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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

Dr.LukeのKFCとペンテコステ運動の異端性ーキリストの十字架を否定して東洋思想へ回帰する危険な運動⑫

⑤ Dr.LukeのKFC(Kingdom fellowship church)の理念の異端性(続き-1)

・異言や、聖書の御言葉から意味を除き去り、無意味な音声の羅列を「神のことば」と称するDr.LukeとKFC
 
すでに述べた通り、言葉というものはおよそ意味と一体であって初めて言葉と呼べるのであり、人間の言葉も、意味を伝達すること、もしくはその意味する物事を成就することを目的としている。音声だけの意味を持たない言葉というのは、単なる音、もしくは無意味な言葉遊びに過ぎず、言葉の抜け殻でしかない。まして、聖書の御言葉は、神の命令であって、そこに意味のない言葉は一つもない。人間の発した言葉は不完全であるが、神が御言葉によって命令されたことは必ず実現される。次のように書いてある通りである。

「雨や雪が天から降ってもとに戻らず、必ず地を潤し、それに物を生えさせ、芽を出させ、種蒔く者には種を与え、食べる者にはパンを与える。そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところには帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。」(イザヤ55:10-11)
 
ところが、Dr.Lukeは、「言葉ってのは振動なんですよ。」と述べて、事実上、言葉というものから、意味や伝達内容を抜き去ってしまう。そして、同時に、「異言」による「霊の祈り」もまた、「霊的な振動、波動」に過ぎないとすることによって、まるでラジオが電波を受信するように、信者は(どこから来るのかも分からない)「霊的な振動、波動」を聞き取って、これを自分の音声として表現することで、「神のことば」である「異言」を語ることができるのだと言う。

そのようにして、誰も意味を解き明かす者がおらず、語っている本人も、自分が何を言っているのか、全く分からないむなしい意味不明な音声の羅列を「神のことば」とみなし、それを語ることで、自分たちは神との合一に達しているのだと思い込みながら、延々と訳の分からない音声作りに集団で没頭しているのがKFCなのである。

さて、ここでまずは、聖書に登場する異言や、霊の祈り、聖霊のバプテスマとはどのようなものであるのか、それがKFCやペンテコステ・カリスマ運動の主張する概念といかにかけ離れたものであるかを振り返りたい。

まず、聖書には、神の聖霊が信者に語らせる「神のことば」としての「異言」というものが、確かに存在していることが示されている。それは御霊が信者に与える賜物の一つであり、聖書に記述がある以上、存在それ自体は否定することができない。

「異言」とはどのようなものであるかは、初代教会の信徒らに起きた聖霊降臨の場面に見ることができる。

「五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。すると突然、天から、激しい風が吹いて来るような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。また、炎のような分かれた舌が現れて、ひとりひとりの上にとどまった。すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。」(使徒2:1-4)

「彼らがこう祈ると、その集まっていた場所が奮い動き、一同は聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語り出した。」(使徒4:31)
 
この場面から、聖霊に満たされた弟子たちが、御霊に促されて、めいめい自分の知らない外国語で話し始めたことが分かる。それは、説教者が会衆に向かってメッセージを語る時のように、予め準備していた内容ではなく、なおかつ、特定の聴衆を想定して語られたわけでもなかった。聴衆がいたわけではないのに、弟子たちは、御霊に促されて、知らない言語で明確なメッセージを語ったのである。

しかしながら、同時に、この時、弟子たちが語っていた異言は、人間が意味を全く理解できない、地上に存在しない言語だったのかと言えば、そうではない。それは、続く記述からも分かるように、語っていた本人にとっては、「他国のことば」であったが、そこにたまたま居合わせてその異言を聞いていた目撃者たちにも、それを自分の母国語として明瞭に理解することができたのである。

「さて、エルサレムには、敬虔なユダヤ人たちが、天下のあらゆる国から来て住んでいたが、この物音が起こると、大ぜいの人々が集まって来た。彼らは、それぞれ自分の国のことばで弟子たちが話すのを聞いて、驚きあきれてしまった。彼らは驚き怪しんで言った。「どうでしょう。いま話しているこの人たちは、みなガリラヤの人ではありませんか。それなのに、私たちめいめいの国の国語で話すのを聞くとは、いったいどうしたことでしょう」(使徒2:5-8)

そこで、以上の記述から、異言とは、神の霊が信者に語らせる言葉という意味では、「神のことば」とも呼ばれ、パウロは、「異言を話す者は、人に話すのではなく、神に話すのです。というのは、だれも聞いていないのに、自分の霊で奥義を話すからです。」(Ⅰコリント14:2)と、特定の聴衆を想定して語られない異言は、人が神に向かって祈ることばであると述べてはいるものの、だからと言って、異言は、初めから人間を聞き手として排除する、人間の知性によっては全く理解できない言語メッセージではなかったことが分かるのである。

