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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

「イゼベルの霊」によるキリスト教の乗っ取り運動としてのペンテコステ運動

・ペンテコステ運動は「イゼベルの霊」によるキリスト教の乗っ取り運動である

これまでの当ブログにおける一連の記事を通して、「イゼベルの霊」の特徴を分析することで、筆者が一体、何を示そうとしているのか、その内容は、ある程度、読者に伝わっているのではないかと思う。

だが、もし伝わっているとしても、あえて踏み込んで説明を続けなければならない。「イゼベルの霊」とは、すでに述べた通り、人の罪悪感や、負い目の意識を足がかかりにして、他者の心に入り込み、他者の人格を乗っ取って支配しようとする「異常な母の霊」である。

悪魔が光の天使を装うように、この忌むべき「母の霊」は、愛情深く、献身的で、敬虔な慈母のような姿をして近づいて来る。だが、彼女の目的は、心傷ついて被害者意識を持つ人間を、真の自由と解放へ導くことにはなく、うわべでは優しく同情的なそぶりを見せながら、傷ついた人の心の弱点に取り入って、彼らを自分の欲望をかなえる道具として支配することにある。

だから、イゼベルの霊に捕まった人々は、彼女の霊の支配下にいる限り、怨念や被害者意識から永久に解放されることはない。心の傷を癒されるどころか、ますます傷が深まって、健全な自尊心を失って行くことになる。そのようにして、被害者意識から立ち上がれなくなり、最後には、何をするにも、彼女からの偽りの慰めと励ましがなければ行動できないほどまでに、自尊心を失って行くことが、彼女の支配の狙いなのである。

イゼベルの霊は、グノーシス主義を起源として生まれており、この霊そのものが被害者意識の塊である。彼女は、外見的には、ただ一人のまことの神を信じている敬虔な信者のように振る舞うかも知れないが、その実、神以外に多くの愛人を抱え、神への貞潔さはなく、彼女は夫を裏切る人妻であるバビロンと同質である。

彼女は、「子ら」を自分の欲望の道具として支配することで、神への反逆へと駆り立てる。この霊の最終目的は、神への反逆と裏切りによって生んだ自分の「子ら」と一体となって、「自分たちこそが神の家の正統な後継者である」と名乗り、父なる神を押しのけて、自分たちこそが神であるとして、神の家を占領し、自分たちを一家の主人に据えることにある。

要するに、イゼベルの霊は、キリスト教に偽装する偽りの霊による、キリスト教の乗っ取りを目的としているのである。

これまで見て来たように、ペンテコステ運動はまさにイゼベルの霊に率いられる疑似キリスト教に他ならない。そうである以上、この運動は、キリスト教を敵視し、最終的には、キリスト教を凌駕し、駆逐し、神の家を乗っ取ることを目的にしているのである。

さて、このような異常な運動を端的に表す特徴としては、「無秩序と混乱」、「被害者意識」、「霊的姦淫」などの用語が挙げられるであろう。以下で分析するように、ペンテコステ運動につきもののこうした悪しき特徴は、この運動が神の正しい聖霊に導かれていないことの何よりの明白な証拠である。


・ペンテコステ運動を導く「イゼベルの霊」が信者たちと結ぶ「被害者意識によるソウル・タイ」

ペンテコステ運動の信者たちは、他のプロテスタントのキリスト教界とはやや異なる独特の社会層の出身であることが多い。一言で言えば、ペンテコステ運動は、もともと無学で貧しく、社会や教会からも見放されて行き場を失ったような人々を、「聖霊による超自然的な癒しや回復」などの超常現象や、異言などの神秘体験によって引きつけ、社会的弱者を主な伝道対象として始まった歴史を持つ。そこで、今日でも、この運動の信者の中には、社会的弱者が極めて多く、現在は、元カルト団体の信者や、元ヤクザ、元ホームレス、元麻薬中毒患者、病者、障害者、社会的マイノリティ、キリスト教界につまずいた過去を持つ信者など、社会から疎外されたり、冷遇された背景を持つ信者が多数在籍している。

このように、もともとキリスト教界からも伝道対象とみなされず、社会でも冷遇されて、行き場を失ったような信者たちを数多く集めていることから、ペンテコステ運動に関わる人々は、極めて被害者意識の生じやすい環境にあると言える。

この運動においては、信者や指導者が講壇に立って、信仰の証として、既存の教会で信仰生活につまずいた体験や、病に苦しんだり、人生における様々な挫折体験に苦しんだ記憶などの、過去の負の体験を積極的にアピールし、そうした体験によって人々の注意を引きつけるような伝道方法を行っているケースも多い。

こうした告白の内容は、表向きには、神を証する内容の形を取っているかも知れないが、実際には、同性愛者などの「カミングアウト」と極めてよく似ている。

そうした告白は、問題を抱えた信者が、自分と同じような問題を抱える信者たちのコミュニティに所属し、問題を互いに確認し合うことによって、その問題を「無害化」し、自分たちが持っていた恥の意識や、負い目や、劣等感を払拭し、負のアイデンティティから解放されようとするものである。

自分たちが過去に受けた心の傷や、挫折体験や、社会で疎外された記憶や、追い詰められた状況などを積極的に人前でアピールし、他者と問題を共有し、連帯することで、それが問題であるという意識を捨て去り、集団的に自己肯定感や、慰めを得るのである。

筆者は、こうした「カミングアウト」のような告白から生じる同情や共感や連帯感を、正常なものとは全くみなしておらず、そうした告白が、神の栄光を証するものであるとも思っていない。

むしろ、そういう告白は、彼らの抱えている問題や、疎外感、負い目の意識、劣等感をより強固にし、キリストの十字架に渡すことなく、自己のアイデンティティの一部にまで高めて行くものであり、そういう告白は、イゼベルの霊がしのびよって来てその信者と強固なソウル・タイ(魂の結びつき)を結ぶには極めて好都合である。

悪霊は、人の魂に傷口がない限り、侵入することができない。他者に対する怨念や、赦せない心や、被害者意識などの負の記憶がなければ、悪霊は侵入口を得られない。そして、悪霊は、人の心にそういった負の記憶がない場合には、新たにそれを作り出すことによって、罪悪感を植えつけ、それを手掛かりに人をコントロールして行こうとする。

