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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

神の子を踏みつけ、自分がきよめられた契約の血を汚れたものとし、さらに恵みの御霊を侮る者は、どんなにか重い刑罰に値することであろう。(1)

これから、色々と書かなければならないことが山積みである。まずはエステル記からだ。

今回、筆者は9年間という長きに渡り、当ブログにおける信仰告白の殲滅を願って筆者を脅しつけ、筆者を貶め、辱めようと悪意を持ってつけ狙い、筆者の人生の平穏を残酷に奪って来た者たちに対して、ついに法的措置に出た。

それによって、当ブログへの評価を高め、筆者の信仰者としての立場に賛同し、全力を挙げてこれを支援する読者も出て来れば、あるいは当ブログへの理解を失い、あるいは恐れて去って行く読者も出て来るだろう。

そのようなことはすべて予測済みである。そもそもカルト被害者救済活動がこれほど腐敗した運動であり、聖徒らに対する敵意と憎悪に燃えていることが、これほど公衆の面前で明らかになるまでには、相当な月日が必要であり、そうなるまでの間、当ブログの意見に理解を示さない者たちは数多く存在した。

だが、筆者は当ブログを読者の歓心を得るために書いているわけではない、と何度も断っている。だから、この事件を人々がどのように受け止めるかにはあまり関心がない。

重要なことは、キリスト者が暗闇の勢力に対峙するに当たり、どのように神の国の権益に立ってこれを擁護する決意を固めて行くかという信仰の成長にある。筆者自身が、以上のような決意に至るまでに、長い長い年月が流れている。その間に筆者が和解を呼びかけた回数も、一度や二度でないことは誰もが知っている。

どのような罪人に対してであれ、憐れみを唱えようとする人間の肉なる情が、筆者には分からないわけではない。しかし、今回は決してそうした肉の情に従うわけには行かない。むしろ、キリストと共なる十字架において、セルフに死んだ者として、筆者はすべての肉の情をきっぱりと断ち切り、御言葉によってすべてを明白に切り分けるレビ人の剣を手に取り、神の国の権益を擁護する者として、神の教会に敵対し、これを冒涜しようとする者たちに、あらゆる正当な手段を尽くして毅然と立ち向かう。そうすることこそ、まさに神の願っておられる、御言葉に基づく正しい行動なのであると確信する。従って、筆者はアダムに属する者でない以上、アダムを擁護することはできない相談である。

だが、むろん、筆者自身にとっても、その教訓を学ぶことは、一朝一夕でなかったことは言っておかねばならない。

多くの人々が、生まれながらの人間の情ゆえに、カルト被害者救済活動に理解や憐憫を示し、それゆえ、次々と彼らに敗北して行った。彼らはクリスチャンを名乗りながらも、聖書の御言葉よりも、人間としての情愛を優先し、人間が恥をかかされないことを優先して、罪が罪として暴かれ、悪者が悪者として罰せられることを嫌ったのである。

しかし、彼らが罰せられなければならないことは、何年も前からすでに決定済みであったと言える。

そのことは、筆者がかつて「罪と罰――カルト被害者救済活動はなぜ聖書に反するのか ――ブログ「随想 吉祥寺の森から」の著者 杉本徳久氏による多くのクリスチャンに対する聖書と法に基づかない虚偽の告発と カルト被害者救済活動が持つ反聖書的な意義についての考察――」の中で、以下のように記した通りである。

要するに、カルト被害者救済活動を支持する人々は、キリストの贖いではなく、自分自身の虐げられた被害者性を持って、自分を教会の一員として認めよと、教会に迫っているのである。それは罪ある人間が、自分は弱者であるがゆえに、悔い改めも、キリストの贖いも経ないのに、罪を免罪されて聖とされるべきと言っているに等しいのであるから、そのようなねじ曲がった考えは、悪質に福音に敵対するものとして、到底、聖書の神によって受け入れられる見込みがない。
 
