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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

真の謙遜とは何か(3)

謙遜と信仰は、聖書においては、多くの人々が知っている以上に、密接な関係を持つものとされています。このことを、キリストのご生涯においてながめてみましょう。主がりっぱな信仰について語られた場合が二つあります。

主は「このようなりっぱな信仰は、イスラエルの中にも見たことがありません」と言って百人隊長の信仰に驚嘆されました。それに対して彼は「先生を私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません」と言ってはいないでしょうか。また、主から「ああ、あなたの信仰はりっぱです」と言われた母親は、小犬と呼ばれることに甘んじ、「主よ。そのとおりです。ただ、小犬でも……パンくずはいただきます」と言わなかったでしょうか。

たましいをして神の御前になきに等しい者とするのは謙遜です。それはまた、信仰のすべての障害を取り除き、神に全面的によりたのまないことにより神に不名誉をもたらすことだけを恐れさせるのです。

主にある友よ。私たちが聖潔の探求において失敗する原因は、ここにあるのではないでしょうか。私たちの献身、私たちの信仰をこの上なく皮相的なものとし、この上なく短命なものとしていた理由はこれではないでしょうか。たとい私たちが知らなかったとしても。

高ぶりと自我が今なおひそかに私たちのうちに働いていること、神のみが私たちのうちにおはいりになり、その強い御力をお用いになることによってそれを追放することがおできになること――私たちは、これらのことを全く知りませんでした。私たちは、古い自我と全面的に取って代わる新しい神の性質のみが、私たちをほんとうに謙遜にすることを理解していませんでした。

絶対的な、不断の、普遍的な謙遜が、他の人に対するすべての取り扱いの基礎でなければならないとともに、またすべての祈り、すべての神への接近の基礎でもなければならないということ、そして全面的な謙遜、心のへりくだりなしに神を信じ、神に近づき、神の愛のうちに生きようとするのは、あたかも目なしに見、呼吸なしに生きようとするようなものであること――私たちは、これらのことを知らなかったのです。

主にある友よ。私たちは次のような失敗をしてはいなかったでしょうか。すなわち、信じようとして非常な努力をしながら、他方においては、高ぶった古い自我があって、それが神の祝福と富を所有しようとしているといった失敗をしていなかったでしょうか。私たちが信ずることができなかったのも無理もないことです。私たちの方針を変えましょう。

まず何よりも先に、神の力強い御手の下に、私たち自身が謙遜になりましょう。神は私たちを高くしてくださるでしょう。イエスがご自身を低くされた十字架、死、そして墓は、神の栄光への道であったのです。私たちの唯一の願い、私たちの熱烈な祈りの題目を、彼とともに、そして彼のようにへりくだることとしましょう。神の御前に、人々の前に私たちをへりくだらせるものは、どのようなものでも喜んで受け入れましょう。――これのみが、神の栄光への道なのです。

アンドリュー・マーレー著、『謙遜』、pp.65-67.


これまで、真の謙遜とは何かというテーマで連続して記事を書いてきた。各記事の冒頭に挙げているアンドリュー・マーレーの言葉は、記事本文とだいぶ調子が異なるため、ともすればどんな脈絡があるのかと問われそうにも感じられるが、それでも、謙遜というテーマについてのこの引用文はあえて残しておきたい。

上記のマーレーの文章の中から、今回は「神の祝福と富を所有する」という、クリスチャンが犯しうる大罪について注目したい。そして、多くのクリスチャンが謙遜への道だと誤解しながら、知らずに陥りがちな誤謬について、この場で考察しておきたいと思うのだ。

これまでの一連の記事において、筆者は、真の謙遜とは、キリストにあって自分は何者であるか、ということを信者が余すことなく認識し、神がキリストにあって自分にお与え下さった自由や権利を十全に行使できる状態にあることを指すと書いた。それは信じる者が、自分の不完全さにより頼まずに、神の完全さにより頼んで生きることである。

しかしながら、この世における謙遜は、これとは全く逆に、人が自分の不完全さを強く認識し、自己の欠点を己が努力によって克服しようと努めることによって、自己を抑圧するか、もしくは自分の正当な権利までも自主的に放棄して、自分を弱く、低く、無力に見せかけることを指す場合が多い、ということについて触れた。

ともすれば、以上に挙げたアンドリュー・マーレーの言葉も、そうした文脈で誤解されたり、悪用されたりする危険性があると言えるであろう。マーレーは書いている、「神の御前に、人々の前に私たちをへりくだらせるものは、どのようなものでも喜んで受け入れましょう。――これのみが、神の栄光への道なのです。」

