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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

肉のものと霊とのものを区別する必要性~キリスト教界に入り込むグノーシス主義的・東洋的神秘主義の危険⑥~

「あなたがたに対して、神が抱いておられる熱い思いをわたしも抱いています。なぜなら、わたしはあなたがたを純潔な処女として一人の夫と婚約させた、つまりキリストに献げたからです。

ただ、エバが蛇の悪だくみで欺かれたように、あなたがたの思いが汚されて、キリストに対する真心と純潔とからそれてしまうのではないかと心配しています。 なぜなら、あなたがたは、だれかがやって来てわたしたちが宣べ伝えてのとは異なったイエスを宣べ伝えても、あるいは、自分たちが受けたことのない違った霊や、受け入れたことのない違った福音を受けることになっても、よく我慢しているからです。」(Ⅱコリント11:2-4)

ウィルソンは、霊的にはただ一人の夫であるキリストと結ばれた花嫁であるはずだったのが、いつの間にか、別な存在と「結婚」させられ、いつの間にか、「違った霊」を受けてその導きのもとに歩み始めていた。そのことをまず真っ先に察知して懸念したのは彼の妻であった。
 
 

ある時は結婚記念日を祝う際、私は妻に武術の用事が
あるから明日にしようと言ったこともあった。
他にも色々と家族行事を武術のために後回しにした。



ある週末の日、妻と私が喋っていた時、
妻は昨夜見た夢について話し始めた。
私は夢に意味など無いと信じていたが、
妻は夢についてとても悩んでいた。

「エリック、これは主から来たものだと思う」



「あなたの学校の上級ランクの人たちが、
手をつないで輪になって立っていたのを見たの」
「その外側には彼らの家族が周りに立っていた。」

内側の輪がどんどん縮まるごとに、
家族はどんどん輪の外へと追いやられていた

妻が夢の話をしたあと、
彼女がその夢にとても悩まされているのを見た。


ウィルソンの妻は、正夢を見たのであり、そこでは、上級ランクの者たちが結ばれている「輪」は、家族との絆よりも強く、家族の絆を排除してしまうような残酷な「輪」だった。これはちょうど「皇国」のために命を捧げると誓い、家族を捨てて死へ赴いた三島由紀夫と盾の会のメンバーを思い出させる。

三島の盾の会と同じように、武士道に命を捧げることを誓ったウィルソンら武術学校の生徒らは、自分自身の生涯をその「道」に捧げるという、誓いによって結び合わされており、その「輪」は家族の絆よりも強い、死による絆だったのである。

 
(映画”MISHIMA"から)
 
先に述べたように、「道」とは永遠の循環を示す「輪」なのである。『龍の正体』の最後においても、この「道」が「輪(和)」であり、日輪(太陽神)であることが明かされている。
 
私たちはこのような「輪(和)」で結ばれているのは、武士道に生きることを誓った一部の人々だけだと考えているかも知れない。そういうものは、極端な宗教カルトのようなもので、今日の我々とは関係がないと。しかし、本当に、そうだろうか。私たちはこれを一部の人々だけの極端な生き様と笑うことができるだろうか? 

たとえば、戦後の日本の企業社会においても、企業戦士と呼ばれたサラリーマンたちは、妻子を置き去りにして、この「輪(和)」の闘いの中に生きる男社会を作ったのではなかったろうか? あるいは、受験のための競争社会となり、いじめによる多数の自殺者を出している学校教育も、子供たちを家庭から引き離して、この「輪(和)」に引き入れるものではないだろうか? 非正規雇用が拡大し、完全なヒエラルキーに基づく固定化された身分社会のようになっている現在の雇用情勢も、残酷な排除の「輪(和)」ではないだろうか? 

こうして、この残酷に人間を犠牲にし、死へ追いやる「輪(和)」は、今日も目には見えない武士道として、多くの日本の集団を貫く過酷な競争と排除の原理となり、人々から平穏な家庭生活から奪い去り、闘いの中で討ち死にさせている。
 
だが、ウィルソンは妻の忠告も退け、さらなる暗闇に足を踏み入れて行くことになる。

私は憤りを感じた。
今思えば、それが何を主にして仕えるかの分かれ目だった。
彼女が私を人生で一番大切に思っている
武術から引き離そうとしているように感じた。
それですごく怒りに満たされた。
彼女は理解していないと思った。

そして私はますます特訓に励んだ。
若い頃の夢の間に
何物をも立ちはだからせないと思ったからだ。

しかし理解していなかったのは
私の方だった。
それは私の自分本位の欲望を
妻と私の間に置いたからだった。

命を与える聖書の言葉は
今日、私たち一人一人に語りかけている。

「わが子よ、あなたの心をわたしに与え、
あなたの目をわたしの道に注げ。」(箴言23:26)

