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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

神に疎外された者たちによる神への復讐としての「エクレシア殺し」

・「イゼベルの霊」(被造物崇拝)による歪んだ支配がグノーシス主義者の心にもたらす尽きせぬ怨念と復讐心

さて、ようやく本題に戻ろう。当ブログでは、東洋的な「母なるもの」を神とする母性崇拝の思想は、グノーシス主義的被造物崇拝に起源があることを論証して来た。 

グノーシス主義とは、唯物論の教えでもある。なぜなら、この教えは聖書とは反対に、見えるものが、見えないものではなく、見えるものから出来たとしているためである。

聖書の秩序は、次のように言う、「信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです。」(ヘブル11:3)

グノーシス主義は聖書の唱えるこの秩序をさかさまにする。グノーシス主義は、まず第一に、世界の創造を、「神の言葉」によるものではなく、神が自分自身の像を水面に映し出すようにして、自らの「似像」を造ることによって始まったとしている時点で、「目に見えるものが見えるものからできた」かのように聖書の秩序を壊している。

グノーシス主義とは、父なる神がすべてを創造し、支配する方であるという原則を逆転させて、被造物に過ぎない者が、父なる神の神聖を盗み取ることで、被造物自身が神となって、父なる神を被造物の欲望に従わせようとすることを正当化する教えだということを見て来た。

そこで、我々は、鈴木大拙がしきりに説いていたように、「母を守る」ことを至高の価値とする東洋思想の考えの根本にあるのも、グノーシス主義であり、そこで言われている「母」とは、被造物全体を指しており、要するに、人類を指しているのだと理解することができる。

結局、東洋思想における「母を守る」という思想は、グノーシス主義の言う「ソフィアの過失を修正する」ことと同義なのである。つまり、それは神ご自身から、神のご性質を不当に盗もうとした悪魔と、その悪魔につき従って堕落した人類の欲望を正当化することに、人類は全生涯を捧げて生きよ、という悪しき思想なのである。

キリスト教を知らず、東洋思想の中だけで育てられた人間は、無意識のうちに「母を守る」ことを至高の概念のように考えて生きているため、このような考えが罪であることを知らない。

だが、クリスチャンとなっても、未だそうした思想から抜け出せない大勢の人々が存在する。彼らは無意識のうちに、人類を至高者のように考える被造物中心の思想に従っているため、クリスチャンを名乗っていても、実際には、神を人間の欲望を叶える道具とし、人間の栄誉を保ち、人間が恥をかかなくて済むことだけを第一として行動する。

そして、聖書の御言葉に基づき、人間の悪なる本質を明らかにするような言説を見つけると、憤激して立ち向かって来ることもある。

このような人々は、父なる神の目に、唯一正しいと認められる存在が、キリストだけであるという事実を認めようとせず、キリストだけに従うと言いながらも、同時に、キリストに匹敵する「誰か」を担ぎ上げ、その人間を宗教指導者とし、神のように栄光を帰しながら、その人物を拝み、誉めたたえる。

最後には、その人物を栄光化するだけでなく、その人物に従っている自分自身をも、神だと宣言して誉め讃えるまでに至るのである。

そういうことは、教祖を再臨のキリストと同一視する異端の宗教団体だけで起きることだと考えるのは浅はかである。目に見える人間を神の代理人のようにみなし、信徒にまさる階級であるとして、ほとんど絶対化している牧師制度は、教祖を再臨のキリストとして拝む宗教と実質的に何も変わらない。

だからこそ、異端の宗教団体で起きているのとほぼ変わらない腐敗した現象が、キリスト教界でも起き続けているのである。それはプロテスタントに限った話ではなく、カトリックも同様である。

そういう問題はすべて、彼らが根本的に人間の本性を偽り、人類について美化されたフィクションを作り出してこれを教会に持ち込み、その幻想のフィクションの象徴として、現人神のような宗教リーダーを作り出し、その人物を拝み、褒めたたえることにより、人類の欲望を賛美しているために起きているのである。

私たちは、先の記事で、大田俊寛氏がグノーシス主義における「父なる神」の概念はフィクションであるが、「父とはフィクションを創設することによって、人間社会を統御する者である」と述べ、「フィクションとしての父」が、家制度の基礎となり、共同体社会の基礎となり、都市国家の基礎となって行ったと説明していることを見て来た。

聖書を参照する限り、私たちは、人類には神と悪魔という二種類の「父」が存在することを見て取れる。イエスは偽善的なユダヤ人たちに向かい、彼らは悪魔を父として生まれた種族であるとはっきり指摘された。

「わたしの言っていることが、なぜ分からないのか。それは、わたしの言葉を聞くことができないからだ。あなたたちは、悪魔である父から出た者であって、その父の欲望を満たしたいと思っている。悪魔は最初から人殺しであって、真理をよりどころとしていない。彼の内には真理がないからだ。悪魔が偽りを言うときは、その本性から言っている。自分が偽り者であり、その父だからである。<略>神に属する者は神の言葉を聞く。あなたたちが聞かないのは神に属していないからである。」(ヨハネ18:43-47)