 「生まれながらの人間は、何とかして肉の罪深い本質が暴かれることなく、自分の罪が照らされることなく、義に達する道がないかと模索しています。生まれながらの人間の心の中には、自分のものであれ、他人のものであれ、人間の罪を決してあるがままの罪として暴かれたくない・見たくない・認めたくないという思いがあります。他人の罪が暴かれることも、自分の罪が暴かれることも同じように、生まれながらの人間にとっては脅威になり得ます。人間は人間を良いものとみなし、人間に恥をかかせたくないのです。だからこそ、人は自分が間違いを犯したことが明白である時でさえ、悪いのはその人を苦しめた環境であって、その人(弱者)自身に罪はないと思いたいのであり、そう言ってくれる他者に飛びつきたいのです。しかし、それは神の事実に基づいた結論ではありません。

神は私たちのあるがままの姿がどんなものであるか知っておられます。弱者であろうと、虐げられた貧しき人々であろうと、抑圧された者たちであろうと、一人残らず、神の御前には惨めな罪人に過ぎません。しかし、光の下に正直に進み出たくない人々は、自分の裸の恥を神の御前で隠し、自己の罪を美化しようとするだけでなく、他者の罪が暴かれることに対しても、激しく抵抗することがあります。そして、罪を罪としてはっきり指摘し、神に立ち戻るよう忠告する人をいわれなく罪定めして退け、逆に、罪を隠蔽し、かばうことを、思いやりや、憐れみや、優しさなどと呼びかえ、悔い改めに導かれる必要のある他者に向かって「あなたは正しいので、悔い改めなど必要ない」とささやき、その人をさらに神から遠く引き離してしまうのです。

 「バラバを十字架につけるな、キリストを十字架につけよ!」という叫びの根底には、何とかして人間に十字架を経由させることなく、人が罪を認めることも、悔い改めることもなくして、人間が傷ついたり、恥じ入ったり、名誉を失うことなくして、尊厳を保ったまま無罪放免される方法がないのかという、人の生まれながらの自己の叫びがあります。

 <略>”弱者”であるから、”被害者”であるから、”虐げられた貧しき人々”だからといって、その人たちに義があるわけではないのです。全ての人が神の御前に生まれながらに罪人なのです。それにも関わらず、”弱者”の美名を利用して、人が自己の内にある罪の本質から目を逸らし、己の内にまるで正義があるかのように思い込み、実際にそう主張していく時、それはいかに人の目には崇高な理念のように見えたとしても、人が神の義を退けてでも、生まれながらの人間を義としようとする、巧妙で悪質な神への反逆になるのです。

<略>   クリスチャンが正直に罪を罪と呼ぶことをやめ、罪人がキリストと共に十字架へ赴く必要を否定して、むしろ、罪人に対する神の刑罰としての十字架を退けて、罪人に対する直接的な”愛”や”憐れみ”や”赦し”や”慰め”の必要を訴えていくとき、それは私たちが再び、バラバを赦してキリストを十字架につけよと叫んでいるのと同じなのです。<略>

「もし、罪がないと言うなら、それは自分を欺くことであって、真理はわたしたちのうちにない。」(Ⅰヨハネ1:8) 「光がこの世にきたのに、人々はそのおこないが悪いために、光よりもやみの方を愛した」(ヨハネ3:19)

「悪を行っている者はみな光を憎む。そして、そのおこないが明るみに出されるのを恐れて、光にこようとはしない。しかし、真理を行っている者は光に来る。その人のおこないの、神にあってなされたということが、明らかにされるためである。」(ヨハネ3:20-21)

 最後に、クリスチャンを名乗っているにも関わらず、主が血潮によって罪赦されたクリスチャンをいわれなくそしり、聖書の御言葉を曲げてでも、教会とクリスチャンを踏みにじり、数々の汚しごとを言い、キリストの花嫁である教会を争いによって引き裂き、虚偽に満ちた議論を展開しては、多くの人々を欺いてキリストの御名を貶めて来た人々が、この先、どうなるかは聖書が予告している通りです