このような言葉を使って、「神と人の前にへりくだりましょう」ということを口実として、教会の権威者や信者が、他の信者を組織の序列の中に組み込み、権威者の言い分に従うことを「へりくだり」であると思わせ、人の思惑の中に信者を拘束し、あるいは無権利状態に甘んじるよう誘導することはたやすい、と筆者は思う。しかし、マーレーはもちろん、そのようなことを意図して上記の文章を書いたわけではなく、人の目に謙遜だと評価されたいがために世の思惑や、人の思惑を気にして、それにがんじがらめに支配され、て生きることと、神の御前での謙遜は全く異なる事柄である。

神の目には、そもそも人間が自分の力で自分の欠点を克服しようとすること自体が、謙遜ではなく、むしろ、高慢である。神の御前の謙遜とは、人が自分の弱点や問題を自分の力でどうにかしようという希望を一切捨てて、自分そのものを全く処置不可能な堕落した存在として神に委ね、御言葉に基づいて、神がこれに霊的死を適用して下さった上で、十字架を通して新たな命によって生かして下さることに完全に期待することを意味する。

しかし、世間では、幾度も指摘してきた通り、それが全く逆にとらえられている。そして、その誤った考え方は、クリスチャンの間にも、根強く広まっている。今回は、そのようなことが起きる背後に、誤った世界観が横たわっていることを理解し、クリスチャンが以上のような誤謬に陥って人や世の思惑にがんじがらめにされることなく、キリストにある完全さ、自由を手にして、人としてあるべき姿に生きるヒントを見つけることができればと考えている。

信仰をもたない世間、特に我が国の一般社会では、もし人が世間から「謙虚な人間」とみなされたいならば、決してその人は自己の諸権利などについて主張せず、むしろ、自分に与えられている当然の権利を行使するにあたっても、自分はどれほどそうした権利に値しない未熟者であるかということをしきりにアピールする必要があるかのように思われている。自分の権利ばかりを当然のものとして主張する人間は、「わがままだ」とみなされてバッシングされる風潮が強いからである。

そこで、人は自分が権利ばかりを当然のように求めているわけではない、と見せかけるために、自己卑下を繰り返し、自分がいかに諸権利に値しない人間であるかを人前で強調するだけでなく、自分の未熟さや欠点にも積極的に言及し、己が欠点をどれほど切実に自覚しており、自分を未熟者と考えているか、自己の欠点を克服しようとどれほど真面目に努めているか、それにも関わらず、その痛ましいまでの努力が、今に至るまで、どれほど実を結んでいないか、ということをも、ワンセットで強調することが一種のお約束事となっている。

もし誰かが「これだけ努力したので、私はもう自己の欠点をすでに克服し、ひとかどの人間になりました。そこで、私は自分に与えられている諸権利に十全に値する人間となったと思いますので、この権利を当然のものとして要求します」などと言おうものならば、その人は世から「若造に過ぎないくせに、何と高慢なことを言うのか。厚かましく自分の権利を要求する前に、自分の果たすべき義務について考えろ。もっと果たすべき努力が残っているのではないか」などと言われ、バッシングされかねない風潮がある。そこで、人々はそういったことが起きないための自己防衛策として、「私は自分の欠点をよく自覚しており、自分が様々な権利に値しない未熟者であることをよく分かっています。そして、目下、欠点を克服する努力はしているのですが、残念ながら、未だ道半ばで、思ったほどの成果が出ていません。きっとそれも、私の努力が足りないせいか、あるいは私が愚かで知恵が足りないせいなのでしょう・・・」などと、どこまでも自己卑下を繰り返しながら、いかに自分が一人前の人間からほど遠いかを強調することが普通に行われている。そのような自己卑下を繰り返す人間が、世間では「謙虚だ。自分の分をわきまえている」とみなされるのである。

言い換えれば、この世においては、何事についても、「達成した」と言うこと自体をタブー視するような暗黙の風潮が存在するのである。何かを「達成した」と主張することは、「自分はひとかどの(一人前の)人間になった」と主張することに等しいが、生きた人間が「一人前の人間」になること自体、社会では、一種のタブーとみなされていると言っても良い。そこで、誰かが何かを「達成した!」と述べと、それ自体が、「とんでもない高慢だ」とみなされる危険性があるのだ。

