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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

賢い花嫁と愚かな花嫁の区別―キリストを追求するのか、自分自身を追求するのかが生死を分ける

 今日、キリスト教徒の集まりが、概して、日曜礼拝を一つの頂点として、主義となり、形式となり、規則となり、組織論となり、人間を束縛する枷となって、まことの命の現われを阻んでいる。キリストのまことのいのちを形式によって把握することはできず、それにも関わらず、そのような方法が主流となっているところに、大きな逸脱がある。
 
 だが、そのように抜け殻に過ぎない形式が主流となった背景には、神を信じる人々が、キリストご自身のみを純粋に追及することをやめて、自分自身を高く掲げるようになり、真に代価を払ってキリストに従っていないのに、自分たちの集まりが、あたかもキリストの花嫁であるかのように見せかけるようになったことが挙げられる。

  ある人々は、そのようにキリスト教界がバビロン化したことを糾弾し、「何がエクレシアではないか」を暴くことに熱中している。だが、キリストのまことの命とは、決して、”アンチ・テーゼ”にはとどまり得ない”何か”であるため、どれほど偽物を定義し、暴露しても、それによって本物を生み出すことはできない。

   では、一体、エクレシアとは何なのか、と問うても、それを誰もが分かるように説明することは不可能だ。その本質をまずは自分自身が個人的に体得しなければ、それが何であるか、決して誰にも分からず、形容もできないのが、エクレシアなのである。
 
 多くのクリスチャンが、教会とは、毎日曜日に、同じ地域、同じ時代を生きている者同士が、互いに顔を合わせられる場所に集まって神を礼拝するもの、もしくは、霊的に同じ理解に達している者同士が集まり合うもの、と思っているが、それは途方もない勘違いである。

  また、ある人々は「自分たちこそエクレシアとは何かを知っている」と豪語するかも知れないが、本当にその人がエクレシアの一員であるかどうかを知っておられるのは神ご自身のみである。

  キリストによって新しく生まれ、この新しい命によって生かされる個人個人、またその個人個人の交わりが、集合体としてのエクレシアを形成している。だが、エクレシアは時代を超え、物理空間を超える霊的構成体であるため、必ずしも、この世の同じ時空間を共に生きて、同じ理解を共有している者同士が、互いに顔を合わせ、接触できる形で集まり合うという性質のものではない。
   
 幽閉されていたガイオン夫人や、投獄されていたパウロや、迫害や監禁の中にあった聖徒らは、他の兄弟姉妹と物理的に接触が不可能となっても、依然として、エクレシアの構成員のままであった。しかも、黙示録などを参照するならば、エクレシアは、キリストのまことの命によって新しく生まれ、御言葉に忠実であった聖徒らの時代を超えた総体を指していることが分かる。

 このように、エクレシアはとらえがたく、キリストの命を実際に生きることなくしては決して理解することもできない性質のものであるが、それでも、求めなさい、そうすれば与えられます、と聖書にある通り、私たちが心の底から真剣に求めるならば、必ず、神は誠実にそれに答えて下さり、エクレシアとは何かということをも、啓示して下さるだろう。

  だが、忘れてはならないのは、キリストと共に生きることなくして、キリストの命を味わい知ることは誰にもできない相談だということである。
 
 そこで、キリストを二の次にして、エクレシアを第一に追い求めることには、重大な罠がある。私自身、バビロン化したキリスト教界を脱して、真実なエクレシアを追い求める過程で、常に警戒しなければならなかったことがある。それは、あまりにも多くのクリスチャンが、キリストの御名による兄弟姉妹の集まりを追い求めると言いながら、そのうちに、いつの間にか、追求の対象が、自分たち人間の集まりへとすり替わり、キリストではなく、自分たちの集まりを賛美することが最終目的となって行ったことである。

 主ご自身を切に追い求めると言っていたクリスチャンが、いつの間にか、キリストを退け、「自分たちの集まり」を美化し、肯定し、賞賛し始める。そして最後にはついに、それだけが絶対的に正しいかのように言い始め、そこへ信徒らを拘束し、その団体を離れた信徒を悪魔化したり、断罪するのである。このような堕落は、組織化された礼拝だけでなく、組織化されないクリスチャンの集まりにも同様に起きうる。
 
