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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

神の大能の御力によって奮い立たされる

何年間も、筆者は半分、ブルーカラーのような仕事をしながら、色々な仕事に応募するために、数々の派遣会社を巡った。筆者はピアノを弾くので、指の動きはかなりの速さであり、派遣会社で課されるタイピングのテストは常に高得点であったが、ワード、エクセル、パワーポイントなどのお決まりのテストには、最初は随分、閉口させられたものだ。

何しろ、筆者はずっと古いパソコンを使い続けており、当時は、これらのソフトに、全く対応できていなかったのだ。勉強する機会されあれば、そんなものはあっという間に習得できるのに、半分ブルーカラーの仕事では、パソコンに触れる機会もない・・・。

派遣会社では、高学歴の筆者を、半ば蔑むようにして社員たちが見ていた。こんなにも立派な学歴があるのに、なぜこんなところに登録しなければならないのですか、よほどあなたは酔狂なのですね、私たちを馬鹿にするためにここへ来たのでしょうか、とでも言いたげな目つきで、異星人のように眺めるのだった。

ここは筆者の生きるべき世界ではない、彼らは人間の皮を被ってはいるが、人間の心を失った人たちだ、ということが、その目つきからも、態度からも、よく分かるのであった。

それにも関わらず、こうした監獄のような人生を筆者が抜け出るためにかかった時間は、かなりのものであった。抜け出るためには、その世界が、本当に筆者の生きるべき場所ではなく、何としてもこんな世界とは早くさよならしなければ、キリスト者である意味が全くないと感じるに十分なほどの強い嫌悪感が必要であった。

新しいアイデンティティによって、古いアイデンティティが打ち壊されることがどうしても必要であり、貧しい生活、死と恐怖と不安に脅かされ、支配され、搾取されるだけの生活に対する心からの嫌悪と憎しみに加えて、キリストはそのような恐怖に脅かされる生活にこそ、カルバリで打ち勝って下さったのだという聖書の事実への絶対的な確信が必要であった。

貧しい者たちへの同情や共感も、その過程で、振り捨てる必要があった。他者にどんなに同情しても、そのことは彼らにはプラスにならないどころか、その人間が筆者を踏みつけにするだけなのである。そこが自分の属する世界でなく、そこにいる人々も筆者の仲間ではない、ということを完膚無きまでに確信し、望ましくない道連れと完全に訣別する必要があった。

それから、神が信者のために天に蓄えて下さっている宝を、自分自身のものとして、断固、要求し、地上に引き下ろす秘訣が次第に分かり始めたのである。結構な時間が必要であったが、その実験はこれからも続くであろう。

そのような決意を固めるまでに、筆者が悪徳企業とその手下どものあくどさに驚き、呆れ果てた回数は数知れず、遭遇した事件は、すべて省略するが、ここには書ききれないほどである。

周りにいる兄弟姉妹からはよくなぜそのような生活を送らねばならないのか理解できない、と言われ、家人からは、もっと別な生き方があるはずだと諭された。ついに、その頃、周囲にいた裕福な信者たちから、まるで同情の価値なしとして、徹底的に蔑まれて初めて、筆者はそのような生活が、ただ悪魔を喜ばせるだけであることにはっきりと気づき、これを断固拒否して、自分自身から鎖を払い落としたのであった。

そのようなことが可能になる前提として、筆者は、地上の経済とは別に、天の経済というものが確かに存在していることを確信する必要があった。地上の経済は、天の経済によって支配されており、天の統治は、悪魔の統治に勝る。たとえ全地が悪魔の支配下にあったとしても、悪魔の権威にまさるキリストの御名によって天から治める者は、この地の経済の全ての制約を超越する権威を持っているのである。だから、信仰者の生活においては、まず、すべてが信仰によって、地からではなく、天から始められなければならない。そうして初めて、地上にその効果が現れるのである。

それが最初に分かったのは、筆者が横浜へやって来たときのことであり、この移住のために、すべての必要な資金が、筆者の努力によらず、祈りによって、不思議な方法で天に備えられ、供給された。相当な資金が満たされただけでなく、人の心までも変えられたのである。些細なことについて言えば、この地に着いて間もなく、筆者はバスの路線がよく分からず、バスを乗り間違えて、別の停車場で降りたことがあった。その時、バスの運転手が話しかけて来て、路線を尋ねているうちに、持っていた回数券を、筆者にくれると言うのである。そんな風に、天の経済に生きていると、損失というものが生じないのである。信者のこの世の知識が不十分で、バスを乗り間違えたとしても、そのことさえ、補償の対象内となっており、別な方法で必要が満たされるという塩梅であった。

まるで全世界の物流、金の流れ、人の心、この世の動向の全てが、自分を中心に回り始めたと言っても過言ではないくらいの、何かはかりしれない命の力が、自分自身の内にあって働くのである。それがキリストの権威であり、統治なのである。

筆者自身は全く取るに足りない一人の人間に過ぎないのに、信仰によって生きる時、そういう現象が起きて来るのである。そういった一連の事実が、神の見えない霊的な秩序が確かに存在していることを筆者に確信させ、その秩序に大胆に生きる必要に目を開かせた。この地にやって来た時に起きた現象の全てが、信者がこの世の限界に満ちた制約を実際に打ち破り、超え得ることを筆者に確信させた最初の一歩であった。

