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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

キリストの十字架の死と復活の原則―死ぬべきものが命に飲み込まれるために、天から与えられる住処を上に着たいと願う―

わたしたちの地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、わたしたちは知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住みかです。

わたしたちは、天から与えられる住みかを上に着たいと切に願って、この地上の幕屋にあって苦しみもだえています。

それを脱いでも、わたしたちは裸のままではおりません。この幕屋に住むわたしたちは重荷を負ってうめいておりますが、それは、地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません。

死ぬはずのものが命に飲み込まれてしまうために、天から与えられる住みかを上に着たいからです。わたしたちを、このようになるのにふさわしい者としてくださったのは、神です。神は、その保証として”霊”を与えて下さったのです。」(Ⅱコリント5:1-5)

筆者は様々な文書をこれまで作って来たが、文書にはいつもある程度の完成度というものがある。公式な文書であれば、当然ながら時間をかけて推敲し、誤字脱字もすべて修正せねばならない。字数制限がある場合もある。

ブログとなると、誤字や誤表現にそこまで気を使わなくても良い。間違いに気づけば後から訂正すれば良いし、気に入らなければ、全面的な書き直しも許される。

だが、どんな文書であれ、いつも思うように推敲の時間が取れるわけではなく、形式については、どうしてもある程度のところで手を引かざるを得ない。
 
その代わり、妥協できないのが内容だ。内容のない文書など書くだけ意味がないのだから。

そして、内容については、最初から書きたい内容がすべて目に見えているわけではない。ほとんどの場合、書いているちに内容が掘り出されて来る。

筆者はどのような公式文書よりもブログの価値を重く見ている。

ブログでは、自分の書いた内容について、何年も何年も経ってから、当時、言わんとしていたことの重さが分かって来ることが多い。自分でも気づかないうちに、そこにある種の予言的な意味合いが込められていたことに、後になってから気づく。

御霊はクリスチャンに来るべき事柄を教える。私たちは心の奥深くで、未来がどうなるのかを知っている。そしてその未来とは、究極的には、神の勝利の計画の成就である。
 
ここしばらくの間、筆者は、このブログの題名を「私ではなくキリスト」とつけたことは、間違いなかったと感じている。今回はその理由を述べたい。
 
筆者の子供時代、家の近所に川があり、よく遊びに行っていた。その河川敷に、おかしな鳩がやって来たことがあった。
 
川の橋げたには、いつもたくさんの鳩が群れとまっていたが、ある時、そこにとまろうとしてやって来た一組の鳩の様子がおかしい。

二羽がまるで団子のようにくっついて飛んでいるのだ。よく見ると、その二羽は、鉄線か何かで足がからまり、離れられなくなって、二人三脚のような状態で、一緒に飛んでいるらしい。

しかも、一羽目が上にしきりに飛び立とうとしているのに、二羽目は下へ下へと落ちて行く。

子供だった筆者は、それを見て、何とか助けてやれないものだろうか、と哀れに思った。あの絡まった鉄線をほどいてやれさえすれば、二羽とも自由になれるのに、と。

そこで、近づいて助けるチャンスはないだろうか、と、しばらく様子を伺っていた。

しかし、橋げたにとまることがどうしてもできずに、とまることをあきらめた鳩が、水面すれすれにまで降りて来て、筆者の前を飛び去った時、筆者にははっきり分かった。二羽目はもう死んでいるのだと。

生きている鳩が、死んだ鳩と鉄線でつながれたまま、死んだ鳩をぶら下げて、飛んでいるのだ。
 
その鳩は、死体の重みで下へ下へと引っ張られながらも、何とか上へ飛び立とうともがきつつ、そのまま筆者の目を通り過ぎ、飛び去って行った。

筆者は、子供心にも、何とも醜悪でグロテスクなものを見せられた気分になり、衝撃を受け、言葉を失って、家に帰った。
 
その光景を、筆者は今でも、時折、思い出すことがある。
 
だが、その光景は、現在、筆者の中で、当時とは全く異なる新しい意味合いを持っている。

それは、その光景が十字架において罰せられたアダムとキリストへと重なるからだ。

筆者の中では、あの死んだ鳩は、罪人として罰せられた人類の姿に重なる。

キリストの十字架は、罪なく永遠の命を持つキリストと、罪を犯して滅びゆく人類が一緒に罰せられた場所である。

もちろん、信仰のない人にとっては、キリストの十字架は、あくまでキリストだけが罰せられた場所であり、その死は、自分の死ではなく、それは自分の十字架でもない。

そこで、そのような不信者の中には、「キリストさんは、可哀想だなあ。無実だったのに、弟子に裏切られ、罪を着せられて、殺されたんだからなあ」などと、他人事のように哀れんでいる人もあるかも知れないし、キリストは新しい宗教の開祖で、誤解のゆえに殺された犠牲者だと思っている人もいるかも知れない。

