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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

舌を制御する(2)

筆者が当ブログに書いていることは、前の記事でジェシー・ペンルイスが書いていることとは一見真逆である。

ペンルイスは自分の体験について沈黙を守ることの意味を記している。

それに引き換え、筆者はここに信者間で遭遇したあらゆる事件、また、それによって自分が受けた印象、得られた教訓、といったことを赤裸々に書いている。しかも、その内容の多くは、人の目から見て心地良い、万人受けするような耳障りの良い話でないどころか、筆者自身の心をも含め、関わった人々の行動の真の動機と、心の内情を容赦なく暴き出すようなものがほとんどである。

このような話は聞きたくもないし、書かれたくない、という人は多いであろう。たとえ信者の世間であっても、世間はおそらくこのような内容に反発して、「あなたはあまりにも赤裸々に起きた出来事の印象、しかも、主観に基づいて書いているため、その内容は兄弟姉妹の心証を悪くし、結果的に、人を傷つけている。それは舌禍というものではないか」と言う人もあるかも知れない。

少なくとも、筆者が関わって来た兄弟姉妹の90%程度は、そのように考えて心証を害するであろうと思う。筆者のブログは、初めから彼らに不評であった。そして、信者であっても、場合によっては99%の人々には、以上のようにネガティブな印象を持ってしかこのブログは受け止められないであろうことは、百も承知で、筆者は彼らにとってあえて耳の痛い話ばかりを書き続けているのである。

しかしながら、以前、このブログを始めた頃には、筆者は巨大なバッシングを受けたばかりであったので、読者から不評ばかりをこうむるのは嫌だという防衛心理が働いて、相当に周囲の信者にも気を遣い、彼らにとって害にならないような内容だけを記すように心がけていたものであった。兄弟姉妹のブログを宣伝したり、彼らとの交わりを賛美したりしながら、人々と手を取り合って進んで行く道を模索していたのである。それを今、無意味で無価値な記事として、大々的に削除し、書き変えている。

残念なことであるが、ジョン・バニヤンの『天路歴程』のストーリーにも表れているように、キリスト者が本当に神だけに忠実に歩もうとしたとき、多くの道連れを見つけて来ることはできない。人々と手を取り合って進んで行こうとすれば、必ず、世の法則が働いて、罠に落ちてしまうことになるのである。
 
だから、正直に言って、「人を傷つけない」ために、周囲の兄弟姉妹の良いところだけを見て、彼らのための宣伝材料になるような、ヨイショ記事ばかりを書き続けることには、全く意味がない。たとえば、この世においても、国民は政治家を監視せねばならず、国民がその監視の役目を果たさず、政治家と癒着し、その太鼓持ちになっても仕方がない。にも関わらず、俸給をもらっているわけでもないのに、総理大臣のヨイショ記事を書き続けてみたところで、何になるのであろうか。

同じように、キリスト者は、誰の代表・代弁者として生き、発言し続けているのかと言えば、この世の利益の代表ではなく、神の利益の代表なのである。従って、キリスト者は決して人間の利益の代表者となってはならず、この世を擁護すべき立場にもない。それは関わる相手がたとえクリスチャンであり、クリスチャンの世間が相手であっても、同じなのである。

だから、「キリスト教の印象を貶めたくない」「兄弟姉妹の印象を貶めたくない」という信者の世間への遠慮から、人に媚びて歯に衣を着せれば着せるほど、その結果として、記事内容は真実から遠ざかるだけでなく、関わる全ての人間の利己主義を助長し、悪影響を及ぼすものとなっていくのである。

キリスト教の印象を貶めないことは重要であるが、だからと言って、人間の作り出した組織、人間の思惑などを無条件に肯定することがブログ記事の目的ではないし、信仰告白でもない。筆者の場合、何よりも、聖書の御言葉の正しさを立証することがブログ記事の目的なのである。

そもそも、聖書の御言葉は、人間の心の内にある罪を細部に至るまで照らし出す。そこで、多くの場合、御言葉はおのずと生まれながらの人間の名誉にとっては、極めて都合が悪いものとならざるを得ない。たとえクリスチャンであっても、アダムの命に生き、自分の罪を見たくないと思っている信者にとって、御言葉に照らされることは、非常に都合が悪い可能性があるのだ。

だが、「たといすべての人を偽りとしても、神を真実な方とせよ」と聖書が言うように、それでも、もし御言葉だけに忠実に生きようとするならば、どうしても、全世間を「偽りとする」ことを避けられない。神を取るのか、世間を取るのか、絶えず選択を迫られるのである。世人の友となろうとするなら、神に対しては敵対することになる。

たとえクリスチャンの知り合いが数多くいたからと言って、その兄弟姉妹が、神と同じほど頼りになることは絶対にないのである。真実な方は神ただお一人であって、人間の中には、誰一人として、真の意味で、頼れる者も、賞賛に値する者もいない。人間に栄光を帰そうとすると、たとえ相手が信者であっても、そこから悪しき様々な結果が起きて来ることになる。