「…この人々は自分が知りもしないことをそしり、また、分別のない動物のように、ただ本能的な知識にあやまられて、自らの滅亡を招いている。」(ユダ10)

彼らが滅びるのは、自分らの救となるべき真理に対する愛を受けいれなかった報いである。そこで神は、彼らが偽りを信じるように、迷わす力を送り、こうして、真理を信じないで不義を喜んでいた全ての人を、さばくのである」(Ⅱテサロニケ2:10-12)

もしわたしたちが、真理の知識を受けたのちにもなお、ことさらに罪を犯しつづけるなら、罪のためのいけにえは、もはやあり得ない。ただ、さばきと、逆らう者たちを焼きつくす激しい火とを、恐れつつ待つことだけがある。モーセの律法を無視する者が、あわれみを受けることなしに、二、三の人の証言に基いて死刑に処せられるとすれば、神の子を踏みつけ、自分がきよめられた契約の血を汚れたものとし、さらに恵みの御霊を侮る者は、どんなにか重い刑罰に値することであろう。復讐はわたしのすることである。わたし自身が報復する』と言われ、「また『主はその民をさばかれる』と言われたかたを、わたしたちは知っている。生ける神のみ手のうちに落ちるのは、恐ろしいことである。」(ヘブル10:28-31)

 以上の記事を書いた時点では、筆者はまだカルト被害者救済活動の支持者らがどのような形で罰せられることになるのかを具体的に知らなかった。その中で自分がどのような役割を果たすのか、また、そのために必要な措置が何であるかも知らなかった。

 しかし、それでも、聖書の御言葉は、その当時から、彼らの最期をはっきりと告げていたのである。それだからこそ、何年も前から、筆者は彼らの辿る結末を知っており、以上の記事を記すことができた。次の御言葉は何度でも繰り返すに値する。

「もしわたしたちが、真理の知識を受けたのちにもなお、ことさらに罪を犯しつづけるなら、罪のためのいけにえは、もはやあり得ない。ただ、さばきと、逆らう者たちを焼きつくす激しい火とを、恐れつつ待つことだけがある。モーセの律法を無視する者が、あわれみを受けることなしに、二、三の人の証言に基いて死刑に処せられるとすれば、神の子を踏みつけ、自分がきよめられた契約の血を汚れたものとし、さらに恵みの御霊を侮る者は、どんなにか重い刑罰に値することであろう。」

 以上の御言葉こそ、筆者が今回のような措置を取るに当たり、依って立っている根拠である。これまで筆者は、彼らのいわれなき告発に対して、キリストの義に立って、防戦するのみであった。しかし、今ここに筆者は彼らとの関係性を逆転して、反撃に転ずる――聖書の御言葉に基づき、彼らの処罰を求めるという積極的な反撃を開始するのである。

 カルト被害者救済活動の支持者らが、クリスチャンを罪に定めて処罰することを望んでいたことを思い出されたい。彼らは筆者を含む、神が贖われて義とされたクリスチャンや教会をまるで犯罪者のごとく処罰しようと望んでいたのである。

 だとすれば、なぜ筆者を含むクリスチャンの側だけが、いつまでも彼らに対する憐れみを持ち続けねばならないのか。いや、むしろ、彼らが望んだ悪しき願いは、そっくりそのまま、彼ら自身の上に注ぎ返すべきではないのか。

 カルト被害者救済活動の支持者らがクリスチャンを罪に定め、処罰を求めるなど、完全に筋違いであり、まさに倒錯した願いであると言える。むしろ、実際は、神に贖われて義とされたクリスチャンこそ、彼らに対する処罰を求めるにまことにふさわしい存在なのである。暗闇の勢力はおそらくそれを最初から分かっていればこそ、自分たちの生き残りをかけて、無防備で無自覚なクリスチャンに先手を打って戦いをしかけたのだろう。
 
