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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

神の子を踏みつけ、自分がきよめられた契約の血を汚れたものとし、さらに恵みの御霊を侮る者は、どんなにか重い刑罰に値することであろう。(2)

さて、これまでの記事の中で、聖書の順序では、肉によって生まれた者が霊によって生まれた者を迫害する、という出来事がまずあり、その次に、霊によって生まれた子が十分に強くなって意思表示を行うとき、初めて肉によって生まれた者が神の家から駆逐されて、霊によって生まれた者が正当な地位を取り戻すことを述べた。

自由の女(サラ)から約束によって生まれた子(イサク)だけが、神の国の正統な後継者であり、奴隷の女(ハガル)から肉によって生まれた子(イシマエル)は後継者になれない。

だが、奴隷とその子が神の家から追い出されるに当たり、どうしても必要だったのが、サラの意志表示であった。

「けれども、あのとき、肉によって生まれた者が、”霊”によって生まれた者を迫害したように、今も同じようなことが行われています。しかし、聖書に何と書いてありますか。「女奴隷とその子を追い出せ。女奴隷から生まれた子は、断じて自由な身の女から生まれた子と一緒に相続人になってはならないからである」と書いてあります。」(ガラテヤ4:29-30)

同様に、エステル記を読むと、ハマンを悪者として王に訴えたエステルの意志表示が決定的に重要な働きをなしていたことが分かる。

これは、サタンを神に訴えることが、キリスト者の使命であることをよく表している。キリスト者は、御霊によって生まれた者を迫害する肉なる者たちを、神に向かって告発し、これらの者が正体を暴かれて神の家から取り除かれるよう、神に懇願するという重要な使命を担っているのである。

ちなみに、話は逸れるが、以下の原則(ガラテヤ4:27)は、時代を問わず、エクレシア(神の教会)を貫くものである。

「喜べ、子を産まない不妊の女よ、
  喜びの声をあげて叫べ。
  産みの苦しみを知らない女よ。
  一人取り残された女が夫ある女よりも、
 多くの子を産むから。」

サラは老いてからであったとはいえ、約束の子イサクを産んだわけであるから、もはや「不妊の女」という蔑称はふさわしくない、と思うかも知れない。しかし、実は「不妊の女」「産みの苦しみを知らない女」「一人取り残された女」「夫のない女」と言った呼び名は、蔑称ではなく、純潔のエクレシアを示すためには欠かせない永遠に高貴な称号なのである。

最初の人類であったエバは弱さのゆえに罪に堕落して、最も不名誉の女の代表格となってしまった。しかし、こうして不適格者の烙印を押され、堕落の象徴のようにみなされ、見捨てられた存在のようになってしまった「女」を通して、逆説的に人類を回復しようということが、神のご計画の一部としてある。

そこで、神は選ばれた民ではなかったモアブ人ルツをキリストの系譜の中で選び出されたり、キリストを産むために処女マリヤを選び出されたり、スカルの井戸でサマリヤの女に話しかけられたりと、絶えず、選ばれた力ある民ではなく、力のない、無名で、見捨てられ、不名誉を負っていた女たちを、しばしばご計画の成就のために用いられたのである。

最終的には、「女」の回復は、キリストの花嫁たるエクレシアの従順によって成し遂げられる。

だが、そのことは、決して「女性原理」の賛美や崇拝と混同されてはならない。たとえば、多くの宗教画で「聖母マリア」が赤ん坊を抱いた女性として描かれ、その母性本能が褒めたたえられているのとは全く逆に、マリアがキリストをみごもったのは、肉の欲望によらず、肉なる母性本能によるものではなかった。キリストの誕生には、肉なる人間(男性)の参与も必要なければ、天然の「母性原理」が働く余地も全くなかった。マリアはあくまで「夫のない女」「不妊の女」として、聖霊によってキリストをみごもったのである。

