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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

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村上密牧師の提唱する「カルト監視機構」の底知れぬ危険性について②

村上氏から当ブログに行なわれた「誤報」という根拠なき非難についての反論の補足

(2016年補記: この記事は「東洋からの風の便り」の同タイトルの記事からの転載である。
 この記事の書かれたいきさつは次の通りである。

 アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の村上密牧師が提唱したカルト監視機構という構想の持つ重大な危険性について、筆者は2009年6月3日に「カルト監視機構という名の秘密警察」という記事にて指摘した。

 村上密氏は、これに対する反論として、筆者の記事タイトル全文を剽窃する形で、「『カルト監視機構』という名の秘密警察」の誤報」という表題の記事を書き自身のブログに投稿した。

 このようなタイトルのつけ方自体、初めから検索結果の意図的操作を狙ったものであり、ネット工作員を思わせるようなセミプロ的な手法で、とてもではないが、通常の牧師の書く通常のブログのタイトルとは思えない。それだけでなく、同記事においてさらに村上氏は、筆者の著した警告記事の趣旨を曲げて、論点を逸らす形で、本題をすり替えて反論しているため、その姑息かつ卑劣な答弁の論法を以下で指摘したものである。

 なお、村上氏は筆者の当ブログにおける指摘があたかも根拠のない「創作」であるかのように主張しているが、その村上氏自身が、たとえば鳴尾教会で自身が義理の父と一緒になって引き起きた事件に関して、自らの責任を巧みに他人に転嫁し、他者に濡れ衣を着せる「創作物語」を、約14年以上にも渡り、主としてインターネットを中心に流布して来た張本人であることを書き添えておく。

 また、同氏はカルト監視機構の設立に失敗したが、その後、インターネットを中心に、自身の活動の支持者らを手先のように使って、自らの活動に賛意を示さない信者を迫害・中傷し続けて来た張本人である。
 
 この事件については、以下の記事を参照されたい。

――アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の非聖書的で危険な活動――
~村上密牧師と津村牧師による鳴尾教会人事の私物化問題について~


罪と罰――カルト被害者救済活動はなぜ聖書に反するのか
――ブログ「随想 吉祥寺の森から」の著者 杉本徳久氏による
多くのクリスチャンに対する聖書と法に基づかない虚偽の告発と
 カルト被害者救済活動が持つ反聖書的な意義についての考察――

 村上氏の活動はこのように絶えず他人を中傷しては濡れ衣を着せる形で、自分の責任を他者に転嫁して、保身をはかって来た人物であり、また、自分の活動への反対者には工作員信者などを送り込んで、徹底的に信頼関係を破壊して分断するという手法で、反対者を抑圧して来た。


 果たして、このような人物が正義の味方をつけて「カルト被害者救済活動」を率いるにふさわしい人物であるのかどうか、また、このような信用ならない人物が本当にカルト監視機構を設立し、プロテスタントの諸教会の覇権を握った暁にはどのような異常事態が持ち上がることになるか、クリスチャンは上記の記事を参照の上、改めてその危険性を再考されたい。)




 村上師が「誤報」という言葉を再三に渡って使っておられることについて思いをめぐらしながら、師が一体、何をおっしゃろうとされていたのかが、ようやく私なりに今日、理解できたように思いますので、今回はそのことについて、説明させていただきます。

 村上師のお言葉は、禅者のごとく、あまりにも短く、かつ深淵ですから、十分な説明を補わなければ一般人には理解できません。そこで、僭越ながら、ここで私が師の文章を改めて、通訳させていただくことをお許しください。

 「誤報」という言葉によって、村上師のおっしゃっておられることの真意はこうです、「真理のみことば伝道協会のホームページに掲載されている『カルト監視機構 設立へ』という記事は、2009年現在の情報ではなく、(恐らくは)数年前にアップロードされた記事なのである。にも関わらず、ヴィオロンはこの記事の掲載年月日をよく確認もせずに、この情報を2009年現在のものであると勝手に取り違え、その誤解を世間に広めることに貢献したのだ」ということなのです。これはあくまで私の想像なのですが。

 「あなたは年月日を確認しないで飛び付き、『再び稼働した』と思い込んだのです。」

 村上師の書かれたこの短い文章は、上記の意味で用いられていると私は解釈しました。そうすることによって、村上師のおっしゃりたいことが、ようやく今、私には理解できたと言えるでしょう。