以上に挙げた記述から分かることは、異言とは、御霊によって信者が語らせられることばであるとは言え、それには通常の言葉と同じように、明確な意味と、伝達内容が伴っており、人間が聞いて理解可能な、しかも地上の特定の言語で表現されたメッセージだったということである。

従って、異言とは、人がトランス状態に陥って口にする訳の分からない戯言や、また、俗に言われる「天使用語」やら「霊界からの信号」といった、誰にも存在することが立証不可能な怪しいコミュニケーション手段とは明確に区別されるべきである。

さらに、異言の話し手は、意識喪失や夢遊状態に陥ることなく、主体性を失わずに語っていた。それは「預言者たちの霊は預言者たちに服従するものなのです。」(Ⅰコリント14:32)という御言葉からも分かる通りであり、多くの場合、語る者自身が、その意味を解き明かし、あるいは、他の信者たちがそれを解き明かすことによって、彼らは自分たちが何を話しているのか、明確に内容を理解していたものと考えられる。

最初のペンテコステの時、弟子たちが御霊に促されて語っていた異言のメッセージの意味内容が具体的にどんなものだったのか、聖書には記述はないが、以下の御言葉から、真理の御霊がどのような役割を担っているのかを考えれば、その内容もおのずと想像できる。

「わたしには、あなたがたに話すことがまだたくさんありますが、今あなたがたはそれに耐える力がありません。しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。御霊はわたしの栄光を現します。わたしのものを受けて、あなたがたに知らせるからです。」(ヨハネ16:12-14)

「わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち父から出る真理の御霊が来るとき、その御霊がわたしについてあかしします。あなたがたもあかしするのです。初めからわたしといっしょにいたからです。」(ヨハネ15:26-27)

人となって来たイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです。それによって神からの霊を知りなさい。」(Ⅰヨハネ4:2)


以上の御言葉に照らし合わせると、キリストの御霊(聖霊)の目的は、第一に「人となって来たイエス・キリストを告白」し、「わたし(=イエス)についてあかし」し「わたし(=イエス)の栄光を現」すことにあると言える。
 
そこで、真理の御霊が弟子たちに語らせた異言も、その内容は、「人となって来たイエス・キリストを告白する」こと、つまり、人類の罪の身代わりに十字架で死なれ、復活された「イエスについてあかし」して、「イエスの栄光を現」すこと、もしくは、「やがて起ころうとしていること」を「示す」こと(預言)にあっただろうと想像できる。

たとえ人間の会衆を意図して語られたメッセージでなかったとしても、内容はそのようなものであったろうと想像できるのである。

ところが、Dr.Lukeが異言や、霊の祈りや、言葉自体というものを聖書とは全く別のものとしてとらえていることが、同氏の次のメッセージによく表れている。
 

「今日ちょっと言いたいことはね。前に出エジプトの7の1を見ましたよね。みなさん、信仰っていうのは、じゃあ、どっから生まれるんでしたっけ。信仰は聞くことからくる。聞くことはキリストのことば。あれはレーマです。レーマを聞くこと。

レーマっていうのは、言葉ってのは、前も言ったように振動なんですよ。霊的な振動があるんです。波動があるんです。それの波動に私たちが調和してしているかどうか。

今日は非常に霊の臨在感があって、みなさん異言の祈りが出てましたけれども、あれは内側で霊の振動に私の霊が共鳴しちゃったんですよ。だから自然と音が出ちゃうわけでしょ。祈りってのは知性の祈り、パウロは言っている、霊の祈りと言ってる。知性でも祈ろう、霊でも祈ろう。霊の祈りってのは、直接、この波動が音になること、前にも言いました。それを魂の思いで解釈して言葉にする、これは知性の祈りです。

その祈りはどっから来るのか。この霊の振動があるんですそれにぼくらがチューニングしてる。調和してること。だから、聞くことがすべての鍵なんです。この聞くということ、私たちこれから聞いた者が、勝ちです。」(2:13:40-2:15:12)

神のことばを語るってのは、前も言いました、聖書を朗読することではない。内なる聖霊が動く、神が動く、父が語ることばを語ることなんですよ。イエスご自身がそうやってみわざをしたって言ってるでしょ。わたしがやってるんではないと。わたしがやったわざは全部内なる父のわざ。わたしが語った言葉は全部、内なる父の言葉だと。」(2:28:35-2:29:06)