だが、ネット上のバッシングなどが起こって、兄弟姉妹だと考えていた人々を含め、多くの人々が、筆者に敵対する側に回ったり、裏切る側に回った時、筆者は混乱し、その天的高さに生きることを中断してしまった。なぜなら、その当時の筆者は、確かにキリストによって新しくされた人間であると同時に、未だ古い思考パターンによって、この世の人々と同じように、常識的にものを考える人間だったからである。

この世からの敵対が激しくなればなるほど、その怒りをなだめるために、筆者は自分が何かをせねばならないという思いに駆られた。その敵と憎しみが、筆者にはまるで関係のないことであり、キリストの命によって生かされた全ての新しい人間に対する、地獄の全軍からの尽きせぬ敵意と憎悪なのだということに思いが至るまで、一定の時間が必要であった。

だが、その敵意が地獄から来たものであることを理解した後、それに打ち勝つためにも、筆者は「ただの人」であってはならないことが分かった。ただの人には、地獄の軍勢に立ち向かう力はない。それができるのは、キリスト者が御名の権威に立つときだけなのである。

さて、筆者がキリストと共なる十字架の死と復活を知って、初めてはっきりと理解したことの中に、神の復活の命は、たとえ核爆弾が七回炸裂して全地球が滅びに至るまで汚染されたとしても、そのすべての圧迫に打ち勝つ威力を持っている、ということがあった。

どうしてその時、核爆弾のことに思いが行ったのかは分からないが、いずれにしても、復活の命を滅ぼすことのできる脅威は、宇宙全体に全く存在しない、ということが分かったのである。筆者自身が持っている脆く壊れやすい肉体と、その命のはかりしれない力のコントラストが、自分自身ではっきりと感じられた瞬間であった。

地獄の軍勢に対峙するときにものを言うのは、その復活の命の威力だけである。アダムの命に生きている限り、信者は悪魔にやられっぱなしになるしかないが、復活の命に立つと、彼らは引き下がらざるを得ない。そして、悪魔に支配されているこの世が、信者のために、今までとは全く違った方法で機能し始めるのである。

私たちは主イエスが地上におられた時、どのようにして物質的・金銭的・この世的な必要を満たされたのかに注意してみる必要がある。エルサレム入場の際、主イエスは行ったことのない、見たことのない場所にロバがつないであることを予め知っておられた。主イエスは泊まる場所を確保しておらずとも、ザアカイの存在を知っておられ、彼がご自分のために宿泊の用意を整えるよう、声をかけられた。

そんなことから、主イエスは地上におられる間、常に人の目には行き当たりばったりと思われるような、この世的な観点から見ると、保障のない生き方をされていたことが理解できる。ところが、主イエスは地上で何一つ所有物を持っておられなかったのに、全ての人・物が、彼に仕えたのである。必ずしも、はっきりと言葉に出して命じられたわけでもなく、自然と、そうなっていったのである。それが御霊の統治なのである。主イエスご自身が、人格を持ったパースンであると同時に、神の霊的統治だったのである。

主イエスの統治は、人の人格と結びついた統治であり、しかも、この世の支配のように、虐げ、搾取し、権力を振るうための統治ではなく、解放し、豊かな命を与え、人を永遠に生かす統治であった。

従って、信者は主イエスの地上の生活のことを思う時、それは主イエスお一人だけでなく、信者が実際に送ることのできる生活であると考える必要がある。だが、それは常識から見れば、全く無謀かつ不可能な生活でしかない。この世の常識は、明日の保障を求め、それがあることを安全だと解釈するからである。従って、信仰による霊的統治に生きるためには、それがこの世における常識と全く相容れないことを、信者は理解し、これを受け入れなければならない。

さて、地獄の軍勢と対峙し、主が与えられた命の解放を生きて実際に知るためにも、信者は神の命に込められたその力を奮い起こし、これを最大限、引き出し、鷲が翼をかって天高く空に駆け上るように、もとにいた高度に戻らなければならないのである。

派遣会社が設定したつまらないテストなどを受けて、その結果によって自分をおしはかり、一喜一憂したりしているような場合ではない。そんなものはすべてこの世が人々を奴隷にするために作り出したシステムでしかなく、本当は、信者自身が、この世をテストする側に回るのである。それが本来のあるべき秩序なのである。つまり、信者がこの世の前に跪くのでなく、この世が、キリストの御名の権威の前に跪かなくてはならない。信者はその神の統治を持ち運んでいる者である。

そこで、たとえ、信者自身に、この世的な観点から見て、どんなに能力や、経験や、権勢が不足しているように見えたとしても、信者はそのことで落胆したり、勇気を失ったりしてはならない。誰にも知られない若者だったダビデを召して油を注がれ、ダニエルを呼び出し、落胆していたギデオンを呼び出された神は、この世のどんな取るに足りない者であっても、信仰さえあれば、その者を今日も呼び出され、油を注いで、「勇者よ」と言うことがおできになる。信者が何者であるかは、この世が決めることではなく、神が判断されるのである。信者は神の召しに全幅の信頼を置かなければならない。

そんなわけで、筆者はその後、半分ブルーカラーのような仕事に訣別し、苦手としていたすべてのオフィス系ソフトをも、仕事で問題なく覚えるようになり、やがて派遣会社への登録を全て抹消し、仕事について、かなりの条件をつけて神に願うようになった。

まだまだ、筆者は天の高度にふさわしい意識を完全に取り戻したとは言えず、この世における自分の弱さを思い、不安に駆られることもある。だが、神はご自分の子を訓練されるのである。悪魔と暗闇の勢力に対峙しうる神の軍隊の強力な兵士に生長するまで。

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神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)

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