 残念なことです、村上師のおっしゃっておられるお言葉にそれほどまでの深い意味があると、私がもう少し早く気づくことができなかったことは…。しかしながら、弁明させていただければ、当該記事が、正確にいつの時点で発信された情報であるのか、それを私が知り得る方法はございませんでした。
 その理由は、真理のみことば伝道協会のカルト関連ニュースの当該記事には、その記事が執筆された「年月日」そのものが記載されていないためです。従って、真理のみことば伝道協会のホームページを何年間にも渡って詳細に観察し続けてきたような人を除いては、あの記事が執筆された「年月日」を正確に把握することは無理なのです。「確認」せよと求められても、記載されていない「年月日」をどうやって把握できるのでしょうか。

 年月日が書かれていない以上、私がそれを確認しなかったのではなく、正確な年月日の確認そのものが不可能だったのだと言う他はありません。
 確かに、ニュースのバックナンバーに詳細に目を通すならば、当該記事(41号)は最終号から時間を過去にさかのぼるものだと推測することは可能でしょう。しかしながら、一人ひとりの読者が、バックナンバーの詳細に全て目を通してからでなければ、一つの記事も論じるべきでないとまで求めるのは無理ではないでしょうか。しかも、たとえバックナンバーの詳細に全て目を通したとしても、そこから、当該記事の書かれた正確な年月日が判明するわけではなく、また、カルト監視機構設立の計画が中止されたことが他の記事を通して分かるわけでもないのです。

 さらに、私が「カルト監視機構、設立へ」という記事の情報をいかにして知ったかをもう一度、説明したいと思います。私が記事を書いた当時、アッセンブリー京都教会の関連HP(宗教トラブル相談センター)のリンク集から、「カルト監視機構、設立へ」という短い文章と共に、当該記事へのリンクが直接貼られていました。(現時点ではこのリンクは削除されています。)

 こうして、京都教会宗教トラブル相談センター側は、前後関係の説明を一切、抜きにして、ただ「カルト監視機構、設立へ」という記事だけを一方的に紹介していたのです。記事の中には、すでに述べたように、その情報がいつのものなのか正確な記載がありませんし、まして、その計画は現時点では中止されている、または実現せずに終わった旨の補足説明もありません。ですから、その説明を読んだ読者が、京都教会宗教トラブル相談センター発の情報を全面的に信用するがゆえに、真理のみことば伝道協会の記事を、現時点での生きた情報であると「誤解」し、まさかそれがとうに過ぎ去った計画であり、しかも現時点では中止されている計画なのだとは夢にも思わず、「監視機構がいよいよ設立されようとしているのだな、だからこそ、京都教会はこうして報道しているのだな」という印象を抱いたとしても、それはまさに当然の結果なのです。

 このように、誤解をあらかじめ防止する手段を何もとらないままで、一方的な形で情報を発信しておきながら、それに基づいて、カルト監視機構の計画が今尚、生きている(中止されたが、再び設立に向けて動き出した)と理解した読者を非難するのは間違っています。

 さらに、読者の誤解を招きかねない状況は他にもありましたので、申し上げておきます。それは村上師自身が、カルト監視機構の設立を決して断念しておられないこと、設立が早急に求められていることを、最近の記事の中で、再三に渡って書いておられることです。

 2008年7月28日の記事「カルト予防対策」の中で師はこう書いておられます、「ウィリアム・ウッド師と「カルト監視機構」の設立のため、各方面に働きかけたことがあります。人員が集まらず実現しませんでした。1つのカルト団体を相手にするのではなく、全てのカルトを相手にするのですから、生命を危険にさらします。前方だけでなく、四方八方から攻撃を受けます。資金豊富なカルト団体から、名誉毀損で訴訟を起こされるでしょう。それでも私たちは必要だと思い行動を起こしました。本当に必要な働きですから、将来実現するでしょう。」

 さらに、本年2009年度に入ってからも、師は2月12日に「教会の緊急事態」の中で再び書いておられます、「キリスト教界のモラル・ハザード(倫理の欠如)は「キリスト教会のカルト化」と関連しています。「カルト監視機構」のような機関を設置し、倫理委員会、調査委員会、資料コーナー、相談コーナー、予防啓発活動等に取り組む時が来ているように思います。