「夫たる者よ。キリストが教会を愛して
そのためにご自身をささげられたように
妻を愛しなさい。」(エペソ5:23)

すべての男性に立ち向かう闘いは
妻と子を自分よりも愛することだ。
苛立ちと反抗で私は
呼んでおられる神から心を遠ざけた。
服従することが勝利と自由へ導くということに気づかずに。」

 
ウィルソンは自分を縛り、幸福から遠ざけて行く偽りの契約の重さを認識していなかった。その「道」は、彼が幼少期に味わったトラウマを無意識に再現する道であり、妻子を捨て、子供にも取り返しのつかない悲劇を味わわせる道であった。
 
 


  

「願っていた夜がついに来た。
闘い相手と私はカンフーの弟子の資格を貰うことになった。
プライベートな儀式で上級ランク者しか
参加できなかった。
武術の訓練をし、教えたりしながら
17年も経ったあと
少し先に黒帯をとったライバルと共に
第五の夜明けのランクが与えられることになった。

私はその時のことを鮮明に覚えている。
師匠が我々二人と共に
弟子の資格式に入って来た。
二人とも同じ日に儀式を行った。
我々二人はこの30年間で初めての
第五の夜明けのランク受領者となった。

儀式の時、師匠が長い杖を持って入ってきた。
杖には馬の毛のようなものがあって、彫刻が刻まれていた。

儀式が終わり、皆がいなくなったあと、
私たちは師匠にそれについて尋ねてみた。
その杖は何処から来たのですか?
今まで何年もこの学校にいて
一度もそのようなものを見たことが無かった。
「この杖は誰かが弟子の資格を取った時のためだけに出すものだ」

後でわかったことは、それはシャーマンの杖だった。
師匠は主を愛していて、キリスト教だと
告白していたが、光と闇とを混ぜていた。

儀式から一週間たったころ、個人授業を
闘った仲間と一緒に受けていた時
忘れられない言葉を師匠が言った。
あなたが今学んでいることは
百年前だと魔術師とみなされていた事柄だ


ウィルソンが「結婚」(重婚)させられた相手が、どういう霊なのかが次第に分かって来た。儀式の度に、新たな異教のシンボルが登場する。師匠が持っていたのは、魔術師の杖であった。師匠はキリスト教徒を装っていたが、裏の顔があり、キリストへの信仰と、異教への信仰と、混ぜ合わせた霊を持っていたのである。
 
 



それからの二年半の特訓は想像以上のものであった。
平均台や梅花は柱の上で騎馬立ちしながら名何時間も毎日瞑想して
「気」と呼ばれる神秘的な力を引き出す訓練をしていた。
瞑想と深呼吸とイメージトレーニングをしながら、
体の温度を変えたり
精神力で環境や戦う相手に影響を及ぼしたりすることを学んだ。

訓練を進めるために、やむをえず私は神の言葉の
はっきりした啓示から妥協していった。
不従順の道を進むにつれ、心は頑なになり、
父なる神の愛する声が聞こえにくくなっていった。

神の言葉が取り去られると、私の人生の基礎が崩れ始めた。
家族と家庭が嵐によって吹き飛ばされていった。
私と神との絆と妻との契約とが壊れていった。

弟子の資格をとったあと、結婚生活が危うくなり始めていた。
そして私は誰にも相談できない悩みと格闘していた。

結婚を維持させ妻子を守るという
使命感と反対方向に私を向かわせる武術。
いまだかつてなかった難問だった。

ウィルソンの武術の特訓が、もはや体を鍛えるためのものではなくなりつつあった。彼は体の温度を変えたり、精神力で環境や対戦相手に影響を及ぼすなど、人体の通常の限界を超えた訓練を行い、自分の体を変容させ、超自然的な力を発揮する術を学んでいたのである。

通常、このようなことは、霊によって行われることであり、キリストの霊は、よみがえりの命であり、すべてを統治する神の非受造の神の命であるから、その命には、物理現象を治め、人の心にも、影響を及ぼす力がある。信者は御霊を受けて、神の言葉に従って生きる時、口では説明できない様々な不思議な現象が、祈りや信仰を通して起きて来ることを知っている。信者はそれを神が祈りに応えて下さったのだと思う。むろん、そうである。だが、同時に、それは信者の内に住んでいるキリストの御霊の働きでもある。御霊は万物を支配されるキリストの霊であるから、そこには統治という原則が存在するのである。

だが、邪悪な悪霊も、御霊の働きを模倣し、肉の力で「永遠の命」の働きを再現しようとする。

内丹術が人体を「気」によって変容させ、最終的には人を「道」と一体化させて、不老不死(永遠)に到達することを目的としていたことを思い出したい。ウィルソンの行っていた訓練はそのような人体の変容の始まりであった。