しかし、信仰に立つ者は、ゴルゴタで、神の独り子なるキリストの死と、自分の死とが一つになっていることを知っている。

そこで、信じる者にとって、ゴルゴタは、「無実にも関わらず、裏切られて売り渡された哀れな犠牲者としてのキリストが罰せられた場所」では決してないのだ。

そこは何よりも「十字架刑に処されて当然であった「私」(=アダム=人類=人間の自己)が罰せられて死んだ場所」である。そして、そのように御子を罰することは、人類を救うための神の深遠なご計画だったのである。

罪なくして罰せられたキリストは、十字架においてさえその尊厳を失われなかった。どんなに鞭打たれ、あざけられ、唾を吐きかけられても、最後までご自分の尊厳を保ち、父なる神に従われた。

しかし、滅びゆく人類は別である。滅びゆく人間は、まさに罰せられて当然の存在であった。

もし十字架において罰せられた「アダム(「私」=人類=生まれながらの人の自己)」の姿を実際に見ることができるとすれば、それは誰もが目をそむけたくなるほどに醜悪で、まさに嘲りと罵りと鞭打ちと拷問に値する存在であると言えたであろう。

それほど残酷に罰せられてさえ、己が罪を認めず、キリストを見下げて罵り、嘲っていたかも知れない。ゴルゴタでキリストと一緒に木にかけられたあの強盗の一人のように。
 
筆者は思う、子供の頃に見た、あの死んでしまった鳩でさえ、あれほどグロテスクで醜悪な印象を醸し出していたのだから、十字架においてキリストと共に罰せられた人類(人間、アダム、生まれながらの人の自己)を見ることができるとすれば、それはどんなに目を背けたくなるほどに醜悪な姿であろうか、と。

だが、そのことを思うと同時に、筆者は平安を感じるのだ。それは「心配要りません。あなたの裁きはもう終わりました。」と、神は筆者に言って下さるという確信を心に持つことができるからだ。

「カルバリでの御子の死が自分の死であることを認め、その裁きを心に受け入れさえするならば、あなたが再び罰せられることは決してありません」と、神は言われるからだ。

だが、信仰によってキリストと自分が一つであることを認めても、やはり、信じる者は、地上での生活において、一歩一歩、十字架の死と復活を背負うことが必要となる。

筆者はこの度、キリストの十字架を嘲り続ける者を、この世の諸手続きによって暗闇に引き渡そうとしている。だが、これは筆者の生まれながらの自己の義憤から出た行動ではないことを予め断っておきたい。

筆者は多分、このブログに自らの地上の名を記すことは最後までないだろうと思う。それは、多くの人々が考えているような理由からではなく、以前にも述べたように、このブログによって栄光を受けないためである。

多くのクリスチャンが、牧師や教師や指導者となって、自分の名を公然と世に掲げて著書を出し、ミニストリーを開き、献金を集め、CDを売った。

「偉大な霊の器」などの触れ込みのもと、何千人も収容できるスタジアムを借りて集会を開いたりもした。

だが、筆者は決してそのようなことをせず、このブログを有料化もしない。

無料だからと言って、自分の名を売るために、利用することもしない。それをミニストリー扱いするつもりもない。何よりも、筆者は決して人を上から教える立場に立たない。

だから、最後まで無名の「ヴィオロンさん」のままで良いのである。

多分、何年も後になれば、すべての記憶が風化し、「ヴィオロンさん? それって一体、誰なの? 現実にいる人なの?」ということになって終わるだろう。

「ヴィオロンさん」は、牧師でもなく、教師でもなく、指導者でもない。神学博士でもなければ、キリスト教社会主義の政治家でもない。無学な人間なのか、偉い人なのか、一体、何者なのかも分からないまま、ただの名もない人間として、風のように現われ、風のように過ぎ去って行くだけである。