むろん、キリスト者ならば、なすべきことを「達成」された方は、キリストお一人であることをよく知っている。私たち信仰者は、キリストの十字架における死と復活に同形化されることによって、彼の達成された御業を自分のものとして受け取る。彼の御業にこそ、キリストにあって、信者が受けとることのできる完全さ、安息、自由、達成が存在する。ただキリストにあってのみ、彼の死と復活と一体となることによってのみ、信者は自己の努力による一切のもがきをやめて、自分自身を神に受け入れられる清く、貴く、完全な人間とみなして、安息することができる。それはただ御子の達成された御業によるのであって、信者の自己の努力の結果ではない。

キリストの中にこそ、「完全な(成熟した一人前の)人間」が存在する。信者は地上においては霊的に幼子のようで未熟であったとしても、キリストを信じて受け入れた時から、神の目には、彼の完全さをデポジットのように受けとっているのである。

だからこそ、信者はキリストにあって安息し、自分の未熟さを自分で克服するための努力をやめて、御子との達成の中で安らぐことができる。キリストにあって、自分を不完全で罪深く未熟な存在とみなして、責め続けたり、卑下することをやめて、キリストを通して、彼の持っておられる権威、自由、祝福を受け取り、これを行使することができる。ところが、そのようにキリストにあって信者が新しい自己の完全を受け取って生きることをも、世の風潮は「高慢だ」とみなして、激しくバッシングする。そして、あろうことか、この世的な偽りの「謙遜」の概念に欺かれた信者が、自分ばかりか、他の信者からも、神がキリストを通してその信者にお与え下さった権利を奪い取り、自由を妨げようとすることも、しばしば起きている。だが、そのようなことは神の御心ではない。神は人を自由にするために、御子を送って御業を成し遂げられたのであって、「謙遜」の名の下に、人間の思惑に信者をがんじがらめにするために十字架が存在するのではないからである。

そのような歪んだ捉え方が生まれる背後には、(グノーシス主義的)世界観がある。(ここで言うグノーシス主義的価値観とは、聖書のまことの神の御言葉に基づかない異教的価値観の総称として、筆者が広義で用いているものである。)

長い説明はさて置き、ここでは結論のみ述べたいのだが、たとえば、仏教では、仏陀は死後も現在に至るまで修業中ということになっているが、こうしたところに、グノーシス主義的世界観が顕著に表れていると言えるのではないかと思う。グノーシス主義とは、一言で言えば、人類が自らの努力によって神の叡智に達するための、果てしない探索の過程だと言えるかも知れない。しかしながら、クリスチャンであれば、誰しも分かっている通り、人類が自己の努力によって「叡智」に達し、それによって安息を得る日は決して来ない。だから、そこで言われている「悟り」というものは、事実上、あってないようなものだと考えて良い。死後、何百年間と終わらない修行によって得られる「悟り」などというものは、一種の言葉遊びのようなもので、無に等しいと言って差し支えない。さらに、すでに悟りを得た人間が、死後に至るまでも、さらなる悟りに達するために修行を積まねばならないのだとすれば、そのような人間の弟子となった人間の誰も師匠を超える悟りに達し得ないのは当然である。つまり、こうした世界観においては、人は死後に至るまでも、終わりなき永遠の努力を続けるしか道がないのである。

グノーシス主義的な世界観には、必ず、終わりなき無限のヒエラルキーがつきものであり、こうした世界観が反映する社会でも、無限のヒエラルキーが肯定される。そこでは、この世だけでなく、死後の世界においても、霊界のヒエラルキーなどというものがあることにされて、人の霊魂は、生前のみならず、死後においても、さらなる高みに上昇するために、絶えざる努力(修行)を積まねばならない決まりになっている。

つまり、グノーシス主義的世界観とは、人間の霊魂が(神のような高みに)上昇することを至上の価値とする考え方だと言うこともできるものと思う。ところが、その世界観においては、上昇するための梯子は無限であるため、どれだけ人が修行を積んでも、達成したという時が来ないのである。仏陀が未だ修行中なのも、霊界におけるヒエラルキーをさらに上に昇って行くための修行が続いているためであり、それは言い換えれば、人の魂が修行という「自己の努力」によって、「神」の高みに達しようという試行錯誤は、永遠に終わらないことを象徴的に指している。

言い換えるならば、その霊魂上昇のための終わりなき努力は、ルターが自力で登ろうとしてあきらめたピラトの階段にもたとえられよう。よく知られているように、ルターは贖罪のためにピラトの階段をひざで這い上っているうちに、人間が自力で神に到達することは不可能であるという聖書の真理に気づいて、「義人は信仰によって生きる(=人はキリストによらず、自己の努力によって神に贖われて義とされることはできない)」という結論に達し、果てしない階段を自力で上り続けることによって、自分で自分を贖い、神の聖に達しようとの努力を放棄した。