このことはサラにも同様に当てはまる。イサクは聖霊によって生まれた子とは言えないが、それでも、サラが子供を産むことのできる条件を失ってから生まれた子であった。従って、これも「母性原理」によって生まれた子ではないとはっきり言える。イサクは神の約束によって、信仰によって与えられた子であり、その意味で、聖霊によって生まれるキリストを予表している。そのためにこそ、サラはイサクを産んだ後でも、「不妊の女」「夫のない女」と呼ばれ続けているのであるが、これは決して彼女にとって不名誉な称号ではなく、むしろ、栄誉ある称号であって、決して彼女が肉なる被造物に服することなく、キリストだけに従う永遠に純潔の花嫁たるエクレシアの一員として生きたことを象徴する呼び名なのである。

このように、エクレシアは永遠に「夫のない女性」「独身の女性」「不妊の女性」である。なぜなら、エクレシアの夫はキリストであるが、まだ彼女は夫が迎えに来るのを待っている未婚の花嫁の状態にあるからであり、その子は聖霊によってのみ生まれることが約束されている子だからである。このように霊的に”未婚”の状態にあること、肉による子供を持たないこと(肉に蒔いて肉による実を持たないこと)、キリストだけに服することは、エクレシアから決して取り除かれることのない条件である。

聖書は結婚を禁じたりは全くしていないが、それでも、パウロは、もし信者が独身でいられるならその方が良いと述べている。なぜなら、肉にある伴侶を持つと、その者に仕えねばならなくなり、こうして人間に対する気遣いに絶えず心を煩わせるよりは、むしろ神のことに専念できる立場にあった方が良いとパウロは言うのである。

「しかし、あなたが、結婚しても、罪を犯すわけではなく、未婚の女が結婚しても、罪を犯したわけではありません。ただ、結婚する人たちはその身に苦労を負うことになるでしょう。わたしは、あなたがたにそのような苦労をさせたくないのです。兄弟たち、わたしはこう言いたい。定められた時は迫っています。今からは、妻のある人はない人のように、泣く人は泣かない人のように、喜ぶ人は喜ばない人のように、物を買う人は持たない人のように、世の事にかかわっている人は、かかわりのない人のようにすべきです。この世の有様は過ぎ去るからです。

思い煩わないでほしい。独身の男は、どうすれば主に喜ばれるかと、主のことに心を遣いますが、結婚している男は、どうすれば妻に喜ばれるかと、世の事に心を遣い、心が二つに分かれてしまいます。独身の女や未婚の女は、体も霊も聖なる者になろうとして、主のことに心を遣いますが、結婚している女は、どうすれば夫に喜ばれるかと、世の事に心を遣います。このようにわたしが言うのは、あなたがたのためを思ってのことで、決してあなたがたを束縛するためではなく、品位のある生活をさせて、ひたすら主に仕えさせるためなのです。」(Ⅰコリント7:28-35)

それに引き換え、肉によって生まれる者たちは、肉の事柄には聡く、「未婚」や「不妊」などの不名誉な称号とは無縁である。彼らは、霊によって生まれる者たちよりも早く子を産み、子供らの数、家族の人数、己が権勢、財産などの目に見える数々の所有物を誇る。ハマンも息子たちが数多いことを誇っていたとある。

だが、それは肉による実である以上、霊による実に比べ、全く永続性がない。永続性がないだけでなく、神の目には堕落して呪われた被造物である。それらは束の間に過ぎ去り、一時は栄えているように見えても、あっという間に消え失せてしまう。

「王とハマンは王妃エステルの酒宴に臨んだ。 このふつか目の酒宴に王はまたエステルに言った、「王妃エステルよ、あなたの求めることは何か。必ず聞かれる。あなたの願いは何か。国の半ばでも聞きとどけられる」。

王妃エステルは答えて言った、「王よ、もしわたしが王の目の前に恵みを得、また王がもしよしとされるならば、わたしの求めにしたがってわたしの命をわたしに与え、またわたしの願いにしたがってわたしの民をわたしに与えてください。 わたしとわたしの民は売られて滅ぼされ、殺され、絶やされようとしています。もしわたしたちが男女の奴隷として売られただけなら、わたしは黙っていたでしょう。わたしたちの難儀は王の損失とは比較にならないからです」。