「被害者意識」による連帯(ソウル・タイ)が、悪霊によるいかに強力なマインドコントロールの手段となるかは、統一教会などの団体を見ればよく分かる。

統一教会は、アダム(夫)とエバ(妻)との関係になぞらえて、韓国を「アダム国家」、日本を「エバ国家」と呼び、日本は「加害国」であるから堕落した悪魔の国とした上で、「被害国」である韓国に謝罪し償いを果たさねばならないと教える。そうした理屈を用いて、この偽りの宗教は、日本人妻たちが集団で韓国の貧しい農村に嫁ぎ、強制に近い結婚を通して、韓国人の夫に仕え、あるいは日本にいる信者たちが多額の献金を韓国の教会に送ることで、「被害国」に償いを果たすべきであると教える。このように歪められた概念としての「アダム」と「エバ」の関係は、統一教会においては、国家だけでなく、信者間にも、主従関係に等しいものとして適用されるようである。

このように、社会におけるすべての関係を「加害者・被害者」の二項対立を通してしか理解せず、特定の人々の「被害者意識」を事実上「神聖視」することで、他者の心に罪悪感や負い目の意識を植えつけ、その人間を思い通りに支配して行く手がかりにしようというのが、この団体の狙いである。だから、この団体に入信した日本人は、自らを「罪深い加害国」の人間であるとみなし、懺悔と自己批判を繰り返しながらも、同時に、「被害国」の立場に立って全ての物事を見、他者の「被害者意識」に自分を乗っ取られてしまうのである。

ペンテコステ運動は、その思想的構造をつぶさに観察してみれば、まさに統一教会とほとんど変わらない構造を持っていることが見えて来る。

特に、ペンテコステ運動に属するアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の繰り広げるカルト被害者救済活動などには、以上に挙げたような「加害者・被害者」という単純化された図式が極めて特徴的に表れていると言えよう。

しかも、この被害者運動を率いる村上密牧師は、統一教会の出身である。筆者の見立てでは、村上密牧師は、統一教会を脱会した後でも、統一教会流の「加害者・被害者」の二項対立に基づくものの見方を脱することができず、脱会後も、自分が「加害者」サイドに立っているという負い目から、「被害者」に償いをせねばならないという切迫した強迫観念に駆られて、カルト被害者救済活動にいそしむことによって、統一教会時代と同じように、被害者に対する償いを果たそうとしているのである。

現在の村上氏にとって、「加害者」とは、多くの信者をつまずかせて教会から外に追いやったり、神社に油をまくような非常識な牧師を登場させる「キリスト教」そのものである。つまり、自身もプロテスタントの牧師でありながら、同氏は自らの属するキリスト教そのものを「加害宗教」とみなし、加害者側に立って、罪の意識から、被害者に対する償いを続けているのである。

フェミニズム神学者は、キリスト教を「父性原理の二分性によって多くの信者たちをつまづかせ、精神病理に追い込む偏った欠陥宗教」とみなして、キリスト教に「有罪」を宣告したが、以上のような被害者救済活動に携わる人々も、聖書の二元論に罪があるかのように訴えて、キリスト教を悪者とし、牧師を悪者とし、教会を悪者とし、そして、キリスト教によって傷つけられた被害者は正しい、とみなしているのである。そして、自分ばかりか、他のクリスチャンたちもみな同じように、加害宗教の信者としての負い目を持って、教会につまずいた哀れな「被害者」たちの「救済」に助力すべきだと主張しているのである。

だが、聖書に照らし合わせれば、このような考えがいかに本末転倒であるか分かろう。キリストの十字架は、人間の罪の赦しのために与えられたのであって、その贖いを信じて受け入れた信者が、もはや罪悪感に悩まされる必要はない。可哀想な人々の救済にどんなにいそしんでも、それによって人が自分自身の罪を贖うことは不可能であり、また、それによって他者の魂が救済されることもない。

しかしながら、上記のような人々は、キリストの救いを受け入れたように見えても、魂の深いところで結ばれた「被害者とのソウル・タイ」は消えないのである。だから、一つのカルト団体を脱会し、キリストの贖いを信じて受け入れても、罪悪感から解放されず、未だに自分を加害者の一部のようにみなし、自分の入信した宗教をさえ悪者としながら、弱者に対する罪の意識ゆえに、贖罪行為にいそしむことをやめられないのである。

筆者は、カルトを脱会した人が、真に神に出会って正常な信仰生活に至ることは無理なのだとまでは決して言うつもりはない。だが、カルトを脱会した人には、非常に深刻な心理的な課題があって、脱会したからと言ってそれで問題は終わらず、また、その問題は、カルトによるマインドコントロールの悪影響などと言った表面的な事実よりも、もっと深いところから生まれているものであることを見なければ、その人の生涯に根本的な変化が訪れることはないと考えている。

カルトのイデオロギーに心を惹かれて入信する人には、それに親近感を抱くだけの思想的な土台が、入信前から、すでに心に形成されている。その人の培った世界観そのものが、カルトと似たような思想的特徴を持っているのである。だからこそ、その人はカルトに勧誘された時に、そこに自分と同種のものを見いだし、その思想が偽りであることを見抜けなかったのである。

そうした事実を本人がきちんと見据え、自らの成育歴にまでさかのぼって、自分の心理的な弱点が発生した根本原因を探り出し、これを取り除くことをしなければ、その人は同じ心の弱点を抱えたまま、二度でも、三度でも、同様の過ちを犯し続ける可能性が高い。

以前にも書いたが、「被害者意識(イゼベルの霊)との強力なソウル・タイ」の土台となるものは、カルト団体への入信などよりももっと前から、すでに本人の魂の中に築かれていることが多い。幼い頃や多感な時代に目撃した何かの決定的な痛ましい事件によって発生した心の傷が、最初の明白な「被害者意識によるソウル・タイ」の現われとなることが多いのである。