だが、信仰によって生きない不信者は、今でもこの階段を膝で登り続けている。場合によっては、死後に至るまでも、その努力はやまないのである。

多少、話は脱線するようだが、筆者はこれまで、日本の官僚制度や牧師制度などを強く批判して来たが、それはこうした制度の背後に、グノーシス主義的な無限のヒエラルキーの階段が潜んでいると考えているためである。つまり、こうした制度は単なる制度ではなく、ある種の世界観の反映として出来上がっているものなのである。

現存する社会の制度や仕組みの背後には、必ず、それに相応する目に見えない価値観・世界観が存在する。一つの制度が生まれて来る背景には、それを肯定し、生み出す原動力となった何らかの宗教・哲学的イデオロギーが必ず存在しているのである。この点に注目しなければ、ただ人の目に時代錯誤で歪んだものと見える社会制度だけをどれほど糾弾したところで、その制度の本質にまで迫って、制度自体が根本的に悪であるということを訴えることはできない。そして、歪んだ制度を支える世界観とは何かという問題を追求して行くと、ほとんどの場合、結局、グノーシス主義の終わりなきヒエラルキーに行き着くのである。

たとえば、官僚制の背後には、人に抜きんでて優秀な人間とみなされるための努力を積んで、学校で良い成績をおさめ、受験競争を勝ち抜いて、より良い就職口を得て、組織内で出世し、高給と安定的な暮らしを経て、国を動かすような組織の頂点に立つことを至高の価値とするような価値観がある。それは、人の人生とは、他者に抜きんでてエリートの階段を上って行くための絶え間ない努力の過程である、という価値観を象徴している。

牧師制度もそれによく似て、献身して神学校に入り、特別な教えを受ければ、その信者は、他の信徒とは別格の霊的な祝福を得て、信徒の模範的存在になれるかのような考えに基づいている。こうした考えには、学習を積み、知恵を手に入れた人間は、他の人間よりも優れた価値ある別格の存在として、他の人間の及ばない有利な待遇を手に入れるに値する人間となる、という前提がある。教会においては、学習を積んで、エリート的な指導者になったからこそ、牧師はその奉仕に報酬をもらうことが教会内で認められるが、信徒の奉仕は無償なのである。

このようなものは、人間の平等、信徒の平等の原則に反するエリート制度であり、聖書に合致する概念でもない。そこにあるのは、偽りの霊界のヒエラルキーの階段を上り続けた人間だけが、優れた価値ある人間になる、グノーシス主義的世界観である。

なぜキリスト教界からのエクソダスなどを筆者が唱え続けているのか、その理由もここにある。それは、既存の教会組織においては当然のものとみなされている牧師制度や(もしくはカトリックのような聖職者のヒエラルキーは)、根本的に聖書の御言葉に反しており、信徒の平等を否定するものだからである。

そのような階級制度、ヒエラルキーは、官僚制度が憲法に違反しているのと同じくらい、聖書の御言葉に反している。これは聖書的な制度ではなく、むしろ、グノーシス主義的・異教的価値観を取り込んで成立したものであり、教会の堕落やこの世との妥協を示す一例である。この問題については以下でもう少し詳しく触れる。

我が国を含め、非聖書的なグノーシス主義的世界観の支配する社会では、序列というものがほとんど絶対化され、人間存在は、無限のヒエラルキーの階段を上昇し続けるためだけに生きているかのようにとらえる。

たとえば、現在の我が国の至るところに蔓延する長時間残業の習慣化といった現象などにも見られるのは、合理性よりも、情緒的かつ無意味な、うわべだけの「頑張り」や「自己犠牲」を評価し、奨励する風潮である。効率的に仕事を終えて、定時にすべての課題を「達成して」帰宅する社員よりも、非効率的に仕事をして遅くまで会社に残って残業し、いつまでも課題が達成できないと嘆きながら奮闘している社員の方が、上司から高く評価されるといったナンセンスな評価が起きて来るのも、その背後に、以上のような考え方が存在するためである。

グノーシス主義的世界観においては、人間存在はどこまで行っても「道半ば」であって、終わりなき霊魂上昇の梯子を上り続けるための道具でしかない。この世界観において、絶対的な価値を誇っているのは、霊魂上昇のための永遠の梯子だけであって、人間はその梯子によって値踏みされる存在でしかない。だからこそ、人の人生は終わりなき苦行の連続であって、そこに完全さや、達成は存在せず、人が安息することは、死後になっても、永遠に許されないのである。

