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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

「随想 吉祥寺の森から」の著者杉本徳久および共犯者が刑事告訴された事実④



 




~教会の不祥事をきっかけに、キリスト教を欠陥宗教のように非難するDr.Lukeと村上密の主張の類似性について~

これは「「随想 吉祥寺の森から」の著者杉本徳久および共犯者が刑事告訴された事実③」の続きである。

さて、カルト被害者救済活動の支持者らが、クリスチャン同士に分裂・分断工作をしかけ、互いを憎み合わせ、争わせることで、キリスト教界を弱体化させる手段として来たことはよく知られている。そうした分断工作の結果、以前にはブログ上でも活発に重要な意見交換をしていた筆者と唐沢との間にも、くさびがうち込まれたのは事実である。

しかし、それだけがすべての原因だと筆者は言うつもりはない。結局は、そうした出来事が試金石のようになって、個人の心の中にもとからあった要素が外に露呈し、個人個人が、神の御言葉の前で「ふるいわけられた」だけなのである。

筆者が唐沢について不審に思うのは、以上のように、唐沢が村上と全く同様に、自分への批判を受けたからと言って、信徒である筆者の利益を害する行動に出たというだけが理由ではない。

そもそも2010年の初めに、唐沢が杉本に向かって、筆者や当ブログをバッシングする記事を取り下げるよう働きかけた後、杉本が唐沢をもバッシング対象とし、自身のブログで誹謗中傷するようになったことは、周知の事実である。

むろん、杉本のこうした行為が許し難いものであることは明白である。これは杉本がクリスチャンや教会を断罪する新たな材料として、まずは筆者を、次に唐沢を獲物のように捕らえたというだけでなく、唐沢と筆者とのクリスチャンとしての親交を冒涜して、クリスチャン同士を引き裂くために行った分断工作であったと見られる。
 
そのバッシングの際、杉本は、唐沢と唐沢の集会にも、「偽預言者」「独裁カルトの妄想教組」「まごうことなき新興カルト宗教団体」などとあらん限りの罵倒を浴びせた。
 
ところが、唐沢は、その当時から、そうした冒涜の言葉の数々に対して一言も反論しなかった。ただ杉本への民事提訴の予告を実行に移さなかっただけではない(名誉毀損は親告罪であるから、もともと唐沢が筆者の件を理由として杉本を訴えるなど不可能であり、唐沢にできるのは、自分が誹謗中層されたことで杉本を訴えることだけであった)。

唐沢は杉本からの主張に、具体的に論拠を示して反論せず、記事の削除に必要となるアクションを取らなかった。当時、社会的地位もあった唐沢がしかるべく行動を取ってさえいれば、杉本のバッシング記事は速やかに削除されて、それ以上の広がりを見せることなく、事態はおさまっていた可能性が高い。それをしなかったことが、唐沢の目に見える妥協の始まりであった。そして、唐沢がこのようにしてグレゴ氏を「有罪」と決めつけながらも、杉本を「免罪」しようとしたことは、唐沢の内面の二重性と深い関係がある。
 
唐沢が杉本の行動を非難しているのは、うわべだけのポーズであることに加え、ただ「人間的な感情の観点」だけからの非難である。杉本の行動は、人の心を傷つけるから許せないというわけである。しかし、そのような主張はすべて感情論でしかなく、実に些細な事柄であって、本質的な議論は、全く別のところにある。
 
唐沢は、杉本の主張の反聖書性を立証し、杉本によって自分が偽預言者と呼ばれて非難されていることについてこそ、反駁し、疑惑を晴らさなければならなかった。グレゴ氏に立ち向かうくらいならば、杉本に対してはもっと毅然と立ち向かって、とことん疑惑を晴らし、身の潔白を主張せねばならない立場にあった。何より、聖書の御言葉に基づく信仰そのものを守らねばならなかったのである。