アハシュエロス王は王妃エステルに言った、「そんな事をしようと心にたくらんでいる者はだれか。またどこにいるのか」。 エステルは言った、「そのあだ、その敵はこの悪いハマンです」。そこでハマンは王と王妃の前に恐れおののいた。 王は怒って酒宴の席を立ち、宮殿の園へ行ったが、ハマンは残って王妃エステルに命ごいをした。彼は王が自分に害を加えようと定めたのを見たからである。

王が宮殿の園から酒宴の場所に帰ってみると、エステルのいた長いすの上にハマンが伏していたので、王は言った、「彼はまたわたしの家で、しかもわたしの前で王妃をはずかしめようとするのか」。この言葉が王の口から出たとき、人々は、ハマンの顔をおおった。 その時、王に付き添っていたひとりの侍従ハルボナが「王のためによい事を告げたあのモルデカイのためにハマンが用意した高さ五十キュビトの木がハマンの家に立っています」と言ったので、王は「彼をそれに掛けよ」と言った。 そこで人々はハマンをモルデカイのために備えてあったその木に掛けた。こうして王の怒りは和らいだ。


今日、信仰によらない、御霊によらない、肉にある者たちが、神の教会を荒らし回っている。彼らは、唯一の神も、キリストの十字架の贖いも、罪の赦しも、聖書の御言葉も、何一つ信じていないのに、「教会から被害を受けた」「教会のカルト化を許してはおけない」などの言いがかりをつけては、被害者意識、人間の正義感など、肉による動機を振りかざして、教会に自分たちを受け入れるよう迫っている。

この人々は、教会の一員となる資格を全く持っていないにも関わらず、教会を責め、言いがかりをつけることによって、教会の中に巧みに入り込もうとしており、それによって、教会を占拠し、信仰による神の民をかえって迫害・駆逐しようとしている。彼らの中傷、乱暴狼藉、暴虐によって、神の民はまさに圧迫され、滅ぼされようとしているところだ。

これに対し、我々は、エステルが王に願い出たと同様に、この狼藉者たちの暴虐を声を限りに非難し、神に訴えるべきである。彼らが神の民の根絶を願っていることを神に告げて、この不信者らがこれ以上、神の民に害を加えることなく、ふさわしい罰を受けるよう願い出るべきである。

彼らは、ハマンがエステルに懇願したように、神の民に憐れみを乞うことで、処罰を免れようとするであろうが、それは成らない。そして、肉による者たちが、霊による者たちに危害を加え、根絶やしにしようとしたその悪意は、肉による者たち自身に跳ね返る。

ハマンがモルデカイを吊るそうとして自宅に作った処刑台が、ハマン自身の処刑台となったようにだ。
 
ハマンの死を思うとき、今日も、キリストと共なる十字架で死んでよみがえらされ、キリストの復活の命によって生きる神の民を中傷し、穢し、冒涜する者には、一体、この先、どんな厄災が降りかかることであろうか。

カルト被害者救済活動の支持者らは、神の民を精神異常者呼ばわりしているが、彼らが述べている世迷いごとを見れば、実際には、彼らこそ、まさに精神異常に陥っていることが、精神科医でなくとも、誰にでもすぐに分かる。勝ち目もない裁判に信徒を焚き付けたり、自分が見たことも聞いたこともない事柄について、まことしやかに虚偽を並べて人々を中傷したり、彼らの言うことには何の整合性もなく、彼らのしていることは自滅行為でしかなく、もはや人としての最低限度の常識や思考能力すらも完全に見失い、早く自分を罰してくれと世に向かって叫んでいるに等しい。

これが聖徒らを訴える者に降りかかる不幸な結末なのである。何度も述べて来たように、「主を畏れることは知恵の初め。 無知な者は知恵をも諭しをも侮る。 」(箴言1:7)とあるように、聖書の御言葉に従うことこそ、知恵と知識への道であり、御言葉を否定することは、無知と精神崩壊の始まりである。

聖書の御言葉に悪質に逆らう者たちからは、人としてのバランスの取れたものの見方や、常識や、健全な思考能力がどんどん失われて行く。彼らはこれまで裁判を振りかざしては教会を脅し、圧迫して来たが、実際に、自ら宣言している通り、裁判所に赴いてみれば良いのだ。彼らが述べているような嘘に満ちた一貫性のない屁理屈は、この世の人々の前でも、決してまかり通ることがないとすぐに分かるはずだ。