そこでは、どんなに努力しても、人は「ひとかどの人間」には到達しない。どんなに懸命に階段を上っても、その階段には終わりがなく、一つ課題を終えても、次から次へとさらなる課題がやって来るだけで、いつまでも「努力中」という看板を下ろすことが許されない。たとえ何か一つの事を達成してみたところで、それは果てしないヒエラルキーの梯子全体から見れば、無にも等しい。だから、このような価値観においては、人間の努力は全く報われず、人は何事も「達成した」と言ってはいけないという暗黙の前提が存在するのである。

ある意味では、早くそのカラクリを見抜いて、「努力中」という看板を表向きにだけ掲げておいて、その実、サボタージュに及んだ人間の方が、必死で努力し続けて報われない人生を送る人間よりもまだ賢いということになる。

だからこそ、そのような世界観の中で、己が霊魂を上昇させるための絶えざる努力をずっと続けている人々には、どういうわけか、お決まりのように、悲劇的かつ逆説的な現象が起きて来て、いつの間にか、彼らが口で唱えているご大層な理想と、彼ら自身の現実のありようが正反対のものとなり、その乖離状態・偽善性が誰しも否定できないまでになって、その矛盾を他者から指摘されてさえ、「どうせ私は努力中の身で道半ばですから」ということを口実に、自らの未熟さ・不完全さに居直るまでに至る人々が出現するのである。こうした人々にあっては、自己の努力などといったものは、単なるアリバイ工作でしかない。

このようなものは、人の努力や願いそのものをあざ笑うかのような、実に絶望的かつ悪意ある世界観である、と思わざるを得ない。このような世界観に基づいて成立していればこそ、この社会においては、人は自分がいかに未熟者であるかを強調することによって、自己卑下を繰り返さざるを得ず、自分がいかに何かを「達成した」と言える「ひとかどの人間」からかけ離れているかを、絶えず口にしないわけにいかないのである。

出る杭は打たれる」などという風潮も、その意味において単なる風潮ではなく、その背後にあるのは、グノーシス主義的世界観である。そこでは必死の努力を積んで何かを「達成した」と述べた人間が「高慢だ」とバッシングされ、「未半ばで努力中です」という看板だけを掲げて自己の欠点に居直っている人間の方が、「謙虚だ」とみなされるのである。

この世界観は人間にとって大変不幸なものである。このような世界観においては、いつまで経っても、人の努力が認められ、何かを達成したと、堂々と胸を張って安息できる日は来ない。仏陀ですら今も修行中なのだから、人間が修行から解放される時は死後も永遠に来ない。このような世界観は、非常に歪んだ、悪意ある、人を不幸にするだけのものである。それは常に言う、「人間存在とは、自己の努力によって、(いつかは神に達するために)、ピラトの階段を上り続ける宿命を負った存在だ。その苦役から永久に解放されることはできない。それをまだ始めたばかりの人間が、自分は何かを達成し、特別にこの苦役から解放されので、もう努力する必要はなくなった、などと思うのはとんでもない思い上がりだ」と。

ただし、この世界観においては、永久に達成も安息もやって来ないかも知れないが、人は自分の必死の努力のおかげで、梯子をいくらか上に昇り、下界にうごめいている無知蒙昧な衆生に比べれば、いくらかましな存在になったと自己満足する程度のことは許されるかも知れない。そのような優越感・特権意識だけが、この終わりなき梯子を自力で昇って行くというむなしい報われない努力に生きる人々を支える原動力となっているのである。

だから、こうした考えが根底に横たわっている社会においては、個人の絶対的な価値というものは否定されるのは仕方がないであろう。なぜなら、そこでは個人の価値とは、ヒエラルキーをどれだけ昇ったかによって変わって来るものだとみなされているからである。結局、そこでは、個人というものは、端的に言えば、人類が自己の努力によって神に到達するための道具でしかないのである。「神に到達する」と言えばまだ聞こえは良いかも知れないが、現実は、特攻と同じくらい、達成不可能かつ無謀な目的のために、永遠に奉仕させられる道具なのである。ただ各種の偽りの美徳でおだてられて、自分の進歩に鼻高々になっているために、この偽りの梯子の操り人形となっている個人は、自分が何をさせられているのか分からないだけである。

さて、話を戻すと、クリスチャンでさえ、以上のようなこの世的な偽りの世界観に立って、信仰生活における自らの進歩のなさを克服するために、熱心な勉強会を開いたり、祈祷会を開いたり、あるいは懸命に霊的なハウツー本のようなものを探し出して来て、クリスチャン同士教え合ったり、優れたクリスチャンの功績に習おうと頑張っているという現状がある。