だが、ここで、悪魔を父として生まれたと指摘されたユダヤ人たちは、地上的な自分の生まれに大いなる誇りを持つ人々であった。彼らはアブラハムを父祖に持つ選ばれた民であり、それぞれ立派な出自を持っており、自分の家系図について大いに誇るところがあっただろう。他方、それに比べ、異邦人たちは、選民でないため、初めから救いに縁のない人々として蔑まれていた。

ところが、イエスは、生まれながらの出自がどれほど由緒あるものであれ、さらに行いの上でも、律法を落ち度なく守っていたとしても、信仰がないユダヤ人たちは、悪魔を父とする民であり、悪魔の欲望を満たすためにしか生きていないと宣告し、ユダヤ人たちが最もよりどころにしている地上の由緒ある生まれを根こそぎ否定されたのである。

こうした記述からも、我々は、グノーシス主義が言う「フィクションとしての父」とは、本質的に悪魔を指しているとみなせる。イエスが述べた通り、悪魔は「偽り者」であって、「彼の内には真理がな」く、「悪魔が偽りを言うときは、その本性から言っている」ためである。まさに「フィクションとしての父」という呼び名がふさわしい。

しかし、聖書の父なる神は、「わたしはある」と言われる方であり、フィクションとしての父ではない。すでに述べたように、聖書の父なる神は、ご自分の子供たちが誰であるかをちゃんと見分け、ご自分の子として受け入れた者に、父として「宣誓」をされる。イエスがバプテスマを受けられた時に、神はイエスがご自分の心にかなう子供であることをはっきりと他の者にも分かるように示されたのである。

しかし、グノーシス主義の「父」はもともとフィクションであって、お飾り的な存在でしかないため、決して我が子が誰であるのかを、人前ではっきりと宣言することなく、それを良いことに、「子」の側でも、好き勝手に「父」の権威を濫用して、詐称に詐称を繰り返す。

「万世一系」などとされる天皇家に関する神話も同様で、神武天皇などと言う存在は、学術的にも実在性が認められていないようだが、こうした神話を継承しようとする勢力から見れば、重要なのは、実在性が認められるかどうかという議論や、生物学的な血統が証明されうるかといった問題ではない。

ただ「神聖なる始祖」の威光を代々継承するために「家」制度が続いて来たのだという「神話」が維持されることにより、その「家」のルーツが正当化され、権威づけられ、栄光を失わなければそれで良いのである。

当ブログでは、かつて「国体の本義」を通して、国家神道においては、「生み生まれるという親子の立体関係」がほとんど絶対視されており、その「生み生まれる親子関係」に基づいて、臣民と天皇との関係が定義されていたことを述べた。

このような親子関係は、地上における「生み生まれる親子関係」を指しているとは言っても、文字通りの生物学的な絆を指すのではない。そこには大いなるフィクションが混じり込んでいるのであって、そこで重要なのは、生物学的な血統が証明されるかどうかではなく、たとえその「親子関係」が虚構のものであろうと、「神聖な始祖」から「神聖な火花」を受け継ぐ「家制度」が存続して来たという「フィクション」が維持されることが肝心なのである。

さらにそのような神話に基づく家制度が、「一大家族國家」として、国家レベルにまで高められたのが戦前の国家神道である。

こうして、国家レベルで「万世一系の天皇家」というフィクションが作り出され、それと並行して、国民レベルでは「ご先祖様」を「神聖な始祖」として崇拝する「家制度」が存続した。

しかしながら、こうした神話が社会に何をもたらしたかは明らかである。グノーシス主義が「父とは、フィクションを創設することによって、人間社会を統御する者」と主張するのとは裏腹に、そのような壮大なフィクションによって、人間社会が統御されたり、秩序が保たれることはない。逆に、国家レベルにまで膨らんだ虚構の神話は、大勢の人々を破滅に巻き込みながら、最後には風船のように弾け飛んで消えてなくなったのである。

こうしたグノーシス主義的な神話は、国家神道や、先祖崇拝に基づく家制度のみならず、王権神授説や、国民全員の負託によって国家権力が出来たという現代社会の国家観などにも、共通して流れていることであろう。

要するに、この世には、時代を超えて常に人間存在に意義を与え、社会のヒエラルキーを成り立たせるための何らかの「神話」が存在しており、要するに、現実がどうあれ、この世全体が、悪しき者の支配下にあって、偽りの父である悪魔が作り出す「壮大なフィクション」によって、様々な権威づけがなされ、それによってあたかも社会が「統御されている」かのように、見せかけの秩序と幻想が保たれているという事実は、時代を超えて変わらないのである。

「わたしたちは知っています。わたしたちは神に属する者ですが、この世全体が悪い者の支配下にあるのです。」(Ⅰヨハネ5:19)

だが、そのようにしてフィクションに過ぎない神話の守り手となった人々には、虚偽を真実であるかのように告白し、先祖の罪をかばい立てするために辻褄合わせの嘘をつき続けて生きるという大いなる苦悩が降りかかる。

そのような「フィクション」に閉じ込められた人々は、一方では、家族の絆や、天皇と臣民の関係や、国家的なレベルで作り出された神話や、宗教指導者との関係や、独裁者から信任を得ていることなどを誇りとし、その関係を神聖なもののように誉め讃えながらも、もう一方では、「父なる神」を骨抜きにして自分を支配する「母」なる被造物に対する尽きせぬ憎悪と復讐心を無意識のうちに心に募らせて行くことになる。