ウィルソンの家庭生活はこの頃から明らかに破綻し始める。
 

武術で学んできた技術や思想は
罪と闘って自由を得る助けにはならなかった。
武術では、なんであっても適度にとれば害はないと教わった。
絶対的な原則、白黒など無かった。
すべては真ん中の灰色。

神の言葉で明白に「人は二人の主人に
仕えることはできない」と書いてある。

しかし私はこの16年間それをしようとしていた。
家族と一緒に毎週教会に通ったが、
心は神のことと家庭のことから遠ざかっていた。
私は武術と肉の欲を妻との間に置いた。
そして神と妻との契約との間にも。

これはたぶん人生の中で一番激しい戦いだった。
長年武術を学び、古コンタクトで闘ったりして、
自分ではどんな困難にも立ち向かえる自信があった。
でも気づけば師匠の教えも
鍛えてきたものもこの困難には役に立たなかった。

「わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく
もろもろもの支配と、権威と、やみの世の主権者
また天上にいる悪の霊に対する闘いである。」(エペソ6:12)

教会の中や家庭の中だけに闘いは限らず、
自分自身の中にも激しい戦いが起こる。
向かい合っていた敵は心の中に潜んでいた。

そして自分の欲望や肉欲から自由になる方法が
わからなかった。その声から逃れることも。

その声とは我々が長年聞き従ってきたものであり、
テレビ、映画、音楽や雑誌などを通じて
今日も語りかけている。
そして私にとっては師匠や武術を通しても語ってきた。

「わたしたちの戦いの武器は、肉のものではなく、
神のためには要塞をも破壊するほどの力あるものである。
わたしたちはさまざまな議論を破り、神の知恵に逆らって
立てられたあらゆる障害物を打ちこわし、すべての思いを
とりこにしてキリストに服従させる。」(第二コリント10:4-5)

しかし主なるキリストがただで与えようとしている
勝利に身を任せる者はなんと少ないことだろう。
真のクリスチャン…本当に主の弟子になることは
ただキリストを信じるだけでは足りない。
週に一回教会へ行って、朝に少し聖句を読んで
慌てて世の中に出かける以上のものだ。

主 エホバ ヤーヴェはあなたの人生の
7割を要求しているのではない。
生まれ変わるということは
すべてを捧げるということだ。
人生のすべてだ。

武術界では、キリストを見上げる代わりに、
自分の内面を見つめることを教わった。
神の聖なる御言葉の啓示より
自分の気持ちに従うことが第一だった。
そして闘いがあった。

600年前に天で起こった闘いは今もなお続いている。
目には見えないが、すべての男女、
子供のうちに激しい闘いが存在する。
日々、暗闇の中や内なる敵と
闘っている人たちが我々のまわりにいる。
常に命のパンと水に飢え渇いている魂がいる。

彼らは本当にキリストの言葉を信じ、その救いの業や
愛を知っている弟子を見てみたいと望んでいる。

私は一番主を必要としている時に
はっきりとした識別力が必要な時
私は聖霊の指示に対し盲と聾になっていた。

結婚生活の問題を解決したかったが、
聖書を読んでも昔のように理解することができなかった。
私の中で光が闇となり、悪が善に見えた。
それは聖書では「霊によって霊のことを解釈するのである」
(第一コリント2:13)と書かれているからである。

武術や師匠やメディアを通した龍の声に
長年耳を傾けていた為か、
天の父の御言葉が分からなくなった。

「なぜなら、肉の思いは神に敵するからである。
すなわち、それは神の律法に従わず、
否、従い得ないのである。」(ローマ8:7)

 
 
ウィルソンは言う、「武術界では、キリストを見上げる代わりに、自分の内面を見つめることを教わった。」グノーシス主義は、神と人とが本来的に同一であるとみなして、神を探求すると言いながら、人に「本来的な自己を取り戻す」という口実で、自分自身を見つめさせる。神を仰がず、自分自身を見させるのである。

パウロはローマ人への手紙の第8章で、人間の内側では、肉の思いと霊の思いとの激しい葛藤があり、肉の思いは神に敵対し、神に従い得ないと書いている。しかし、人間の堕落を認めないグノーシス主義は、肉と霊とを区別しない。そして、堕落した肉を本来的に神と同一の「神聖な要素」の一部とみなすのである。そのため、グノーシス主義とは、「肉の復権」の思想なのだと言える。また、これに基づいて生まれるすべての思想も、人間の邪悪さを聖とみなし、光を闇とし、善を悪とし、すべての物事をさかさまに、あべこべに見るのである。

仏教では、仏(悟りを得た者)に備わる四つの知恵とされるものの一つに、大円鏡智(だいえんきょうち)というものがある。これは万物を鏡に映すようにしてそありのままの姿を真理として把握するという意味である。