 私たちが第一に求めるべきものは、あくまで神の国とその義、であって、人間の集まりではない。人間の温もりの中で得られる安心感や、自分たちの集まりを賛美、権威化し、自画自賛の根拠を得るために、エクレシアを利用することは誰もできない相談である。

 そこで、たとえある日、一人のクリスチャンが主に出会って、自分がエクレシアの一員であることを知ったとしても、そのクリスチャンが、ただ主ご自身だけを切に求め、主お一人だけに心を向けることをやめて、自分自身の姿を見つめてそれを賛美し始めた瞬間に、彼がエクレシアだと思っていたものは、ただちに腐敗し、バビロン化し始める。

 私はそのことを深く警戒しており、そのような混合物を求めているのではない、ということを何度でも断っておきたい。

 だが、私が2009年に横浜に来て後、(むろん、それ以前に属していたキリスト教界においては言うまでもないことであるが)、遭遇したすべての出来事は、「エクレシアのバビロン化」と呼んで差し支えない現象ばかりであった。これは今日のキリスト者が遭遇している、想像を超えるほどに大きな危険であり、誘惑であると言える。
  
 一旦、集まりがそのような腐敗や混合を受け入れてしまったならば、その交わりが回復される見込みはほぼゼロであり、やがてそれは偽物のエクレシアとして神の敵と化すだけである。

 そこで、我々は、ある集まりがバビロン化している事実を見わけた瞬間に、抜け殻となった組織や団体を離れ(エクソダスして)、キリストのみを追い求め、主のみに従うために、霊的にまだ見ぬ地へ向かって歩いて行くことが必要となる。

 バビロン化しつつある組織にとどまって、それを是正することはむなしい相談である。そうした試みには全く見込みがない。

 こうして、当初は純粋に神を見上げていたと思えた交わりであっても、時と共に、腐敗堕落して行くなら、そこをエクソダスせねばならず、その過程で、かつては純粋に主に従うことを追求し、人間的な面ではすっかり意気投合していたような兄弟姉妹とも、決定的に道が分かれてしまうことは何度でも起きる。

 多くの人は、そういった離反、エクソダスが行われた過程を見て、「あの人は他の人とうまくやれなかったので、あれやこれやの団体を出たのだろう」と憶測したり、「リーダーにつまづいたのだろう」などとささやいては、その団体は悪くないが出た人に非があるのだと言っては、人間の集まりや群れの中に、あたかも真実があるかのように考え、自分を慰めようとする。
  
 そうした集まりが、交わってはならないものと混合したがゆえに、主のみに従うために、人々が出て行ったのだと理解する者は非常に少ないだろう。

 だが、事実は、多くの場合、そのような単純なものではない。そして、いかなる憶測が生まれようとも、信徒がキリストのみを主人として崇め、従うためには、それが不可能になるほど、被造物に過ぎない人間を高く掲げるようになったバビロンとの混合物としての集会からは、出る以外に手段は残されていないのである。
 
 このように、エクレシアを追求することは、キリストのみを追求し、キリストのみに従うことなくしてはできないため、それは決して人間との交わりを第一として生きることとは相容れず、その点で、人間の交わりを美化することとも異なり、その点で厳しく、険しい道である。

 だが、それも当然であろう。聖書の中で、主イエスは、賢い花嫁と愚かな花嫁のたとえを語られているが、そのたとえにより、花嫁と呼ばれるものが、すべて主の目にかなう存在ではないことがはっきりと示されている。

 花嫁たるものが、花婿だけを一心に見つめることをやめて、花婿が来ないうちに、自分の生活の安寧を打ち立てて満足し、自分の美や賢さを見て酔いしれ、自分の地位は安泰だと思い込み、そこに安住して自分の利益を追求し、自分の栄光を求め始めるならば、その花嫁の心には、もはや花婿は慕うべき存在と映らず、かえって己が権威と栄光を打ち立てるための名目だけの存在となろう。そのような花嫁は、花婿が来たときに、もはや花嫁とは認められない、と言われて退けられるだけである。