ハマンはエステルに訴えられて後、王の前で「顔を覆われた」。これはハマンが人に忌み嫌われる者の象徴となったことを意味する。この世の言い回しでは「人を呪わば、穴二つ」だが、キリスト者を呪った場合は、「穴一つ」だ。なぜなら、呪った者自身にその悪意が跳ね返るだけだからだ。

愚かなことである。カルト被害者救済活動の支持者らが、わざわざ自分で呪詛の言葉を口にしたりしなければ、それが彼らの身に降りかかることもなかったであろう。「一度口から出した言葉は取り消せない」と、彼らは自ら述べているのだから、彼らは自ら述べた言葉によって罪に定められ、その言葉は二度と撤回できまい。この先、顔を覆われた者同然に扱われることになるのは、彼ら自身である。それが彼らが自分で振りかざした掟によって自ら裁かれることの結末であり、彼らが自分で口にした言葉の刈り取りなのである。

このように、聖書の神、聖書の御言葉に敵対し、神の教会に敵対し、キリスト者を冒涜し敵対する者たちは、信者から憎まれるだけでなく、この世からも憎まれることになる。なぜなら、キリストの復活の命に基づくエクレシアの支配は、この世を超越しており、この世に対しても及んでいるからだ。
 
「その日アハシュエロス王は、ユダヤ人の敵ハマンの家を王妃エステルに与えた。モルデカイは王の前にきた。これはエステルが自分とモルデカイがどんな関係の者であるかを告げたからである。 王はハマンから取り返した自分の指輪をはずして、モルデカイに与えた。エステルはモルデカイにハマンの家を管理させた。

エステルは再び王の前に奏し、その足もとにひれ伏して、アガグびとハマンの陰謀すなわち彼がユダヤ人に対して企てたその計画を除くことを涙ながらに請い求めた。 王はエステルにむかって金の笏を伸べたので、エステルは身を起して王の前に立ち、そして言った、「もし王がよしとされ、わたしが王の前に恵みを得、またこの事が王の前に正しいと見え、かつわたしが王の目にかなうならば、アガグびとハンメダタの子ハマンが王の諸州にいるユダヤ人を滅ぼそうとはかって書き送った書を取り消す旨を書かせてください。 どうしてわたしは、わたしの民に臨もうとする災を、だまって見ていることができましょうか。どうしてわたしの同族の滅びるのを、だまって見ていることができましょうか」。

アハシュエロス王は王妃エステルとユダヤ人モルデカイに言った、「ハマンがユダヤ人を殺そうとしたので、わたしはハマンの家をエステルに与え、またハマンを木に掛けさせた。あなたがたは自分たちの思うままに王の名をもってユダヤ人についての書をつくり、王の指輪をもってそれに印を押すがよい。王の名をもって書き、王の指輪をもって印を押した書はだれも取り消すことができない」。

その時王の書記官が召し集められた。それは三月すなわちシワンの月の二十三日であった。そしてインドからエチオピヤまでの百二十七州にいる総督、諸州の知事および大臣たちに、モルデカイがユダヤ人について命じたとおりに書き送った。すなわち各州にはその文字を用い、各民族にはその言語を用いて書き送り、ユダヤ人に送るものにはその文字と言語とを用いた。 その書はアハシュエロス王の名をもって書かれ、王の指輪をもって印を押し、王の御用馬として、そのうまやに育った早馬に乗る急使によって送られた。 その中で、王はすべての町にいるユダヤ人に、彼らが相集まって自分たちの生命を保護し、自分たちを襲おうとする諸国、諸州のすべての武装した民を、その妻子もろともに滅ぼし、殺し、絶やし、かつその貨財を奪い取ることを許した。

ただしこの事をアハシュエロス王の諸州において、十二月すなわちアダルの月の十三日に、一日のうちに行うことを命じた。 この書いた物の写しを詔として各州に伝え、すべての民に公示して、ユダヤ人に、その日のために備えして、その敵にあだをかえさせようとした。王の御用馬である早馬に乗った急使は、王の命によって急がされ、せきたてられて出て行った。この詔は首都スサで出された。