だが、 鏡に映すと、すべてのものがさかまさに見えるのは言うまでもない。ここで言う「鏡」とは、聖書の神の側から見た真理ではなく、堕落した被造物が造り出した認識の世界、人間の側から見た事物の有様であり、大円鏡智なるものは、グノーシス主義の「鏡」と同じで、人間の認識が神の認識に取って代わって、普遍の真理、リアリティとなってしまっているのである。

それは「本体」がなくなり、「影」に過ぎない「映像」が自分は本物だと主張している世界であるため、それゆえ、そこで言われる「真理」はすべてがさかさまで、転倒してひっくり返っているのである。創造主の側に真理があるのではなく、被造物の認識の中に真理があるとみなすと、必ず、すべてが裏返しになった偽りの「真理」が出来上がってしまうのである。これが、グノーシス主義の「鏡」が作り出すさかさまの世界観である。

六ヶ月くらい自分の中で闘い悩んでいた。
でもそれは武術の教え通りに闘ったのである。
自分の強い意志と特訓で治めようとした。

しかしどんなに強くても、キリストの力無しでは、
人間はとうていサタンや悪天使たちに打勝つことができない。
何も解決しないことに苛立つあまり、龍の声に耳を傾け、
自己の自由を選び、とうとう離婚届を出した。

家庭が壊れた経過は言葉では言い表せない。
多くの人は、神の言葉を聞くよりも、
自分の肉の声に聞き従うと。
どれだけその選択で取り返し難い影響を
永遠に受けるか気づいていない。

「心はよろずの物よりも偽るもので、はなはだしく悪に染まっている。 だれがこれを、よく知ることができようか。」(エレミヤ17:9)
 



田舎の家から引越しトラックで出て行った日を
今でもはっきりと覚えている。

それは家に帰る最後の日で
残りの家具をとりに行くところだった。
砂利を敷いたドライブウェーに駐車する時、
私は妻と小さい息子が玄関で天に向かって
助けを祈り泣き叫んでいたのに気づかなかった。

そしてトラックで出て行く時
六歳の娘が後ろから走ってきて
「パパ、パパ、待って!行かないで!」
と泣き叫んでいたことにも気づかなかった。

何年かしてから私の去ったことが、
どれだけ妻子につらい思いをさせたかを知らされた。
 

 
ウィルソンが肉に従って歩むに連れて、彼の内側で、愛が冷え、無慈悲さ、頑なさ、冷酷さ、自己中心性など、強情で冷たい性格が育って行った。体を変容させる試みは、彼の心までも変容させた。ただし、それは彼が願っていたような変容ではなく、「神のように」なることとは裏腹に、事実は、悪魔の姿に近づいて行った。

ウィルソンが子供たちを無慈悲に捨てた行動の中には、無意識のうちに、彼自身が父に捨てられたという心の傷が影響していただろう。「気」を汲み出す訓練が、激しい苦痛の連続であったように、悪霊は、人間の加害者意識や被害者意識を通じて働く。加害者意識と被害者意識は表裏一体であり、被害者意識を抱えたままの人間は、いつ加害者に転ずるか分からない暴力性を秘めている。肉にある生き方は、憎しみと怨念と暴力の道で、永遠に終わらない心の傷の連鎖を生み出すだけである。
 
 

  

妻のサラは信仰の闘いをし始めた。
彼女は主が約束の言葉を守らないはずはないと固く信じていた。

彼女は毎日神の約束を繰り返し音読した。
「神が合わせたものを人は離してはならない」
(マルコ10:9)

「なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して
救われるからである。聖書は、『すべて彼を信じる者は
失望に終わることがない』と言っている。」
(ローマ10:10-11)

妻が聖書朗読、断食や祈りをしていた時に、
私は自分が若い時から夢に見た
武術の深い闇に自らのめり込んで行った。

神が自分の良心に語り掛ける声をずっと打ち消そうとしたが、
良心の声と神の声の問いかけが続き、罪の呵責に苦しんだ。



妻が子供たちを私のアパートに連れてくる時、
妻がとても痩せ細っているのに、
目が喜びに満ちていたのを覚えている。
それがなぜか私には理解できなかった。
私が一生懸命になって得ようとしていたものを
妻は既に持っていた。

しかしどんなに走っても、
どんなに娯楽で気を紛らわせようとしても、
一人で夜ベッドに横たわる時、深い沈黙に包まれた。

「どうか、あなたはわたしの戒めに聞き従うように。
そうすれば、あなたの平安は川のように、あなたの義は
海の波のようになり」(イザヤ48:18)

「あなたのおきてを愛する者には大いなる平安があり、
何ものも彼らをつまずかすことはできません。」
(詩編119:165)