たとえば、幼い頃に身近な誰かの自殺などの事件に遭遇すると、その出来事を目撃した人の心には、自分はその人を救いなかったという無力感、罪悪感が発生することがありうる。そうした人たちは、大人になっても、負い目の意識を拭い去れず、無意識のうちに、自分の過去を修正するために、過去に遭遇した事件と似たような理不尽の犠牲になっている人たちを探し出し、彼らに助けの手を差し伸べることで、自分自身を罪の意識から救済しようとつとめることがある。

そのような人たちの繰り広げる弱者救済活動は、傍目には、愛情や思いやりに基づくように見えるので、その真の動機が、彼ら自身の罪悪感にあるのだということが見抜かれる可能性は低いであろう。だが、それがもし他者の怨念や被害意識に憑依された人が、自らの罪悪感の重荷から逃れるために行っている活動であれば、それは本質的には、全く不毛な自己救済に終わる。

しかし、人生のある時点で、何らかの痛ましい出来事の記憶を通して、人々の怨念と被害者意識に憑りつかれ、負い目の意識から抜け出せなくなった人々は、魂の内側で、「被害者意識との強力なソウル・タイ」を結び、それがあるために、どこへ行っても、無意識のうちに弱者救済の活動を繰り広げる結果になる可能性がある。早い話が、彼らは他者の被害者意識に呪縛されているのである。

だから、そのようなケースでは、その人は「被害者意識とのソウル・タイ」が発生した根本原因にまでさかのぼって、キリストの十字架においてこの出来事と訣別し、自分の抱える罪の意識を神に解決してもらう必要がある。それをせずに、どんなに自分で罪の意識を払拭しようと償いを繰り返しても、ますます罪の意識にがんじがらめになって行くだけで、その贖罪行為に終わりが来ることはない。そして、そのようなことを続けていれば、最後には、結局、その人は自分自身も被害者意識と一体化して、犠牲者となって終わることになる。そのようにして、ターゲットと定めた人間を自分と同じ破滅へ引きずり込んで滅ぼすことが、イゼベルの霊の目的でもある。

さて、カルト被害者救済活動に関わらず、ペンテコステ運動は、たとえ公然とそのように主張しているわけではないにしても、すでに他の記事で指摘した通り、その理念の構造を調べるならば、初めから、既存のキリスト教界を「加害者」の立場において糾弾し、キリスト教を(その厳しすぎる父性原理の二分性のゆえに、精神病を生み出す)「欠陥宗教」として「有罪」を宣告することで、クリスチャンに罪の懺悔と償いを迫ろうとする性質を持つものであることは明らかである。

そのようなキリスト教に対する被害者意識の霊に導かれていればこそ、この運動は、キリスト教界からも見捨てられ、社会でも疎外されて悩みを抱える人々を主な伝道のターゲットとして定めるのである。

キリスト教界でつまづいた「被害者」を対象とするカルト被害者救済活動などは、決して偶然に生まれたものではなく、この運動がもともと持っていたキリスト教への敵意と憎悪と被害者意識が結晶化しただけであり、この運動がその実、キリスト教それ自体を仮想敵としていることを如実に物語っているに過ぎない。

こうした運動は、早い話が、「キリスト教の被害者」を集団的に組織し、裁判を起こすことによって、他教会の運営に強制介入して、教会の秩序を破壊し、そのような方法で、やがてはキリスト教界全体に有罪を宣告することで、これを乗っ取って行こうとする野望を表すものに過ぎない。

カルト被害者救済活動は、それ自体が、疑似キリスト教としてのペンテコステ運動によるキリスト教界の「乗っ取り」のための巧妙な隠れ蓑なのである。さらに言えば、キリスト教への被害者意識に貫かれるペンテコステ運動自体が、異端思想によるキリスト教界の乗っ取りのために生まれたものであると言って過言ではない。
 

・「混乱と無秩序の霊」としてのペンテコステ運動

聖書は言う、「預言者たちの霊は預言者たちに服従するものなのです。それは、神が混乱の神ではなく、平和の神だからです。」(Ⅰコリント14:32-33)と。

ところが、ペンテコステ運動を導く霊は、まさに「混乱と無秩序の霊」である。

ペンテコステ運動には、その集会の形態においても、およそ秩序というものが全く見られないが、教職者の任命方法においても、秩序を無視している。こうした現象は、この運動に「秩序転覆の精神」が満ちているために起きていることである。

この運動においては、信仰生活において十分な成熟が見られず、信徒を教えるために何らの専門的な教育も訓練も受けていない信者が、いきなり教職者の立場に立って説教を語るなどのこともしょっちゅう行われている。

この運動に属する教職者の数多くは、聖職者としての十分な訓練や教育をほとんど受けていない自称牧師、自称メッセンジャー、自称カウンセラーなどである。その中には、元ヤクザ出身の牧師もいれば、カルト団体を脱会して間もなく、カルトのマインドコントロールの影響さえも十分に解けていないのに、牧師やカウンセラーとなって人を教えている例も見られる。

心の傷を抱えたままの人間が、同じように心の傷を抱える人間を導くのでは、まさに盲人による盲人の手引きにしかならず、人を教える立場に立つためにはよほどの訓練と成熟が必要とされることは言うまでもないが、ペンテコステ運動はこうした常識をもあざ笑うかのように、教職者に最もふさわしくない、問題のある過去を抱えた訓練も受けていない人間を、大した功績もないうちに、あっという間に聖職者の高みにまで押し上げてしまうのである。

このように、ペンテコステ系の団体では、通常のプロテスタントのキリスト教界に比べて、教職者となるためのハードルが著しく低いが、こうしたことは、この運動がもともと聖書の深い理解や、信仰生活における実地の訓練などよりも、ただ「聖霊を受けた」などの、第三者には全く確認できない、主観的で個人的な幻のような神秘体験を重視しているためである。

ペンテコステ運動は最初から主観的な体験重視の運動であり、しかも、その体験の内容が、論理的にも客観的にも証明不可能な「超常現象」であり、「神秘体験」である。

だから、客観的に証明可能な実績をよそにしても、このように主観的で個人体験を重視する伝統のもとでは、当然ながら、偽の奇跡体験を売り物とする詐欺師まがいの連中が横行し、そうした人々が指導者となって信徒を欺くという結果になるのは避けられない。