この世的な観点から見れば、そのように自己の不完全さを自覚して、足りないものを補うために、熱心に勉強している信者の姿は、謙虚に見えるかも知れない。だが、一つまかり間違えば、このような勉強熱心さは、神の御前では、謙遜とは無関係であるばかりか、「神の祝福、富を、(人間が自己の力で)所有しようとする」大いなる高慢、大罪に相当する恐れが十分にある。

前回の記事において、エクレシアという語に「教会」という訳語を割り当てること自体が、不適切である、と筆者は書いた。

今日、当然のごとく使われているキリスト「教」、「教会」という呼び名は、他に相当する語がないため、一般に使用を控えることが難しい状況があるが、本当のことを言えば、これは聖書の御言葉の本質を適切に表すにふさわしい訳語とは呼べない。

そもそもキリスト教は、人間の作った「教え」ではなく、イエス・キリストを開祖としてできた宗教哲学でもなく、エクレシアとは「教える会」ではなく、「クリスチャン」のという語のもともとの由来は「キリストに属する者」という意味であり、英語の"christianity"という単語にしても、「教え」という意味は含まれていない。にも関わらず、この訳語に「教」という語が入っていること自体、不適切かつ誤解を呼ぶものだと言える。

このように不適切な訳語が割り当てられているために、キリスト教には「教え」の要素が色濃く強調されているのだが、 筆者の考えでは、これは決して偶然に起きたことではなく、ここにも、牧師制度と同じほどにグノーシス主義的価値観の反映が見られるように感じられてならない。

つまり、この訳語のために、信者の間でさえ、教会というところは、あたかも「霊的偏差値を上げるための熱心な勉強会」のようにとらえられているのである。だが、それは御言葉の正しい解釈ではなく、人間の驕りに基づくとんでもない勘違いでしかない。

前回の記事において、信者は聖書が教えている通りに、キリストご自身から、御霊を通して、御言葉を直接、教わるべきであって、人間の指導者から教えを受ける必要はないことを書いた。たとえ信徒同士で励まし合ったり、戒め合ったりすることが有益であるにせよ、信徒がキリストご自身の役割を奪ってまで、他の信徒を教える立場に立ち、他の信者を自らの精神的指導下に「弟子化」して行くことは誤っているという考えを述べた。特に、ネズミ講のような目に見えないピラミッド体系を作り、上に立つ信者が配下にいる信者から様々な諸権利を奪い取り、不当な自己犠牲を強いることによって、奉仕を受けたり、栄光を受けたりして、霊的搾取に及ぶなど言語道断である。

それにも関わらず、霊的先人たちの教えを「教本」のように用いながら、他の信者に対して、教師然と君臨し、教える立場に立とうとする信徒は枚挙に暇がなく、またそのような教師や指導者になりたがる信者に、自ら教わろうとして弟子化されていく信徒も終わりがない。このようなものこそ、まさに人間による「教え」によって作り出された霊的搾取と支配のためのヒエラルキーの体系なのである。

しかも、すでに述べたことであるが、今日、たとえば、ウォッチマン・ニーであれ、オズワルド・チェンバースであれ、誰であっても構わないが、霊的先人たちの教えをしきりに引用しては、他者を教える立場に立ち、熱心な学びをアピールしている信徒のうち、どれほどの人々が、自ら教えていることに忠実に生きているかを見てみれば良い。残念ながら、その圧倒的大多数は、心からその教えに従いたいと願っているというよりも、むしろ、自らの本質を覆い隠すための二枚舌、アリバイ工作として、霊的先人の教えを表向きに掲げているに過ぎない、という現状が見えて来る。先人たちの教えを数多くストックしつつ、他者を教え、自分も学んでいることをしきりにアピールしている実に数多くの信者が、口先で唱えている教えとは正反対の生活を恥ずかしげもなく送り、自らの信念を裏切っているのである。一体、そのような偽善的な人々の「説教好き」や「勉強熱心さ」は、どこから来たものなのかを、我々は今一度、吟味してみなければならない。

アダムとエバが、神に対して最初に罪を犯し、堕落したきっかけは、彼らが、神が許された限度を超えて、自分たちの力で霊的な高みに上り、「神のようになろう」としたことであった、という事実を思うとき、信徒が霊的な進歩を追い求めて、自ら熱心な学びを進めようとすることに潜む大いなる落とし穴の存在を思わずにいられない。