もちろん、彼らには、自分が本当は「母」を憎んでいるのだという意識はない。自分が身を委ねているヒエラルキーや、それを成り立たせている価値観が幻想だという認識もなく、それに反逆する意図もない。だが、これまで書いて来たように、人類のアイデンティティは「喪失した父」を真に回復することによってしか見いだせないため、「父」を名目だけの存在として、その存在を骨抜きにし、「フィクション」にしてしまう「母」の存在は、決して「子」にとってためにならず、「母」の呪縛(被造物崇拝の呪縛)はかえって「子」を破滅に追い込むだけなのである。

すでに述べて来たように、目に見えるものを神とする「イゼベルの霊」(被造物崇拝)は、「子」を永遠に自立させず、自分の罪をかばうための道具として支配する。そこで、人類の罪をかばい立てするという無理な仕事を負わされて、その神話のために犠牲になって生きるしかなくなった人々には、自分は神に拒まれ続けて、「父」を喪失したまま生きねばならないという鬱屈した怨念がたまりにたまって行くのである。

何しろ、彼らが敬愛する「母」は、どんなに思いを寄せて仕えても、彼を「嬰児」のように扱い、道具として支配し、利用するだけで、決して自由を与えず、一人の人間としてのプライドをも認めない。

そうであるがゆえに、人類はそういう「母」を敬愛しているつもりでありながらも、その支配を受ければ受けるほど、「母への歪んだ愛」が、やがて本人の中で、憎しみと怨念と復讐心に変わっていくのである。
 
彼らは「母」と運命共同体として結ばれているため、その関係から抜け出ることができず、「母」に直接反逆することができない。そのため、彼らの憎しみと怒りは、本来、向かうべき「母」へは向かわず、「母よりも弱い女性」に向けられるという屈折した形を取ることになる。

一言で言えば、彼らの怨念は、自分自身を疎外し、「母」を脅かす「父」の存在へと向かい、ここに、グノーシス主義者による「神殺し」というプロットが生じるのであるが、目に見えない「父なる神」を殺すことは、人間には不可能なため、グノーシス主義者に残された手段は、「父なる神」の似姿が投影されている神の教会を破壊し、神の神殿である自分自身を破壊することだけとなる。

「イゼベルの霊」による支配に耐え切れなくなった人々の怨念は、まずは神に愛される神の子供たちへ向かう。すなわち、キリストの花嫁である「エクレシア」へと向かい、教会の破壊という形になって現れ、最後に、神の神殿として創造された自分自身へ向かい、「自分殺し」となって終わるのである。

ここで、当ブログでは、なぜ村上密や唐沢治や杉本徳久のようなカルト被害者救済活動の支持者が、キリスト教そのものを告発することをライフワークにして来たのかを思い出したい。しかも、彼らがとりわけ女性指導者や女性信者などを標的に攻撃をしかけて来たことを思い出されたい。

「イゼベルの霊」による支配は、東洋的な「情」による支配であるが、これはマザー・コンプレックスとも密接な関係があることは幾度か記した。なぜなら、「父」(男性)という存在が、知性に基づいてすべての物事に善悪の区別をつけ、秩序や規則によって支配する象徴であるとすれば、「母」(女性)は、すべてを善悪の区別なく慈愛によって包容する情意的な存在だからである。

一人のグノーシス主義者が誕生する背景には、このような「母性的な情愛による支配」が、「父性的な知性や規則による支配」に比べ、圧倒的に優位にある環境で育ったという事情があることは珍しくない。もう一度、鈴木大拙の言葉を通して、どれほど「母性的な要素」が東洋民族の心理の根本となっているかを振り返ろう。
 
 

「万物分割の知性を認識すること、これもとより大事だが、「その母を守る」ことを忘れてはならぬ。東洋民族の意識・心理・思想・文化の根源には、この母を守るということがある。母である。父ではない、これを忘れてはならぬ。

 欧米人の考え方、感じ方の根本には父がある。キリスト教にもユダヤ教にも父はあるが、母はない。キリスト教はマリアを聖母に仕立てあげたが、まだ絶対性を与えるに躊躇している。彼らの神は父であって母ではない。父は力と律法と義とで統御する。母は無条件の愛でなにもかも包容する。善いとか悪いとかいわぬ。いずれも併合して「改めず、あやうからず」である。西洋の愛には力の残りかすがある。東洋のは十方豁開である。八方開きである。どこからでも入ってこられる。

 ここに母というのは、わたしの考えでは、普通にいままでの注釈家が説明するような道といったり、また「ゴッドヘッド」といったりするものではないのである。もっともっと具体的な行動的な人間的なものと見たいのだ。しかし今は詳説するいとまをもたぬ。」
(『東洋的な見方』、鈴木大拙著、岩波書店、pp.13-14、太字、下線は筆者による)


このような「女性的な情愛による支配」は、母だけでなく、祖母からの支配という形で現れることもある。たとえば、杉本がブログで祖母から溺愛にも近い愛情を注がれて育った事実を記したり、長い間、親しい人々の間で「ちゃん付け」で呼ばれるなどして、ある種の子どもを喜んでいた事実を自ら記していることは興味深い。