にも関わらず、唐沢は杉本には反論せず、その主張に立ち向かいもしなかったのであるから、それは裏を返せば、杉本の主張を自ら容認しているも同然である。うわべだけは対立しているようなポーズを取りながら、その陰ではどんどん紛争が拡大して行くような行動を取り続けたのである。
 
その後、唐沢がアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の信徒に欺かれ、坂井氏と杉本との裁判においても、筆者のメールを無断で提出するなどあからさまに不審な行動を取った挙句、坂井氏ともどもに敗れたことは周知の事実であり、こうして唐沢がどんどん深みにはまるようにして、カルト被害者救済活動の陣営の圧力にますます屈して妥協(「転向」)させられて行った様子が分かる。

だが、そうなる前から、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の信徒らは(KFCの乗っ取り事件を起こした人物だけでなく、別の人物も)KFCの集会に深く影響を及ぼしており、サンダー・シングの教えなど、明らかに聖書に反する教えを、集会に公然と持ち込んでいた。唐沢はこれについても、サンダー・シングを異端として退けるどころか、かえってサンダー・シングを読んでいた信徒に同情の涙を注いで擁護し、筆者および筆者の警告を退けたことはすでに書いた通りである。ここでも、唐沢が振りかざしたのは「同情論」であり、聖書の御言葉に基づく議論ではなかった。

上記アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の信者は、筆者が唐沢と知り合うより前からKFCに関わっており、KFCに通えるところに居住していなかったとはいえ、唐沢の長年の知り合いであり、事実上、この集会において極めて重要な役割を担っていた一人であると見られる。
 
唐沢の言動には、このように、「身びいき」や「情」に基づく偏った判断はあっても、御言葉による「切り分け」が存在しなかった。唐沢は当初から、一方では、キリスト教界を激しく非難しながらも、他方では、キリスト教界を離れず、離れようともしていない他教団の信徒と積極的に交わり、人情に流されるあまり、自分に親しく関わろうとする信徒に入れ込み、何が異端であるかを識別しようという姿勢すらも失っていた。

唐沢は当初から、聖書の御言葉を基準とせず、人間の情、自分の感覚や感情を基準として物事の是非を判断し、自ら情に流されて、自分が心地よく感じるものを正しい教えであるかのようにみなし、自分が「可哀想」と感じる信者らにどんどん肩入れして行った。その信者らに自分たちのリーダーがあり、それぞれ所属する教団があっても、お構いなしであった。

そのようにして御言葉の「切り分け」を曖昧にし、異端の教えを吟味もせずに受け入れ、自ら批判していたキリスト教界の信徒らと親交を続けた結果、唐沢の教えはすっかり混合物となり、以前にあった主張の鋭さは失われ、「セルフかキリストか」とあれほど問いかけていたにも関わらず、自ら「セルフ」を選んで、聖書の御言葉の敵となり、ついには筆者をも、敵のようにみなすようになったのである。そのような被害者感情に引きずられやすい情に流されたものの見方は、村上と完全に一致している。

さらに、重要な点として、唐沢は、ニッポンキリスト教界を非難・糾弾する過程で、あたかもキリスト教そのものに根本的な問題(欠陥)があるかのように、早くから自らのブログ等で幾度も述べていたが、この点こそ、唐沢の主張と村上の主張との最大の共通項であるため、読者は注意されたい。
 
教会に様々な不祥事が起きるとき、それを聖書の御言葉への信仰や、キリスト教からの逸脱として訴え、改めて聖書に立ち戻るよう呼びかけるのか、それとも、そうした事件を、あたかもキリスト教の理念そのものの「欠陥」が引き起こした歪みであるかのように訴えて、キリスト教全体を断罪するのかでは、主張が180度違ってくる。そして、まさにこの点こそ、その人間が神の民であり続けられるのか、それとも、偽預言者となって終わるのか、命運を分ける分水嶺である。
 