 これから先、この戦いがどうなるのかは、筆者自身にとっても非常な関心がある。なぜなら、そこには筆者個人の人生が関わっているだけでなく、聖書の真理、神の御言葉の永遠の正しさがかかっているためである。従って、この先は、筆者の肉の努力や個人的な思惑によらず、神ご自身が御言葉の正しさを証明されるための手続きなのであって、神ご自身が対応されることであろう。

 さて、今回と次の記事の中で、クリスチャンが誰でも知っているエステル記(第3章~第8章)の有名な物語を引用しながら考察してみたい。

「これらの事の後、アハシュエロス王はアガグびとハンメダタの子ハマンを重んじ、これを昇進させて、自分と共にいるすべての大臣たちの上にその席を定めさせた。 王の門の内にいる王の侍臣たちは皆ひざまずいてハマンに敬礼した。これは王が彼についてこうすることを命じたからである。

しかしモルデカイはひざまずかず、また敬礼しなかった。 そこで王の門にいる王の侍臣たちはモルデカイにむかって、「あなたはどうして王の命令にそむくのか」と言った。 彼らは毎日モルデカイにこう言うけれども聞きいれなかったので、その事がゆるされるかどうかを見ようと、これをハマンに告げた。なぜならモルデカイはすでに自分のユダヤ人であることを彼らに語ったからである。

ハマンはモルデカイのひざまずかず、また自分に敬礼しないのを見て怒りに満たされたが、 ただモルデカイだけを殺すことを潔しとしなかった。彼らがモルデカイの属する民をハマンに知らせたので、ハマンはアハシュエロスの国のうちにいるすべてのユダヤ人、すなわちモルデカイの属する民をことごとく滅ぼそうと図った。


 王に引き立てられて得意になった大臣ハマンが、ユダヤ人全体に対して敵意と憎悪を抱いた直接のきっかけは、ユダヤ人モルデカイがハマンの前にひざまずかず、ハマンを神として崇めなかったことによる。ハマンは王に仕える臣下であったとはいえ、内心では、自分を王に等しい存在であるとみなして、王の代弁者のように振る舞っていた。(自分を王と思っていたと言っても過言ではないだろう。)
 
 カルト被害者救済活動の支持者らがどういうきっかけでキリスト教界全体に敵意と憎悪を抱くようになったのかは知らない。しかし、彼らが筆者個人に対して憎悪を抱いた直接のきっかけは、筆者がアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団時代に津村昭二郎牧師の前にひざまずかず、村上密牧師の前にひざまずかず、KFCのDr.Lukeの前にもひざまずかず、ゴットホルト・ベック氏の前にもひざまずかず、彼ら牧師や指導者を名乗っている人間をことごとく神として崇めなかったことによる。

 要するに、筆者が牧師制度そのものの前にひれ伏さず、人間に過ぎない者を神として拝んだり、彼らを神のような絶対者とみなして聞き従うことを拒んだことによる。それゆえ、彼らは筆者を不遜な人間とみなし、筆者のために自分が恥をかかされたかのように考え、筆者を憎んだだけでなく、辱め、殺そうとまで願ったのである。(この人々の迫害の執拗さを見れば、彼らが筆者に対する憎悪のみならず殺意をも持っていたことは明白である。)

 聖書にはダニエル等、モルデカイと同じように、人間に過ぎない者を拝まなかったがゆえに迫害された人物は他にも登場する。しかし、彼らはことごとく迫害に対する勝利をおさめている。また、サムエルのように、腐敗した祭司エリのもとで幼少期を過ごしながらも、その腐敗に決して染まらなかった人物もいる。

 このように、神の民がどんなに腐敗する時にも、神はその民の中から、必ずご自分に忠実な人々をとりわけ、神の民全体を正すための準備を整えさせる。信仰に基づいて、見えないただお一人の神だけを神とするのか、それとも、目に見えるもろもろの被造物(人間を含む)を神として拝み、悪魔に魂を売るのか、それはキリスト者が生きている限り、直面し続ける戦いである。
 