それでも、ウィルソンの探求は終わらず、彼は新たな師匠と出会う。そして、その師匠との出会いが、武術に隠された悪魔的な起源を知らされるきっかけとなった。(写真は前の師匠。陰陽道のシンボルや、武士道などの言葉が道着に記されている。)
 



もっと深い知識と力を学びたいと思い、
中国の内家拳の太極拳、八卦拳や気功などに励んでみた。
ある週末、親しい友達が熟練した武術者が
来るからとトレーニング講座に誘ってくれた。
そこは私の住んでいるところから数時間離れた町にあった。

私はこの武術者に会いに行くのがとても楽しみだった。
なぜなら彼は名声ランクも高かった。
なにより彼は内なる力「気」を実演したり
教えたりすることのできる人だった。
彼は第十の夜明けとして認められていて、
二つの拳法のカンフーと中国の気功を教える資格を持っていた。
気功の目的とは、武術と医学のために、
「気」の力を育てるためのものだ。

講座での訓練が終わったあと、
その師匠が来て数人かの生徒たちと話した。
そして黒帯とその従える生徒たちに
訓練についての指示を与えたのち
彼らはその指示通りに行うために去って行った。

師匠と二人きりになった時、彼は私を個人的に名指した。
私は彼と初めて会うのだが、彼はこの出会いは偶然ではないと言う。
ある中国のことわざで「弟子が準備が出来た時に、師は現れる。』

その日から、私はこの師匠の元で訓練する機会を徹底的に探した。
彼には、私を教える知識があるばかりでなく、
第五の夜明けの上の生徒の進行を見守る権威があったからである。
長年彼と付き合った中で一番記憶に残るものがある。

ある夜、激しい訓練が終わった後、
師匠は「気」を獲得する方法についてのなざを語り始めた。
しかし期待していたのとは違って、
中国の勇士や賢人について語るのではなく、
現代の音楽家ジミ・ヘンドリックスや
エリック・クラフトンなどの才能について語り始めた。



カンフーで使うエネルギーを
有名な音楽家が欲望に満ちたロックミュージックに
注いでいたエネルギーと比べていた。

その時彼が教えてくれたのは
初心者は「気」は「内なる力」と教わり、
中級レベルでは「気」は「息」と教わり、
上級レベルでは「気」を「霊」と教わる。

そしてこの霊的なエネルギーが何千という違う形で現れる。
それは武術者にとっては速度と力い使われ、
ホリスティック治療家は
患者を癒す振動エネルギーとして用い
会社重役や指導者は部下を
巧みに制御し影響することに用い、
役者は観客を虜にさせるような演技をするため、
音楽家はパフォーマンスに活気をつけさせ、
聴衆の感情や心を意のままに動かすために、
霊的なエネルギーは使われる。

 
新しい師匠に出会って、初めてウィルソンはそれまでは「内なる力」や「息」のようなものだと教えらえていた「気」の正体が「霊」であることを明かされる。「気」は「霊」から引き出されるエネルギーなのである。

その霊的なパワーが一種の見えない「波動」となって、音楽の演奏や、気功による治療や、企業活動などの場面で、人間関係に影響を及ぼし、自分の望む効果を相手から引き出すために利用されているのである。

だが、一体、それは何の「霊」から引き出されるエネルギーなのか? ウィルソンは師匠の自宅を訪問した際に、その秘密を知ることになる。
 

数年間この師匠の下で訓練を受け
もし本当にこの人の教えをすべて受け入れるなら
もはや他の主人に仕えることが出来ないと気づいた。

弟子が師匠から離れて別な学校で教師になって
教え始めるというのは珍しいことではない。
私はそうすることにした。

そして忠誠が引き裂かれたと悩む必要がなくなった所で
東洋武術に隠された力を探ろうとし始めた。

その力は見えるものであったが、その力が何処から
来るのかは常にわからないあやふやなままであった。

私はよく師匠の住んで教えている町まで
六時間かけて運転して行った。
ある時、師匠の家を訪問した。
ここで世界中の弟子たちが長年闘って
訓練してきた裏の秘密を知った。



師匠の家に入ると、意外なものを見た。
長年親しんだ少林拳の将軍や伝統的な着物を
着た僧などの絵が貼ってあるのではなく
部屋のすべての壁に飾ってあったのは、
等身大のヒンズー教の神々の壁掛けであった。

 

  
 
自分の頭の中で危険信号が鳴り響いた。
聖句の警告や子供の時教わったもの
今まで押し殺してきたものが、
すべて浮かび上がってきた。

師匠はその日、私に不思議な質問をしてきた。
「もしも、武術がすべて少林拳から始まったのであれば、
なぜこんなにも多く同じ思想で違う表し方が存在するのだろうか?」
私はそれを聞いて驚いたが、しかし興味深いと思った。
この質問の答えは長年探していたものだったが、
どう言葉で表現していいか分からなかったものだった。
危険信号がさらに大きくなった。