だから、本当に心から、キリストのみに従って行こうとするとき、信者はどうしても、人間を賞賛し、人間に栄光を帰することをやめ、神にのみ栄光を帰するという厳粛な潔癖さを貫かざるを得ない。

たとえ信者間であっても、人間によって作り出される交わりを美化したり、賛美したりしながら、人間の威信を高めて行くことを目的に発言しようという誘惑を戒め、むしろ、人間の不真実さ、不誠実さ、頼りがいのなさ、変わりやすさ、自己中心、といった、できるなら目を向けたくない現実を、シビアに直視しなければならない。

にも関わらず、人前での評判や、人の理解や、支持を失いたくないばかりに、自分が「属している」信者の交わりを宣伝し、宗教行事を宣伝し、人の面目を決して傷つけることのない、世間にとって毒にも薬にもならないような記事ばかりを書き続けていると、結果として、ブログそのものの内容が堕落して信憑性を失って行き、聖書の御言葉の持つ本来的な鋭さからはほど遠いものとなって行くのである。そのように世と馴れ合っていると、それは全く聖書の神への信仰告白ではなくなり、最後には悪魔のツールと化して終わるだけである。
 
人間美化の土台の上に書かれたものは、たとえ人にとってはどんなに良い内容のように聞こえても、実際は、誰にとっても益にならないのである。どんなに人の集まりを美化する言葉を並べても、それは見知らぬ人たちには、ただつまらない自慢話としか受け止められず、しかも、どんなにそこで身近な人々を誉めたたえてみたところで、彼らは味方になるどころか、より一層、書き手を軽んじるようになるだけである。

自分が誉めちぎっていたはずの人々が、知らぬ間に自分の陰口や噂話に明け暮れ、裏切りに明け暮れ、以前よりもさらに、このブログを嫌いになって行く、といったことが起こるのみであろう。神を差し置いて人間を賞賛することには、百害あって一利なしなのである。
 
その上、もっとひどいことに、そのように人の顔色を伺えば伺うほど、あれやこれやの注文が以前よりももっと厚かましく書き手に向かって投げかけられるようになる。自分の周囲の人々が、ブログ記事内容だけでなく、自分の生き様、ものの考え方、交友関係などに、細部に渡るまでことこまかに注文をつけて来て、思い通りに思想統制しようと試みて来るのである。しかも、信者を名乗っている人たちが、「クリスチャンはいかにあるべきか」ということを口実に、注文をつけて来るようになることも全く稀ではない。
  
そのようなことは、本来、信仰生活とは何の関係もない事柄である。ところが、信者が世間の方を向いて、少しでも世間の評判なるものを気にし始めると、たとえそれが信者間の世間であっても、そこに世の法則が働き、たちまち、神だけに忠実に従うということが不可能になり、人間による支配が入り込んでくるのである。
 
従って、栄光を帰すべき対象はただ神のみであって、人に媚び、人のご機嫌伺いをし続けることは、最終的に悪魔に魂を売ることにつながるだけである。従って、ものを書くときは、特にそれが信仰告白ならば、人がそれをどうとらえ、どう受け止め、どう感じるのか、ということに対する気兼ねを一切排除しなければならない。人に好かれ、良い印象を与えたいという思いから、何かを書こうとしているならば、執筆そのものをやめておいた方がよかろう。

もし気にするとすれば、書いた内容が、悪魔と暗闇の軍勢にとってどれくらい激しいダメージとなり、神の栄光となるかだけを気にすべきである。たとえ人の名誉が徹底的に卑しめられたとしても、神が栄光を受けられ、神の真実が証されることが目的なのである。
 
だから、ブログ記事は、人にどう受け止められるかなどを気にして書いてはならない。では、一体、何のために書くのかと言えば、まず自分と自分を取り巻く状況を真実にありのまま把握するため、そこにある問題点をあぶり出すため、次に、それが聖書の理想から程遠い現状に見えたならば、どのようにすれば、その状況の中で、神の御言葉をこの地上に引き下ろして実際とし、神の御心にかなう生き様へとたどり着くことができるのか、その道筋を把握するのである。

地図を見るときは、現在地と目的地を偽ってはならない。もし現状が目的地からはるか遠く、辿りもつけそうにないと思われたとしても、真実を直視しなければならない。もし仮に現状が悲惨ならば、それをありのまま悲惨なものとして把握せねばならない。現実を偽って、自分の立ち位置を偽り、自分を美化し、周りの状況を美化しながら、地図を正しく解読して、目的地までの道のりを知るのは無理である。現在地を偽っていれば、目的地に到達することは永遠にない。

だから、最もシビアに見なければならないのは、人間に関する真実である。

自分自身に対してもであるが、兄弟姉妹であっても、美化してはならない。人間については、自分で思うよりも、何倍も厳しめの評価を下しておいた方が無難である。

だが、それはキリスト教の印象を貶め、信者の印象を貶め、信仰を持つことに対する世間の絶望感を呼び起こすことを目的としているのではない。

自己の真実と向き合うのは、人にとって易しいことではない。自分を美化して自画自賛に明け暮れ、周囲の人々にも、絶えずおべっかを使っていれば、一見、人間を傷つけてはいないように見えるだろうし、少なくとも、それだけ無難な言葉を並べておけば、自分も満足できるし、周囲からも非難の言葉は返って来ないかも知れない。だが、それはいずれにしても真実ではないのである。