だが、ここで思い出さなければならないのは、パウロが、言葉というものは、およそ意味と切り離せないものであることを認めており、それは異言も同じであるとみなしていたことである。

楽器で演奏される音楽も、単なる振動や波動の連続ではなく、はっきりした主題や旋律を持っており、それが分かるように演奏されなくては、誰も耳を傾ける人はいない。言語も、聞く人にとって意味の分かるメッセージを伝えなければ、一切は無意味である。異言だからと言って、そうした事情は何も変わらない。

笛や琴などいのちのない楽器でも、はっきりした音を出さなければ、何を吹いているのか、何をひいているのか、どうしてわかりましょう。また、ラッパがもし、はっきりしない音を出したなら、だれが戦闘の準備をするでしょう。

それと同じように、あなたがたも、舌で明瞭なことばを語るのでなければ、言っている事をどうして知ってもらえるでしょう。それは空気に向かって話しているのです。


世界にはおそらく非常に多くの種類のことばがあるでしょうが、意味のないことばなど一つもありません。それで、もし私がそのことばの意味を知らないなら、私はそれを話す人にとって異国人であり、それを話す人も私にとって異国人です。」(Ⅰコリント14:7-11)
 

このように、パウロは、異言を明確な意味を持つものであるとみなし、異言は教会内で聞いた人の徳を高めるべく語られるべきであって、話す人も、聞く人も、誰もが知性で理解できるように、異言が語られると同時に、知性による解き明かしがなされるべきだと教えたのである。

そして、もし教会内に誰も異言を解き明かす人が誰もいないなら、誰にも理解できない音声の羅列を延々と語り続けることは、信徒の誰もにとって無益でしかないので、信者は自分一人だけの場所で異言で祈りなさいと戒めたのである。

また、異言が語られる時には、秩序が守られねばならず、多数の者がめいめいバラバラに同時に異言で祈り始めたりすることによって、解き明かしができなくなり、教会に混乱がもたらされることがないようにと教えた。

「あなたがたが集まるときには、それぞれの人が賛美したり、教えたり、黙示を話したり、異言を話したり、解き明かしたりします。そのすべてのことを、徳を高めるためにしなさい。

もし異言を話すのならば、ふたりか、多くても三人で順番に話すべきで、ひとりは解き明かしをしなさい。もし解き明かす者がだれもいなければ、教会では黙っていなさい。自分だけで、神に向かって話しなさい。預言をする者も、ふたりか三人が話し、ほかの者はそれを吟味しなさい。<略>預言者たちの霊は預言者たちに服従するものなのです。それは、神が混乱の神ではなく、平和の神だからです。」(Ⅰコリント14:26-33)

「こういうわけですから、異言を語る者は、それを解き明かすことができるよう祈りなさい。もし私が 異言で祈るなら、私の霊は祈るが、私の知性は実を結ばないのです。ではどうすればよいのでしょう。私は霊において祈り、また知性においても祈りましょう。霊において賛美し、また知性においても賛美しましょう。そうでないと、あなたが霊において祝福しても、異言を知らない人々の座席に着いている人は、あなたの言っていることがわからないのですから、あなたの感謝について、どうしてアーメンと言えるでしょう。あなたの感謝は結構ですが、他の人の徳を高めることはできません。

私は、あなたがたのだれよりも多くの異言を話すことを神に感謝していますが、教会では、異言で一万語話すよりもは、ほかの人を教えるために、私の知性を用いて五つのことばを話したいのです。」(Ⅰコリント14:7-19)

このように、パウロは、自分自身も異言を語ることができたが、だからと言って、それを誇示するために、誰にも意味が分からない祈りを教会内で延々と捧げるようなことはせず、むしろ、教会内で異言が聞く人に全く理解できない形で語られることを戒めたのである。

「私は霊において祈り、また知性においても祈りましょう」というパウロの言葉は、霊によって異言で祈る時には、同時にその意味が他者に分かるように自ら知性によって解き明かすべきということを指しており、また、異言を語る場合、「ふたりか、多くても三人で順番に話すべきで、ひとりは解き明かしをしなさい。もし解き明かす者がだれもいなければ、教会では黙っていなさい。」と、複数の者が同時に異言で祈るようなことがないよう規定した。

ところが、Dr.Lukeはこれに逆らって、全く逆のことを行うのである。KFCの集会は常にそうであるが、彼らは異言の意味を、聞く者の徳を高めるために解き明かすことなど、初めから考慮に入れていない。そして、聞く者はおろか、語っている本人にさえ、理解できない意味不明な「言語」を、延々と集団的に同時に垂れ流し、自己陶酔に浸るのである。