だが、現実の筆者の名は、市民権を持っている。社会生活がある。筆者に連なる人々も同様である。そこで、現実の筆者を貶める行為に及べば、当然ながら、その者は報いを受けなければならない。

それはこの世の法則である。

いわば、筆者はその時をずっと待っていたのだとも言える。

上手く説明できる自信はないが、筆者にとっては、「ヴィオロンさん」こそ、生きた鳩であり、この世で生きる筆者は、ゴルゴタの十字架でキリストと共にすでに死に渡されており、あの醜悪な死んだ鳩も同然なのである。

この二つは切り離せないものとして一体である。

生きている鳩とは、信仰によってよみがえらされ、生かされた「新しい人」としての筆者である。
 
多くの人々にとっては、驚くべきことであろうが、筆者から見れば、死んだのは地上における筆者(アダムとしての筆者)なのである。
 
その意味で、筆者の目に映る「現実」は、多くの人が見ている光景とはさかさまである。

筆者の地上における名は、決して天の栄光と結びつけるつもりはない。むろん、地上における名も何かを為すことくらいはあるかも知れないが、その栄誉は束の間で、これは絶えず十字架で死に渡されているアダムである。
 
ゴルゴタにおけるアダムの死が絶えず筆者に適用されることによって、逆説的に、信仰によって復活の命が働くのである。

あの河川敷にいた鳩は、いつまでも死体と結びついていたのでは、生きるのは難しいであろうが、キリスト者は、信仰によって絶えずキリストと共なる死と復活を経ていなければ、進んで行くことができない。

筆者には、ここで訴えている内容が、決して自己の利益のためではなく、神の国の権益に関わるものであることを証明するために、代価を払ってそれを証することが、どうしても必要なのである。

なぜなら、代価を払わなければ、天の褒賞を得ることができないためである。

その意味において、地上における筆者が何かの犠牲を払わされることになることを決して厭うつもりはないし、脅しつけられたからいって黙るつもりもないのである。
 
それは神がご自分のために要求されている代価を支払うことなしに、神に従うことが不可能であり、エクレシアはこの代価を払って神に従うことで、神に栄光を帰するために召された存在だと知っているからである。

人々はあざ笑うであろう、「あなたには色んな才能があり、それを有用に用いれば、もっと社会的に成功できたはずなのに、いつまでこんな無料ブログに『命をかける』だなんて寝言を言ってるんですか。なんて馬鹿げているの。それこそ人生の浪費、犬死でしょう。

いいですから、たかがペンネームのブログごときのために、現実のあなたが社会的地位を失う必要はありませんよ。そんなのはもったいない。あなたはもっと人類に奉仕できるはずの存在じゃありませんか。今からでも遅くありません。何が本当に価値あることか見極めて、こんなブログはお遊びとしてうっちゃって、もっと自分のためになることをおやりなさい。決して真剣に命がけでここに文章を書こうなんて思っちゃダメですよ。幼稚な喧嘩をわざわざ買って出る必要はありません。茶番劇は放っておきなさい」と。

なるほど極めてもっともらしい説得である。だが、筆者は言う、「そうではありません。私はあなたがおっしゃるようなものは、もうすべて後にして捨てて来ました。私が目指しているのは、あなたが考えているような『社会的成功』ではありませんし、『名声』でも、『地位』でもありません。

いいですか、私の信じる神は、そんなものをいつでもいくらでも私のために用意することができるんです。実際に、信じる者のためには天に莫大な富が蓄えられていて、私たちはいつでもそういうものは引き出せるんです。

でも、私は神の目に、私が何を第一として生きているのかをまずは証明しなければならないんですよ。

私は自分の利益や、人の目に認められることを目指しているのではありません。人の目にどう映るかを恐れているのではなく、神の目にどう映るかを恐れているのです。私は信仰の証しを述べたことにより、自分が痛めつけられたり、脅しつけられたりすることを恐れてはいません。聖書の神の御言葉が曲げられ、神の国の権益が侵されていることを憂慮しているがゆえに、叫んでいるのです。

もし聖書の神が冒涜されているのに、私たちが立ち上がらなければ、世の人々はどうして私たちが神を信じていることを知り得ますか。脅かされればすぐに黙ってしまうような信仰なら、最初からない方がましでしょう。