正体不明の「霊界との交信」によって、「神のお告げ(預言)」を受けたと自称し、誰にも理解できない戯言(異言)をしゃべるなどの現象は、キリスト教とは何の関係もないスピリチュアリズムの世界でも普通に広まっていることだからである。そのような現象だけを指して、それが神の霊であると言うことは誰にもできないであろう。

にも関わらず、そうした超常現象や神秘体験を通して、「神と交わった」、「神の霊を受けた」、「指導者として神に召された」などと自称しさえすれば、誰でもその日から一人前の信者とみなされ、教職者にもなれるのがペンテコステ運動であり、そういう運動は、大した努力も実績もないのに、手っ取り早く人の注目される高い地位に立って、人々に褒めそやされ、自分を疎外した社会を見返したいと願っている詐欺師のような人々には、まさにうってつけである。まさにそんなおいしい話はないと映ることであろう。

このように、信仰者としても確かな身元を保証できない、にわか牧師を多数生み出すペンテコステ運動の負の特徴は、たとえば、Dr.Luke率いるKFC(Kingdom Fellowship church)とその姉妹教会である横浜の天声キリスト教会にも、明白に表れている。

Dr.Lukeも、天声教会の現パスターとされる林和也氏も、キリスト教の牧師となるための正式な教育と訓練を何ら実地で受けないまま、自ら「パスタ―」を名乗り、牧会者の立場に立つようになった。Dr.Lukeは、経歴だけから見れば、ペンテコステ運動には稀な高学歴の持ち主であるが、その専門はキリスト教の教職者とは何の関係もなく、聖職者としての訓練を示すものではない。

このように、教会において牧会者としての訓練を受けて指導され、任命されたわけでもない人々が、いきなり牧会者となって講壇に立つことが許されるのが、ペンテコステ運動である。

この運動においては、自称「神の霊の器」であるカリスマ的な指導者が、自分たちこそ神に特別に祝福された選ばれた信者であると誇って、神秘体験を売り物にして信者を集めるなどのことは日常茶飯事である。そういう事例においては、いずれ様々なスキャンダルが明らかになって、その指導者は結局、神の器ではなかったということが判明するのがお決まりのパターンなのだが、「リバイバル」などを目的に掲げて行われた彼らの集金に投じられた献金は戻って来ることはない。

このようなことは、通常のキリスト教界では考えられないほどまでにずさんな信用ならない仕組みであり、まさに真似事のような「自称」に過ぎない世界であり、もっと言えば、振り込め詐欺の変種のようなものである。

筆者は決して神学校というものに存在意義を見いだしておらず、牧師制度にも賛意を示すつもりはないが、誰でも自称しさえすれば、明日からでも、牧者となって人を教えられるという、ペンテコステ運動のあまりにも軽薄でお手軽な慣習は、組織全体を危機にさらすだけであることは否定できない事実であると考えている。実地で何の訓練を受けていない指導者が、いきなり「神の器」や「預言者」を自称して、自ら「聖なる者」を名乗って教会のトップとなるなど、会衆にとってはまさに悲劇である。組織としての最低限度の形態さえ整っていない「教会」が正常に機能するはずもなく、でたらめな運営がまかり通り、悪霊の牙城となって終わるだけなのは目に見えている。

だからこそ、そのような教会には、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の信者であった鵜川貴範氏のように、自分の母教会を裏切ってまで、「自称メッセンジャー」となって他教会に首を突っ込み、他教会の乗っ取りを企むような、まさに詐欺師の見本としか言えないような人物も活躍の場を見いだすことになるのである。

従って、これほどまでにでたらめな特徴を持つペンテコステ運動に属する教団が、カルト監視機構を提唱して、全キリスト教界のカルト化の監視を訴えたり、カルト被害者救済活動を繰り広げて、他教会の運営に介入したりしているのは、もはや笑い話であるとしか言えない。

そういうことが起きるのも、結局、ペンテコステ運動を率いる霊が、「秩序転覆の霊」だからであり、この運動が目的としているのが、キリスト教界の破壊と乗っ取りだからである。

もともとキリスト教界を混乱させることだけを目的としていればこそ、この運動においては、本来は資格がない不適格な者ばかりがリーダーとなって、「我こそは神に選ばれた聖なる器である」などと誇り、でたらめな教会運営を行い、本物の信者を断罪・駆逐して行くのである。

ペンテコステ運動は、イゼベルの霊によるキリスト教の偽装運動であり、「異なる霊」によるキリスト教界の乗っ取りの試みである。ペンテコステ運動の提唱する「リバイバル」の本質は、まさらにバビロン(バベルの塔)の構築という世界征服の野望である。

聖書における「バベル」とはもともと「混乱」を意味する。人類が天まで届く塔を建てて自らを神に等しい者として、まことの神を凌駕し、押しのけようと試みたので、神がその計画を打ち砕くために、人類の言語をバラバラにして意思疎通ができないよう混乱させたことがその語の由来である。

今日、ペンテコステ運動の信者たちが、互いに全く理解し合えない、意味不明の戯言としか言えないような「異言」を、「神の言葉」と称して、てんでんばらばらにしゃべりながら自己陶酔に浸っている様子は、まさに「混乱」と「無秩序」を体現するものとしか言えない。

こうしたことは、彼らを導く霊の本質が「混乱と無秩序の霊」であることをよく物語っており、それだからこそ、こうした信者たちは、互いの意思疎通や承認など初めからお構いなしに、「自称」に過ぎない形で、めいめいバラバラな自己主張に明け暮れているのである。


・ペンテコステ運動の特徴としての「霊的姦淫」―指導者崇拝の教え

さらに、イゼベルの霊とは、唯一の神以外に多くの愛人を持つ「霊的姦淫」の霊である。

グノーシス主義の掲げる「神秘なる母性」は、何が聖であり、何が汚れたものであるかを明確に峻別する聖書の父なる神とは異なり、人の過ちを非難せず、何でも優しく受容し、受け入れる母性であるから、それは偶像崇拝、多神教、汎神論なども優しく受け入れる。その結果として、この霊に導かれる信者たちは、神でないものを神として拝むことになる。

