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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

十字架の死と復活の原則ー地上の実りなき死んだ労働を離れて、天に永遠の収穫をもたらす労働に生きる(2)ー

「主のほかに神はない。
神のほかに我らの岩はない。
神はわたしに力を帯びさせ
わたしの道を完全にし
わたしの足を鹿のように速くし
高いところに立たせ
手に戦いの技を教え腕に青銅の弓を引く力を帯びさせてくださる。

あなたは救いの盾をわたしに授け
右の御手で支えてくださる。
あなたは、自ら降り
わたしを強い者としてくださる。

わたしの足は大きく踏み出し
くるぶしはよろめくことがない。
敵を追い、敵に追いつき
滅ぼすまで引き返さず
彼らを打ち、再び立つことを許さない。
彼らはわたしの足もとに倒れ伏す。

あなたは戦う力をわたしに帯びさせ
刃向う者を屈服させ
敵の首筋を踏ませてくださる。
わたしを憎む者をわたしは滅ぼす。

彼らは叫ぶが、助ける者は現れず、
主に向かって叫んでも答えはない。
わたしは彼らを風の前の塵と見なし
野の土くれのようにむなしいものとする。

あなたはわたしを民の争いから解き放ち
国々の頭としてくださる。
わたしの知らぬ民もわたしに仕え
わたしのことを耳にしてわたしに聞き従い
敵の民は憐れみを乞う。
敵の民は力を失い、おののいて砦を出る。

主は命の神。
わたしの岩をたたえよ。
わたしの救いの神をあがめよ。
わたしのために報復してくださる神よ
諸国の民をわたしに従わせてください。
敵からわたしを救い
刃向う者よりも高く上げ
不法の者から助け出してください。

主よ、国々の中で
わたしはあなたに感謝をささげ
御名をほめ歌う。

主は勝利を与えて王を大いなる者とし
油注がれた人を、ダビデとその子孫を
とこしえまで
慈しみのうちにおかれる。」(詩編第18篇32-51)

快適な環境で秋を待つ。夏祭りのシーズンには、例年には見えなかった花火を窓から楽しみ、夜になると虫の音が耳に心地よい。わずか数日間の風邪が去った後には、いつものように、ショパンのソナタを最後の楽章まで弾き通すことができるほどに体力が回復した。疲れた足腰も元気を取り戻し、少しの間触れていなかったヴァイオリンの再開も間近である。

筆者にとって、土曜日、日曜日は、信仰によるエネルギー・チャージの時間である。日曜日は何もしないという意味での安息日ではなく、むしろ、神の御心を行う日である。当然ながら、この日には特に念入りに戦いの準備に余念がない。

戦いと言っても、具体的にそれが何を指すのかを詳しく記せないことも多いが、この不法のはびこる地上にあって、キリスト者の人生は絶えざる戦いの連続である。

筆者がこれまでに通り抜けて来た戦いは実に数多く、あざける者たち、嘘つき、悪党、ならず者、不法者、自己愛者、異端者など、終わりの時代に登場する神に敵対する者たちの名称は尽きない。しかし、たとえ彼らが大群となって遅いかかって来たとしても、信者にはかなわない。敵がどれほどの言いがかりをつけようとも、信者はこれに御言葉をもって立ち向かい、勝利をおさめることができる。その勝利とは、信者自身の力ではなく、キリストの血によるものなのである。

私たちは、生きているうちに様々な悪に遭遇する。しかし、悪事を放っておかず、黙ってその犠牲者になることもせず、きちんと敵の罠を見抜いて、その嘘に毅然と立ち向かいさえすれば、勝利をおさめるのはそう難しいことではない。この戦いは、この世の権力や武器を用いるものではなく、無駄な非難の応酬や、終わりなき報復合戦を意味するのでもない。ただ公然と御言葉を掲げ、御言葉に従い、真実に生き、正義を曲げずに主張し続けることによる。

信者が邪悪な日に、一歩も退かずに御言葉に基づいて公然と正義を主張し続けるだけで、悪が恐れおののいて敗退することを知っている人は少ないだろう。信者の中にも、そのような戦いを実際に経験して来た人は少なく、ほとんどの人は、そのようなことをしても無駄だと最初からあきらめている。だが、そうではないことを筆者は何度も試し、自ら経験して来たのである。

こうした戦いの末に、筆者の力はますます磨かれて、冒頭で引用したダビデの詩編のように、熟練した兵士のようになりつつある。
 
このようなことを筆者が言うと、たちまち気分を害する「信者」たちがいるかも知れない。そのような人たちは、筆者が不遜におごり高ぶって自慢話に興じているだけで、悪魔との戦いなど、しょせんカルト信者の妄想や戯言に過ぎないと言ってあざ笑う。

余談かも知れないが、キリスト者を名乗っている人々の中には、悪魔との戦いというテーマそのものに拒否反応を示す一群もいる。だが、その人たちが、一体、なぜこのテーマを毛嫌いし、拒否反応を示すのか、理由をよくよく調べて行くと、彼らは結局のところ、自分たちを神に属する信仰による義人ではなく、むしろ悪魔の一味のようにみなし、悪魔が攻撃される度に、自分の後ろ暗さが暴かれるように感じて、自分と悪魔を一緒にかばおうと、このテーマ自体を封印しにかかっているのだということが分かって来る。

こういう「信者」たちは、筆者のような信者が本気で御言葉に基づき、悪魔の嘘に対抗するために、悪の軍勢に宣戦布告する言葉を聞くと、一体、どういうわけか、居ても立ってもいられない気持ちになって、悪魔の嘘や悪事が暴かれることを何とかして阻もうと、憎しみを燃やして信者を攻撃にしにかかって来るのである。