筆者は、唐沢および村上の信用ならない人柄を見るにつけても、聖霊派特有のナルシシズムの弊害とでも言うべきものを常に感じざるを得ないが(アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団には、牧師だけでなく、信徒の中にも、うわべを飾って「良い子」を演じることに生涯の情熱を費やしている人々があまりにも多い。そして美化された自己像にすっかり溺れて、真の自分が見えなくなっているのである)、それに加えて、両氏の主張の問題点を論じるに当たっても、やはりアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の理念がどんなに危険なものであるか、幾度となく強調せざるを得ない。

(ちなみに、キリスト教界全体を口汚く罵っていた唐沢が、筆者が「アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団で挫折した」と語っている様子には、思わず笑ってしまう。一体、唐沢はどの口を持って一方ではキリスト教界全体を罵りながら、他方では、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団を擁護できるのであろうか。こうした主張は身びいきと言う他ないだろう。

むろん、筆者がこの教団で挫折した過去などなく、筆者がこの教団を離れた直接的なきっかけは、津村昭二郎氏の牧会に失望幻滅したことにあり、津村氏が不祥事事件で引責辞任に追い込まれ、かつその疑惑に相当な根拠があることについては、教団配布の様々な証拠資料と共に具体的に記事に記した(津村昭二郎・村上密が共同して鳴尾教会から津村氏の後継者となるべく招かれた伝道師夫妻を追放した事件)。唐沢が「転向」されられて以後、津村・村上ファミリーおよび杉本を擁護するために、筆者を中傷して以上のような嘘を述べているのは明白である。)

アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団を率いる聖霊派の理念の誤りは、大きく見れば同じ聖霊派に位置づけられるカリスマ運動の指導者である手束昭明氏の著書を引き合いに出して詳しく論じた通りである。要するに、キリスト教には「父性原理ばかりが強すぎて、母性原理が足りない」と、あたかもキリスト教にはバランスが欠けているかのように非難して、もともとキリスト教にあるはずのない「母性原理」という新たな要素(要するに、異端思想)を巧妙に付け加えようとするのである。
  
異端思想はこのようにして、まずはキリスト教に何らかの「重大な欠陥」が存在するかのように「ケチ」をつけるところから侵入口を得る。(被害者を募って教会に「ケチ」をつけては裁判をしかける手口と同じだ。もちろん、彼らは信徒に対しても同じように振る舞う。異端思想を見分けてこれとの分離を訴える筆者のような信徒が現れれば、「非難された人が可哀想」と同情論を唱え、「愛情や同情心に欠ける」などと人格攻撃を浴びせ、こうして人柄に「けち」をつけることで人物像を歪め、すべてを人間的な対立の話に置き換えることで、聖書の御言葉に関する議論から逃げ、物事を曖昧にごまかそうとするのである。)
 
だが、聖霊派が「キリスト教に補われるべき」と主張しているこの「母性原理」こそ、東洋的な母性崇拝に起源を持つ、キリスト教に根本的に敵対する悪魔的な思想であることは幾度も述べた。洋の東西に関わらず、母性原理を「神」として崇める非キリスト教的な宗教は、「慈愛」とか「慈悲」とかいった言葉を悪用しながら、「和をもって貴しとなす」式に、人間の感情が満たされ、傷つけられないことだけを最終目的としながら、すべてを情に基づいて判断し、物事に白黒つけることを嫌い、光と闇を明白に切り分ける聖書の御言葉に悪質に対抗する。そして、人間を高く掲げながら、最終的には聖書の神に敵対し、キリスト教に敵対し、クリスチャンに敵対する運動を生んで行く。