師匠の家にはヒンドゥー教の神々の壁掛けが飾られていたが、それによって、武術で見られるあの圧倒的なパワーが、聖書の神ではない、異教の神々すなわち悪魔と悪霊に由来して引き出されるエネルギーであることが徐々に分かって来た。師匠は示唆する、武術は少林拳から始まったのではないと。もっともっと古い起源があると。そして、そのことは、むろん、ただ武術だけに限るのではない。太古からあるものが、武術を含め、あらゆる分野において、様々なバリエーションとなって現れているに過ぎないのだ。

では、その太古からある起源とは何なのか? すべてのバリエーションに共通する型とは何なのか?

何事も徹底的に究明しようとするウィルソンは、ついに自分をそれまで導いてきた武術のパワーの根源がどこにあるかを知ることになる。すなわち、彼がそれまで追って来た「霊」の思想の起源を発見する。
 

その年は2007年であった。
武術では、夢見てきたことを何もかも成し遂げた。
ある夜、八卦掌のクラスを教えていた時のことだった。
八卦掌は太極拳と良く似ていてゆっくりとした正確な動きで
深呼吸や瞑想しながら動きに集中した。
私は生徒たちを円を描くように歩かせながら、
深呼吸や手のしぐさに集中していた。

それをしている間に、生徒の目を見た。
彼らが本当に武術の力を引き出しているか
どうかを確かめるためだった。

すると目を見ていると、生徒全員が催眠状態のような目つきをして
汗でびしょぬれであることに気づいた。
武術の経験のある私は、こんな軽い運動で
汗をかくなど人間的に不可能だと思った。
肉体訓練や柔軟体操などしてなかったはずだ。

その瞬間、私の精神は上に引き上げられて
生徒にフォームを教えている間に、まるで上から見下ろすように、
生徒たちと私が道場の床で作っている形が見えた。
こんなことはかつて経験したことはなかった。
まるでミステリー・サークルみたいだった。
百姓が畑に出るとただの散乱した畑であっても、
上から見下ろして鳥瞰図にしてみれば模様の形が見えてくる。



私が見た形は円で、その中心に点があって
まるで図星のようなものだった。
この形に関して非常に悩んだのは、
同じ形がすべての武術文学、書き物、師匠達の
様々な本などに載ってあるのを見たからだ。

その夜家に帰って自分の本棚をあさってみた。
合気道、日本武術、カンフー、気功、中国武術と
どの本を見ても同じ円の形があった。
そしてその意味もわかった。
それは太陽の神「道」をさすものであった。

生徒たちにどう説明するか迷った。
どうやって百人近くの人に
これまで学校で教えていた武術というものが、
太陽の神の霊を呼び出すものであったと伝えられるのか。


今までにも説明して来たように、「道」(=世界の根源となる混沌)とは、グノーシス主義の「虚無の深淵」や「鏡」、仏教の「空(無)」と本質的に同じ概念であり、日輪すなわち太陽神と一体である。シンボルとしての「道」は、永遠の循環を表す円(輪)である。

それが分かれば、たとえば、禅において、悟りに至る諸段階を、十枚の絵で表してるとされる「十牛図」が、なぜすべて円の中に描かれているのかも分かる。この円は「道」なのである。
 

十牛図

ウィルソンは、それまで人生で最も大切な価値だと信じて来た武術が、反聖書的な悪魔的な教えを起源としていることに気づいた時、その事実から目を背けなかった。彼はただ力が欲しかったのではなく、真実が知りたかったのである。そこで、彼は生徒たちにも、「輪」のシンボルについて調べさせた。すると、「道」(=「輪」=「鏡」=「太陽神)のシンボルは文化の壁を超えて様々なところに見られることが分かる。



そこで次の週、上級クラスに宿題の課題を出した。
家に帰ってこの形の意味を探してくるように
と言ってその円を黒板に描いた。

その次の週、クラスでは深い沈黙があった。
水を打ったような静けさだった。
すべての生徒たちは厳粛な表情をしていた。

私は一人ひとりにクラスの前で何を見つけたか発表させた。
宿題の課題を出す時、どこでその意味を
探しても構わないと前もって伝えてあった。

歴史の本、アステカやマヤ文化、エジプトやローマ、バビロン、
刺青の本やウィッカなど魔術の本からも探していた。







 





  どこで探したにせよ、結論は同じであった。
太陽の神の象徴、中国では「道」や
「陰と陽」などで表されている。
 


(陰と陽 Wikipedia「内丹術」から陰陽道大極図)