彼らは、悪魔に立ち向かうなど、気が触れたカルト信者の言い分だとあざ笑うだけでは足りず、それをまるで「自分たちに対する攻撃」であるかのようにみなして、「自分たちは被害を受けた」などと言って絡んで来ることさえある。

当ブログの古くからの読者は、このような愚かしい事態が実際に幾度も起きてている事実であることをよく知っているであろう。そのような信者とも思えぬ「(自称)信者」の中には、稀にではあるが、本当に自分自身を悪魔と同一視して、悪魔への宣戦布告を、自分自身に対する宣戦布告と受け止める「自称クリスチャン」さえいる始末だ。

一体、どこをどうすれば、聖書の神を信じているはずの「クリスチャン」が、そのような考えに至るのか、ただ首をかしげるばかりである。その信者は教会生活で何を学んだのだろうか。そんなヘンテコかつ異常な信念を「信者」に植えつける教会があるのだとすれば、それは限りなくおかしな団体としか言いようがない。
 
そのような「信者」たちが、見ず知らずの通りすがりの存在であればまだ良いのだが、最も激しい拒否反応が、筆者を身近で見て知っている「自称信者」から来る場合もないとは言えない。預言者は故郷では敬われないと言うが、筆者の人物を実際に目で見て知っており、筆者の外見の平凡さや弱々しさゆえに、常日頃から筆者を取るに足りない人間と決めつけて、心の中で見下げていたような人々が、筆者が「悪魔に立ち向かう」というテーマを大胆に語っているのを聞くと、「あんな小娘ごときが、何を思い上がって、自分を何様だと己惚れているのだ。一つ思い知らせてやろう」などといわれなき憎しみに駆られて、かつての仲間を売り渡したり、裏切ったり、攻撃する側に回るということも起きるのである。

筆者はそういう対立の背後には、霊的な理由が存在することを疑わない。クリスチャンの信仰生活は、この点でとても厳しいものである。誰かがあなたに近づいて来て、「私はあなたの友ですよ」とか「助力者です」とか「信仰仲間です」と親しげにささやいても、その言葉を、むやみに信じるわけにはいかないのだ。こういう人々を仲間だと誤解すれば、やがてしたたかに裏切られるだけである。

クリスチャン生活では、誰かと相性が良いからとか、年齢が近いからとか、境遇が似ているとか、見た目が好ましいとかいった理由で、他人と徒党を組んで進んで行くことはできない。自分の好みで仲間を選別することができない。他者と信頼が築けるかどうかは、その人が神に対して、御言葉に対して、どのくらい忠実に歩んでいるかによってしか判断できない。どんなに人柄がよく、外見が麗しく、人物像が好みに合致していても、神に従わず、御言葉に忠実でない人間をそばに近づけると、災いが降りかかるだけである。

さて、話を戻せば、そもそも聖書の神を信じると告白している信者でありながら、クリスチャンの信仰生活が絶えざる戦いであることを否定するような者は、聖書が次のように告げている御言葉そのものを無視しているのだ。

「最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身につけなさい。わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。

だから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。

立って、真理の帯を腰に締め、正義を胸当てとして着け、平和の福音を告げる準備を履物としなさい。なおその上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。・・・」(エフェソ6:10-17)

これまで幾度となく述べて来たように、クリスチャンの戦いは、霊的な論戦であって、目に見える誰かを力によって打倒することが目的ではない。それはディベートのような、主張と主張のぶつかり合いであり、聖書の神に敵対する者たちが、この世の様々な人間や事象を操りながら、信者たちにぶつけてくる、ありとあらゆる支離滅裂で嘘に満ちた言いがかりに対して、信者が確固として御言葉に立脚して応戦し、キリストの贖いゆえの自身の潔白と、敵に対するキリストの勝利、神が敵に定められた地獄の刑罰を主張して、敵の屁理屈を打ち破り、これを粉砕して、退け、その言いがかりを無効化することが、信者の勝利なのである。

この戦いにおいて、御言葉が剣のような武器になることが、はっきりと聖書に示されている。我々信じる者たちは、聖書の御言葉を揺るぎない正しい理屈として握りしめ、この理屈を用いて敵の嘘に満ちた屁理屈を論破するのである。まさに硬い岩盤をドリルで粉砕するように、御言葉を鋭い剣のように貫き通すことによって、分厚い層のように積みあがった敵の嘘を破壊し、木っ端みじんに打ち砕くのである。ダイヤモンドとガラスでは勝負にならないように、御言葉の強度の前に、嘘は敗北して道を譲らないわけにいかない。

以下の御言葉の中では、悪の軍勢との間に繰り広げられるこの激しい論戦の中で、信者は、御言葉を駆使することによって、敵の要塞をも打ち砕くことができることが示されている。

「わたしたちは肉において歩んでいますが、肉に従って戦うのではありません。わたしたちの戦いの武器は肉のものではなく、神に由来する力であって要塞をも破壊するに足ります。わたしたちは理屈を打ち破り、神の知識に逆らうあらゆる高慢を打ち倒し、あらゆる思惑をとりこにしてキリストに従わせ、また、あなたがたの従順が完全なものになるとき、すべての不従順を罰する用意ができています。」(ニコリント10:3-6)
 
以上の御言葉から分かるのは、敵の使う武器にも色々種類があって、単なる屁理屈や、こじつけ、論理のすり替え、ごまかし、歪曲、捏造、隠蔽などの単純工作から始まって、分厚い壁のように積みあがった嘘、バリケードのように堆積した嘘、ついには要塞のように塗り固められた嘘なども存在するということである。

敵の「要塞」とは、単なる屁理屈の域を超えた、もはや「思想の領域に入った嘘」とでも言うべきものである。嘘の中でもとりわけ洗練されて完成された嘘(嘘に完成というものがあるとすればの話だが)、端的には、偽りの思想そのものであると筆者は考えている。