このように、KFCが知性による異言の解き明かしを軽んじるのは、もともとDr.Lukeが、「言葉ってのは、振動なんですよ。」、「霊の祈りってのは、直接、この波動が音になること」と述べていることから分かるように、彼らが霊の祈りというものを「意味」を基に生まれるのではなく、単なる「振動・波動」を出発点にしているに過ぎないとみなしているためである。

もともと単なる「振動」でしかないものを、魂の思いで解釈することなど誰にもできない相談である。彼らの語っている「異言」とは、最初から単なる「振動」でしかなく、何のメッセージも伴わない無意味なものであるからこそ、KFCの異言には誰もその内容を解き明かす者がいないのである。

そのようなものは、聖書の言う異言には該当しない。そのような意味を持たない音声の羅列は、言葉とも呼べず、祈りとも呼べず、単なる雑音に分類されるのが最もふさわしい。内容もなく、聞き手も存在しない、誰に向かって捧げられるのかも分からない、宙に向かった「祈り」をどれほど延々と続けても、語る本人にも、聞く人にも、まるで人生の浪費でしかなく、教会内の徳はますます下がって行くだけである。
 



・霊の事柄をこの世の事象によってしか解釈できないDr.LukeとKFC

さて、Dr.Lukeが、以上に挙げたメッセージの中で、「言葉ってのは振動なんですよ。」と述べ、「霊の祈り」もまた、「霊的な振動、波動」に過ぎないとしている荒唐無稽なメッセージから分かるのは、同氏が霊に属する事柄を、何とかして自分の感覚体験と、この世の物理現象を通して理解できる形に歪曲しようと試みて、様々な捏造された概念を作り出している様子である。

聖書には、生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。」(Ⅰコリント2:14)とある。

このように、聖書の霊的な事柄をこの世の物理現象を通して理解することは誰にもできないのである。しかし、Dr.Lukeは全く「生まれながらの人間」のやり方で、霊的な事柄を解釈しようとして、その結果、こじつけと歪曲に満ちた説明を作り出す。そのことは、同氏が霊に属する事柄を何ら自分自身では本当に体験したことがないという事実を明確に物語っている。

まず第一に、誰にでも分かることであるが、「振動」や「波動」というのは、物理的時空間の中でしか発生しない、この世の物理現象である。地上における言葉の伝達の場合も、話し手と聞き手の間に、距離があり、そこに空間的な隔たりが横たわっているからこそ、話し手の発した音声が、振動やら波動やらの形になって、時間の経過と共に空間を伝わり、聞き手に届くのである。

そこで、もし仮にDr.Lukeの言うような「霊的な振動や波動」というものが存在するのだと仮定すれば、霊的世界にも、この物質世界と同じような時空間が存在しているということになり、さらに、「霊的振動や波動」が起きるためには、神の霊と人の霊との間に距離がなくてはならない。

しかしながら、そんな記述は聖書にはないのである。まず、聖書によれば、時空間とは、それ自体がこの世に属する被造物であると言え、それはあくまでこの世(物質世界)に固有のものである。他方、神の霊的秩序は時空間によって限定されない永遠性を伴うものである。天地創造以前、この世界が滅びた後のことについて、聖書にどのように記述されているかを見ればそれは分かる。そこには時空間が存在せず、神の永遠の霊的秩序が存在するのである。

また、聖書によれば、「あなたがたの中におられるキリスト」(コロサイ1:27)と言われる通り、キリストは御霊として信者の内に住んで下さるので、神は霊と人との霊の間には、距離というものが存在しない。そこで、神の霊は、信者の霊に直接、物事を伝えることができ(=啓示)、そこには空間的隔たりがないため、御霊による啓示が、振動や波動という物理現象を通じて信者の霊に伝達される必要がないのである。

こうして、神の啓示は、信者の内に住んでおられるキリストを通して、信者の霊に直接、啓示される。信者は信仰を通して、また自分の霊に備わる直覚の機能を通じてこれを受け取り、魂の思考によってその意味を解釈する。

こうしたことは、一度でもキリストの御霊によって啓示を受けたことのある人ならば、誰でも分かるはずのことである。

もし信者が直覚の機能を研ぎ澄まし、御霊の啓示を受けたいと願うならば、その信者は、Dr.Lukeの言うように、「霊の振動や波動」に自分自身をチューニングするのではなく、神の御思いにこそ、心を「チューニング」すべきなのである。