信者がカルバリの十字架において、この世的な栄光を一切奪われたところで、キリストご自身の死に同形化されて、ただ神からの栄誉のみを求めて、御霊によって教わるのではなく、信者がキリストの十字架の死という土台を離れたところで、この世や、周りにいる信者たちから、「熱心に努力している優秀な信徒」とみなされて好評を博し、拍手を受け、自己満足・自己肯定することを目的に、御霊が教えてくれるのを待たずに、自ら様々な教本に手を伸ばし、その学びを通して神に近づこうとすることは、大変危険な行為である。それは人類が自らの力で霊的に進歩し、神に到達しようという欲望そのものを表す行為であると言って差し支えないからだ。

たとえば、ローカルチャーチを批判しながらも、ウォッチマン・ニーの教本を長い間使用し、ついに自分たちを神だと宣言したKFCとDr.Lukeの例を考えてみる意義は大きいであろう。彼らが引用していた「教本」は、ウォッチマン・ニーに限らず、様々な聖霊派の教えや、心理学や、脳についての非科学的な発表など、多岐に渡る知識の寄せ集めであったが、それらすべての人工呼吸器や点滴のような知識の「栄養補給」が彼らにもたらした結論は、そうした学びによって、彼らが「神に到達した」という結論だけだったのである。

このような宣言は、決して御霊に導かれる信者から出て来ることはないものである。彼らの学びの意欲は、彼らを謙遜に導くことは決してなく、彼らをますます高慢にして行き、ついに神の高みに自力で達し得たと豪語するまでのところまで、彼らを導いたのである。キリスト教界とローカルチャーチの欺瞞を批判していた人々が、批判していた対象と全く同じ偽りに陥ったことに注意したい。

こうした事実から察するに、この人々が手に取った「知識」とは、御霊から来るものではなく、サタンから来る「人が神になるためのノウハウ」であった、と考えるのが妥当である。

筆者は、すべての霊的先人が間違った記述を残していると言うつもりはなく、中には御霊に導かれて書き残された記述もあることだろうと思う。これまで筆者自身が、そうした記述から有益な霊的な糧を受け取ったこともあれば、そうしたものを紹介してくれた信者から、必要な御言葉を聞いたこともある。だから、こうした「教本」のすべてが無益でむなしいものだと主張しているわけではなく、また、信者がそれらから学ぶことが皆無で、全く有害でしかないと言うわけでもない。

だが、よくよく覚えておかなくてはならないことは、どんなに霊的先人たちの残した記述が優れているとしても、信者がそのような記述を可能な限り身の回りにかき集めて来て、自分の知識の本棚にストックし、クジャクの羽をつけたカラスのように見せびらかしたからと言って、それによって、カラスがクジャクになることは決してない、という事実である。キリストとの直接の交わりがなければ、どんなに優れた先人の残したどんなに優れた知識をどれほど大量に蓄積したところで、それによって、その信者の堕落した自己の本質は決して寸分たりとも変わりはしないのである。その信者は、そのような学習によっては、一歩もキリストに近づくことはなく、むしろ、そのような方法でこうした「教本」を利用すると、どんなに優れた学習教材も、その信者が自己の本質を偽り、自分を飾るためのイチヂクの葉以上の効果を全く持たないものとなってしまう。

しかし、こうした問題について、KFCだけを断罪するのは当たらないであろうと思う。というのは、類似した問題が、キリスト教界全体に起きているからである。筆者が何を言いたいか、もうお分かりの読者もいるかも知れない。

キリスト教は人間の作り出した言い伝えや教えではなく、エクレシアは「教える会」(勉強会)ではないにも関わらず、それが意図的に「教会」と訳され、その訳語のために、エクレシアが霊的偏差値をさらに高めるための勉強会のようにみなされている背景には、エクレシアの本質を何かしら別物にすり替えようとする暗闇の勢力の意図が働いているのではないかと思わざるを得ない。

一体、何のための「勉強会」なのであろうか? そこで教えられているものとは何なのか? 