そのように敵の要塞と呼ぶにふさわしい偽りの思想こそ、太古から存在するグノーシス主義なのであり、それは元を辿れば、最初の人類アダムとエバに、サタンが蛇の姿を取って吹き込もうとした「神の知恵に逆らう高慢な偽りの知恵」そのものである。

聖書の御言葉は、このような悪の要塞と化した偽りの思想を、完全に論破し、破壊することができる。御言葉はその意味で「世界最強の武器」である。我々はこの最強の理屈で理論武装することによって、敵に対峙し、敵の嘘、敵の罠を見抜き、これを退け、粉砕するのである。

クリスチャンたちがこの戦いに熟練して完全な者とされ、(クリスチャンの目に見えない集合体としての)教会が、完全に御言葉に従順な者とされる時に、この恵みの時代が終わり、敵の高慢な思想に従う不従順な者たちがいよいよ本格的に罰せられる最後の時が訪れるのである。

しかしながら、すでに述べたように、このような激しい論戦にとりわけ嫌悪を示す者たちがいる。中には、クリスチャンでありながら、「悪魔に立ち向かう」というテーマの一切をカルト思想と決めつけ、耳を塞ぐ者もいる。そのような人々は、まさに敵の思想に従っていればこそ、このテーマに激しい拒否反応や嫌悪感を示すのである。

東洋思想には、理屈対理屈の勝負によって、物事の是非をはっきりさせることを非常に嫌う性質がある。東洋世界においては、物事の是非を究極まで追求すること自体が、まるで悪なる所業であって、「和」の精神に逆らう、「和」を乱す悪い行為であるかのようにみなされる傾向が強い。

この「和」という正体不明の言葉によく表れているように、東洋世界では、すべての物事を曖昧にしたまま、誰をも罪に定めず、誰にとっても脅威とならないような、人に優しく無難な結論を出すことで、「すべてを丸くおさめる」ことこそ、人間の美徳であって、正しい行ないであるかのように奨励される。

このように、物事の白黒をつけることを嫌い、善と悪をごちゃまぜにして、事の是非を曖昧にしたまま、ただ波風立てずに話をおさめることを至高の解決方法とするような、性善説に基づく「和」の精神が土台にあってこそ、我が国では、今になっても、学校ぐるみでいじめが隠蔽されたり、企業が内部告発者に不当な制裁を加えたり、社会の中で悪事を糾弾して真相を究明しようとする人間が、集団的に排斥されて、かえって濡れ衣を着せられたりする伝統があるのだと言える。

このようなことは、ただ単に悪事を暴かれては困る人間たちが、自己の保身や報復のために行っている行為であるばかりではない。そもそも、東洋思想が、人間の罪や悪というものを認めず、物事の是非をはっきりさせること自体を「波風立てる行為」「和を乱す行為」とみなして、空気に従って物事を丸くおさめることを至上の価値としているがゆえに、このような思想的・文化的土壌で育てられた人間は、無意識のうちにそれに従って、善悪を切り分ける人間を悪者扱いして、闇に葬ろうとする衝動に駆られるのである。

このような東洋思想の「和」の精神の忌まわしさが、究極の形で現れたのが、我が国の軍国主義の時代であった。そこでは偽りの概念である「和」の実現を名目として、社会に隣組が形成され、国民同士が監視し合い、密告し合い、天皇崇拝や戦争へ協力しない国民は「非国民」として排斥され、村八分にされ、投獄され、殺されたのである。

このように、見かけは情緒的で美しい「和」の精神は、その大義名分のもとで、この精神に従わない人間を暴力によって社会から排斥し、殺しさえして来た。このような非道な暴力を駆使して打ち立てられる「和」が、その言葉の通り美しいものであるはずがなく、恐ろしい嘘に過ぎないことは、今日、誰の目にも明白である。

我が国は戦争に負け、東洋思想の嘘は暴かれ、我が国が理想のごとく唱えていた「和」の精神も、幻想として崩れ去った。東洋思想が西洋思想に対して、とりわけキリスト教に対して、何ら優位性も持つものではなく、人類の理想にもなり得ない事実が公然と明らかになったはずであった。それにも関わらず、今になっても、大蛇のごとく、すべての理屈を絡め取って曖昧化しながら丸ごと飲み込んで行く、あるいはすべてを丸呑みして腹の中におさめてしまう巨大な子宮のような、この得体の知れない「和」の精神は、我が国では未だに健在であり、それがゆえに、この国では未だに、物事の真相を暴き、何が悪であり、何が善であるかをはっきりさせようとすること自体がタブー視され、そのようなことに着手する人間は、有形無形の暴力にさらされ、あらぬ罪を着せられ、排斥され続けているのである。

こうした文脈で、上記したように、「神に従い、悪魔に立ち向かう」という聖書の御言葉を持ち出すだけでも、「信者」を名乗る人々が拒否反応を示すことがあり得る。それはクリスチャンを名乗る人々の中にも、東洋思想が浸透していることの何よりの証である。

クリスチャンが聖書に記されている「血肉によるものではない」霊的な戦いがれっきとして存在することや、この戦いの重要性をきちんと理解するためには、まず日本人(を含む東洋人)の目を鱗のように覆っている東洋思想のバイアスを取り払わなければならないと筆者は思う。

東洋世界の価値観は、聖書と真逆であり、聖書では善悪の切り分けは根本的に重要であるが、東洋世界においては、「理屈を駆使して、人の嘘を暴き、悪事を立証しようとする行為」自体が、非常な高慢であり、悪でさえあるかのようにみなされている。また、東洋人には、ことに女性が理屈を振りかざして男性を論破することを非常に嫌う傾向がある。

だが、こうした傾向は、結局、東洋思想の「和」というものが、弱者を強者に従わせ、強者の罪を覆い隠して正当化するための都合の良い目隠しの役割を果たしていることをよく表している。「和」というのは、結局、権力者の罪が暴かれないための、また、弱者たちが搾取や不法に気づいてそこから抜け出さないようにするための都合の良いマインドコントロールの言葉なのである。