「いったい、人の心のことは、その人のうちにある霊のほかに、だれが知っているでしょう。同じように、神のみこころのことは、神の御霊のほかにはだれも知りません。」(Ⅰコリント2:11)
とあるように、御霊は、神の御心を信者に知らせるが、神の御心とは、何よりも、御言葉を通して信者に明らかにされており、御霊は御言葉(ロゴス)を信者の内側で生きたもの(レーマ)として下さるのである。御霊は、御言葉が死んだ文字ではなく、その意味が生きた現実となって効力を及ぼすことを信者にはっきりと内側で教えてくれるのである。

そこで、御霊の賜物や啓示を受けたいと願う信者は、ダビデが言ったように、「まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ぐさむ」(詩編1:2)という例にならい、常日頃から聖書の御言葉によく親しみ、神の命令である御言葉に思いを馳せ、御言葉の戒めを守って、神に喜ばれる生活をして、すべての出来事の内に神を待ち望むべきなのである。

聖霊は必ず御言葉に合致したことを語り、御霊が、御言葉に反する内容を語ることはない。御言葉を通して、何が神に喜ばれる聖なる事柄であり、何が神の忌み嫌われる、悪魔的な事柄であるか、その違いを明確に信者に教える。そして、信者がこの世を愛することなく、神の戒めを守って生きるよう教える。

このように、神に近づくことは、清い生活を送ることと不可分の関係があり、神とこの世を両方愛した二心の状態のまま、神に近づける人間はおらず、信者が二心のまま「聖霊にバプテスマ」にあずかることもあり得ない。

ヤコブの手紙にはこうある。貞操のない人たち。世を愛することは神に敵することであることがわからないのですか。世の友となりたいと思ったら、その人は自分を神の敵としているのです。それとも、「神は、私たちのうちに住まわせた御霊を、ねたむほどに慕っておられる。」という聖書のことばが、無意味だと思うのですか。」(ヤコブ4:4-5)

「神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。罪ある人たち、手を洗いきよめなさい。二心の人たち。心を清くしなさい。」(ヤコブ4:8)

そこで、信者がもし御霊の賜物としての異言や預言を受けたいと願うならば、まず第一に、彼は聖書の御言葉の戒めに従った清い生活を送らなければならないことは言うまでもない。

ところが、Dr.Lukeは、こうした点を全て無視して、世と世の欲との関係を断たない二心の状態のまま、異言や聖霊を受けたかのように装い、その際、御言葉への自らの不従順の罪を覆い隠すために、"surrender"(従う)とは、「手を挙げること」などと主張して、御言葉への従順の概念を骨抜きにし、さらに、「言葉ってのは、振動なんですよ。」、「霊の祈りってのは、直接、この波動が音になること」などとして、聖書の御言葉そのものや、異言をも、単なる「振動」に過ぎないとし、事実上、聖書の御言葉から意味を全く除き去ってしまうのである。

そうして、信者が思う存分、この世とこの世にあるものを愛し、己の欲望に邁進しながら、同時に、そのような二心の人間にも神は聖霊を賜るのだと偽りを主張するのである。

そのような人間を導いている霊が、神の聖霊であることはあり得ない。それは聖霊を装っているだけの「この世の霊」(Ⅰコリント2:12)であり、この世の霊であればこそ、この世の罪を大目に見て弁護し、人類の罪を否定して、キリストを単なる人間に引き下げ、自分たちと同一視し、キリストの貴い贖いを否定するのである。

こうして、十字架に敵対して歩んでいる彼らの心は、貪欲な欲望に満ちており、常に地上のことだけでいっぱいで、まことの神を退けて、己の欲望を神とし、それを正当化するために、偽物の概念ばかりを作り出し、神の霊に属する事柄を全くわきまえることができないでいるのである

「というのは、私はしばしばあなたがたに言って来たし、今も涙をもって言うのですが、多くの人々がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。彼らの最後は滅びです。彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。彼らの思いは地上のことだけです。」(ピリピ3:18)



 ・「異なるイエス」、「異なる福音」を宣べ伝える反キリストの霊

聖書は、神の聖霊に偽装する「反キリストの霊」というものがれっきとして存在することを教えている。そこで、信者がすべての霊を安易に信じることなく、霊を試して、本当にそれが神から出たものであるのかを見分けるよう促している。

愛する者たち。霊だからといって、みな信じてはいけません。それらの霊が神からのものかどうかを、ためしなさい。なぜなら、にせ預言者がたくさん世に出て来たからです。」(Ⅰヨハネ4:1)
 
「しかし、蛇が悪巧みによってエバを欺いたように、万一にもあなたがたの思いが汚されて、キリストに対する真実と貞潔を失うことがあってはと、私は心配しています。
というわけは、ある人が来て、私たちの宣べ伝えなかった別のイエスを宣べ伝えたり、あるいはあなたがたが、前に受けたことのない異なった霊を受けたり、受け入れたことのない異なった福音を受けたりするときも、あなたがたはみごとにこらえているからです。」(Ⅱコリント11:3-4)