杉本はこうしたことが、自分の心を圧迫し、束縛する枷となったという事実を認めていないのであろう。しかし、実際には、その記事が書き記された時、杉本は自ら三十代であったことを告白しているわけだから、その年齢になっても、まだ「ちゃん付け」で呼んでくれる人が少なくなったと寂しがったり、祖母に溺愛されて育った親族関係を強調するなどの行為は、大人の社会人である男性としては、相当に年齢不相応な子供っぽさを感じさせる行動である。だが、ペンテコステ・カリスマ運動の信者の告白には、これよりももっと年配の信者であっても、年齢相応の落ち着きが全く感じられない例が少なくないことはすでに述べて来た通りである。
 
このように、子供時代から「父性的な要素」よりも「母性的な要素」を重んじる環境の中で、無意識のうちに、「女性的なるものの」に心を絡めとられ、その代弁者として行動することを求められながら生きて人々の心の中には、本来であれば、父親をモデルとして作られるはずの、健全な自己像、揺るぎない自信、確固たるアイデンティティが喪失しており、「自分が何なのか分からない」という、不確かでコンプレックスに満ちた自己が形成されることが多い。

しかしながら、本来であれば、聖書に「それで人はその父と母を離れて、妻と結び合い、一体となるのである。 」(創世記2:24)とあるように、人間はまず、生み生まれるという、肉による家族関係を離れて、初めて一人前となるのであるから、父からも母からも離れねばならない。

この地上の人間社会においては、肉による自分の両親に心から満足している人はほとんどいないであろう。ある人々は、両親が優れた知性や美貌の持ち主でなく、億万長者でなかったがゆえに、自分が子供として受けられる恵みが不足していたと考えるであろう。いずれにしても、肉による親子関係は、いつも子供にとって不公平であり、それゆえ、大変に不完全なものでしかない。

聖書は、そのような肉による地上の親子関係に対して、信仰者は十字架を通して死ぬ必要性を説いている。そして、そのことは一般的に考えても、常識にかなっていると言えるだろう。人が一人前になるためには、父からも離れねばならないが、まず最初に離れねばならない存在が「母」である。まずは、母のへその緒から分離され、次に乳離れし、精神的にも、「母」を離れて新たな家庭へと旅立って行かねばならない。

ところが、この分離が上手くいかず、いつまでも「母」なる被造物とへその緒で結ばれ、「母」の子宮に閉じ込められるがごとく、嬰児扱いが続き、「生み生まれる関係」から脱することができなくなると、人は精神的に大人になることができなくなり、著しい幼児化が起きるなど、精神が歪められてしまう。

それは個人の家庭のレベルだけでなく、国家レベルでも起きうる。たとえば、臣民は天皇の「赤子」であると教えられたり、牧師夫妻を「霊の父・母」として、信徒はその「子」であるなどと教えを受けた人々は、目に見える被造物を「母」として、これとへその緒でつながれたまま、いつまでも分離することができなくなり、健全なアイデンティティを失ってしまうのである。

こういった形で、「母なるもの」に心を絡め取り、被造物崇拝から離れられなくなってしまった人々は、自分を優しく包み込み、すべてを許容してくれる慈愛に満ちた「母」こそが、自分の心を不当に抑圧し、正常な「父なる神」のモデルを失わせて、自分から健全な模範を奪い去ったなどとは疑うこともできないため、彼らの心の内に無意識に蓄積された憎しみや怨念は、「弱い女性たち」に向けられることになる。

その結果として、この種の自立できず、自信を喪失して、コンプレックスを抱える人々の多くは、常に弱みを持った女性を探し出しては、その女性たちを助けてやる風を装いながら、彼女の心を支配して、彼女たちから誉めそやされることで、自分の傷ついた自尊心を埋め合わせようとしたり、もしくは、自分たちから見て「格下」の存在のように見える女性たちを虐め抜いて抑圧することで、自分のコンプレックスや自信喪失を覆い隠そうとする。

このような形で、彼らは自分の心を抑圧し、支配して来た「母なるもの」に対する復讐を果たそうとしているのである。

だが、そこに、我々は「自分よりも弱い女性を抑圧し、罵倒・嘲笑することでしか、男性としてのプライドを保てない」という惨めな人格を見るだけでなく、より深い文脈において、そこには、以下に記すように、被造物の理想であるキリストの花嫁たる「エクレシア」を冒涜し、蹂躙することでしか、神の御前での自分の罪深さ、愚かさ、弱さ、醜さから目を背けることのできない人間の心理を見るのである。
 
 
・神に疎外された者たちによる神への復讐としての「エクレシア殺し」
 
グノーシス主義の「母性崇拝」は、被造物自身を高める教えであるから、それを受け入れた人間に、当初は、陶酔感や、解放感にも似た心地よい満足をもたらすかも知れない。東洋的な「母なるもの」は、人にとって、初めの頃は、自分を優しく包み込み、生かし、守り、養ってくれる生命の源のように見え、かつ、慈愛に満ちた理想像であり、憧憬の的と映る。