そしてある生徒が「これはどういうことですか?」と聞いて来た。
これからどうすればいいのですか?何が変わるのですか?
私は彼らに言った「これからはもう八卦掌を教えない」

しかしまだそれ以外にもありそうだと思い、
夜帰宅してまた本を探り始めた。
太極拳、ヨガ、気功、少林派のものも調べてみた。
調べているうちに想像以上に色々と発見してしまった。


武術の圧倒的なパワーが、反聖書的な、悪魔的な起源を有する悪霊による被造物崇拝から来るものであると分かった以上、もうこのようなものを教えることはできない、とウィルソンは考える。彼はそれが分かったにも関わらず、なお自分をごまかして、武術にすがり続けようとは思わなかった。

だが、武術の思想の誤りが分かると同時に、彼が歩んできた道が、聖書の神に逆らい、悪霊に従う誤った道であり、それによって彼は自分の家族を破滅させてしまったのだという事実がはっきりと見えて来た。幼い頃から親しんできたキリスト教の信仰が、彼の心に呼びかけていた。今、まことの神に立ち戻らなければ、彼の人生も家族の人生も破滅すると。
 

昔、母が不安そうにしていた記憶が蘇った。
そして武術で学んでいた霊的な力で私は家族を
破滅に追いやったのだとはっきりと見えてきた。

主は私を呼んでおられた「子よ、今こそ帰ってきなさい」
彼は私に繋がれていた鎖を解放しようと闘われていた。
そして妻子に変わらない忠誠の約束を示すために。
主は私と私の家族を仲直りさせていたと
同時に私の盲の目を回復させていた。

その週のうちに私は生徒たちに発表をした。
もう内家拳の太極拳や気功も八卦掌も
少林派のカンフーですら教えない。
私は肉体的な武術を霊的な武術から引き離そうとしていた。
しかしこれは非常に難しかった。
六、七カ月挑戦してみたところ、
肉体的特訓を霊的な基のある武術から
引き離すことは不可能であると気づいた。

この発表した時、たぶん生徒の四割は去った。
これは経済的打撃が強かった。
それだけではなく、長年付き添ってくれた
生徒が去っていくのをみるのも精神的に堪えた。
 

ウィルソンはそれでも何とかして武術から悪しき霊的な教えだけを切り離して、肉体的訓練の部分だけは残せないかと試行錯誤してみたが、それは不可能であることが分かった。思想はすべての土台であり、その上に生じる現われの部分だけを、思想と切り離して残すことはできない。だが、肉体的特訓ができないことを表明すると、多くの生徒は去って行った。経済的にも、これ以上、武術を教え続けることはもうできないことが明白であった。

しかし、ウィルソンが儀式を通して結ばれ、長年、心を捧げて来た対象には、ウィルソンが武術の精神と訣別することを決めても、そう簡単にウィルソンを手放すつもりはなかった。武術の精神とは、彼を飲み込もうとし続けて来た死の力である。
 

ある夜、クラスを教え終わったあと帰宅した。
真夜中近かった。
ドアを入ってジムバッグを
玄関近くにおろして台所に歩いて行った。
飲み物を取りに冷蔵庫を開けようとしたその時、
首筋に一気に鳥肌が立った。
なにか得体の知れない大きなものが
後ろに迫っているのを感じた。



それはひどく恐ろしいものだった。
長年武術の特訓をして、怖いものなど
自分にはもうないと思っていたのに、
しかし後ろにいたものは私を恐怖に陥れた。

もうどうしていいかわからなかった。
師匠たちに教わったことや読んで学んだ
知識などが頭の中をよぎった。
ここは闘うべきか? 逃げるべきか?
しかしどれも通用しなかった。
どちらも無意味だった。

何が後ろから見下ろしているのかと
みるのは怖かった。
4メートル近くあるように感じた。
その瞬間だった。
耳の中である名前が聞こえてきた。
「イエス・キリスト」
それを聞いたとたん一筋の希望が見えた。

もしかしたら、こんなに反抗した道を
歩んできた私を救って下さるのでは?
家族や他の人を傷つけてきたのに、私を救ってくださるのか?