霊を試して出所を見分けるとは、その霊が語っているメッセージ内容を聖書に照らし合わせて逸脱がないかを吟味することに他ならない。上記の御言葉は、悪魔の偽りとして、「異なるイエス」、「異なる霊」、「異なる福音」が存在し、神の聖霊に偽装する「異なる霊」も、たくさん世に出てきていることを教えている。

悪霊の教えには聖書のような首尾一貫性がなく、調べれば必ず、数々の自己矛盾、論理破綻、聖書の御言葉への不一致が見つかる。

特に、「人となって来たイエス・キリストを告白する例はみな、神からのものです。それによって神からの霊を知りなさい。イエスを告白しない霊はどれ一つとして神から出たものではありません。それは反キリストの霊です。」(Ⅰヨハネ4:2-3)とあるように、悪魔に由来する偽りの霊は、とりわけ、イエスの定義を歪曲する。そうすることで、信者たちに贖い主としての力を持たない偽物のイエスを信じさせ、それによって彼らがキリストの救いを失うよう仕向けるためである。

ここで言われている「人となって来たイエス・キリストを告白する」とは、ただ単にイエスの受肉を認めることだけを意味しない。それはカルケドン信条に定義されているような、完全な神性・人性を持つ神の独り子としてのイエス・キリストを認め、キリストが人類の罪の身代わりとして十字架で贖いとなられた事実を認めることである。

しかしながら、すでにこの時点で、Dr.LukeやKFCの主張する「霊」は重大な違反を犯していることが明らかである。すでに確認したように、Dr.Lukeは、イエスは「人間であるわたしたちと共有点を持つために人となった」と述べ、また、イエスが「私たちと全く同じ、人間」であると主張することによって、カルケドン信条に定義されているような完全な神性・人性を備えたイエス・キリストを否定して、人類の罪を否定し、キリストが罪なき神の独り子として、人類の贖いのために十字架にかかられたという聖書の事実を否定しているからである。

そこで、Dr.Lukeのメッセージ内容から、同氏とKFCが宣べ伝えているものは、聖書とは「別のイエス」「異なる福音」であり、このような歪曲されたイエスを宣べ伝える霊が、神から出たものであることはあり得ない。

こうして、「人となって来たイエス・キリストを告白」せず、「イエスに栄光を現し」てもいない彼らの霊は、当然ながら、「異なる霊」であり、「反キリストの霊」であると明言できるのである。



・「地の果てまでキリストの証人となる」ためでなく、自分が高次の存在に高められて「神のようになる」ために聖霊のバプテスマや異言を追い求めるペンテコステ・カリスマ運動

聖書に記述された聖霊降臨の場面で、弟子たちが語り出した異言が、地上に確かに存在する人間の言語であり、それを聞いて理解する者たちが立ち会っていたということには、実は、深い意味が込められている。

それは、この記述が、創世記のバベルの塔における混乱と分裂に対する明らかな対比だからである。

創世記におけるバベル塔建設の場面で、人類が神を排除して地上に自力で一致を打ち立てることによって、自らの力で神の領域に到達し、神を超えようと試みたとき、神はその反逆的な試みを押しとどめるために、「彼らのことばを混乱させ、彼らが互いにことばが通じないようにし」、なおかつ、「人々を、そこから地の全面に散らされた」(創世記11:7-8)。

しかし、キリストが十字架の死と復活を経られ、天に昇られ、キリストの御霊が信じる者たちに下ったことによって、かつて神ご自身が混乱させた人類の言語に、人類が自力ではなし得ない理解の一致が天的方法によって与えられたのである。それが起きた場所は、地上のエルサレムであり、しかも、立ち会っていた人々も、必ずしも信仰者でなかったにも関わらず、集まって来ていた人々の間に、言語の壁を超えた理解が成立したのである。

このことは、やがてキリストご自身によって、すべてのものが一つに統合されること、すなわち、「天にあるものも地にあるものも、いっさいのものが、キリストにあって一つに集められること」(エペソ1:10)の予表である。

人類が自力で団結して神を凌駕しようと建設したバベルの塔は(終末には、大いなる都バビロンにまで発展している)、何度建設されようとも、常に分裂と混乱しかもたらさず、目指している一致に到達せずに失敗に終わるのに対し、神が御霊によって建造される天の都には、キリストにある真の一致がもたらされるのである。