イゼベルの霊が信者たちに犯させる罪の中でも最大の罪は、人類の自己崇拝という罪である。だから、この霊に影響された人々は、ほとんど例外なく、歪んだナルシストとなって、自らを神格化し、最終的には自己を神と同一の存在として高く掲げることになる。

彼らの経歴をつぶさに振り返るなら、こうした人々は、一見、他者に優しく、親切で、敬虔な信者のようにも見えるかも知れないが、内心んでは、被害者意識に貫かれ、傷ついた自己を抱えて、過去の問題をずっと引きずっていることが分かるであろう。だから、彼らが神に等しいものとして神聖視しているのは、彼ら自身であるというより、彼らの抱える被害者意識なのである。

このように歪んだナルシシズムとしての被害者意識や、(傷ついた)自己の神格化という特徴は、以上に挙げた村上密牧師、KFCのDr.Luke、天声教会の林和也氏など、ペンテコステ運動に関わる指導者のほぼすべてに共通して観察される。

すでに述べたように、ペンテコステ運動の支持者たちには、大抵、幼少期からの家庭生活において抱える心の傷が存在する。また、青年時代に異性との関わりにおいて大きな心の傷を受けていたり、大人になってからも、配偶者との間に溝を抱えている例も多数見受けられる。

たとえば、Dr.Lukeは自身の述べていた信仰のあかしによると、若い頃に結婚を前提として交際していた女性に、結婚してほしいと促された際、(進学などを理由に)曖昧に答えをはぐらかしたために、信頼を失って交際が破局し、女性は別の男性と結婚してしまったと述べていたことがある。同氏は、その時に味わった絶望感をきっかけに、心から神を求めるようになり、聖霊による深い慰めを得たと、この体験を信仰の証として語っているのだが、それにしては、その当時、同氏が抱えていた問題は、その後も、解決したようには一向に見えないのである。

Dr.Lukeはその後、新たなパートナーを見つけ、平和で幸福な家庭生活を送っているかのように主張しているが、それにしては、同氏の行動のすべての側面から見えて来るのは、かつての別離によって傷つけられた同氏のおさまらない心の傷と復讐心である。

その心の傷と復讐心あってこそ、Dr.Lukeはいかに自分が女性にとって(女性のみならず全ての人々にとって)魅力的な存在であるかを誇示する自己美化、行き過ぎたナルシシズム、自画自賛を繰り返さずにいられなくなったのである。

村上密牧師の「被害者救済活動」とよく似ていて、過去に起きた問題は、繰り返し、繰り返し、その人の人生において形を変えながら現われ、その度ごとに、Dr.Lukeはこの問題に間違った答えを出し続けているようにしか見えないのである。

さて、目に見える人間との関係は、目に見えない神との関係の影のようなものであり、自分の愛する唯一のパートナーである異性に対して、誠実で貞潔で忠実な態度をとれない人間は、ただ単に人間関係に問題を抱えているだけでなく、神に対する霊的な貞操をも持っていない可能性が高い。

Dr.Lukeの自画自賛はおよそクリスチャンの既婚者にはふさわしくないものである。同氏は自分のブログにおいて、勤め先の大学で自分がいかに女子学生の注目の的になっているかをひたすら自慢せずにいられず、さらに、六本木での夜遊びも止められず、クレジットカードの明細は妻にも決して見せないのだと礼拝メッセージで豪語していた(ちなみに、Dr.Lukeの妻は夫の集会を全くと言って良いほど訪れておらず、信仰生活における夫婦の協調は見られなかった。)

KFCという団体の中においても、Dr.Lukeのナルシシズムは、同氏の信奉者となった他の信者たち(必ずしも女性信者とは限らない)との絶え間ない霊的姦淫と、そのために引き起こされる信者たちの不断の地位争いという形で反映していた。

Dr.Lukeは、そのような争いは自分には全く責任のないことであり、勝手に人々が彼を信奉し、一方的に期待を裏切られて失望しているだけであるかのように主張していたが、事実はそうでなかったものと筆者は確信している。そうした不毛な関係には、明らかに、同氏の青春時代における人間関係の破局と全く同種の構図が繰り返されていた。すなわち、Dr.Luke自身が、「自分がいかに魅力的な存在であるか」を周囲にしきりにアピールすることで、周囲の人々に暗示をかけ、人々の心を自分に惹きつけておきながら、いざ人々から期待に応えるよう要求されると、彼らを冷たく突き放し、その心を傷つける、ということの連続だったのである。そのように他者の心を弄び、傷つけるために用いられる心理的な駆け引きは、まさにイゼベルの霊がターゲットを思い通りに操り、支配し、傷つけるための手法そのものである。

そのような歪んだ方法を通してでも、絶えず自分が他者の注目の的となって、他者からの愛情や関心を独占し、また同時に自分を慕ってやって来る人々を侮蔑し、愚弄して退けていなければ気が済まないDr.Lukeの歪んだナルシシズムは、まさに傷ついたアイデンティティや、劣等感、復讐心の裏返しとして発生したものであったと筆者は見ている。おそらくはそうした心の傷は、同氏の青春時代の人間関係の破局の時点で初めて生じたものではなく、それよりもはるか前から、おそらくは幼少期から、すでに発生していたのではないかと想像される。察するに、生い立ちと親(特に母親)との関係に起因するものなのであろう。

このような深い心の傷を抱える人間は、本人が自分自身の心の傷を直視し、その元凶となる負の記憶を十字架において処理し、それによって生じた罪意識を自分自身から取り除き、その傷が生み出した行為の罪深さを見ない限り、半永久的に誤った行動となって悪影響を放ち続ける。このような傷を抱えたままの人間は、たとえ表面的にはどんなに満ち足りた生活を送っているように見えたとしても、無意識のうちに人を傷つけ、やがては自己愛性人格障害の様相を呈して行くことになるのである。だから、KFCに通う信徒は常に入れ替わっている。一時、Dr.Lukeと親しく交わっていた信徒も、多くが途中で離反し、長年に渡ってこの団体に居続けているのはほんの少数でしかなく、追い出された信徒たちも数多く存在している。そのようなことは、同氏が長期に渡り人々と誠実で信頼できる人間関係を築けないことから発生している。