彼らは、その「母なるもの」の延長上に、自分が慕う女性美があり、自分の自立もあるのだと考えようとする。「母なるもの」を慕い、追い求めることが、そのまま、未来に理想的な「妻」を得ようとする願望へとつながり、自分が完全な存在になることへとつながるのだと考えようとする。だが、時が経つうちに、そのようなことは不可能であると分かって来る。

「母なるもの」に心を捧げるグノーシス主義者にとって、「母なるもの」の支配は、次第に重荷になって来る。彼は自分では「母」を敬愛し、そこに「最高の女性美」を見ているつもりでおり、憧憬の念を抱いているのであって、憎んでいるのではないと思うかも知れない。

ところが、どんなにその「母なるもの」を守って、離れずに生きても、実際には、いつまでも嬰児として扱われているという屈辱感が募るばかりで、「母なるもの」を追えば追うほど、ますます悔しさと惨めさを味わうことになる。

グノーシス主義における「母」は、一見、慈愛に満ちた存在であるかのように見えても、人の心を拘束し、支配するだけで、決して自分自身を彼に与えようとはせず、人を一人前の存在とも認めないため、グノーシス主義者の心の内側では、「母なるものへの憧憬」が、次第に「憎しみ」や「怨念」へと変化して行くことになる。

その変化の過程を、以前も引用した映画" Mishima A Life In Four Chapters The Criterion Collection] [1985] Paul Schrader "の中から、三島由紀夫の小説の『金閣寺』の主人公の言葉を引用して見てみよう。

 

「永遠(とわ)の美しさっちゅうもんは、怖いもんやで。どんどんどんどん大きなって、何もかも押しつぶしてしまうんや。」 「美しさはぼくの怨敵(おんてき)なんや。金閣寺が滅びん限り、とてもやないが、耐えられへん」


ここで主人公の言う「永遠の美」とは、鈴木大拙の言う東洋思想の「母なるもの」や、ゲーテの言う「永遠の女性」、老子の言う「玄牝」などと本質的に同じであるとみなせる。『金閣寺』の主人公は、金閣寺を「永遠の女性美」として崇め、金閣寺を守り、これを離れず、絶えず追い求めることで、自らの憧憬の対象との一体化を目指そうとしている点で、まさに「神秘なる母性」を至高の存在と崇める東洋思想の担い手であり、根本的にはグノーシス主義者であると言える。

ところが、三島の『金閣寺』の主人公は、吃音という障害ゆえに、自己に深刻なコンプレックスを抱えている。そのコンプレックスゆえに、主人公は、金閣寺という心の理想にはおろか、地上のどんな女性にも近付けない。

(*ここで言う吃音という問題は、より深く象徴的な意味では、人類の罪を示している。人類が罪ゆえに感じる恥の意識や、コンプレックス全般が、吃音の中に象徴されているのである。)

こうしてコンプレックスゆえに、どんな女性からも一人前とみなされることがなく、一人の男性として完全な自信を持てない主人公の苦悩は、金閣寺と関係において、究極的な形にまでクローズアップされ、凝縮される。金閣寺は彼にとって、最高の美の化身であり、女性美の究極的完成であり、彼はこれと一体化し、我が物とすることさえできれば、すべてのコンプレックスから逃れて、完全な存在になれるはずである。

いわば、金閣寺は、この主人公にとって、待ち望んだ花嫁のような存在であり、彼を一人前にしてくれる「妻」のような存在なのである。金閣寺が得られさえすれば、彼は不足だらけの卑俗で惨めな自己から脱して、真のあるべき男性となり、欠けたところのない、非の打ちどころのない一人前の完全な人間となれるだろうという予感を持っている。

戦中には、金閣寺が戦火にさらされ、破壊されたり、消失するかも知れない危険に直面していると考えることによって、この主人公は、自分が憧れている金閣寺も、自分と同じように、弱い存在として、共に受難を受けているのだと考えて心を慰め、金閣と一体になれずとも、騎士のように金閣を守ることによって、自分は金閣から必要とされているのだという誇りを持つことができた。

ところが、金閣の美は、戦火によっても少しも動かされることなく、この「永遠の美」は、地上の何物によっても影響を受けず、不動の美をたたえているだけで、戦争も含め、地上の一切の醜く、歪んで、不自然で、不完全なものを寄せつけない。

主人公が金閣寺を守ってやることによって、金閣寺に少しでも近づけるかのような幻想は、むなしく砕け散った。金閣寺はそれ自体が完全であり、独立しており、永遠に誰の助けも必要としておらず、まして、コンプレックスだらけで醜い主人公の存在など全く寄せつけず、初めから必要としていなかった。

そのことが分かり、主人公は打ちのめされる。金閣寺は常に完璧で、弱さのかけらも見せず、とりつく島がない。どんなに憧れ、熱心に追い求め、守ってやろとしても、主人公の手を冷たく振り払うだけで、彼にとっての「永遠の美」は、どこまで行っても、不完全な人間とは交わることがない。それはまさに人間を寄せつけない「サンクチュアリ」である。

金閣寺は、主人公の心を一方的に捕えることはしても、彼の側からの接近を許さず、金閣寺から彼に突きつけられる回答は、いつも「(あなたはあまりにも惨めで低い存在でありすぎるがゆえに、永遠の美には)値しない」という結論だけであった。