そこで、聖霊の賜物としての異言も、このような観点から見ると、なおさら、意味不明な音声によって、聞く者を煙に巻いたり、あるいは、人々を互いに意思疎通不可能にして分裂をもたらすために与えられるものでなく、かえって人類が国籍や言語を含め、生まれ持った全ての隔たりを超えて、キリストにある信仰の一致に至るために与えられるのだと言えよう。

それへあ、最初のペンテコステの場面で、必ずしも信仰者でない人が異言を聞いて内容を理解したという聖書の記述にもよく表れている。異言が、神に向かって話すことばだとされながら、信仰者でない人間がたまたまそれを聞いてその意味を理解したというこの記述は、神は誰に対しても分け隔てなく福音の扉を開いておられ、キリストにある一致から一方的に誰かを排除するおつもりがないことをよく表している。

神は、できるなら誰一人排除することなくキリストにある一致、調和に至らせ、人々を一つに集めたいと願っておられる。たまたま弟子たちと共に居合わせた信仰者でなかった人々までが、弟子たちの異言を通して、キリストについての証を母国語で聞くことになったという事実は、万人に対する神のわけ隔てのない福音への招きを示している。聖霊は、そのように、エルサレムから始まって全世界に福音が宣べ伝えられるために与えられたのであり、一部の人々が、他の人々には全く分からない形で「神と交信して」自己満足に浸るために与えられたわけではないのである。

「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。」(使徒1:5)
 
「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」(使徒1:8)

ペンテコステ・カリスマ運動は、以上のような主イエスの記述を基にして、信者が「聖霊のバプテスマ」を受けるという個人体験を重視し、なおかつ、信者が「聖霊のバプテスマ」を確かに受けたしるしとして、必ず「異言が伴う」はずだと主張して、聖霊降臨を重視して、そのための特別待望集会を開いたり、信者に異言で祈ることを特に熱心に勧めている。KFCも同じ立場に立って、異言の集会を毎回のように開いているのである。

しかし、以上の御言葉からも分かるのは、信者が聖霊を受けるのは、「地の果てまで、キリストの証人となる」ためであり、神の敵から来るあらゆる妨害や危機を耐え抜いて、キリストの十字架の死と復活をあまねく全地に宣べ伝えるという目的のためなのである。

ところが、上記のようなペンテコステ・カリスマ運動の支持者たちが、「聖霊のバプテスマ」や「異言」を重んじているのは、これとは全く異なる目的のためである。以前にも挙げたように、カリスマ運動の指導者である手束正昭氏は次のように書いている。
  

「 聖霊の働くところ、聖霊に満たされるところ、質の高い人生や生活が生まれてくる。創世記二章七節の後半に、『主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった』とある。“神のかたち”としての人間というのは、生物学的意味ではなく、霊的意味即ち“クオリティ・オブ・ライフ”質の高い命を持った人のことである。
その最高の体現者こそナザレのイエスであり、この方こそその霊的命を完全に全うされたのである。そして、私たちもまた、聖霊によって、ナザレのイエスのように質の高い人生、生き方をすることが可能とされている。

キリスト教とは『聖霊による可能性の宗教』だと、私は主張してやまない。そして『聖霊による可能性の宗教』とは、即ち真の“クオリティ・オブ・ライフ”であるといえる。まことの質の高い人生、生き方を保証するのが聖霊である」(聖霊の新しい時代の到来』、手束正昭著、マルコーシュ・パブリケーション、2005年、p.170-171)

 
ここでは、聖霊が与えられる目的が、完全に歪曲されており、それはキリストの十字架の死と復活を地の果てまで証する証人となるために与えられるのではなく、信者自身が、霊的に「神のかたち」に似たものとされて、「ナザレのイエスのように質の高い人生、生き方をする」ためだというのである。

ここで使われている「質の高い命(クオリティ・オブ・ライフ)」という言葉にも注意が必要である。命に高等とか下等とかいう質の差があるということが前提にないと、このような言葉は発せられない。確かに、神の非受造の永遠の命である御霊は、人の生まれながらの有限な命とは全く異質なものであるが、異質であるがゆえに、それらは比較もできないし、その違いは、高等とか下等とかいった質の差にはないのである。

同じ性質の命であれば、比較もできようが、神の永遠の命としての御霊は、人の生まれながらの被造物の命とは全く性質が異なる。ところが、ここで手束氏は、あたかも、人の生まれながらの命を進化させ、その質をより一層高めた「高等な命」が、聖霊であるかのようにみなしているのである。