ある信者は、Dr.LukeとKFCの危険性について次のように述べた。「KFCそのものが、彼が傷ついた自己を慰めるための牙城になっているわけです。彼には人格的な魅力がある。情に厚いことや、恩義を忘れないことや、人の心をほろりとされるような様々な魅力がある。ダメなところだけでなく、そういう魅力もあるので、彼のそばにいる人々は、彼の行動にどんなに問題があって、あるいは、不誠実な振る舞いをされても、ただちに離れようという気にはならないわけです。もう少し、期待して待っていれば、もしかしたら、彼も変わるかもしれない、神が問題を示されて、態度が改善するかも知れない、などと情状酌量し、望みをつなごうとするのです。でも、結局は、そうして人情に訴えることもまた、彼を支配する悪霊の作戦の一つのようなもので、その人情があだとなって、結局、人々は騙され、裏切られ、傷つけられるのです。だから、彼の魅惑的な力は、聖霊から来るものではなく、悪霊に由来するものであって、その魅力にほだされて関わりを続けること自体が危険であることを理解しなければならないのです。」

現在、KFCにいる信者たちは、心の傷を抱えて、他に行き場のなくなった人々である。特に、キリスト教界にはもう戻れないが、居場所を失いたくないという信者たちが古参信徒として残っている。彼らの多くは、配偶者を持つ妻たちであるが、家庭からの逃避の場を求めて、KFCに通っている。あるいは、キリスト教界にいながら、所属教会の牧師を裏切り、仲間の信徒を裏切って、KFCのメッセージを聴き続けている者もいる。こうしたことはすべて、神を裏切って、自分たちの群れを裏切って、家庭を裏切って、人間に過ぎない者を神の栄光の高みに押し上げ、自分を傷つけた者に復讐を果たすためにこそ行われている。

Dr.Lukeのナルシシズムは、同氏の傷つけられた心の被害者意識と復讐心の裏返しとして発生して来たものである。それが生じた最初のきっかけが何であったのかまでは、誰にも分からない。だが、根本原因が何であれ、そのような被害者意識は、長年に渡って持ち続けると、当初、起きた出来事の影響をはるかに超えて果てしなく膨張して行き、やがては人類全体と、キリスト教界と、神に対する敵意にまで発展して行くのである。

他者への根本的な恨みや憎しみを捨てられない人々が、真にキリストの僕となることはできない。そうした人々は、自らの劣等感を優越感で覆い隠すために、宗教に入信するのであって、その信仰生活は本当のものではない。たとえば、夫を恨み続ける妻たちが、夫に対する優位を手に入れるために、信仰にすがるといったこともよく起きる。カルト団体へ入信する妻たちの動機の多くはそうしたところにある。家庭において、社会において、居場所を見いだせず、自分は強い者たちによって踏みにじられた被害者だと感じている妻や子供たちが、夫や親を凌駕する最後の砦として、宗教にすがり、自分を虐げた強者たちを、神を知らない罪人・未信者だと見下げることで、そこに自己の優位を見いだし、心のうちでひそかに復讐を果たすということも往々にしてある。そういう場合は、信仰生活そのものがいわば家庭生活からの現実逃避と復讐の場になっているのである。

このように、神を信じていると自称している人の動機が、真に純粋でなく、彼らの信仰生活が、別の何かの問題からの逃避の手段であり、彼らの惨めな自己を覆い隠すまやかしの手段となっていることは往々にしてある。ある人々は、神不在の心の空洞を覆い隠すために、敬虔な信仰者を装うのである。

そして、ペンテコステ運動のように、そのようにして社会や、家庭や、キリスト教や、果ては神に対しても被害者意識を抱える人々が、集まって団結することで、「自分たちこそまことのキリスト教徒である」と名乗り、キリスト教界を見返そうとする例も珍しくない。

だが、そのような復讐心に基づく人々の「信仰生活」が正常な結果を出すことは絶対にない。そうした人々の信仰生活は、当然の成り行きとして、キリスト教界に戦いを挑み、正常なクリスチャンを罪人として告発し、仲間を絶えず傷つけては排斥するという結果にしか結びつかない。

そうこうしているうちに、自己正当化と被害者意識で凝り固まった人々は、自分たちに反対する者はみな「悪魔の手下」といった考え方に憑りつかれ、人を疑うばかりで誰とも誠実な関係を結べなくなり、やがては聖書の福音からも完全に逸れて、神から神であることさえ盗んで、自分自身を神と自称し、自己崇拝、自己栄光の罪へと陥って行く。KFCはすでにその段階へ入り、異端であることを自ら暴露したも同然である。

残念なことに、KFCの姉妹教会である天声教会も、この点で例外ではなく、この教会では、2009年に、何の正式な手続きもなしに、それまで教会員でさえなく、牧師としての教育も訓練も全く受けていない人物(林和也氏)がいきなり「パスタ―」にされるといった異常な出来事が起きた。

しかも、これを手助けしたのが、天声教会にいる元KFCの信徒の韓国人女性であった。この女性は、以前に、Dr.Lukeの補佐的な役割を果たしたいと願いながらも、KFCの信徒らによって団体を追放されたという過去を持っおり、おそらくはその当時に果たせなかった願望を、子供のような年齢の信者を使って果たそうと願ったものと見られる。

この女性は既婚者であるにも関わらず、教会を拠点としてこのパスタ―と密接な共同生活を送るようになった。恋人のように連れ立って頻繁に外出を共にし、離れていても親子のように密に電話で連絡を取り合い、早天祈祷会や断食祈祷を含め、朝から晩まで教会行事のために林氏を拘束し、同氏はやがて自らの住居も引き払って教会に住み込むようになった。だが、教会には、人が生活するためのスペースがないため、プライバシーも保てず、生活においても何から何まで信徒の世話を受けるしかない。

このようにして信者が自活の手段を奪われて宗教行事だけにのめり込むことは、まさに悪しき団体が信者にマインドコントロールを行うための典型的な手法であることが一目瞭然であった。しかも、素人がメッセンジャーになるなど、あり得ない話であり、本来ならば、神学校に通わせたりして、訓練を受けた後に、牧師として任命するのが当然である。