主人公は、自分が理想として拝んでいるものから絶えず「値しない」という宣告だけを突きつけられるという繰り返しに絶望する。金閣寺と一体化することによってしか、完全な存在になれないにも関わらず、金閣寺が自分を拒んでいることにより、その目的は永遠に達成不可能となっているのだ。

そうなっても彼は金閣という偶像を心の中から捨てることができず、そのせいで、ただでさえ、人前でもコンプレックスを覚えずにいられない上に、金閣寺のように完璧な美と絶えず比較されて、絶えず途方もない屈辱と惨めさを味わわねばならない。

ついに主人公は、自分にそれほどまでの耐え難い惨めさしか味わわせることのない金閣寺を憎しみの対象とみなし、「殺そう」と考える。自分の心を一方的に支配し、翻弄するだけで、決して、その存在を自分には与えず、常に自分とは比較にもならない崇高な存在として、高みにいて勝ち誇り、自分に疎外される惨めさと屈辱だけを味わわせる金閣寺を焼き払うことによって、彼は自分を拒み、惨めにさせるだけの「永遠の女性美」に対して復讐を成し遂げ、これを否定し、美醜の概念そのものを葬り去ることによって、それを乗り越えることができると考えようとするのである。

主人公は、寺という有限なる物質を焼き払うことによって、目に見えない「永遠の女性美」という、それまで自ら信奉して来た理想自体に復讐を果たそうとしたのであった。

彼は、言わば、「神殺し」のような作業に着手したわけであるが、正確に言えば、彼が破壊したのは神ではなく、神を入れるための「器」であり、「神の宮」である。

「宮」を冒涜し、破壊することによって、彼は、自分自身がそれまで「神」として拝んできた理想を否定し、それを否定的に乗り越えることで、自分自身が「神聖」となり、誰にも支配されることのない絶対的な主人になろうとしたのである。



三島由紀夫は、小説『金閣寺』の原文において、主人公による金閣寺へのこの放火という犯罪行為を、決して悪なる所業として断罪してはいない。小説は、主人公に厳しい報いの足音が近づいていることを知らせながらも、主人公の心に生じた何かしらの清々しい解放感を描くところで終わっている。

このことは、三島自身が、グノーシス主義者であって、この放火をどちらかと言えば、「解放」という側面からとらえていたことを意味する。そのような立場は、三島自身の最期にもよく表れている。

しかしながら、上記の映画は、ある意味では、小説よりも進んで、三島の描こうとした内面的な葛藤を、決して主人公の立場に一方的に肩入れすることなく、より客観的にとらえている。

この映画を観れば、それが決して主人公の放火をすがすがしい「解放」として描いたり、その行為に賛同することはしておらず、かええって三島自身の生きていた世界観の歪みをもそれなりに理解した上で、三島の人生に重ねて、この主人公の心に起きた悲劇と絶望を描き出そうとつとめていることが分かる。

この主人公は、金閣寺を葬り去ることによって、自分を苦しめている「被造物の理想像」から解放されようと考えたのだと言える。だが、逆説的に、彼が自分を疎外しているとして憎み、否定しようとした「金閣寺」は、彼自身の存在でもあった。

それは「神の宮」であるがゆえに、主人公が自分を殺すことと同義だったのである。むろん、物語は、主人公が金閣寺を焼き払ったところで終わっているため、その後、主人公が逮捕されて刑罰を受けねばならないとか、それによって主人公の人生は破滅し、金閣に身を捧げることだけが唯一の人生目標だった彼は、残る人生において、抜け殻同然となるといった事実は描写しない。

しかしながら、我々は、小説の枠組みを超えて、ここに不思議なパラドックスが存在しているのを見ることができる。つまり、金閣寺を焼き払うことにより、自ら神を「簒奪」し、「神」になろうと、「神の宮」の強奪と破壊行為に及び、「神殺し」を試みた人間は、結局、自分で自分の首を絞め、滅ぼすことになったというパラドックスである。

筆者は、三島由紀夫は無意識かも知れないが、この物語を書いた時点で、自分の最期を予告していたも同然だと考える。

聖書によれば、人はみな神の宮とされるために創造されたとあり、神の神殿を壊す者は、自分を破壊しているのと同じで、やがて自滅へ至るのである。

「あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなた方に宿っておられることを知らないのですか。もし、だれかが神の神殿をこわすなら、神がその人を滅ぼされます。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたがその神殿です。」(Ⅰコリント3:15-16)

むろん、聖書がここで「神殿」という言葉で指しているのは、直接的には、キリストへの信仰を有し、神の霊を内側に持っているクリスチャンを指すのであって、信仰のない人々を「神の神殿」であると呼んでいるわけではない。また、仏教の寺を、キリスト教における神の宮と同一視することもできない。

とはいえ、深い霊的な意味においては、人はみな神の宮となるべく創造されたのであって、どれほど堕落して、神から遠く離れて生きており、聖書の御言葉を信じてもいないにせよ、それでも、人に備わっている宮としての機能がすべて否定されるわけではないのである。