 そうなる危険は、形骸化したキリスト教界のみならず、エクレシアを追求するすべての兄弟姉妹に存在する。他者の堕落や腐敗を非難することはいとも容易であり、キリストの名を冠しながらも、キリストの香りを一切失った組織を数限りなく列挙することは容易であるが、神はあくまで一人一人の心に問いかけられ、一人一人の行いに応じて報いられる。

 そこで我々は改めて、キリスト者が追い求めるべきは、花嫁たる自分の栄光ではなく、花婿たるキリストの栄光であるということを、心に焼きつけておかねばならない。人に悪しざまに言われたくないという恐怖感から、あるいは、人とのつながりを失いたくないという恐怖感から、バビロン化した集会にとどまっていても、良いことは何もない。いずれはその崩壊に巻き込まれるだけである。そのような交わりを改善することは、諦めるべきである。

 むしろ、聖書では、愚かな花嫁たちに油を分けてやったがために、彼女たちの怠慢に巻き込まれ、永遠に至る栄誉を失ってはいけないことが警告されている。自分が受けるべき栄冠を失わないように注意を払わなければならないのである。
 
 神の御前での自分の心の透明性、苦難や恥をも厭わず、キリストに従う御言葉への忠実さ、自分の栄光でなく、キリストの栄光だけを求める貞潔さ、といったものが、今日のクリスチャンにはどれほど欠けているであろうか。
   
以下は、オースチンスパークスの「土台のある都」 第八章 都の明かり―命と証しの透明性 (1)から。

聖書朗読:黙二一・一〇~一一、一八、二一、二二・一、ガラ四・二五~二六。

 「透明な」というこの言葉は、これらの節の中に一度ならず現れます。また、例えば「純粋な金」「透明なガラスのような」のように、その同義語も出てきます。これらの言葉は光の観念を示唆します。これらの言葉は、天から出て神から下って来る天のエルサレムに関して述べられている光と関係しています。その明かりは高価な宝石のようであり、碧玉のようです。

 主の天的な民の光について述べるにあたって、私たちは再びとても厳粛で、深刻な、大切な特徴に触れることにします。その特徴には、それに関する途方もない歴史があります。主の民の歴史、そして霊の命の歴史はすべて、光と暗闇、真理と虚偽、純粋さと姦淫・混合、透明性と曖昧さ、開放性と秘匿性の歴史です。この長い歴史を表現するのに他の多くの言葉を用いることができます。この歴史がこれほど長く、これほど多彩なのは、すべて敵の執拗な絶え間ない試みのせいです。敵は、神からのものを疑わしいもの、不確かなものにしようとしてきましたし、絶対的真理、絶対的純粋さ、絶対的透明性というその途方もない力をそれから奪い去ろうとしてきました。

 キリスト来臨の遥か昔に、サタンはこれらのバビロン的要素をこの地上に広めていました。これらのバビロン的要素は、教会が霊的衰退・弱さの状態に陥る時をひたすら待っていました。それはこの霊的団体に襲いかかり、その命を吸い取って損なう寄生虫となる機会をつかむためです。ですから、新約聖書の外に移る前にすでに、霊的に衰退した状況の所では、バビロン的特徴、祭司制度、聖職者階級制度、形式主義、儀式主義、他の多くの事柄――それらはバビロンに由来するものであり、オカルト、秘教、美学の中に見られます――といった状態であることがわかります。これらの観念は今や、ローマの体系全体の総計であり本質です。これらのものはみなバビロンから来たものであり、教会が衰退するのをこの世で待っていました。そして、この衰退が起きるやいなや、教会を掌握して侵害したのです。それらはみな、黙示録の最初の諸章の中に見出されます。また、他の箇所にも、奥義的バビロンのこの宗教性の数々の要素が見い出されます。それらの目的は、直接的・即座にキリスト教を撲滅することや、教会の存在を消し去ることではなく、教会の立場を神の御前で曖昧なものにするよう様々なものを混合させることでした。それは、神が教会をもはや御自分の純粋な花嫁と認められなくなるためでした。


(2009年の記事「エクレシア この不思議なもの」を加筆修正)
  

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