端的に言えば、そこで教えられているのは、「人が神になるためのノウハウ」なのである。その点で、今日、キリスト教界で広がっている光景は、主イエスが地上に来られた時の宗教家たちの姿とさほど変わらないものだと言えよう。当時の律法学者やパリサイ人たちは人一倍、神に近づくことに熱心な人々であった。彼らは律法を守り、落ち度なく行動し、聖書にも精通しており、人からも尊敬を受けていた。そして、彼らは自分たちの宗教熱心さのゆえに、自分自身を神にも等しい聖なる存在のようにみなしていた。それにも関わらず、実際は、彼らの熱心な努力は、彼らを神に近づけることは全くなかったのである。主イエスは彼らの偽善性を指摘してこれを罪として非難された。

今日の状況もそれとよく似ている。人前に何の栄光ももたらさない十字架の死という土台にとどまって、信者がただキリストご自身が、御霊によって、直接、信者の霊に啓示を与えて下さるのを待つかわりに、手っ取り早く人間が自ら作り出した学習教材に手を伸ばし、そこから疑似的な啓示を受け、そこで受けた刺激や感化を通して、自分を飾り、あたかも自分がそれによってキリストに近づき、人間性が改善・進歩したかのような錯覚に陥っている。それはどこまで行っても、神を抜きにした人類の独りよがりな自己改造の努力に過ぎないのだが、それが分からなくなった信者は、そのようなヴァーチャルな変化を積み重ねて行くことにより、神との合一に達しうるかのように考え、ついには神に達したと宣言するまでに至っている。このヴァーチャルかつ偽りの自己改造の努力を、会員全体で積み上げることによって、皆で霊的偏差値を上げてキリストに近づき、到達しましょうというのが、「教会」という訳語が本来的に意図する目的なのではあるまいかと筆者は考えずにいられない。

そのように考えると、今まで教会について疑問に思われたすべてが腑に落ち、納得できるのである。今日のキリスト教界がなぜ現状のような有様になっているのか、なぜとりわけ熱心そうに見える教師然とした信徒たちが、恐るべき偽善的な生活を恥ずかしげもなく送ることができるのか、なぜ信者間に競争があり、差別があり、排除があり、同胞を貶め、排除しながら、特定の集会に居残った人たちが、まるで神に選ばれたエリートであるかのように勝ち誇るといった現象が起きているのか、すべてがよく理解できるのである。

それは、彼らが信仰の名のもとに目指しているものが、キリストご自身によらずに、自分たち人間の力で神に到達し、神の聖なる性質を我が物とすることだからである。一言で言えば、彼らは霊的な淘汰の競争を勝ち抜いて、霊的なヒエラルキーの階段を高みに駆け上って、自ら神の選民となり、神と合一することを目指しているのだと言える。

だが、そのような願いは御霊から出て来た思いではない。だからこそ、そのようなこの世的な歪んだ競争原理、淘汰の原則の働くところ、もっと言えば、霊的な優生思想とで呼んでも差し支えない悪しき歪んだイデオロギーの支配する場所では、様々な不幸な現象が起きて来ることは避けられず、それはもはや一部の教会だけがカルト化しているなどといった次元の問題ではないのである。にも関わらず、キリスト教界組織そのものに根本原因があることを見ずして、キリスト教界がキリスト教界を取り締まるために、自らが繰り広げるカルト被害者救済活動など、全く根本的な対策とはならないのは当然である。

信徒間にヒエラルキーを作り出し、霊的支配と搾取を肯定し、ただ神からの栄誉を求めるのではなく、世と人前でに栄誉を受けることを求め、神の働きを静かに待ち望むのでなく、人間の側からの熱心な努力により頼んで、神に近づき、神の聖に至りつこうとしている今日のキリスト教界そのものが、「ピラトの階段」と化しているのである。

霊的な進歩を求めて熱心に学習を積むことは、人の目には善良なことのように映るであろう。しかし、神の目には、神ご自身から生まれたものでなければ、決して価値あるものと評価されることはない。そして、神からの栄誉と人からの栄誉を同時に受けることは決してできない。神の祝福や富が人間に注がれるためには、カルバリの十字架における霊的死がどうしても必要なのであり、人の古き自己が完全に焼き尽くされ、灰にされた地点でのみ、神からの祝福がその人に注がれるのである。

にも関わらず、人前での栄誉、世からの栄誉を追い求め、これを完全に失う十字架の死の地点を経由していないのに、信者が自己の努力で様々な学習を積んで、神の聖に近づこうとすることは、神を抜きにして、人が神に到達しようとする驕りである。そのような学習を通じて得られる知識は、信者を高ぶりに陥らせるだけで、決して神に近づけることはない。

繰り返すが、人が神に到達する道は、十字架以外には存在しない。その十字架は、人前に何の栄光もなく、その道は、人前に「熱心で模範的な優秀な信徒」や、「優れた霊的賜物を持つ教師」などとみなされて評価され、誉めそやされて脚光を浴び、感謝と拍手を受けて、栄光化されることとは全く相容れない道である。

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神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)

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