アハシュエロス王の第十二年の正月すなわちニサンの月に、ハマンの前で、十二月すなわちアダルの月まで、一日一日のため、一月一月のために、プルすなわちくじを投げさせた。 そしてハマンはアハシュエロス王に言った、「お国の各州にいる諸民のうちに、散らされて、別れ別れになっている一つの民がいます。その法律は他のすべての民のものと異なり、また彼らは王の法律を守りません。それゆえ彼らを許しておくことは王のためになりません。 もし王がよしとされるならば、彼らを滅ぼせと詔をお書きください。そうすればわたしは王の事をつかさどる者たちの手に銀一万タラントを量りわたして、王の金庫に入れさせましょう」。 そこで王は手から指輪をはずし、アガグびとハンメダタの子で、ユダヤ人の敵であるハマンにわたした。 そして王はハマンに言った、「その銀はあなたに与える。その民もまたあなたに与えるから、よいと思うようにしなさい」。」

アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団は理念が歪んでいるだけでなく、そこから登場する聖職者を名乗る人物も、あまりにも異常で偏っていたと言えよう。村上密は早くからカルト監視機構の設立を提唱し、全キリスト教界を自分自身の監督下に置くことを提唱していた。カトリック教会には統一的なヒエラルキーがあるが、プロテスタントにはそれがない。それゆえ、プロテスタントの教会は、「散らされて、別れ別れになっている」も同然の民であり、これを統一的に管理する規則はない。そこに村上は目を付けたのである。カルト被害者救済活動の支持者らは、プロテスタントの各教会が、誰も手を出せない聖域のようになっていることを許し難いと考え、これを彼らの監視下に置くか、もしくは彼らの支配に屈さない教会は、打ち滅ぼしてしまおうと考えたのである。彼らは諸教会に裁判をしかけることで、教会財産を略奪することをも初めから狙っていた。

「そこで正月の十三日に王の書記官が召し集められ、王の総督、各州の知事および諸民のつかさたちにハマンが命じたことをことごとく書きしるした。すなわち各州に送るものにはその文字を用い、諸民に送るものにはその言語を用い、おのおのアハシュエロス王の名をもってそれを書き、王の指輪をもってそれに印を押した。そして急使をもってその書を王の諸州に送り、十二月すなわちアダルの月の十三日に、一日のうちにすべてのユダヤ人を、若い者、老いた者、子供、女の別なく、ことごとく滅ぼし、殺し、絶やし、かつその貨財を奪い取れと命じた。 この文書の写しを詔として各州に伝え、すべての民に公示して、その日のために備えさせようとした。 急使は王の命令により急いで出ていった。この詔は首都スサで発布された。時に王とハマンは座して酒を飲んでいたが、スサの都はあわて惑った。」

カルト監視機構は設立されなかった。にも関わらず、村上密は自分の願いを諦めなかった。村上に従った多くの人々が、密偵のようになって各教会を監視し、その情報を偽って指導者に密告した。村上は被害者を募って、諸教会にカルト化の疑いをかけ、それを口実に、教会に対する攻撃としての裁判をしかけ、リーダーを辱めて追放し、信徒を追い散らし、教会財産を賠償金という名目で奪い取った。

モルデカイはすべてこのなされたことを知ったとき、その衣を裂き、荒布をまとい、灰をかぶり、町の中へ行って大声をあげ、激しく叫んで、王の門の入口まで行った。荒布をまとっては王の門の内にはいることができないからである。すべて王の命令と詔をうけ取った各州ではユダヤ人のうちに大いなる悲しみがあり、断食、嘆き、叫びが起り、また荒布をまとい、灰の上に座する者が多かった。」