 こうして、村上師は昨年から、早急にカルト監視機構を設立する必要性を幾度も訴えて来られましたし、またその実現が成就することを強く確信しておられることを明言なさっています。ですから、その文面を読めば、再び計画が稼動する日が近々、来るだろうと読者が予想するのは当然ですね。そのような文脈の中で、年月日が不確かなまま発信されている情報があれば、計画が今まさに再稼動したものとして理解する「軽率な」人間が現れても、仕方がないのではないでしょうか。

 アッセンブリー京都教会宗教トラブル相談センターの側に、今回、カルト監視機構をめぐる報道において、読者の誤解を招かないだけの十分な配慮があったとは私には思えません。確認するための明確な方法が与えられていなかったものを、確認する責任が私にあったと申し上げることはできません。

 しかしながら、全ての情報を疑うことを教えられてきた者として、文字に記されていない言外の情報をも探り出すのが私の義務であったとおっしゃられるならば、その非難には耳を貸し、今後、言外の情報を汲み取るべくより慎重に情報を吟味することにいたしましょう。
 しかしながら、文字によって明確に記されてもいない文脈をたった一つの短い記事から汲み取るような離れ技を一般の読者に求められても、それは無理というものですから、今回は、一般の読者の誤解を招くような形で、記事を案内した側に、大きな責任があったことは明白でしょう。

 もしも村上師が、カルト監視機構が今、設立へ向けて動きつつあるという「誤解」をこれ以上、招きたくないとおっしゃるのであれば、私は、早急に当該記事を削除するか、もしくは設立計画がすでに中止されている旨の補足的訂正を入れること、そして、カルト監視機構の設立を断念された旨を、村上師自身が、はっきりとお書きになることをお勧めいたします。

 村上師自身が、もしもカルト監視機構の設立を断念されるおつもりがないのであれば、やはり、計画は近いうちに再び実現に向けて動き出すだろうと読者は予測し、その計画の進行を注意深く見守り、関連する情報があれば、論じ合い、様々な議論が今後も、生まれることでしょう。その中には、賛成だけでなく、反対意見も当然ながら、含まれていることでしょう。

 そして、どうぞお考え下さい。まだ設立もされていないカルト監視機構について、平和的手段を用いて批判しただけの私が、こうしてネット上で、村上師から人格を貶める表現を用いて、非難されねばならないのであれば、今後、村上師とカルト監視機構に反対する者は、みな、私と同様の命運を辿るのだと、どうして人は思わずにいられるでしょうか。

 村上師が今、行っておられる私への非難は、世間では、反対者を黙らせるための、一種の見せしめだと理解されていることでしょう。そして、実際に、それだけの効果を持っています。
 Dr.Lukeのように実名を公開されている勇気ある人はクリスチャンの中には少ないですし、私のように、教団の負の側面を見てきたがゆえに、村上師から公然と非難されても構わないとまで覚悟を決めている人も少ないでしょう。ですから、名指しで非難されたくない他の人々は、村上師の文章を読めば、皆、どんなに反対意見があったとしても、黙らざるを得なくなるのです。そのようにして、村上師は、カルト監視機構を批判する人間を、全員、私と同じように、今後、一人ひとり、名指しで非難していき、そのことによって、クリスチャンの世論を恐怖によって封じ込めることがねらいなのでしょうか? そのような懸念が生じても仕方がありません。

 特に、私は牧師でもなく説教者でもなく、すでにアッセンブリーとも関わりのない、教界に所属してすらいない一信徒です。にも関わらず、教団の枠組を超えて、たとえ無所属の平信徒であっても、こうして計画に反対する者がいれば、誰でも、幼稚な人間として、非難や断罪の対象とされるのだとすれば、人々はやはりその計画そのものに恐怖を抱かずにはいられないでしょう。現時点で、村上師がご自分の計画に反対する者の意見に冷静に耳を貸したり、その批判を許しておくことがおできにならないのであれば、師が率先してカルト監視機構を設立なさったあかつきには、どれだけの人数の反対者に対して、どれほど恐ろしい処置が取られるのだろうかと、私のみならず、多くの人が心配したとしても不思議ではありません。今とは比較にならない大規模で、ネットやその他の場所で、公然と人格を傷つけるような表現を用いて、反対者がつるし上げを食らうことになるのではないのか。そのような危惧あればこそ、私はこれまでに、カルト監視機構という計画そのものに大きな危険性があることを訴えて来たのです。