私はすでに死んだのです。ですから、何度、死んでいるという事実を突きつけられても、ビクともしません。この地上の我が国でも、死者には名誉という概念がありませんが、それと同じですよ。 死者には人権もないのです。死者が冒涜されているなどととんなに言っても、死者には法的権利がないんですよ。

でも、本当の意味での死者とは、私のことではなく、滅びに定められたこの地上にいるすべての人たちのことなのですよ。

そして、本当の生者とは、神がキリストを通してよみがえらせて下さったすべての信者のことなのです。ですから、それは私のことでもあるのです。

ある人々は、「カルト被害者が冒涜された」などと言って騒いでいますが、神聖な存在は「カルト被害者」ではありません。神聖な存在は、聖書の神ただお一人です。さらに言えば、神聖なのは、神がキリストと共に死に渡され、よみがえらせて下さった神の子供たち一人一人ですから、それはすなわち、私たちのことなのです。

キリストが内に住んで下さっている信者の一人一人が、神の神聖な教会なのですよ。

ですから、あの人たちが言っていることはすべてさかさまなのです。彼らは自分たちが「冒涜された」と叫んでいるけれども、彼らこそ、神聖な神の宮を冒涜しているんですよ。

私たちは、一方では、滅びゆくアダムに過ぎませんが、他方では、信仰によってよみがえらされた新しい人、聖なる人なのです。私たちのアダムに十字架の死が適用されている以上、真の私たちとは、キリストと同じ性質で覆われた、神の満足される、聖なる新しい人なのですよ。

ですから、信仰のないあの人たちが、自分たちを神聖であるかのように主張しているのは間違っています。もし彼らがそう言うなら、なおさら、私たちこそ、真に神聖な神の宮なんです。

それが現実なんですよ。

ですから、あの人たちは、神の聖を奪い取って、あたかも自分たちが神聖な存在であるかのように主張したいだけなのです。だからこそ、彼らは神の宮である教会をしきりに乗っ取っては、破壊しようとするのですよ。

でも、本当は彼らこそ、何も主張できない死体に過ぎないのです。死んだはずのものが、どうしてゾンビのようによみがえって、生きている人を脅かしたりできますか。彼らは超えてはならい境界を踏み越えました。死者と生者の境界を踏み越え、しかも、神がよみがえらされた人々の権益を脅かしているのですから、これこそ神聖の冒涜ではありませんか。

死体にはまっすぐに墓にお帰りいただかなくてはいけません。死者が立ち上がって生者に狼藉を加えるなど許されることではありません。

ですから、私はこうして荒野で叫んでいるのです。そして、あの人々は、私の訴えていることが真実であるからこそ、自分の罪が暴かれない為に、私を殺そうとしているんですよ。

アダムとしての私に攻撃を加えることはいくらでも可能でしょうし、私はそれに甘んじましょうし、そんなことではビクともしません。でも、今の世で、ステパノの証が聞くに耐えられないからと、ステパノを石打にして殺せば、その人たちが殺人罪に問われるのは当然でしょうね。たとえステパノが死んで口がきけなくなっていたとしても、殺した人たちは罪人として連行されるのが当然でしょうね。それはこの世がこの世の秩序を守るために、放っておいても自らするような仕事なのですよ。

何度も言いますが、キリストと共なる十字架で、私はすでに死んでいるのですから、私には惜しむべきものはありません。でも、だからと言って、誰かが地上に生きている私を本当に殺してしまえば、殺した人たちが罪に問われるのは当然ですね。侮辱を加えれば、罪に問われるのも、仕方がないですよね。

いいですか、私はこの地上にある限り、まだまだ「死んでしまった鳩」とのくびきを断ち切るわけにはいかないんです。処刑されたアダムも、まだこの地上での仮の宿としてのつとめがありますから、やってもらわねばならないことが色々残っているんです。
 
いくら仮の宿とは言っても、その内側に神聖な神の霊が宿っている以上、アダムに攻撃を加えた人間は、神聖な宮の入れ物となるべきものの破壊行為について、罪に問われることになりますよ。でも、それはアダムに属する事柄ですから、あくまでこの世の法によって裁かれるのがふさわしいのです。
 
恐れるべきは、それよりももっと厳しい裁きが天に存在することです。「聖霊を穢す者は赦されない」と聖書に書いてある通りです。彼らは神聖なものを冒涜したことの報いとして、この地上だけでなく、永遠に至るまで、引き渡されます。それが彼らの避けようのない運命です。