モルデカイは青と白の朝服を着、大きな金の冠をいただき、紫色の細布の上着をまとって王の前から出て行った。スサの町中、声をあげて喜んだ。ユダヤ人には光と喜びと楽しみと誉があった。いずれの州でも、いずれの町でも、すべて王の命令と詔の伝達された所では、ユダヤ人は喜び楽しみ、酒宴を開いてこの日を祝日とした。そしてこの国の民のうち多くの者がユダヤ人となった。これはユダヤ人を恐れる心が彼らのうちに起ったからである。
 
十二月すなわちアダルの月の十三日、王の命令と詔の行われる時が近づいたとき、すなわちユダヤ人の敵が、ユダヤ人を打ち伏せようと望んでいたのに、かえってユダヤ人が自分たちを憎む者を打ち伏せることとなったその日に、ユダヤ人はアハシュエロス王の各州にある自分たちの町々に集まり、自分たちに害を加えようとする者を殺そうとしたが、だれもユダヤ人に逆らうことのできるものはなかった。すべての民がユダヤ人を恐れたからである。

諸州の大臣、総督、知事および王の事をつかさどる者は皆ユダヤ人を助けた。彼らはモルデカイを恐れたからである。モルデカイは王の家で大いなる者となり、その名声は各州に聞えわたった。この人モルデカイがますます勢力ある者となったからである。そこでユダヤ人はつるぎをもってすべての敵を撃って殺し、滅ぼし、自分たちを憎む者に対し心のままに行った。ユダヤ人はまた首都スサにおいても五百人を殺し、滅ぼした。またパルシャンダタ、ダルポン、アスパタ、 ポラタ、アダリヤ、アリダタ、パルマシタ、アリサイ、アリダイ、ワエザタ、すなわちハンメダタの子で、ユダヤ人の敵であるハマンの十人の子をも殺した。しかし、そのぶんどり物には手をかけなかった。」

さて、エステルが王にハマンの悪事を告げて以後、ハマンはまず自分自身の栄誉、生命を失い、次に、ハマンの家が取り上げられ、さらに、ハマンの子供たちも殺された。

「あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、 三代、四代にまで及ぼし、わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。」(出エジプト20:5-6)とあることを思い出そう。

 王は先に出したユダヤ人殺害の詔勅を取り消すことはしなかった代わりに、ユダヤ人が共同してこれに反撃することを許した。そのため、人々の心にユダヤ人への恐れが生じ、大規模な殺害は起きなかったが、それでも、ユダヤ人を憎み、殺害を願っていた人々はまだ残っていたと見られ、これらの人々は反撃を受けて滅ぼされることになる。

 その中で、ハマンの子供たちも殺されたところを見ると、ハマンの計画は、ハマン一人の思いつきというより、一つの思想体系を為しており、子孫らにも受け継がれていた様子が伺える。このように、悪しき思想体系が出来上がり、多くの人々の心をとらえ、ユダヤ人を憎む一大勢力を築き上げていたのである。

 このことは、村上密率いるカルト被害者救済活動が、教会を憎んだり、恨んだりする人々の心を引きつけて、一大要塞化して、教会やクリスチャンに敵対する勢力となっていたことを思わせる。一人の人間が、ある思想を体現するのである。聖書の御言葉に基づく信仰を体現する者もいれば、反キリストの思想を体現する者もいる。そしてそれらの人物が要塞化し、多くの人々を引きつけてて一大勢力となるのである。

 このように悪の要塞と化した勢力を、その巣のレベルから根絶やしにするためには、ユダヤ人たちは、ハマンの残党を駆逐し、敵の牙城を襲撃することがぜひとも必要だったのである。

「その日、首都スサで殺された者の数が王に報告されると、 王は王妃エステルに言った、「ユダヤ人は首都スサで五百人を殺し、またハマンの十人の子を殺した。王のその他の諸州ではどんなに彼らは殺したことであろう。さてあなたの求めることは何か。必ず聞かれる。更にあなたの願いは何か。必ず聞きとどけられる」。