多くの牧師たち、信徒たち、教会が村上の手法に異議を唱えた。しかし、村上は自分の手先となった信徒たちを巧妙に利用して、自分の活動を批判する者たちを脅しつけ、反対をことごとく封じ込めて行った。

「エステルの侍女たちおよび侍従たちがきて、この事を告げたので、王妃は非常に悲しみ、モルデカイに着物を贈り、それを着せて、荒布を脱がせようとしたが受けなかった。そこでエステルは王の侍従のひとりで、王が自分にはべらせたハタクを召し、モルデカイのもとへ行って、それは何事であるか、何ゆえであるかを尋ねて来るようにと命じた。ハタクは出て、王の門の前にある町の広場にいるモルデカイのもとへ行くと、モルデカイは自分の身に起ったすべての事を彼に告げ、かつハマンがユダヤ人を滅ぼすことのために王の金庫に量り入れると約束した銀の正確な額を告げた。 また彼らを滅ぼさせるために、スサで発布された詔書の写しを彼にわたし、それをエステルに見せ、かつ説きあかし、彼女が王のもとへ行ってその民のために王のあわれみを請い、王の前に願い求めるように彼女に言い伝えよと言った。


ハタクが帰ってきてモルデカイの言葉をエステルに告げたので、エステルはハタクに命じ、モルデカイに言葉を伝えさせて言った、「王の侍臣および王の諸州の民は皆、男でも女でも、すべて召されないのに内庭にはいって王のもとへ行く者は、必ず殺されなければならないという一つの法律のあることを知っています。ただし王がその者に金の笏を伸べれば生きることができるのです。しかしわたしはこの三十日の間、王のもとへ行くべき召をこうむらないのです」。 エステルの言葉をモルデカイに告げたので、 モルデカイは命じてエステルに答えさせて言った、「あなたは王宮にいるゆえ、すべてのユダヤ人と異なり、難を免れるだろうと思ってはならない。 あなたがもし、このような時に黙っているならば、ほかの所から、助けと救がユダヤ人のために起るでしょう。しかし、あなたとあなたの父の家とは滅びるでしょう。あなたがこの国に迎えられたのは、このような時のためでなかったとだれが知りましょう」。

そこでエステルは命じてモルデカイに答えさせた、「あなたは行ってスサにいるすべてのユダヤ人を集め、わたしのために断食してください。三日のあいだ夜も昼も食い飲みしてはなりません。わたしとわたしの侍女たちも同様に断食しましょう。そしてわたしは法律にそむくことですが王のもとへ行きます。わたしがもし死なねばならないのなら、死にます」。モルデカイは行って、エステルがすべて自分に命じたとおりに行った。」
 
カルト被害者救済活動の暴挙を食い止めるためには、聖書の御言葉に立っている誰かが、命をかけてこれに立ち向かう必要があった。どのような反撃を受けようとも、決して一歩も退かない覚悟で、彼らの暴虐を訴えて、これに立ち向かう勇気と決意を固める人間が現れることが、どうしても必要であった。しかも、その人間は、それができるだけの立ち位置を備えていなければならなかった。

筆者にはその条件が揃っていた。アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団で幼少期を過ごしたことも含めて、まるですべてがその準備のためのようである。だが、筆者とて、そうした決意と覚悟を固めるにはやや時間を要したことは確かであり、そして、筆者以外にはそれをすることができる人間が誰もいなかったとは思わない。もしも筆者が臆病にもその仕事を果たさなかった場合には、神はその仕事を筆者のような誰か他の人間に与えられただけである。(むろん、これから先は、もっとたくさん出て来る。)

いずれにしても、筆者は決意を固めるしかなかった。神の教会の敵どもの投げつけて来る悪罵と呪いの言葉を真に受けて、彼らの呪いの通りに、精神異常となって死ぬのか(断じてそのようなことは容認できず、またそんな結末を受け入れねばならない理由は筆者には何一つとしてない)、それとも、彼らの呪いは彼ら自身にお返しして、彼ら自身に負ってもらい、筆者は彼らの悪事を正々堂々と非難して、彼らに対する当然の処罰を求めて生きるのか。