東洋思想の「和」の精神は、よくよく見れば、結局、社会の強者だけに都合よく作られていることが分かるであろう。弱い者には黙って強い者に従うことを求め、間違っても、弱者が強者の誤りを指摘したり、これを暴露して、強者に恥をかかせるなどという「不遜な考え」を持つことを許さず、そんなことを試みる者は間違いなく村八分になるとほのめかす、暗黙の脅しに満ちた思想である。

この思想が、一体、何のために、物事の是非をはっきりさせることを嫌うのかと言えば、結局、それは強い者たちによる横暴を見逃し、弱い者が強者の支配から抜け出ることを阻止するためである。つまり、人をいついつまでも奴隷のままにしておくためにこそ、この思想は、人間一人一人が自分自身の力で善悪を判断し、それを明るみに出すことを嫌うのである。

こうして、「和」の精神は、世間に波風立てないことを至高の価値とすることによって、人間一人一人の内側に確固として存在する善悪の判断(良心の声)を眠らせ、ただ時の権力者の言い分に黙って逆らわずに従うように促しながら、強者による悪事を隠し、弱肉強食を正当化する偽りの美徳、偽りの思想である。

筆者はここで弱者救済を唱えているわけでも、フェミニズムを推奨しているわけでもない。ただ、物事の是非や善悪を自ら判断する力は、男女や年齢を問わず、すべての人間に備わっているものであって、それは人の人生の方向性を決めて行くコンパスのようなものであり、自分の良心の声を眠らせて、これを放棄して、他人に判断を委ねてしまうなら、その時点で、人は自分の人生の自立と自由を失って、他人の支配下に置かれるのだと警告しているのである。

何が正しく、何が間違っているのかを、人の言い分に流されずに、自分自身で判断し、自己の生き方を決めて行く力は、人間の自由と尊厳とに密接に関わっている。この力(自主性、自己決定権)を奪われると、人は他人の思うがままに操られ、利用され、欺かれ、人生を犠牲にする結果にしかならないのである。

従って、私たちは、決して「和」などという表面的な美辞麗句に踊らされることなく、はっきりと物事の真相を見て、「和」という偽りのスローガンの向こうにある忌まわしい実態を見なければならない。こんな屁理屈のために、善悪を判断する力を少しでも鈍らせたり、眠らせたりしてはならない。

善悪を切り分け、見抜く力は、人が自由になるために欠かせないものであり、他人の奴隷となって犠牲者とされないためには、この判断力を眠らせて放棄させようとする一切の悪しきマインドコントロールを打ち破らなければならない。

先の記事でも書いた通り、筆者は、「和をもって貴しとなす」という考えは、東洋思想に基づく非聖書的な、悪魔的な思想であると考えている。「和」とは、実際には実在するはずのない、悪魔の嘘なのであるが、もっと踏み込んで言えば、それはバベルの塔にまで遡る人類の偽りの知恵を指すのである。

そもそも「和」という言葉自体が、「バベル(分裂)」の反意語としての意味を持つ。「和」とは、人類の和合を意味し、究極的には、人類の幸福社会のことである。この語は、旧約聖書の時代に、人類が神に逆らって知恵を結集し、バベルの塔を建設することによって、神を凌駕して打ち立てようと企んでいた調和に満ちた幸福社会(ユートピア)に端を発する。

その時に人類を神に敵対して結集させた反逆的な知恵が、その後、(西洋キリスト教の中では異端として駆逐されたがゆえに)、東洋思想の中に潜入し、東洋世界を通じて今日にまで達しているのである。

それだからこそ、筆者は、終末のバビロンとは、キリスト教と東洋思想の合体によって生まれる異端の混合宗教であると、再三に渡り、警告している。聖書の中で、終わりの時代に現れることが記されている大淫婦バビロンとは、バベルの塔が巨大化して完成体に近づいたものであるが、その根底に流れる思想は、東洋思想とキリスト教との「婚姻(姦淫)」によって出来上がった巨大な統一的な異端の宗教なのである。

今日、バビロンの思想はまだ完成にまでは至っていないが、ペンテコステ運動などは、まさにこうした混合宗教のはしりであると言える。ペンテコステ運動の理念は、「西洋的な父性による切り分け」を残酷なものとして否定し、これに「東洋的な母性による受容」のエッセンスを加えることによって、「父性」と「母性」をドッキングさせて、聖書の御言葉による切り分けを曖昧化した、「人に優しい(人に残酷でない)新たなキリスト教」を生むことである。このような思想の中には、まさに東洋思想と西洋的キリスト教の混合物としての偽りの宗教、バビロンにつながる異端思想が表れている。

さて、このように見て行くと、「和」という概念は、クリスチャンにとって、過ぎ去った時代の思想ではなく、それは今日まで連綿と続いている、人類が自らの力で神の聖に至りつき、自らの努力によって天的な調和を地上の人類社会にもたらそうとする、神の知恵に逆らう悪魔的願望を言い表しているのであり、人類による神に対する反逆そのものを象徴する恐ろしい単語であることが分かる。

だが、このようにして人類が自力で「和(調和)」を打ち立て、社会に理想状態をもたらそうとする誤った欲望には、神がすでにバベルの塔の分裂という形で制裁を加えられた。この法則は今日でも少しも変わらず、人類がどんなに自力で「和」を打ち立てようと追求したとしても、結果としてもたらされるのは、「分裂」だけである。人類は、自分自身の力によって平和に生きる術を知らない。このことは、我が国が引き起こした先の戦争がどんなに悲惨な終わり方をしたかを振り返るだけで十分であろう。もし「和」の精神が正しいものであるなら、そのような悲惨な終わりはなかったはずである。