エステルは言った、「もし王がよしとされるならば、どうぞスサにいるユダヤ人にあすも、きょうの詔のように行うことをゆるしてください。かつハマンの十人の子を木に掛けさせてください」。 王はそうせよと命じたので、スサにおいて詔が出て、ハマンの十人の子は木に掛けられた。 アダルの月の十四日にまたスサにいるユダヤ人が集まり、スサで三百人を殺した。しかし、そのぶんどり物には手をかけなかった。

王の諸州にいる他のユダヤ人もまた集まって、自分たちの生命を保護し、その敵に勝って平安を得、自分たちを憎む者七万五千人を殺した。しかし、そのぶんどり物には手をかけなかった。 これはアダルの月の十三日であって、その十四日に休んで、その日を酒宴と喜びの日とした。 しかしスサにいるユダヤ人は十三日と十四日に集まり、十五日に休んで、その日を酒宴と喜びの日とした。 それゆえ村々のユダヤ人すなわち城壁のない町々に住む者はアダルの月の十四日を喜びの日、酒宴の日、祝日とし、互に食べ物を贈る日とした。

モルデカイはこれらのことを書きしるしてアハシュエロス王の諸州にいるすべてのユダヤ人に、近い者にも遠い者にも書を送り、アダルの月の十四日と十五日とを年々祝うことを命じた。すなわちこの両日にユダヤ人がその敵に勝って平安を得、またこの月は彼らのために憂いから喜びに変り、悲しみから祝日に変ったので、これらを酒宴と喜びの日として、互に食べ物を贈り、貧しい者に施しをする日とせよとさとした。

そこでユダヤ人は彼らがすでに始めたように、またモルデカイが彼らに書き送ったように、行うことを約束した。 これはアガグびとハンメダタの子ハマン、すなわちすべてのユダヤ人の敵がユダヤ人を滅ぼそうとはかり、プルすなわちくじを投げて彼らを絶やし、滅ぼそうとしたが、 エステルが王の前にきたとき、王は書を送って命じ、ハマンがユダヤ人に対して企てたその悪い計画をハマンの頭上に臨ませ、彼とその子らを木に掛けさせたからである。 このゆえに、この両日をプルの名にしたがってプリムと名づけた。そしてこの書のすべての言葉により、またこの事について見たところ、自分たちの会ったところによって、 ユダヤ人は相定め、年々その書かれているところにしたがい、その定められた時にしたがって、この両日を守り、自分たちと、その子孫およびすべて自分たちにつらなる者はこれを行い続けて廃することなく、 この両日を、代々、家々、州々、町々において必ず覚えて守るべきものとし、これらのプリムの日がユダヤ人のうちに廃せられることのないようにし、またこの記念がその子孫の中に絶えることのないようにした。

さらにアビハイルの娘である王妃エステルとユダヤ人モルデカイは、権威をもってこのプリムの第二の書を書き、それを確かめた。そしてアハシュエロスの国の百二十七州にいるすべてのユダヤ人に、平和と真実の言葉をもって書を送り、断食と悲しみのことについて、ユダヤ人モルデカイと王妃エステルが、かつてユダヤ人に命じたように、またユダヤ人たちが、かつて自分たちとその子孫のために定めたように、プリムのこれらの日をその定めた時に守らせた。エステルの命令はプリムに関するこれらの事を確定した。またこれは書にしるされた。
 
アハシュエロス王はその国および海に沿った国々にみつぎを課した。彼の権力と勢力によるすべての事業、および王がモルデカイを高い地位にのぼらせた事の詳しい話はメデアとペルシャの王たちの日誌の書にしるされているではないか。ユダヤ人モルデカイはアハシュエロス王に次ぐ者となり、ユダヤ人の中にあって大いなる者となり、その多くの兄弟に喜ばれた。彼はその民の幸福を求め、すべての国民に平和を述べたからである。