だが、カルトが人を取り込むのは、真に優れた指導者として福音を宣べ伝えさせるためではなく、傷ついた自尊心を足がかりに団体に取り込み、支配するためでしかない。そこで、講壇でメッセージを語らせるということは、しばしば、カルト団体が心傷ついた人々の自尊心をくすぐり、団体から離れられないようにするための「餌」として利用される。

さらに、上記の韓国人女性は、配偶者をよそにして教会行事と「パスタ―」の世話にのめり込んでいる他にも、水商売用の衣装を販売するブティックを教会の近くに経営するなど、およそ信仰者にふさわしくない生活を送っていた。

筆者はこれらのことを目にして、この「パスタ―」に対して、この教会は危険であり、他者の結婚の関係を侵害するような共同生活が主の御心にかなわず、主の栄光にもふさわしくなく、教会の名を汚す罪深いものであるから、終止符を打つべきであること、そのように信徒に相応しくない生活はただちにやめて、教会を離れて自活した方が良いと告げた。

しかし、同氏はあまりにも教会生活に深く心を支配されていたため、自分の「聖職者」としての任務に反する言動を行うような人間は、みな「イゼベルの霊」に違いないと断定し、こうした忠告に聞く耳を全く持たなかった。自分にとって耳の痛い言葉を告げる者は、悪魔の使いに違いないという考えに至っていたのである。

そのようなことになったのも、林氏がそれまでの人生において抱えていた被害者意識が原因となっているものと筆者は見ている。それはDr.Lukeのケースと極めてよく似ている。

天声教会にメッセンジャーとして取り込まれる前、同氏はちょうど仕事の切れ目にあって、それまでのエンジニアとしての生業を失い、なおかつ、将来を期待していた交際女性とも別れを経験したばかりであった。その痛手を同情的に優しく介抱してやるように見せかけて、その状況を利用して同氏を自分好みの「パスタ―」にしたて上げたのが、上記の韓国人女性である。彼女がそのようなことをしたのも、結局は、それによって彼女を追放したKFCを見返し、なおかつ、彼女が自らの家庭や伴侶に対して抱いていた何らかの被害者意識ゆえに、家庭生活から現実逃避し、伴侶に復讐を果たすことが目的であったとしか考えられない。その欲望のために、彼女は他者の心の傷につけ込み、自分とは何の関係もないはるかに年下の人間を自分の願望をかなえる道具として利用したのである。

その当時の林氏について、Dr.Lukeはある懸念を持っていたようであった。林氏がクリスチャンホームに育ち、閉鎖的な宗教教育を受けたことによって、幼少期から自由な人生を送れず、幅広いものの見方を養うことができなかったことを憂慮して、Dr.Lukeは彼を宗教教育の弊害から解放する必要があると考えていたようであった。そして、筆者はその発想自体は間違っていないものと考えている。だが、信者が解放されなければならない危険は、幼少期に受けた宗教教育のみならず、ペンテコステ運動そのものである。

そうした意味で、自分自身がペンテコステ運動の枠組みを出られず、「パスター」としての栄光も捨てられなかったDr.Lukeの計画が極めて中途半端に終わったのは不思議ではない。

林氏は、不況ゆえに仕事を失って社会での居場所を失い、人生のプランを共有するパートナーをも失って行き場がなくなった心の空白と痛手を利用されて、キリスト教界から出るどころか、再び、ペンテコステ運動のような疑似キリスト教に戻って行くことになった。

ペンテコステ運動に関わる人々は、おそらく筆者のこのような主張を聞いても受けつけず、これを「リバイバルを妨害しようとする悪魔の霊」だとか、「嫉妬のゆえに指導者をひきずりおろそうと企むイゼベルの霊」だなどと断定し、とんでもない決めつけだと考えて、一笑に付そうとすることであろう。(林和也氏が、人間の指導者に従うことを「神に従うこと」と同一視し、指導者に逆らう者をみな「イゼベルの霊」扱いする白か黒かの思考パターンに陥っている様子は同氏のメッセージによく表れている)。

しかしながら、上記のようなペンテコステ運動の指導者がどんなに「自分は神に選ばれた霊の器であり、預言者であるから、自分に逆らったり、自分を批判する者は悪魔の霊に憑りつかれているのだ」などと主張したとしても、実際には、彼らは何の正式な任命手続きをも受けておらず、十分な職業訓練も受けていないまま、講壇に立った自称メッセンジャーでしかない。その上、他者の家庭生活を侵害して、霊的姦淫と呼ばれて仕方のない生活を送り、信徒の心を神から奪い、家庭から奪って、自分自身に向けさせて、自分を神の使いのように崇めさせているのだから、そのような生活のどこに「聖職者」にふさわしい神への従順があると言えようか。

親が子を助けるように、信徒を助けるのではなく、むしろ、信徒から助けられ、仕えられている指導者を、誰が正統な牧者として「神に油注がれた者」と認めるのか。そういうことが通用するのは、ペンテコステ運動の中だけである。

さて、ペンテコステ運動において、このような「自称牧師」が次々と担ぎ上げられる背景には、彼ら自身の意志だけでなく、彼らをおだて上げ、自分好みの指導者に仕立て上げることで、自分の欲望をかなえようとする信者たちの悪影響が必ず存在する。

KFCもそうなのであるが、家庭生活において満足が得られず、夫を心の内で憎み、自分を被害者だと考えている妻たちが、夫に対する復讐の手段として、未熟で心傷ついた男性たちを見つけて来ては、その心の傷を癒してやるように見せかけ、彼らの魂を子供のように手の中で操りながら、彼らをおだてあげ、担ぎ上げ、自分好みの指導者として、人形のように操り、支配して行くのである。そのようにして人の心の弱点につけ入る彼らのしたたかで巧妙な手練手管は、およそ若い独身の男女が考え付いたり真似のできるようなものではない。若くて警戒心がなく、真にキリストへの忠誠心のない人々は、このような人々からの「支援」や「同情」をあっけなく本当の愛情と勘違いして操られて行くことになる。