むろん、「神不在」の宮は、宮として機能しておらず、荒れ果てて死んだ器も同然であるが、それでも、あらゆる「宮」には、神の霊を入れる器という意味が込められているのであって、そこで、人が神の宮を破壊するという行為に及ぶことは、同時に、神の霊を入れるための器であり、神の宮となるべく創造された自分自身を破壊するという行為を象徴的に意味するのである。

だからこそ、『金閣寺』の主人公は、金閣寺を焼失させることによって、自分を苦しめていたコンプレックスの呪縛から解放されることはなく、かえって金閣寺と共に自分の人生を失うことになるのである。

彼は金閣寺の理想だけを否定して、その理想から神聖な要素を奪い、自分はこの「神」を否定的に乗り越えて生き残ったつもりだったかも知れないが、実際には、彼の人生は、金閣寺の焼失と共に終わったのである。

これと同様に、天皇を神として「生み生まれる関係」の中に、人間社会の理想を追求しようした三島も、彼自身の「金閣寺」に拒まれた結果、その理想を入れる宮であった自分自身を破壊するという行為に出ざるを得なくなる。天皇も、自衛隊も、三島の語る「理想」には耳を貸さず、彼は自分自身の理想から置いてきぼりにされたのであるが、その時、彼が選んだのは、自分は、自分の信じる理想に「値しない」という事実を直視することではなく、自分自身の存在を抹殺することで、その理想がもともと自分には達成不可能であって、自分はそこから疎外されているという現実から目を背けることであった。

三島が否定しようとした現実とは、彼がどんなに肉体を鍛え、研鑽を積み、崇高な理想を語っても、罪にまみれた人間の一人にすぎない彼には、決して自力では完全に至り着くことができず、どんな理想をも打ち立てることができないという事実である。むろん、三島だけでなく、三島が期待をかけたすべての人間がそれと同様なのである。彼らが望んでいる理想に「値しない」というのがあらゆる人間の出発点である。

しかし、『金閣寺』には、「永遠の女性美」との対比の中で自分が味わう惨めさやコンプレックスを受け入れることを拒み、かえって「永遠の女性美」を滅ぼすことで、自分の罪や弱さから逃れ、自分を義として、罪から解放されようとした主人公の姿が描かれている。

その主人公の姿は、かなりの程度、三島自身に重なる。彼は弱さ、罪、歪んだもの、醜いもの、不完全なものが本質的に悪であることを知り、その克服につとめながら、それを自力で自分から切り離すことができないと分かった時、自ら目指して来た「完全なもの」を否定することで、自己存在の不完全さを否定し去ろうとしたのである。

グノーシス主義がそれを信じた人間にもたらす結論とは、常にこのようなものである。

聖書が教える事実とは、人には生まれながらの自己のまま、キリストの十字架の死を介さずに、神に受け入れられることは決してないというものである。

人には創造された時点で、宮となるべき機能はあるかも知れないが、神がそこへ入って来られない限り、その宮は、単なる死んだ器でしかない。

人の生まれながらの自己がもたらす自覚は、自分は神から遠く離れ、神に拒絶されているという罪の意識だけであって、肉体を改造しようと、精神を改しようと、どんな方法を使っても、人がその罪威意識を自力で払拭して神に至り着くことはできない。

キリストと共なる十字架の霊的死を通って、初めて、人は「新しく造られた者」として神に受け入れられる神の子供とされる。

だが、それが達成されるためには、人がまず己が罪を認めて神の御前に悔い改めねばならない。自己の不完全さ、醜さ、愚かさ、弱さ、欠点、恥といったものを、自分に思い知らせる存在をことごとく退けることで、自分の不完全さから目を背けようとするのではなく、まずはそういうものが究極的には、すべて自己の罪に由来する当然の結果であるとして理解せねばならないい。

もちろん、吃音者を馬鹿にしたり、障害者を嘲ったりする人々の心が陰険であり、力の強弱によって人間の価値がおしはかられるこの世の社会の価値基準そのものが歪んでいるのであるが、だが、だからと言って、自分が暴力を行使して破壊活動に及ぶことによって「強者」の側に立てば、自己の不完全さから逃れられるかと言えば、そうではない。彼はその行為の報いとしてさらに大きな暴力に飲み込まれるだけであり、それでは終わりなき力の争いしか生まれるものはないのである。

人間の不完全さは、すべて究極的には人間自身の罪から来るものであって、神の御前に悔い改めて贖われることなくして、どんなにそれを不当な差別だと叫んでも、人ガ自分でそこから逃れることはできない。

「自分は差別された被害者だ!」などと叫んだり、自分の弱さをダシにして同情を乞うことで、自己正当化をはかることも、自己欺瞞でしかない。

ところが、自分の弱さが罪から来るものであることを認めず、自分に恥の意識をもたらすという理由で、完全なものを否定し、蹂躙、冒涜することによって、自分自身の罪から目を背け、あたかも自分が聖なる正しい存在になったかのように思い込もうとしているのが、カルト被害者救済活動の支持者のような人々なのである。

以上の映画では、三島とおぼしき人物が、幼少期から祖母の精神的な支配を強く受けて成長したために、祖母によって自分が体の弱い人間であると思い込まされ、それゆえ、人前で自信が持てなくなり、大人になっても、絶えず自分の弱さについて恥とコンプレックスを持たずにいられなくなった様子が描かれている。