こうして、ハマンの悪しき計画は、ハマン自身の頭上に返され、ハマンは恥を受けて命を失い、ハマンが根絶やしにしようとした民は喜びに溢れ、ハマンが踏みつけにしたモルデカイは、王に次ぐほどの高貴な地位を得た。ハマンの子供たちは、殺害された後で、木にかけられたのかも知れないが、「木にかけられる」とは、その者が呪われることを意味する。エステルはハマンの家系が呪われていることを神と人との前で示すためにそれを求めたのである。

エステル記におけるこのような記述を指して、「キリスト教は残酷だ」「だから一神教はダメなんだ」と述べようとする人々がいる。ハマンがユダヤ人を殺害しようとした計画は悪いにせよ、その報いとしてハマンやその残党が殺される必要が本当にあったのかと異議を唱える人々もいれば、中には「ハマンとその子たちが可哀想」などと同情論を唱える人間もいるかも知れない。

しかし、そのような考えこそ、キリスト教にはバランスが足りないなどと述べて、「人間にやさしいキリスト教」を作り出すために、聖書にはない「何か」をつけ加えて、キリスト教を異端と混ぜ合わせて混合宗教を作り出そうとする考えなのである。そこから、カルト被害者救済活動なども生まれて来たことを思うべきである。

要するに、カルト被害者救済活動とは、(彼らに言わせれば非常に残酷かつ偏った)キリスト教の救いから「除外」され、「被害」を受けた可哀想な自称被害者たちを、何とかして教会に取り戻し、救いに戻してやろう、という人間的な思いから始まる。

神の選びを自ら退け、信仰を捨て、御言葉に服することをやめ、教会の敵にまでなった人々が、神に従うことをやめた自分の弱さを憐れむがゆえに、自分は正しく、神の判決こそ間違っている、非常識なのはキリスト教だ、と考えて、キリスト教に不服を述べ、キリスト教を人間の観点から罪定めするところから、この活動は始まっている。

そのようにして、人間の掟を神の掟以上に高く掲げる人々が、神の救済の対象になることは決してない。なぜなら、彼らは自分自身の罪を決して認めず、悔い改めをも拒んでいるからである。彼らは人間(自分自身)に同情するあまり、罪の悔い改めなくして赦しもないという初歩的な聖書理解をさえ完全に見失い、自分自身の罪をあたかも聖なる要素のごとく掲げているのである。

このように聖書の救いに悪質に対抗する考えを持つ人々が、神の救済の対象となることは決してなく、彼らが聖書の御言葉を曲げ、御子の救いを拒んだ者たちとして罰せられるのは避けられない。彼らを裁くのは、彼ら自身が掟として掲げているこの世の常識であり、この世の法である。彼らは自分たちが人を裁いた基準で、自分自身が裁かれることになるのである。

エステル記は霊的な戦いの絵図であり、神の民の殺害を望むような人々には、その計画が彼ら自身に跳ね返ることをよく示している。この法則は昔も今も決して変わらない。

だから、読者らは、この先、カルト被害者救済活動の支持者らに起きることを、よくよく見てもらいたいと思うのだ。なぜなら、こうした出来事の背景には、霊的な法則が働いており、残酷なまでに冷徹で動かせない結果が現れるからだ。

カルト被害者救済活動の支持者らが、神の民の前で、己が家、家族の人数、子供たちの数、支持者の数、財産、高い職業的地位などを誇ったことが、この先、どのように呪わしい形で彼ら自身に跳ね返るか、よくよく見てもらいたいと筆者は思う。

バビロンは、花婿なるキリストが来られる前に、すでに夫を得て、富んでしまっていた女であった。いや、それは夫というより、数々の愛人と呼んだ方がふさわしい。なぜなら、結婚の約束がないのに、バビロンは愛人たちに早々に身を売ったからである。

だが、ここで言う「バビロン」とは、神に逆らう人類全体を象徴しており(カルト被害者救済活動のような反聖書的な思想体系も含まれる)、バビロンの「愛人」とは、霊的には、この世の目に見える事物を指す。バビロンは孤独や貧しさを嫌っていたがゆえに、キリストが来られるまで辛抱強く一人で待てなかった。彼女は花婿を待つことをやめて、花婿との約束をたがえて、手っ取り早く愛人に身を売り、その報酬として、女王のように豊かになり、孤独とは無縁の享楽的な生活を送った。