 さて、この恐ろしい偽りである「和」の精神に関連して、一つ前の記事で筆者は、我が国がすでに共産主義国であり、我が国で唱えられる経済発展の夢も、ソビエト体制が唱えた共産主義ユートピアと同じく、決して叶わぬ悪魔的な偽りの夢であって、この偽りの夢に仕えるために地上で行われるすべての労働は、ソビエトの強制収容所における囚人労働と同じく、むなしく呪われた所業であって、人に幸福をも実りをもたらさないと書いた。

つまり、我が国で奨励されている労働は、単なる労働ではなく、かつてソビエト政権が目指したのと同じような、歪んで誤ったイデオロギーに基づく、全体主義を完成させるための手段なのである。

そうである以上、目的が誤っているのに、目的達成のための手段だけが正しいということは決してあり得ない。だからこそ、今の我が国では、(まさにソビエトの強制収容所と同じように!)人がどんなに真面目に働いても、決して豊かになる見込みがないどころか、かえってその真面目な労働があだになるような呪われた悪循環が生じているのである。

「一億総活躍」などという言葉は、かつて天皇を中心とする「神の国」を世界的に建設するために行われた国家総動員体制と何ら変わらず、要するに、バベルの塔建設のための人員の徴用なのである。今日ではあからさまに「天皇のために」とは言われないかも知れないが、戦前回帰主義者はこの点でもかつての体制に逆戻ることを夢見ているわけであるし、たとえ天皇を持ち出さなくとも、「人類の社会の幸福と発展のため」という名目で、決して訪れることのない偽りのユートピアのために国民を無駄に使役している実情は変わらないのである。

かつて作家ドストエフスキーは、パリで開かれた万国博覧会を見学して、そこで水晶宮(クリスタル・パレス)を見た。科学の英知を結集し、粋を凝らして造られたこの精緻な建造物を見たとき、キリスト教徒としてのドストエフスキーは直観的に、この建造物に未来のバビロンを予見した。この作家は、科学の発展の結果、人類社会にやがて巨大なバビロンが構築されること、終末の時代に異端のキリスト教が統一的な宗教として人類を悪魔的な知恵によって支配することを予見していたのである。

この作家は、『地下室の手記』の主人公の言葉を借りて、人類の未来社会に現れるバビロンたる水晶宮に、思い切り非難と嘲笑の言葉を浴びせて、訣別宣言を下した。すなわち、人類の英知を結集して、人類の未来に作られるクリスタル・パレス(幸福社会)が、どんなに結構づくめの美しく素晴らしい世界であっても、その幸福社会なるものは、その住人に一切の批判を許さない、恐ろしい全体主義のディストピアになるであろうから、自分は決してその住人になりたくないし、そのような恐ろしい社会を誉めたたえる気もない、というのである。何もかもが数値化されて、規則づくめで成り立つ一分の隙もないクリスタル・パレスに、物陰からあっかんべーをしてこれをあざ笑う自由を失わないために、自分は、未来の幸福社会の一員としてふさわしくない劣った人間の烙印を押されても良いから、惨めな地下室に引きこもって不幸な人生を送る方を選ぶというのである。その方がこんな偽りの牢獄たるディストピアに閉じ込められて生きるよりも、はるかにマシだと豪語するのである。

面白いことに、ドストエフスキーはこの主人公に、こんな広大なアパート(クリスタル・パレス)のために自分は煉瓦一つ運びたくない、と言わせている。水晶宮なのに、煉瓦運びとはなぜなのか?という疑問が生まれよう。この比喩は決して誤りでも偶然でもなく、煉瓦には深い霊的な意義があることを、クリスチャンならばよく知っている。

聖書では、神の力である御言葉は「石」にたとえられる。キリストは「人手によらず切り出された石」(ダニエル書2:34)である。つまり、キリストは人の力が一切加えられない、人工的な要素を全く持たない、純粋に神の力だけによって生まれた、神の御心にかなう聖なる完全な人である。これに対し、「煉瓦」は、人間が自分で粘土をこね上げて、焼いて作り上げるものであり、つまり人間が神の力を模倣して、人手によって(自己の努力によって)人工的に作り上げる産物を象徴する。
 
人類の涙ぐましいまでの努力の結晶たるバベルの塔の建設に「煉瓦」が必要とされるのは当然である。その意味で、水晶宮の建設に煉瓦運びが必要となるというのは、比喩として正しい。この比喩からも、ドストエフスキーが水晶宮をバビロンを暗示する象徴として描いていたことがはっきりと分かる。つまり、水晶宮は、神の知恵に逆らう悪魔的な思想の化身であり、悪の要塞の権化なのである。

さて、話を戻すと、現在、日本政府が「一億総活躍」の名で推奨し、国民が実質的に強いられている労働とは、まさに「水晶宮のための煉瓦運び」であり、そうである以上、このような文脈での労働は、神に喜ばれる勤労ではなく、むしろ、神の目に呪われた、決して永遠に実を結ぶことのないむなしい所業である、と筆者は断言せざるを得ない。

煉瓦造りも、煉瓦運びも、それ自体は、他愛のない行為に見えるかも知れないが、もしそれが人類の偽りの幸福社会の建設という忌まわしい目的のために行われるのであれば、泥棒の片棒を担ぎ、悪魔の共犯者になるも同然の自殺行為である。

このことに気づいた時、筆者は、これまでどの職業においても、必ずと言っていいほど見られた甚だしい理不尽の意味がすっかり分かってしまった。一体なぜ、ほとんどの企業や団体では、正義が曲げられ、真実が闇に葬られ、善人が罪に定められ、悪人が大きな顔をして悪事を隠蔽して居場所を占めているのか。その風景はまるで、まことの信者が無実にも関わらず「悪魔の手下」のレッテルを貼られて、牧師とその手先となった(極悪)信者らによって教会の外に追い出され、その一方で、聖書の御言葉から最も程遠い極悪な「(自称)信者」だけが、大きな顔をして教会の座席を占めている地上の偽りの宗教団体と何も変わらなかった。