キリスト教の異端は、こうした母性原理を崇める思想が、巧妙にキリスト教の仮面をつけて、キリスト教の中に入り込んで来ることによって生まれる。そこで、筆者は、「父性原理」に立つのか(御言葉の切り分けを保持するのか)、「母性原理」に立つのか(情に流されて御言葉の切り分けを曖昧にするのか)という議論は、本質的に重要なものであって、クリスチャンが、人間の感情が満たされることだけを最終目的に掲げて、すべてを明白に切り分ける御言葉の「父性原理」を退ける道を選べば、待っているのは破滅だけであると確信する。信者は、人間の感情が根こそぎ傷つけられても、聖書の神の御言葉に従い、御言葉が成就することだけを最終目的として、御言葉の「父性原理」(切り分け)に服さねばならないと考える。どちらの立場を取るのかによって、信者の人生ははっきりと明暗が分かれてしまう。

村上と唐沢の主張の非常によく似ている点は、両者がキリスト教の教会で起きる様々な事件を糾弾する過程で、被害者感情に寄り添い、自称被害者たちの言い分を盲目的に信じて肩入れして行くうちに(実は被害者に寄り添うことで、彼らは自分自身の心を慰撫しているだけなのであるが)、そうした事件があたかもキリスト教そのものに原因があって引き起こされたかのように述べて、自分と被害者を一体化させる形で、キリスト教全体を敵視し、クリスチャンを敵視する発言を何度も行い、諸教会を断罪し、自分たちの傘下に身を寄せた信徒や同僚を次々と売り渡すような行動に出ながら、それでも、自分たちだけが正しい教えに立っているかのように主張している点にある。

両者ともに、自分たちが偽預言者と呼ばれて非難されても、人格攻撃のような形で論敵を貶めながら、話の矛先を逸らそうとするだけで、決して真正面から反論しようとはしない。彼らには、論敵と対峙するに当たり、そもそも教義に関する議論を避け、自分たちの「見てくれ」で勝負しようと試みるという特徴が共通して見られる、要するに、自分たちは優れた人好きのする外見を持っていて、つきあい上手で、取り巻きも多いが、自分たちを非難する人間は、見栄えの悪い、欠点だらけの人物で、誰からも好かれていないかのようなネガキャンを行うことで、論敵の人格について印象操作を行って議論から逃げようとするのである。

このようなものは稚拙な印象操作であって、議論とは呼べない。だが、果たして、そこまで言うのならば、彼らにはそれほど誇れる立派な「外見」が本当にあるのだろうか?という疑問も生じる。大体、家庭内暴力などを振るう男たちは、決まって外面だけは良いのを自慢とするが、唐沢の例に至っては、以前から自分が大学の守衛から不審者のように見られたと述べたり、何より「自分は真っ赤な偽牧師だ」と至る所で自嘲していたような有様なので、これで誇れる立派な外見があると言うのはあまりにもお粗末である。
  
そもそも自分で自分を「偽牧師だ」と自称しているような人物の言葉に、信憑性があるのかどうかは、読者の目には明らかであろう。

以前に持っていたそれなりに尊敬される社会的地位までも自ら捨ててしまったとあれば、外見を誇りながら、その外見と社会的地位によって人を納得させる道すら自ら絶っているも同然である。さらに、この世の裁判でも杉本に敗北したとなれば、唐沢の主張は、この世の実社会においても、認められなくなりつつある様子が分かる。次々と何らかの事情のありそうな信徒を周りに集めては、その信徒を助ける風を装って、同情をきっかけに、信徒に感情的に肩入れして行き、その後、その信徒らから訣別を言い渡されると、今後はその信徒の人生を破滅させるような行為に手を染めるのだから、全体として見れば、誰一人としてきちんと育った「教え子」がいないわけで、信頼が失墜するのは無理もなかろう。このような点でも、唐沢は村上と同じである。
  
杉本との裁判に敗北して妥協させられて以後、唐沢は村上のみならず杉本ともあからまさにそっくりな主張を展開するようになっている。どちらも、自分にとって不都合な真実を見ないでいるために、罪もない人間に罪を着せて、虚偽を言いふらしているだけである。