だが、もし彼女が、自分はキリストを待てなかったので、愛人に身を売ったのだと自ら認めていれば、彼女の罪はまだ軽かったかも知れない。バビロンの最も忌まわしい罪は、キリストへの貞潔を失っていたにも関わらず、自分はキリストの花嫁にふさわしいかのように振る舞い、真にキリストを待つ民を迫害しながら、嘘をつき続けた点にある。彼女は、自分の心のねじ曲がっており、不誠実で、嘘つきであることをよく知っていたので、自分の心の醜さを隠すために、貞潔にキリストだけを待っている聖徒らを蔑み、聖徒らに罪を着せて悪しざまに言い、自分の高い地位、財産、愛人や取り巻きの数、子供の人数などを誇りながら、自分だけは苦しみや災いに遭わなくて済むと豪語して、聖徒らが御名のゆえに味わっている孤独や貧しさや苦難を蔑み、エクレシアを踏みつけにして嘲笑ったのである。

その結果として、神はバビロンにしたたかに復讐された。バビロンの罪の中には、エクレシアへの蔑みや嘲笑、冒涜の罪も、当然ながら含まれている。バビロンに対する報復は、聖書において決定済みの事項であるから、誰にも覆せない。彼女が人前で誇った数々の宝が、どのように一つ一つ、彼女から奪い取られ、消え去って行くかを見る時、バビロンが聖徒らの苦難を嘲笑うことの罪深さを、誰もが思い知ることができるだろう。

律法によってはだれも神の御前で義とされないことは、明らかです。なぜなら、「正しい者は信仰によって生きる」からです。

 律法は、信仰をよりどころにしていません。
律法の定めを果たす者は、その定めによって生きる」のです。

キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。「木にかけられた者は皆呪われている」と書いてあるからですそれは、アブラハムに与えられた祝福が、キリスト・イエスにおいて異邦人に及ぶためであり、また、わたしたちが、約束された”霊”を信仰によって受けるためでした。」(ガラテヤ3:11-14)

このように、私たちは律法(人間の掟)によって生きる者ではなく、信仰によって生きる義人である。そして、私たちのためには、すでに呪いとなった木にかかって下さった方がいる以上、私たちを呪うことのできる存在は誰一人としていない。神の御怒りと裁きは、かえって神の子供たちを呪い、冒涜する者たちに注がれる。

カルト被害者救済活動の支持者らは、聖書の御言葉を曲げた自分たちに、当然の裁きと報復が待っているという事実を見たくないがゆえに、聖徒らの証の言葉に猛反発しているだけである。しかし、彼らが何を言ってみたところで、決定は変わらない。彼らへの裁きがどうなるかは初めから確定している。なぜなら、律法によっては義とされる人は誰もいないからだ。彼らは自分たちが聖徒らを裁こうとして振りかざした厳しい基準で、自分自身が裁かれて終わるだけである。
 
ハレルヤ。
 救いと栄光と力とは、わたしたちの神のもの。
 その裁きは真実で正しいからである。
 みだらな行いで
 地上を堕落させたあの大淫婦を裁き、
 御自分の僕たちの流した血の復讐を、
 彼女になさったからである。

 「ハレルヤ。
 大淫婦が焼かれる煙は、世々限りなく立ち上る。」(黙示19:1-3)

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ひとこと

神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)

☆☆みなさまへ☆☆
当ブログに対して長期で行われている嫌がらせ事件は、只今、刑事事件として捜査が進んでいますが、某所で悪質な記事やコメントの投稿が続けられているため、犯人に関する重要情報をお持ちの方は、ぜひ神奈川警察署刑事2課へ通報ください。当ブログに関する物騒な記事やコメントを見つけられた方もどんどん通報して下さい。

メールの提供、写真、個人情報の提供を大いに歓迎します。特に、直近になされているコメントについても、投稿者の個人情報(所属教会、氏名、勤務先情報、連絡先)をご存じの方は、ぜひ詳細にお伝えくださいますよう。情報源を明かすことはありませんのでご安心下さい。県警ではなく、神奈川署ですのでお間違いなく。045-441-0110

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