このことに気づいた時、筆者は、国のGDPを上げるために、強欲な経営者の手先となって、地上で労働にいそしみ、就職戦争を勝ち抜いて、富を築き上げて生き残ろうとすることが、神の忌み嫌われる悪であると知り、先の記事で引用したソビエトの強制収容所の物語を読んだときと同じような慄然とした感覚を覚えた。

誤解のないように言っておけば、筆者は勤労の精神を教えられて育った世代の一員であり、働くことを好まない人間ではない。筆者の人生には、受験競争もあれば、就職戦線もあり、より良い暮らしを得るために、人は努力することが必要だと常に教えられて来た世代である。

しかし、その教え込みは、聖書に反し、神の目に完全に誤っているのである。実際に、筆者がいかに勤労の精神に満ち、いかに優秀に働き、どれほどの功績を打ち立てたとしても、この社会では、その勤労は悪用されるばかりで、手柄は筆者のものにならない。圧倒的大多数の国民は、熱心に働いても裕福にはならず、むしろ、働けば働くほど、悪党が栄え、悪魔が喜ぶだけの仕組みが出来上がっている。

この世の経済がバビロン化し、国民の勤労が悪用されて、国民の富とはならず、ただ収奪されるだけになっている明白な証拠として、政府は現在、年金支給開始年齢を75歳(できればそれ以上)に引き上げて、国民が働いても働いても、定年にさえ至りつけず、死ぬまで労働から解放され得ないような、恐ろしい仕組みを作ろうとしている。

国家公務員の給与だけが年々引き上げられる一方で、国民から徴収される社会保険料はますます重くなり、民間企業の給与水準は一向に上がらず、国民は死ぬまで休みなく馬車馬のように働いて、貧しい中から政府に税金をおさめ、死によってしかこの泥沼のような労働から抜け出せない、まるで家畜のような存在とみなされているのだ。

このような中で、「一億総活躍」などという馬鹿馬鹿しいスローガンに踊らされて馬車馬のように働き続けることが、果たして人にとって善だと言えようか? そのような行為が人に何の幸福をもたらすであろうか? 断じて否である。それはただ悪党どもに死ぬまで使役され、搾取され、狡賢い他人の餌食となって、犠牲となるだけの人生である。今日は生き残れても、明日はないであろう。そのことは、クリスチャンでなくとも、ほとんどの人々が異論なく認めるものと筆者は思う。

このような意味での労働は、甚だしく歪んでおり、社会の発展にも個人の幸福にも決して寄与せず、人間をただ不幸に追いやるだけである。

だとすれば、正しい結論は、このような呪われたバビロン経済の仕組みの中で働くことをきっぱりやめて、水晶宮の完成のための煉瓦運びを手伝う作業から身を引くことである。そのようなことからは一刻も早く足を洗い、このような文脈での労働とは全く違った労働によって身を立てることを考えるべきであり、それこそ善であり、幸福への道だという結論となる。
 
しかし、もう一度、問題提起するなら、呪われた労働と手を切って、正しい労働によって生きるとは、具体的に何を意味するのであろうか。

それはニートになることや、物乞いになることや、親の富にすがって生きることや、生活保護に頼って生きることや、自己破産することを意味しない。はたまた、人々の恐怖心につけ入る何かのいかがわしい詐欺的なセミナーを開いて、参加者から金を徴収したり、いかがわしい新たな宗教の開祖となって、信者の献金に頼って生きたり、学生を食い物とする学校法人ビジネス、あるいは社会でつまづいた人々を食い物にする弱者救済ビジネスに手を染めることによって、講習料や、授業料や、寄付金や、献金や、支援金などの名目で、心弱い人々から金をむしり取って、他人に寄生して生きることを意味しない。

筆者に言わせれば、以上のような方法での集金活動は全て「煉瓦運び」の域を出ないものである。これに対し、真に望ましい形での正しい「労働」とは、御言葉に従い、真実に生き、あくまで正しいことを主張し、その行動の対価として相応の報酬を得ながら、自立を失わず、他人の支配を受けず(人の奴隷とならず)自由を保って生きることを意味する。その最善の形は、この世の労働によらずに「天の糧」によって生きることである、と筆者は疑わない。

数年前から筆者は、呪われたバビロン建設作業から抜け出て「天の糧」によって生きる方法を模索し、その実現のためにこそ、数々の戦いを戦い抜いて生きて来た。

筆者はこれまで様々な職業を経験したが、筆者がどんな職業に就いても、分かったことは、神は筆者がただ金儲けのために己を奴隷として差し出し、悪事に目をつむり、正義を曲げて生きることを決して望んでおられないということであった。

神が望んでおられるのは、神を信じて自由にされたはずの信者が、まるで働き蟻か馬車馬のように、再び強欲な他人の奴隷となって、自分をないがしろにし、犠牲にしながら生きることではなく、神に信頼しつつ、より自由に、より安息して、自分の望みに従って生きることなのである。

そのように自由で解放的な生き方ができるようにと、神は信者のために、いつでも天に宝を備えて下さっている。だが、この天的な富を地上に引き下ろすには、条件がある。「神の国と神の義をまず第一に求めなさい」という優先順位を守るときに、初めてそれが可能になるのである。

強欲な雇用者のどんな金儲け願望も、あるいは国家が打ち出す「一億総活躍」のスローガンも、生活の不安も、地震も、災害も、戦争も、どんなものも、決してその優先順位を変えることはできない。神の国と神の義を第一として生きることは、人が己を養うために行うどんなもがきよりも、はるかに優先されるべき課題なのである。

「だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたなの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。

何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」(マタイ6:31-34)


この御言葉を根拠に、ある時点を境に筆者は明日の不安を投げ捨て、ただ命をつなぐために今日を馬車馬のように働くむなしい人生と完全に手を切って、空の鳥のように、自分自身を完全に天に委ね切った。だが、それは信仰の戦いを抜きにして成り立つ人生ではなく、自分自身の力によらず、ただ全身全霊で神の御言葉だけに頼って生きる生活を意味した。

地上の労働についても、筆者はこれまで一度たりとも、縁故に頼って就職を試みたことはない。すべては地上的には何の保証もないところから、筆者がただ信仰だけを頼りに切り開いて来た道であった。また、筆者は大学時代にも、指導教官のコネを頼って就職を目指したことはなく、教官の力を使って返済不要の助成金を得たこともなかった(そのような提案がなかったわけではないが、筆者はこれを受けなかった)。また就職先の団体の力で奨学金を返済不要にするなどの特別な利得も受けていない。

このブログについても、昨今、多くのブロガーが有料メルマガなどを発行して日々の糧を稼いでいる中、有料化するという案を筆者が一度も考えなかったわけではない。特に、どんな記事を書いても、返って来るのが、ただ読者の悪罵と、憎しみと、脅しだけであったような時期には、ブログを続けて何の益があろうかという思いが心に去来しなかったわけではなかった。
 
それにも関わらず、筆者は信仰告白を無意味なものとは思わず、決してやめなかったし、記事の有料化もしなかった。どんなに敵対的な反応が返って来ても、採算が取れないと考えて、信仰告白を売り物にするようなことはしなかった。それは超えてはならない一線であるという認識が筆者にはあったからである。もしそのようなことをすれば、キリスト教を売り物にして、信者から献金を巻き上げて生きる牧師たちと一体、何の違いがあろうか。どうして彼らを非難することができよう。信仰告白を金もうけの手段に変えるなら、このブログは単なるビジネスに堕し、筆者の告白は純粋さを失い、筆者はまことの命なる方を見失って、ブログも早々に立ち行かなくなるだけであろう。
 
実際に、記事を有料にしたからと言って、採算が取れる保証は全くない。世の中全体が窮乏化している状況で、有料記事を発行しているブロガーが、この先、どれほど長くそのやり方を保てるかは疑問である。

このようなわけで、筆者はこのブログの信仰告白のために、一銭のカネも受け取らず、(詐欺師による心にもない嘘を除き)一言の賞賛の言葉も受けなかったが、それを実に結構と考えている。また、筆者が地上の生活を生きるに当たって、どんな有力者のコネも、推薦の言葉も不要であり、ましてや強欲な雇用主に媚びるために、悪魔に魂を売ってまで、搾取や不法に加担しながら、職場での地位の安泰をはかることは必要ないと考えている。

そのように信念を曲げないやり方で、このブログが存続し(まして告訴の脅しさえも受けながら!)、筆者の人生が成り立つのかどうかは、信仰による賭けであった。しかし、筆者には勝算があった。筆者は、利得のために、また地上で己が命を保つために、悪魔に魂を売って、正義と真実を売り払い、信仰の道を曲げる生き方を良しとしなかった。

この世の人々から見れば、こうしたことは、実にまずい、不器用かつお人好しな人生、割に合わない、不採算な、もっと言えば、可哀想な人生にさえ見えるに違いない。どんなに真実だの正義だの言ってみたところで、たった一人での抵抗など、どうせ長くは続かず、どこかで悪党にしたたかにやられて、悲劇となって幕を閉じるだけだろうと思われていたことであろう。

ところが、悪党には非常に残念なことに、決してそうはならなかった。ブログも健在であり、筆者も健在である。むろん、そうなるために、戦いが水面下であったことは否めないが、その戦いを信仰によって最後まで忍び通し、勝ち抜くことにより、こうした結果が生まれているのである。

筆者は外見的には未だ頼りなく弱々しく見え、「かろうじて生きている」だけに見えるかも知れないが、筆者の内側には、死を打ち破ったキリストの復活の命が、生きて力強く働いている。それゆえ、筆者はどんなに追い詰められているように見える時にも、決して「かろうじて生きている」だけには終わらず、圧倒的な勝利を掴む秘訣を知っているのである。

だから、世の中がどんなに不況に転じても、筆者が絶体絶命に追い込まれることはなく、明らかに、年々、生活水準が向上し、ますます望みに従った自由な生き方が可能になりつつある。それは一足飛びの解放というわけには行かないが、一段ずつ階段を昇って行くように、解放を勝ち取るのである。そして、このように自由になるための戦いの中で、ますます勇気と力が与えられ、戦略が磨かれて、熟練した兵士のようになって行くのである。

戦いが始まったばかりの頃は、筆者はまだどこにでもいるありふれた控えめで頼りない小娘のような一人に過ぎず、御言葉だけに頼ることに不安を覚え、助力者となってくれそうな誰かを探し求めたこともあったかも知れない。しかし、今はもうキリスト以外に誰にも教えを乞う必要のない、他人の助けを必要としない熟練した兵士へと近づき、敵が近づいてくるのを見るや一目散に戦場から逃げ去る臆病な一兵卒などでは決してないのである。

さて、筆者がこれまで各種の戦いに勝ち抜くために、最も重要な教訓として学んだのは、神の御言葉に信頼して自分の全存在を委ね切って生きるには、決して「人の助言に頼らないこと」、「世間の顔色を伺わないこと」が重要という秘訣であった。この「世間」の中には、当然ながら、クリスチャンの世間も含まれる。

聖書の原則は、「人はすべて偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです。」(ローマ3:4)というものであり、この原則を守り抜くことができなければ、信者は敗北する。どんなに立派で、どんなに頼りがいがあるように見える人間も、実態はことごとく「偽り者」でしかなく、キリスト以外に頼るべきお方はいないのである。
 