使徒行伝2章の21節では
私達に約束が与えられている。
「その時、主の名を呼び求める者は
みな救われるであろう」と。

そんなに簡単なのだろうか?
本当に可能なのだろうか?
本当に私の声を聞き届けてくださるのか?
その時、私はひざまづいて、
上を見上げ、思いっきり叫んだ。
「イエス様、助けてください!
主よ、助けてください!」



どれくらい泣いたかは覚えていない。
頬に涙が伝った。
後ろの気配はまだ消えず、ただひたすら
イエス・キリストの名前を呼んだ。

永遠のように長く感じた時間が過ぎ去ったあと
誰かもうひとり部屋に入ってくる気配がした。
そして入ってきた人は、私の後ろにいた
巨大な悪霊のような人をつかんで、
部屋からぶっ飛ばした。
それは見えなかったが、
でも見えるかのように感じた。

私は涙でぐしょぐしょで、ずっと主に向かって呼んだ。
その時から、主は私の個人的な救い主だと知った。
その時から、主は力強い救い主だと私は知った。

2007年8月、離婚の5年後、南フロリダの静かな浜辺で
妻サラと私は聖なる結婚の契約を結びなおした。


2008年にイザヤ・ミニストリー誕生。
我が家は信仰によって、
「主がどんなに大きなことをしてくださったか。またどんなに
あわれんでくださったか、それを知らせなさい」(マルコ5:19)
というキリストの訓戒に従った。 



むろん、この最後の部分をどう受け止めるかはその人次第であろう。筆者は、ウィルソンを殺そうと迫って来たのは、悪魔的な起源を持つ死の力であったとみなす。それが「道」の正体である。永遠の循環を示す蛇の輪は、人間を死と呪いから決して逃がすまいという悪魔の決意を示している。だが、キリストは死を打ち破った方であり、信じる者をそこから解放する力を持っている。

ウィルソンの中で真理が勝った。徹底的に物事を見極めようとしていた彼の性格、知らされた真理から目を背けなかったことが幸いして、彼は信仰を取り戻したのである。他方、彼の師匠たちのような人々は、武術の起源がキリスト教にないことを知りながら、武術が与えてくれる力、栄誉に魅了されて、これを手放さず、うわべだけはキリスト教徒を演じながら、他の神々に仕え続けたものと思われる。

映画"MISHIMA"や、『龍の正体』は、どちらも東洋的な文化の中からは、決して提起できなかったであろう鋭い問題提起を行ている。

『龍の正体』では、「気」を通して「道」(永遠)との合一を目指す思想が、悪魔的な思想であり、「道」とは死そのものであること、また、「気」を引き出す訓練は、人間のトラウマ、利己主義、敵意、憎悪、怨念、憎しみ、欲望などの肉の思いを通して生まれて来るものであることを見て来た。

東洋思想の「道」とは、死に脅かされる被害者としての人類が、自力で永遠性を身に着けて、死を克服して、神のようになろうと、自分を脅かす者に闘いを挑む道である。だが、武術が敵としているのは、悪魔ではなく、聖書の神である。武術は、人類による単なる自己防御の手段ではなく、人類に死の判決を下した神ご自身に対する、悪魔と暗闇の軍勢による反逆の闘いの一部なのである。

十二神将の像に見られるすまじい形相には、自分に永遠の滅びの判決を下した神に対する悪魔の敵意、憎しみ、憤り、怨念、攻撃性が反映していると言えよう。それゆえ、その「道」を行く者は誰でもやがては悪魔と一体化して、鬼と化すのである。

だが、今や、映画の冒頭の警告にあるように、東洋神秘主義の教えは、キリスト教文化圏にも入り込み、それが欧米を経由して東洋に逆輸入されるようになって来ている。ペンテコステ・カリスマ運動も、東洋神秘主義がキリスト教と混合した上で、それが我が国に逆輸入されて入って来たものである。そのことは、ペンテコステ運動が、武術が誇るのと同じような魔術的な超自然的な力を通して神に近づくことを目指している様子からも分かる。そのペンテコステ運動の只中から、カルト被害者救済活動が生まれて来たことは、偶然ではない。

悪霊は、人間の傷やトラウマを足がかりにして、そこから内に侵入し、怨念や憎しみをパワーに変えて活動する。加害者意識と被害者意識はどちらも、悪霊の働く通路であり、人はこれを神に委ね、癒しを求めて祈る必要がある。

ダビデは祈った。

「神よ、わたしを究め
わたしの心を知ってください。
わたしを試し、悩みを知ってください。
御覧ください
わたしの内に迷いの道があるかどうかを。
どうか、わたしをとこしえの道に導いてください。」(詩編139:23-24)

ここで「迷いの道」と訳されている部分は、別の訳では、「傷ついた道」、「悪しき道」となっている。人が心傷つき、トラウマを心に抱えれば、無意識のうちに、そこから他人にも自分と同じ苦しみを味わわせることで報復を果たそうとする終わりなき罪の連鎖が生まれる。

だが、人は自分で自分の心を見極めることはできない。人の心を深みまで探って下さり、病んだ部分を探し出して、それを癒し、「とこしえの道」へと人を導いて下さる方は、神だけである。そして、その方に従うためには、人は自分を捨てねばならない。自力で武装して、自力で弱さを克服し、自衛することをやめ、弱さのゆえに十字架につけられたキリストと一つとなって、その死に神のよみがえりの命の力が働くことを信じねばならないのである。

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