唐沢はこうして自分を偽牧師と罵る杉本の主張の前にひれ伏し、ひざまずいたのである。それは唐沢が主イエスの御名を裏切って、信徒の血を代価として、神と人との前で公然と行った行為であるから、この世だけでなく来るべき世でも、二度と撤回はできまい。
   
このように、村上も唐沢もともに、キリスト教の本来的な信仰から逸脱している不信者らの被害者感情に寄り添うあまり、キリスト教そのものを敵に回すような活動に手を染め、そうしたがゆえに、御言葉の敵となり、教会の敵となり、信徒の敵となってしまったのである。

欺かれてはいけない。事の本質は、決して弁舌の巧みさや、カリスマ性のある外見や、取り巻きや支持者の数や、おべっかやお追従を受けているかどうかや、人好きのする性格、うわべの行動のそつのなさ、立ち回りの器用さ、老練さ、老獪さがあるかどうかなどの外見や手練手管にあるのではない。
 
そうした性質をすべて備えているのは、詐欺師だけである。そして、そういう派手な外見とうわついた甘言にやすやすと欺かれるのも、愚か者だけと相場は決まっている。物事を深く考察せず、見た目で判断せよと迫って来る人間の中に、真実はまずない。このことは世人でさえ否定しないであろう。
 
クリスチャンは、あの有名なイザヤ書53章で、主イエスの外見について、聖書に何と書かれているか、立ち戻ってきちんと朗読されたい。

だれがわれわれの聞いたことを信じ得たか。
 主の腕は、だれにあらわれたか。
 彼は主の前に若木のように、かわいた土から出る根のように育った。
 彼にはわれわれの見るべき姿がなく、威厳もなく、われわれの慕うべき美しさもない。
 彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。また顔をおおって忌みきらわれる者のように、彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。
 まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。
 しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。

このように、主イエスには、「われわれの見るべき姿がなく、威厳もなく、われわれの慕うべき美しさも」なかった。奇跡を行っても、人々に受け入れられず、人を癒しても、感謝もされず、多くの町々で、まるで不審人物のように追い払われた。最後は罪を犯していないのに、十字架にまでかけられ、殺された。
 
主イエスが、きらびやかな外見や、弁舌の巧みさ、弱者救済のお涙頂戴のスピーチなどで、人の注目を集めたなどという記述は聖書には全くない。数多くの取り巻き連に担ぎ上げられて、おべっかや、お追従を受けて自己満悦されたなどの記述も全くない。

そこで、我々は、以上のように、キリスト教に敵対する人々が、クリスチャンの外見のみすぼらしさ、貧しさ、弱さ、不器用さを嘲笑しながら、得意げな自己アピールによって、自分こそ正しく信頼に値する人間であるかのように吹聴している有様を見れば、彼らの主張が、主イエスの生き様とはまさに正反対であることを知る。

キリスト教の不祥事などを口実に、あたかもキリスト教が欠陥宗教であって、キリスト教そのものの理念に重大な問題があるかのように吹聴し始めた人々は、その主張がことごとく聖書と真逆になって行く様子がよく分かるのである。
 
唐沢のメッセージでは、もはや十字架の死と復活という言葉も聞かれず、キリストの十字架そのものが消え失せている。これは筆者から見れば、極めて恐ろしい、ぞっとする事実である。
 
信者たちは、決してこのような例に倣うことなく、たとえ外見はどんなに弱々しく、みすぼらしく、不器用で、力もないように見えても、内心では決して揺るがされることなく、最後までキリストの十字架に堅く立って、人間の義ではなく、神の義を主張し続けたい。

<⑤に続く>

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☆☆みなさまへ☆☆
当ブログに対して長期で行われている嫌がらせ事件は、只今、刑事事件として捜査が進んでいますが、某所で悪質な記事やコメントの投稿が続けられているため、犯人に関する重要情報をお持ちの方は、ぜひ神奈川警察署刑事2課へ通報ください。当ブログに関する物騒な記事やコメントを見つけられた方もどんどん通報して下さい。

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