筆者がイゼベルの霊は「人妻」であり、「母の霊」であると述べるのは、こうした事情があるためだ。ヒトラーでさえ、彼を担ぎ上げた女性信奉者たちの助力なしに、独裁者の地位にまでは昇り詰められなかったのである。担ぎ上げられた人間と、担ぎ上げる人間たちの被害者意識と復讐心が互いに響き合って、悪しき指導者と信者たちとが、切っても切れないソウル・タイを結んで、復讐心の牙城のような団体を築き上げて行く。だが、このようなものは正しい信仰のあり方ではなく、指導者崇拝という霊的姦淫の罪、ひいては、人類の自己崇拝の罪でしかない。

筆者は、この社会において様々な挫折体験を味わい、疎外感を覚える人々の心の弱さに決して同情しないわけではない。だが、それでも、人の被害者意識につけこんで、これに同情的に寄り添い、優しく介抱してやるように見せかけながら、安直な慰めを与え、その心の傷を足がかりに、相手を自分の欲望の通りに思いのまま支配する「母の霊」とは、まことに恐ろしいものだと思わずにいられない。そんな霊に支配されて、安直な慰めを受けて、自分を神に等しい者だと思い上がりに陥るよりは、一人で助けなくもがき苦しんでいた方がまだましなのではないかとさえ思うほどである。

エレミヤ書には、神が忌み嫌われる偽預言者の特徴として、「彼らは、わたしの民の傷を手軽にいやし、平安がないのに、『平安だ。平安だ。』と言っている。」(エレミヤ6:14)と、偽預言者たちが信者に与える安っぽい同情や慰めが非難されている。

本当は、人の苦しみには、人間の安易な理解を超えるほどの深い意味があって、神の民の傷は、決して手軽に癒されるべきものではないのである。神はご自分の愛しておられる子供たちを様々な方法で訓練される。時には、深い苦難を通過させることで、魂を練られることもある。その苦しみが自己の失敗によって生じた苦難であろうと、そうでなかろうと、そのようなところを通過することによってしか、人は十字架の深い意味を知ることができず、神がその人に知らせようとした重大な教訓を学ぶことができないのである。

人間はただ自分が傷つかないこと、心理的な葛藤やストレスを受けないこと、自分自身が安全であることだけを第一に求め、信仰生活においても、それが理想であるように思い描き、できるだけ苦しみが少なくなるように、自分の身勝手な欲望をかなえてくれそうな人々のもとだけを行き来し、不快なことが起これば、自分を被害者とみなして同情の涙を注いでくれる人々の安直な慰めに飛びつく。

だが、実際には、信仰生活とは彼らが理想として思い描くようなものでは全くない。そのことは、神に愛されたダビデでさえ、己が罪を知らされ、深い苦悩の中で生涯を過ごしたことを見ても分かることである。

聖書に登場する預言者や、信仰の偉人たちのうち、誰一人として苦難を通過しなかった者はいない。彼らは必ずしもダビデのような失敗は犯さなかったかも知れないが、誤解され、いわれなく非難され、中傷され、離反され、憎まれ、迫害され、命を狙われ、時には殺された。民の注目の的となって誉めそやされながら、安全と栄光のうちに生涯を歩んだ者など一人もいない。

信仰生活に限定せずとも、人には、一人で乗り越えなければならない多数の課題が存在する。人間の力だけでは乗り越えられないからこそ、神の助けがあるのだが、人間の理解や支援を度外視して、ただ神とだけ向き合いながら、自分自身で問題を乗り越える力を養わなければ、その人にはどんな人格的成長もない。

自己の欠点を直視することは、人にとっては困難であろうが、人が苦難を通して真に自分の弱点と向き合い、自分の心を吟味することがなければ、その人にはどんな成長も気づきもない。他者ばかりを責めて、自分を被害者だと考えていれば、一歩たりとも、前進して行くことができない。

ところが、今日、キリスト教、特にペンテコステ運動の指導者を名乗っている人々は、全くそれとは異なる道を進んでいる。彼らは心傷ついた人々を積極的に勧誘しては、「あなたは悪くない」という安直な慰めと自己正当化の思いを吹き込み、手軽に信者たちの傷を癒し、その人が真に己の弱点と向き合い、自己の罪を悔い改めて神に立ち返る前に、偽りの慰めと癒しを与えることによって、かえって神から遠ざけ、被害者意識から立ち上がれないようにし、決して問題を乗り越えられないようにしてしまっている。

こうして、安直な慰めを与えることで、手軽に信者たちの傷を癒し、現実逃避によって偽りの平和を唱える者たちは、神から民の心を盗む、呪われるべき偽預言者である。

聖書において、ダビデ王の息子アブシャロムは、ダビデが犯した罪の報いとして、父に反逆する道を選んだが、その末路は悲しい破滅で終わった。アブシャロムが父を出し抜こうと考え出した方法は、以下の通りであった。彼は、美しく立派な容姿をしていたので、その自分の長所を存分に利用して、老いてゆく父をさしおいて、民の人気を集め、自分こそが王であるかのように振る舞い、人々の愛情と尊敬を集めたのである。彼は民の抱える様々な問題を狡猾に利用して、民の陳情に思いやり深く耳を傾けてやるように装いながら、民の被害者意識に巧みに訴えかけて、彼らの心を掴んだ。彼は、王は彼らの抱える悩みには関心がなく、民の陳情には耳を傾けて下さらないのだと思わせて、王を差し置いて民に同情の涙を注ぐことで、民の心を王から引き離し、自分自身に向けさせ、自分こそが憐れみ深い真の指導者であるかのように民衆に思わせたのである。サムエル記には、「こうしてアブシャロムはイスラエル人の心を盗んだ。」(サムエル記Ⅱ15:6)と書いてある。

今日、ペンテコステ運動に関わる多くの指導者が、安易な慰め主となることによって、信者たちの心を神から奪い、盗んでいる。彼らはまことの神の代わりに、人々の心の問題を解決してやるように見せかけ、信者たちが深い苦しみの只中で、己が罪と弱さを自覚しつつ心から神を呼び求めることを妨げている。そのような指導者にそそのかされて被害者意識に凝り固まってしまった信者たちもまた、自分と同じような心の傷を抱える人々を次々とスカウトしては、被害者意識によるソウル・タイを拡大し、自分たちが神に逆らっているのだとは知らずに、集団的に神の敵と化している。ペンテコステ運動は、そのものが被害者意識の牙城である。
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