私はどんなにそうならずに済むなら、その方が良いと願ったでしょう。しかし、彼らはついに私たちが与えた最後の和解のチャンスまで踏みにじり、罵り、嘲ったのですよ。ですから、もう彼らに猶予は残されていません。

私は彼らを「サタンに引き渡す」と以前に書きましたが、そう書いた後、まさに予告した通りのことが起きたのです。彼らの宿主である悪魔が、彼らを本当の破滅に引き渡したのです。

私は言いましたね、悪魔の法則は使い捨てだと。

ひと時、悪魔は手下となってくれる人たちを使って、すさまじい乱暴狼藉を繰り返します。その勢いは破滅的で、誰も止めることができないと思うほどです。しかし、それは疫病のように、いつまでもは続かず、時が来れば、たちまち勢いを失って行きます。そして、その後は、悪魔の宿主とされた人々は、責任を問われ、地上での人生を失って行くんです。

聖書に書いてある通り、悪人たちは、ひと時、雑草のように生い茂っても、振り返れば、彼らはもういない。痕跡もとどめず、思い出そうと思っても、思い出せない。跡形もなく消し去られてしまうんですよ。それに引き換え、主に従った者たちの名は命の署に記され、永遠に残ります。

あるクリスチャンが私の前でこう言ったことを思い出します、

「悪魔は本当に愚かです。キリストを殺しさえしなければ、地上には、復活した人間は一人もいなかったはずなんです。悪魔がキリストを殺せば、復活という、悪魔が最も恐れていたことが起きてしまい、悪魔がどうやっても手出しのできない領域が生じてしまうことが、悪魔自身にも、予め分かっていたんです。

(悪魔が支配することができるのは、旧創造だけである。復活の領域には、悪魔は指一本、触れることができない。)

なのに、悪魔は抑えがたい欲望から、キリストへの殺意に燃え、どうあってもキリストを十字架にかけて殺さずにはいられなかったんです。殺せば、よみがえりが生じる。自分にとって最も恐ろしい、不利なことが起きる。それが分かっているのに、悪魔はわざわざそれをやってしまったんです。これがいつの時代も変わらない悪魔の愚かさです、悪魔は自分にとって最も不利なことをやり続けているのです!」」

まさにその通り。それこそが悪魔の法則というもの。

だから、筆者は「サタンに引き渡す」と書いたのである。その結果、何が起きるかは、天と地の前で証明されることであろう。

筆者は彼らを憐れまないし、惜しまない。

彼らが決してクリスチャンの言うことに耳を傾けないことは分かっているので、筆者は彼らを罠にかける。彼らがその愚かさによって自らつまずくように。自らしかけた罠に落ちるように。筆者は旧創造としての自分をも憐れまずに十字架に引き渡すが、自分以外の旧創造をも憐れまない。彼らを弁護もしないし、救おうともしない。

生きた鳩と死んだ鳩を一緒に救うことはできないのだ。

だが、生きた鳩は、どんなに死体の重みに引っ張られても、自力で上へ上へと飛び立って行くだろう。そうこうしているうちに、鉄線は古くなり、いつか重みで断ち切れる。気づくと、鳩は自分が自由に、軽やかになっていることが分かる。

あの死体はどこへ行ったのだろう。分からない。しかし、そんなことはどうでもいい、鳩は自由になったのだ。鳩は軽々と天へ羽ばたいて行く。

私たちの地上の幕屋はいつか壊れる。地上的名声や地位は束の間である。

しかし、神に従ったことから得られる褒賞は、永遠である。

その永遠のものが、死すべきものを飲み込む時が来る。天の永遠の栄誉が、滅びゆく無価値な地上の栄誉を飲み込んで行く。こうして、死んで滅びたはずのものさえ、命に飲み込まれて、新しくされる時が来るのだ。

アダムの死は過去となり、気づくと、新しい人が立っている。私ではなくキリスト。

私たちは地上の幕屋を負ってうめきつつ、天から与えられる新しい幕屋を上から着る時を待ち望んでいる。新しい天と地を喜びを持って迎える時を待ち望んでいる。

私たちの希望は決して失望には終わらない。神はご自分を頼る者を決して見捨てられることがないからだ。

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