そこで成長してからの彼は、体を鍛えるなど、様々な方法を通して、自己のコンプレックスから逃れる道を模索し続けたのだが、自分を一人の人間として認めず、永遠に道具として支配する「母なるもの」の支配こそが、そうしたコンプレックスをもたらした元凶であると思い至らなかったために、自分のコンプレックスの真の原因を見いだすこともなく、見当外れな方法でその克服を試みては挫折し続けるのである。

そうこうしているうちに、当初は、「祖母」や「母」という存在に限定されていたはずの、彼の心を支配する「母なる存在」は、やがて彼の中で無限大とも言える巨大なスケールにまで拡大して行き、「神話」となり、「天皇崇拝」といった国家レベルの思想にまでなって行き、耐えられないほどの重圧として、彼自身を押しつぶし、粉々に打ち砕くのである。

「永遠の女性美」なるものが、無限に拡大して、人間の心を打ち砕き、押しつぶしたのである。なぜそのようなことが起きたのかと言えば、彼が誉め讃えていた「永遠の女性美」はリアリティではなく、真のリアリティは、目に見える被造物の側にはなく、目に見えない父なる神の側にあったためである。それにも関わらず、影に過ぎない被造物を「本体」としたことによって、そのフィクションの鏡を見つめるうちに、フィクションが現実とされ、それに合致しない(値しない)彼の自己は奪い去られて消失したのである。

結局、東洋思想は、聖書が言うように、神と人との間に、罪による超え難い断絶があることを認めず、神と人とは本来的に一つであるとして、「神と人との融和」を唱える。そして、「すべてを慈愛によって包含する母」の存在を高く掲げる。

ところが、おかしなことに、そのような思想を実践に移そうとすると、その「慈愛に満ちた母」であるはずのものが、逆説的に、人類をことごく残酷に疎外し、自分の子供たちを「慈愛によって包み込む」はずが、ことごとく「値しない」という宣告を突きつけるのである。

「金閣寺」から疎外されたのは、主人公だけではない。天皇崇拝の思想を信じる三島も含め、は、どれほど多くの人々をこうした被造物崇拝の思想のために弾圧され、疎外されて、殺されたか数知れない。天皇崇拝は、すべての「臣民」を自分から疎外したとも言える。

このように、キリスト教の神が人間を疎外しているのではなく、神と人との断絶を認めず、地上の「生み生まれる関係」こそ、人間生活の根本であるかのように教えるグノーシス主義こそ、絶えず人間を残酷に疎外し続けているのであり、こうした思想を信じると、人は結果的に「父を喪失」するだけでなく、「母」をも喪失して終わることになる。「父なし子」であるだけでなく、「みなし子」にまでなってしまうのである。

彼らは自分たちのルーツを正当化し、自己を取り戻そうとして、かえってすべてのルーツを失い、自己をも失ってしまうという結果に至るのである。

繰り返すが、被造物は、本来は、キリストの花嫁たる教会となるために創造されたため、被造物それ自体では完全となることはできず、被造物は本体の影に過ぎず、そこにリアリティはないのである。

にも関わらず、被造物がリアリティであるかのように誉め讃え、人が己を神として、自力で理想状態へ至り着こうとすると、自己の尊厳、自己肯定感、健全な自己愛が持てなくなるだけでなく、最後には彼らの自己も消えてなくなる。

『金閣寺』の主人公が、寺を焼き払った行為の中には、自分の理想の否定だけでなく、神の宮を破壊する行為を通して、自分自身を否定し、さらに、そこには象徴的な意味で、贖われた被造物の総体である「エクレシア」殺しという悪魔の欲望も込められていると言える。

なぜなら、真の意味での「女性美」は、キリストの花嫁たるエクレシアにしか見いだせないからである。(東洋思想における被造物崇拝は、エクレシアの歪んだ摸造としてのバビロン崇拝と同一である。)

カルト被害者救済活動の支持者は、神の宮である教会を冒涜、破壊し、蹂躙すれば、キリストの花嫁から、神聖な花嫁たる性質を強奪して、我が物とでき、かつ、自分自身の罪や弱さからも目を背けられると考えようとした。

ところが、その試みは成らず、結果として、彼らの恥だけが残り、アベルの流された血が天に向かって叫ぶように、彼らが犯した行為自体が、彼らが最も人前で隠したかった自己の罪、恥、弱さの証拠となる。

彼らがどんなに自分を苦しめる「永遠の女性美」を否定しようとして神の教会に害を加えたとしても、それによって、彼らの罪がいささかも取り去られることはなく、ますます罪が増し加わるだけである。

アベルを殺し、エクレシアを破壊して、自分の罪の証人を目の前から消し去っても、それでも、自分の罪から逃れられないことが分かると、彼らはその事実から目を背けるために、次なる行動に出るしかなくなる。すなわち、神の神殿として作られた自分自身の破壊である。

エクレシアの破壊という行為に手を染めた人間には、例外なく、自分が目指していた究極の目的から疎外されて、自分を滅ぼすという結果が降りかかる。今、現実の物語のプロットは、この最後のステージにさしかかろうとしている最中である。

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