 今、起こっていることを通して、私たちは未来を予測します。今、起こっていることを見れば、私がこれまで申し上げてきたカルト監視機構の危険性が、決して、大袈裟な表現でも、杞憂でもなかったことが、世間にはすでに明らかになっているものと思います。

 どうぞもう少し心を鎮められて、今後の展望をよくお考え下さいますように。村上師が望んでおられるのは、カルトを防止するために役立つ活動であり、カルト監視機構や、ご自分の計画に反対する者を非難によってつるし上げることではなかったはずです。師の計画がもしも平和的なものであるならば、憤りを捨てて、異なる意見の者とも、粘り強い平和的な対話の道を開かれるようにと願います。

 恐らく、私がここで申し上げていることは、村上師から見れば、どれも、私が責任を逃れるために考え出した稚拙な言い訳、もしくは、見苦しい強弁としか理解されない可能性があると想像します。しかしながら、もしも十分な前後関係の説明が全くなされておらず、正確な判断に必要な材料も与えられていない情報をそのまま受け取って理解した者が、その「誤解」ゆえに非難されなければならないのだとすれば、村上師の方でも、どれほど今までに多くの誤った情報を発信したことについて、もしくは正しい情報を発信しなかったことについて、重大な訂正や反省を求められてしかるべきでしょうか。

 私がずっと証拠を挙げて書いてきた一連の疑惑に対して、師はどれ一つを取っても、明確な説明をなさっておられません。師が理事として密室で行われたN教会での伝道師たちへの不当な処遇について、そしてそれを本質的原因として生じたN教会の騒動についての信徒への説明責任の欠如について、アッセンブリー教団内での師による十分な情報公開抜きの異端の取り締まり方法の問題性について、また、私がご相談申し上げたカルト被害の問題が何一つ、京都教会で解決されなかった問題について、私の京都教会への転会希望が最終的に受け入れられなかった問題について、カルト被害者の面目を辱めるような形で、京都教会が偽預言者をゲストに招いたことについて…、これら一連の疑惑は、全て私の「創作」であるとお考えであるがゆえに、全く取り合っておられないのでしょうか?

 もしもそれらが私の誤解の上に成り立つ事実誤認に過ぎないのであれば、事実関係を明確にすることによって、村上師は一連の疑惑を容易に晴らし、私の「創作」をきっぱり退けることがおできになると思います。

 さらに、村上師は、今でも事実確認の努力をせずに、ただ誤解の上に立って、私やLuke氏のイメージを歪め、人格や名誉を貶める表現を多用して、誤った情報を世間に広めておられます。そのことについて、私はすでにいくつかの反駁を申し上げましたが、師の側では何の訂正も謝罪もなさっておられません。そのような事柄は、「誤報」には該当しないとお考えなのでしょうか?

 命懸けで悪人を成敗する正義の味方として自己演出することよりも、私たちにとって大切なのは、キリストの僕として、自らが率先して、謙り、人に仕える姿勢をとり、傷つけた人間と和解する努力を惜しまないことです。その姿勢がなければ、キリスト者は、その信仰によって、世間の人々の心を動かすことは決してできません。特に、牧者は、人を非難し、断罪し、排除するのではなく、人とキリストの身体としての関係性を養い、育て上げることをその職務としています。私たちの神は人に平和と和解をもたらす神であるはずです。

 これまでのいきさつを考えると、アッセンブリー教団と私との間には、歴史的に、超えがたい溝が出来ているように思いますが、それでも、神にできないことはありません。もしも村上師が私との和解を希望されるならば、喜んで、和解いたしましょう。しかし、和解とは、自己のみを正義とし、一方的に他者だけを断罪する関係においてなされるものではありません。キリストの前で、クリスチャンは全て己の正義に死んだはずの者ですから、その道に生きている者にとっては、自己の正義を捨てることは難しくないでしょう。師がそのように和解の貴さを理解しておられる真の牧者であられ、私たちが神の御前に、互いを訴えあうのでない健やかな関係において立てる日が来ることを願います。

 では、主にあって、どうか村上師が早く魂の平安を得られますようにと祈りつつ。

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神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)

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