神が筆者にどちらを願っておられるかは、明々白々であった(どうして神がキリスト者を精神異常にしたり、死へ追い込んだりすることを願われるものか)。だとすれば、神の民に対する敵意と殺戮の願いに燃える敵どもに対しては、毅然と対峙するしかない。

「三日目にエステルは王妃の服を着、王宮の内庭に入り、王の広間にむかって立った。王は王宮の玉座に座して王宮の入口にむかっていたが、 王妃エステルが庭に立っているのを見て彼女に恵みを示し、その手にある金の笏をエステルの方に伸ばしたので、エステルは進みよってその笏の頭にさわった。 王は彼女に言った、「王妃エステルよ、何を求めるのか。あなたの願いは何か。国の半ばでもあなたに与えよう」。 エステルは言った、「もし王がよしとされるならば、きょうわたしが王のために設けた酒宴に、ハマンとご一緒にお臨みください」。 そこで王は「ハマンを速く連れてきて、エステルの言うようにせよ」と言い、やがて王とハマンはエステルの設けた酒宴に臨んだ。

酒宴の時、王はエステルに言った、「あなたの求めることは何か。必ず聞かれる。あなたの願いは何か。国の半ばでも聞きとどけられる」。 エステルは答えて言った、「わたしの求め、わたしの願いはこれです。 もしわたしが王の目の前に恵みを得、また王がもしわたしの求めを許し、わたしの願いを聞きとどけるのをよしとされるならば、ハマンとご一緒に、あすまた、わたしが設けようとする酒宴に、お臨みください。わたしはあす王のお言葉どおりにいたしましょう」。


こうしてハマンはその日、心に喜び楽しんで出てきたが、ハマンはモルデカイが王の門にいて、自分にむかって立ちあがりもせず、また身動きもしないのを見たので、モルデカイに対し怒りに満たされた。 しかしハマンは耐え忍んで家に帰り、人をやってその友だちおよび妻ゼレシを呼んでこさせ、 そしてハマンはその富の栄華と、そのむすこたちの多いことと、すべて王が自分を重んじられたこと、また王の大臣および侍臣たちにまさって自分を昇進させられたことを彼らに語った。 ハマンはまた言った、「王妃エステルは酒宴を設けたが、わたしのほかはだれも王と共にこれに臨ませなかった。あすもまたわたしは王と共に王妃に招かれている。 しかしユダヤ人モルデカイが王の門に座しているのを見る間は、これらの事もわたしには楽しくない」。

その時、妻ゼレシとすべての友は彼に言った、「高さ五十キュビトの木を立てさせ、あすの朝、モルデカイをその上に掛けるように王に申し上げなさい。そして王と一緒に楽しんでその酒宴においでなさい」。ハマンはこの事をよしとして、その木を立てさせた。」

エステル記に登場する王は、まるで中立的な裁判官のようで、王自身のキャラクターはかなり薄いと言える。どちらかと言えば、登場人物の方がはるかに個性的で、それぞれの意見をはっきり持っており、彼らの進言する内容が王に大きな影響を及ぼす。

これは王が象徴的に神を表していることによる。今日、聖徒らも、悪魔と暗闇の軍勢も、みな同様に神の御前に立って、それぞれの意見を述べているのである。我々は地上にいる間は、目に見える人間を相手にしているつもりになっているかも知れないが、我々のすべての言葉は、神に対する訴えとして聞かれているのである。

すなわち、暗闇の勢力は、聖徒らに対する敵意と憎悪と罪定めの言葉を、聖徒らは暗闇の勢力の悪事と彼らに対する処罰を、神に向かって訴えている。そして、ご存知の通り、ハマンが自分を拝まないモルデカイを憎んで殺すために、自分の家の庭に作った処刑台は、ハマン自身のための処刑台となる。

