの意見に耳を傾けることを拒否しておられることを示す、憂慮すべき事態です。
 考えても見て下さい、どうして、そんなにも多くの人たちが、カルト監視機構の設立に反対したのでしょうか。その人たちの意見は、本当にナンセンスで、非常識で、思慮の足りない意見に過ぎなかったのでしょうか。その人たちは思慮が足りず、愚かだったがゆえに、反対したのでしょうか。多くの人たちが反対したのに、その意見には全く耳を貸す必要はなかったとおっしゃるのでしょうか。

 「非常識に踊らされる…思慮の足りない人々」
 
このような言葉は、信徒を侮辱しています。この言葉が発せられる背景には、「私の活動は絶対に誤るはずがない、私の活動の意義を理解できない人たちは、愚かであるがゆえに理解できないのだ」という思い込みがあるように私には思えてなりません。けれども、誰よりも、村上師自身がご存知のように、「私は絶対に間違わない」という思い込み(高ぶり)に陥った教会指導者こそが、これまで、反対者を残酷な方法で次々に攻撃し、非難し、教会から排除していき、独善的な教会運営を繰り広げて、教会をカルト化させて来たのです。自己の無謬性を信じ、人の批判に対して完全に耳を塞いでしまった瞬間から、牧師はもはや神に忠実に仕える僕ではなく、現人神になってしまうのです。


6)Dr.Lukeへの非難に対して


 村上師は書いておられます、「会ったこともないブログの主に対して、なれあいのコメントを書き続ける「専門家」はあなただけでしょう」と。
 ここで言われている「会ったこともないブログの主」とは誰のことなのでしょう。私のことでしょうか?
 もしもこれが私のことを指しているのであれば、Luke氏と私との間には直接の面識があることを、私はブログに随分前に書いておりますが、記事をお読みになっていらっしゃらないのでしょうか。もしそうだとすれば、徹底的な情報収集の必要性を日頃から説いておられる方にしては、随分、軽率な理解だと言わざるを得ません。
 
 「専門家」と括弧つきで書いておられることから、Dr.Lukeを専門家として認めておられないことが伺えます。しかし、博士号を持っている人が専門家と呼ばれるに値しないのであれば、一体、誰が専門家と呼ばれるに値するのでしょうか。お伺いしたいと思います。

 「お二人の共通点は、「カルト監視機構」を針小棒大に書き立てていることです。」

 私たちの共通点とは、まず、まことの主イエス・キリストを信じているところから始まり、そこに終わります。Lukeさんが当ブログにコメントを書いて下さったのは、私たちが同じ主を信じている信仰による同胞であることを霊のうちに確信して下さったからです。

 ブログをお読み下されば分かるでしょうが、私がカルト化教会の事件による心痛から立ち上がれずに苦しんでいた頃、Lukeさんはコメントを通して、私をずっと励まし、支え続けてくれました。お伺いしたいのですが、私がひどい事件に遭遇したことをご存知であられた村上師は、私の事件の解決のために、具体的に何を尽力して下さったのでしょうか? 私は多大な犠牲を払って京都教会に通ったのに、事件の進展はまるでなく、私が絶望的な気持ちで教会を去って以後も、村上師は、私に励ましのコメント一つ、手紙一通、電話一本、下さいませんでしたね。

 しかし、村上師がなさらなかったことを、Lukeさんはキリストの名において、この小さき者のためにして下さったのです! Lukeさんはキリストの愛にならって、仕える姿勢を取り、傷ついた羊を憐れみ、助けの手を差し伸べてくれました。その貴い行為がどうして、「なれあいのコメント」などという言葉で卑しめられねばならないのでしょうか。
 しかし、Lukeさんは、私を助けてはくれましたが、決して自分に依存させることなく、牧師崇拝に陥らせることなく、ただキリストにあっての完全な自立へと導いてくれたのです。ですから、私は今やカルト化教会の人々を赦しています。心に悲しみはなく、いつまでも被害者という名札に寄りすがって、一方的に人の憐れみと同情ばかりを乞う必要がもうなくなったのです。私は、もはや傷ついてさまよう羊ではなく、主にあって、健康で喜びに満ちた信徒へと戻ることができたのです。どうか主の祝福がLukeさんにありますように!

 さらに言えば、私自身も博士号を持っていますので、その点で、Lukeさんとは、もう一つ、共通点があります。日本の大学は欧米に比べて水準が低いなどと揶揄されることもありますが、私自身は決してそうは考えておりません。若い人たちが、日本の大学で博士号を取得することが、経済的にも、人間関係の上でも、どれほど困難か、身を持って知っているからです。ドクター論文を放棄して大学を去って行く研究者も後を絶ちません。特に、人文科学系の分野においては、博士論文の執筆には6年以上の月日を要することが当然視されています。

 私自身は、主イエス・キリストを知る知識の前に、学歴など何とも思っておりませんが(キリストに栄光を帰すためにこれまで立場を明かしませんでした)、ただ世間の一般常識として、このように多大な犠牲を払って、学問に身を捧げて来た人たちの専門性を冒涜するかのような発言を軽々しく行い、学問の価値を軽んじられるのはあまりよろしくない行為であると思います。

 村上師が「カルト専門家」として認められているのが、どういった承認によるのかは存じませんが、博士は自称できません。厳しい審査を経て、公に学者として認められている人たちを「非常識」扱いすることは、その人を学者たらしめてくれた先生方全員を馬鹿にすることになり、ひいては、学問そのものに石を投げつける行為となります。

 キリスト教界の先生方の中にも、恐らく、血のにじむような努力をして博士号を取得された方がいらっしゃることでしょう。なのに、そのような努力をして専門家として立った人たちを簡単に「非常識」扱いされる発言は、私個人には赦せたとしても、一連の学者たち全員を敵に回す発言だと受け取られかねません。世間は、常識に欠けるのはどちらだと思うでしょうか。
 さらには、そのような発言は、世間で認められてきた伝統的な権威へのいたずらな反発に基づいている(革命的発言だ)と受け取られかねません。それでは、村上師がこれまで行って来られた活動すらも、ひょっとして権威への反発という動機に基づいていたのではないかという憶測を呼ぶことにつながりかねません。以後、その旨を考慮され、ご発言に慎重になられた方がよろしいかと存じます。

 何事に関しても、多様な意見が存在を許されているのが民主主義社会の決まり事です。ですから、ご自分の活動に対しても、様々な角度からの意見が存在し得ることを、もっと冷静にお認めになられ、異論にも耳を貸せるだけのおおらかな心の余裕を持っていただけるように、主にあって切にお祈りいたします。

 以上

PR

ひとこと

神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)

ヴィオロンのブログ

最新記事

アーカイブ

ブログ内検索

カテゴリー