手束氏は、「イエスは生まれにおいては単なる人間に過ぎなかったが、聖霊を受けることによって神の養子に引き上げられた」(養子論的キリスト論)と主張するが、それと同じ理屈を人間にもあてはめ、事実上、「信者はより高等な命である『聖霊』を受けることによって、高次元の存在へと引き上げられ、他の人々には達し得ない、より質の高い人生を送ることができる」と言っているのである。

これは、人は霊界からの高次元の霊を受けることによって、高次の存在へと引き上げられるとする心霊主義のアセンションの定義の変型であるとみなせる。聖霊を受ける目的が、キリストの死と復活の証人となるためではなく、人自身の自己高揚と自己満足のため、人が自分自身を「より高次の存在へと高め」て、自己満足に浸るためにすりかえられているのである。

つまり、ペンテコステ・カリスマ運動の言う「聖霊のバプテスマ」とは、信者が「キリストの証人」となって、福音を地の果てまで宣べ伝えるために与えられるものではなく、人が正体不明の「高次元の霊」を受けて、霊界と交信しながら、「神の臨在に浸され」、「神と交わる」ことによって、「高次元の存在に高められる」ことを目的とする、聖書の言う「聖霊のバプテスマ」とは全く別物の偽物体験なのである。

それは徹頭徹尾、人が己を喜ばせ、自分が高められたことを確認して自己満足するために求める個人体験なのだと言える。そのような「霊」を受ければ、自分は他の信者たちとは別格の、より高次の存在へと引き上げられるとみなしていればこそ、この運動に関わる信者たちは、そのような「個人体験」を誇り、これを極めて重視し、競うように追い求めるのである。
 
これと同様の考えが、以下のサンダー・シングの記述にも見て取れる。サンダー・シングはここで、「神の甘美なる臨在」を楽しんだ者たちだけが、真の「証人となる」と述べ、「祈りの中で神との交わりを持たない者は人と呼ぶに値しない」とまで言い切って、自分のように「神との甘美なる交わり」という個人体験を知らない信者たちを人間以下の存在として見下している。

「<略>神の聖旨は、その甘美なる、生命を分かち与える臨在を楽しんだ者たちが証人となることにある。個人体験こそが、理屈によるどんな証拠よりも納得できる証明となるからだ」(『聖なる導き インド永遠の書』、p.296)

「<略>祈りの中で神との交わりを保たない者は人と呼ぶに値しない。彼らは、決まった時に決まったやり方で決まった事をするような訓練された動物に似ている。動物よりもなお悪い場合がある。それは、彼らが自分だけでは無に等しいことを悟らず、神との関係も、神と人とに果たすべき義務も悟ることがないからである。だが、祈りの人は神の子らとなる権利を手にし、神によって神の似姿へと象られてゆく。」(同上、p.149)


これでなぜペンテコステ・カリスマ運動の支持者が「神との甘美なる交わり」としての「聖霊のバプテスマ」という個人体験をしきりに追い求めるのか、その目的も理解できたと言えよう。その目的は、手束氏や、サンダー・シングの次の言葉に明確に現れている、「私たちもまた、聖霊によって、ナザレのイエスのように質の高い人生、生き方をすることが可能とされている。」、「祈りの人は神の子らとなる権利を手にし、神によって神の似姿へと象られてゆく。

つまり、彼らが「霊」との交わりを追い求めるのは、それによって自分自身を高次の存在に高め、神に似た者になり、「神のようにな」る(創世記3:5)、すなわち、「神になる」ためである。

サンダー・シングは、以上の引用の中で、人はキリストの十字架の贖いを信じて受け入れることによって、神の子らとされるのではなく、霊界からの正体不明の霊を受け、これと交わり、甘美な臨在に浸るという個人体験によって、「神の子らとなる権利を手にし、神によって神の似姿へと象られてゆく」と述べている。手束氏の主張とほぼ同様である。
 
また、Dr.Lukeが神との交わりが「甘い」としきりに強調していたことや、鈴木大拙氏の言った「二度目の林檎を食べねばならぬ」という言葉が思い起こされる。

むろん、そんな教えは聖書にはなく、キリストの十字架の贖いを信じずして、人が正体不明の「霊との交わり」によって、「神に似た者」とされることなどあり得ない。

だが、以上のような人々は、有史以来、ずっと「神のようになる」ことを追い求めて、聖書の御言葉を知性によって吟味し、これに従い、守ることを捨てては、己の情と欲に誘われて、「まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった」(創世記3:6)とされる、神が食べてはならないと禁じられた禁断の木の実ばかりを食べ続けて、神に逆らっているのである。悪魔の誘惑の手法は太古から現在に至るまで、全く変わらないことがよく理解できよう。

 
<続く>

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神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)

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