これは、暗闇の勢力が聖徒らに害を加えようと願ったその願いが、彼ら自身に跳ね返ることを意味する。もちろん、ハマンがモルデカイを木にかけて殺そうと願ったことは、キリストの十字架の予表でもある。だが、キリストは十字架において最後の敵である死を滅ぼし、ご自分に対する殺意を表明する勢力に完全に勝利を取られた。そこで、これから処罰されるのは、悪魔と暗闇の勢力なのである。

「その夜、王は眠ることができなかったので、命じて日々の事をしるした記録の書を持ってこさせ、王の前で読ませたが、 その中に、モルデカイがかつて王の侍従で、王のへやの戸を守る者のうちのビグタナとテレシのふたりが、アハシュエロス王を殺そうとねらっていることを告げた、としるされているのを見いだした。 そこで王は言った、「この事のために、どんな栄誉と爵位をモルデカイに与えたか」。王に仕える侍臣たちは言った、「何も彼に与えていません」。

王は言った、「庭にいるのはだれか」。この時ハマンはモルデカイのために設けた木にモルデカイを掛けることを王に申し上げようと王宮の外庭にはいってきていた。 王の侍臣たちが「ハマンが庭に立っています」と王に言ったので、王は「ここへ、はいらせよ」と言った。 やがてハマンがはいって来ると王は言った、「王が栄誉を与えようと思う人にはどうしたらよかろうか」。ハマンは心のうちに言った、「王はわたし以外にだれに栄誉を与えようと思われるだろうか」。

ハマンは王に言った、「王が栄誉を与えようと思われる人のためには、 王の着られた衣服を持ってこさせ、また王の乗られた馬、すなわちその頭に王冠をいただいた馬をひいてこさせ、 その衣服と馬とを王の最も尊い大臣のひとりの手にわたして、王が栄誉を与えようと思われる人にその衣服を着させ、またその人を馬に乗せ、町の広場を導いて通らせ、『王が栄誉を与えようと思う人にはこうするのだ』とその前に呼ばわらせなさい」。

それで王はハマンに言った、「急いであなたが言ったように、その衣服と馬とを取り寄せ、王の門に座しているユダヤ人モルデカイにそうしなさい。あなたが言ったことを一つも欠いてはならない」。 そこでハマンは衣服と馬とを取り寄せ、モルデカイにその衣服を着せ、彼を馬に乗せて町の広場を通らせ、その前に呼ばわって、「王が栄誉を与えようと思う人にはこうするのだ」と言った。
こうしてモルデカイは王の門に帰ってきたが、ハマンは憂え悩み、頭をおおって急いで家に帰った。 そしてハマンは自分の身に起った事をことごとくその妻ゼレシと友だちに告げた。するとその知者たちおよび妻ゼレシは彼に言った、「あのモルデカイ、すなわちあなたがその人の前に敗れ始めた者が、もしユダヤ人の子孫であるならば、あなたは彼に勝つことはできない。必ず彼の前に敗れるでしょう」。
彼らがなおハマンと話している時、王の侍従たちがきてハマンを促し、エステルが設けた酒宴に臨ませた。」

不思議なことに、ハマンの取り巻き連中の中には、かなり賢明な判断をする者たちが含まれていたようだ。ハマンの妻でさえそうである。彼らはユダヤ人に不思議な力があって、それ以外の全ての民にまさる力があることを知っていた。そして、王がモルデカイの功績を思い出し、彼を取り立てたことが、ハマンの敗北の始まりであることをも、彼らはちゃんと理解していたのである。

次回は、いよいよモルデカイを殺そうと願ったハマンが辱められ、木に吊るされる場面について解説したい。だが、その記事を挙げる前に、筆者は断っておきたい。カルト被害者救済活動の支持者はもはや完全にこの分岐点を過ぎているため、彼らに残されているのは、ただ「木にかけられる」ことだけであると。
 
<続く>
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