人間について不利な事実を赤裸々に書き出し、人が直視したくないと思うような厳しい現実を暴き出すことは、人にとっては耳の痛い話であり、不快に感じられるであろう。だが、もしそれが真実であるならば、砂糖菓子のように甘く心地よい嘘で塗り固めたフィクションによって人を欺き、人間の欲望と利己主義をより一層、増長させ、破滅へと導くことに比べれば、はるかに害が少なく、ましであり、神にも喜ばれると筆者は考える。
 
人には、耳に心地よい作り話と砂糖まぶしの嘘で人を欺き、傷つけることは可能なのである。だから、自分にとって心地よいかどうかを基準として話の信憑性を判断しようとすれば、必ず、欺かれるであろう。人にとって心地よい話が真実だったことは、未だかつてほとんどないからだ。
 
だから、人間にとって不都合で、耳の痛い話を展開しながら、筆者が目指しているのは、人を傷つけることでも、不快にすることでもなく、神の御前で何が真実であり、何が人のあるべき、神に喜ばれる姿であり、どうすれば、我々がキリストにある「新しい人」として、この地上に実際に生きることができるのかという課題だけなのである。

アダムにある古き人は十字架で死んだ。
 
この世においても、死者には名誉棄損で生者を訴える権利は存在しない。むろん、そんな権利があったところで、死者はこの世にいないので、もう訴えることもできないのだが、たとえ死者の遺族であっても、死んだ者の名誉を守るために立ち上がって、生者を訴えることのできる権利を持っている者は存在しない。

だから、正直な話、アダムの人権というものは、霊的には存在してないも同然であり、アダムに対する名誉棄損という罪は、存在しないのである。アダムにとっては、十字架以上の「名誉棄損」は存在しないが、その最大の恥辱がすでに下された以上、どんな名誉棄損もあり得ないのである。アダムは最大の罪人としてすでに死刑にされた。その判決は、永遠に変わらず、悪魔に魂を売った人間の永遠の恥辱を意味している。名誉回復はないのである。

だから、アダムの命に生きることの罪深さと、そのような人間の歩みの悪をどれほど暴き出し、程度酷評してみたところで、誰にも実害が及ぶということはないのだ。むしろ、アダムを美化し、これと馴れ合い、親しく手を取り合って生きることの方が、信者にとってよほど有害なのである。だから、キリスト者がまずなさなければならないことは、アダムの命に生きることを賞賛することではなく、生まれながらの人間すべてが属しているアダムの死を告げ知らせ、キリストにある新しい命に生きる意義を語ることだけである。

アダムの命の最大の特徴は、常に「足りない」ということである。アダムの命は絶えず欠乏と死の恐怖に脅かされているので、必死の自己防衛をせねば生きてはいけない。アダムの命に生きる者たちは、自分が傷つけられず、脅かされないために、全人類と霊的に手を携えて結託し、互いにかばい合い、守り合おうとしている。

だが、キリスト教は、このアダムの命の自己防衛の願望そのものに、十字架の死という終止符を打ったのである。だから、キリスト教は、アダムの命に生きる人々が、互いを傷つけず、互いを思いやり、互いを美化し、かばい合うために、共にイチヂクの葉で連帯して己が恥を隠すために生まれた同盟ではなく、むしろ、アダムの命に死んだ人々が、キリストの復活の命によって新たに生かされて生まれたものである。

だから、信者のブログ記事を吟味するならば、その際、「人を傷つけていないか」を基準に判断するのではなく、「神を傷つけていないか」を基準に判断しなければならない。

キリストによって新しく生まれた人にとって重要な利害は、「アダムにある人間が脅かされていないか」ではなく「神の権益が脅かされていないか」なのである。
 
従って、どんなに人に優しいことを書いていても、もしそれが神の真実に反するならば、信者はこれに立ち向かい、反駁せねばならない。神を傷つけ、神の利益を損なうものに対して、信者は容赦してはならず、神の利益は、人の利益以上に優先されなければならないのである。

それが、「たとい全ての人を偽りとしても、神を真実な方とせよ」という御言葉の意味である。そのような覚悟がなく、「全ての人を偽りとする」ような人間に対する侮辱は行いたくないので、「全ての人を真実としたい」と思っている信者がいるならば、そのような人は、そもそもブログなど書くのはやめておいた方がよかろう。悪魔に都合よく利用され、地獄の道連れにされるだけである。

結局、「舌を制御する」とは、「人にとって耳障りで不快なことを一切言わない」とか、「読者の心証を悪くしない」ということを意味せず、ただ信者が「神の権益を傷つける告白をしない」ことを意味するのである。

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神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)

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