従って、「和を乱さない」などのうわべだけの綺麗事のために、権威者を名乗る人々や、「世間」の思惑に流されて生きるようになれば、信者が神に従い、真実に正しく生きることはもはや不可能である。

筆者が知っている限り、信仰の破船に遭ったクリスチャンの8~9割が、世間での自分の評判を愛し、惜しんだために、神に従うのではなく、人に従う人生を選び、信仰の道から逸れて行った。彼らがかえりみた世間とは、不信者の世間ではなく、クリスチャンの世間であった。それを見つつも、筆者には、はっきりと言えるのだが、もしも信者が、ほんのわずかでも、世間での自分の評判を惜しみ、世間から後ろ指さされたくないとか、軽蔑や嘲笑や非難を受けたくないとか、つまはじきにされたくないという恐れから、世間の思惑や動向を気にし、少しでも人々に良く見られようと、自分の見てくれに気を使い、人々の意見や評価や流行に自分を合わせようとし始めると、そのとたんに、その信者はもう自由を失って、人の思惑の奴隷へと転落し、神の御心を全うすることができなくなるのである。

そのようにして、信者が自分の人生の主導権を「世間」などという正体不明の存在に乗っ取られれば、その船は、正しく舵を取る者がいなくなり、転覆は間近である。牧師や教師や信仰の先人を名乗る人々の顔色を伺うことも、これと全く同じ効果をもたらす。それは人生の主導権を他人に乗っ取られることを意味する。

そこで、クリスチャン生活における戦いの中で、とりわけ常に重要なポイントは、たとえこの地上の目に見える世界において、誰からも理解されず、誰からの支援も賞賛も後押しもなくても、たった一人でも、聖書の御言葉の正しさを心から確信し、御言葉に立脚して、どんなに御言葉に矛盾する現実があるように見えても、その約束から一歩も逸れず、信仰の確信に最後まで立ち仰せられるかという点にある。このような孤独な道を一度も通らずに、一度も試されることなしに、信仰の戦いを立派に戦い抜いて勝利をおさめることのできるクリスチャンは一人もいないと、筆者は心から確信している。

もしも信者が、いつも数多くの理解者や支援者に取り囲まれて、ひっきりなしに人からの慰めや励ましや賞賛の言葉を受けていたら、たとえ試練の日にその信者が何かの重大な信仰告白を成し遂げたとしても、一体、どこまでが本人の確信で、どこからが他人の影響力や受け売りによる「補強」なのか、誰にも分からないであろう。

そこで、神はこのような「取り巻き」による影響力をすべて剥ぎ取られ、信者を他の人々から切り離して、孤独な場所に置かれる。そして、誰もいないところで、信者の心を個人的に極みまで探り、試される。また、信者が神に従うことが、決して信者本人にとって何の栄誉ともならず、何の快楽ももたらさず、むしろ、信者にとって不利であって、苦しみが伴い、損と映るような状況をあえて用意される。このような過程を通して、信者が自分自身の利益のためではなく、御言葉の正しさへの確信、神の栄光のために、神に従うという境地まで導かれることなくして、信者の信仰告白は決して本物にならず、御言葉が信者の内側に生きて造り込まれることもないのである。

このような苦しみの伴う不快な過程をすべて耐え抜いて、それでも信者が御言葉へ従順であり続けることができるのは、ただひとえに地上における軽い苦難の先に待っている重い天の永遠の栄光を見据えているためである。

ヘブル書第12章2節は、口語訳では、「イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。」となっており、共同訳ではこの箇所は、「このイエスは、ご自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。」とある。かなり文脈が異なっており、筆者はおそらく共同訳の方が原文に近いのではないかと思うが、口語訳も誤りではないと言えると思う。なぜなら、主イエスは、十字架の苦難の向こうに、はかりしれない栄光が待っていることを実際に知っておられたのであり、それと同じ文脈を以下の御言葉にも見て取れるからである。

「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。このように言う人たちは、自分が故郷を探し求めていることを明らかに表しているのです。」(ヘブル11:13-14)

信者は、信仰の戦いを戦い抜くことによって初めて御言葉の確かさを実際に知り、御言葉と深く一体化して、その約束の中を実際に生きることができる。全世界の誰一人、信者の確信を理解せず、目に見えるすべてが絶望的で、頼りなく、聖書の約束を否定するように見える状況の中でも、信者が「目に見えない方を見ているようにして、耐え忍」び(ヘブル11:27)、御言葉に従って、神のみを信頼して、揺るがされることなく平安の中を生きるならば、幾度も述べたように、たとえ生きているうちに天の都に到達することはないとしても、天に溢れるばかりに備えられている重い栄光の一端を、地上に生きているうちに垣間見ることができる。

地上での苦難は、信者を訓練するために神が許されて与えられるものであるが、その小さな訓練をも耐え抜けば、相当の褒賞が待っている。多くの場合、その褒賞は、ただ目に見えない約束であるだけでなく、その一端が、信者の地上生活に、(呪われた水晶宮への煉瓦運びの労働とは比べものにもならない)豊かな富や自由となってもたらされるのである。天の糧を得るとは、天の父なる神の御心を行って生きることである。その道を行くとき、信者の生存に必要なすべてを、神自らが備えられる。
 
「わたしの民がわたしに聞き従い、
 イスラエルがわたしの道に歩む者であったなら
 わたしはたちどころに彼らの敵を屈服させ
 彼らを苦しめる者の上に手を返すであろうに。

 主を憎む者が主に屈服し
 この運命が永劫に続くように。
 主は民を最良の小麦で養ってくださる。

 「わたしは岩から蜜を滴らせて
 あなたがたを飽かせるだろう。」(詩編81:14-17)

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神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)

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