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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

神の霊の命による支配

「あなたの道を主にゆだねよ。
主に信頼せよ、主はそれをなしとげ、
あなたの義を光のように明らかにし、
あなたの正しいことを真昼のように明らかにされる。

主の前にもだし、耐え忍びて主を待ち望め。
おのが道を歩んで栄える者のゆえに、
悪いはかりごとを遂げる人のゆえに、心を悩ますな。

怒りをやめ、憤りを捨てよ。
心を悩ますな、これはただ悪を行うに至るのみだ。
悪を行う者は断ち滅ぼされ、
主を待ち望む者は国を継ぐからである。」(詩篇37:5-9)



・キリスト者の人生における神の霊の命の発展

筆者がこれまで生きて来た過程で、どれほど多くの試練と敵対があったであろうか。自分の人生を振り返って、果たしてどこまでの対立が、暗闇の軍勢からのいわれなき霊的攻撃で、どこからが、筆者の判断次第で、避けることができた戦いであったのか、今となっては多くのことが分からない。

筆者は、クリスチャンには戦いがあることを確信しているので、地獄の全軍勢が、キリストによって生まれた新しい人に激しい憎悪を燃やしているという事実を否定するつもりはない。

だが、それにしても、信者の人生において、霊における戦い方というのは確かに存在し、戦い方次第で、信者は損失を最小限度におさえることが可能なのである。そのためには、目に見えるところで起きている現象や、対立が、見えない世界でどのような意味を持っているのか、理解できるようにならなければならない。霊の領域で物事を理解することができないと、信者は自分の人生で攻撃を受けても、防ぐ方法も分からず、ダメージだけをこうむることになる。

暗闇の勢力は信者の不安を煽り、それを足掛かりとして、何かの事件へと発展させ、人の心の平安を奪うことを常としている。信者が早期に見抜いていれば、無傷で立ち去れたものを、深入りしてはいけないところに、足を踏みいれてしまったがゆえに、損失が拡大して行った、ということも起きないわけではない。

だから、信者は戦い方を学ばなければならないのである。こうした戦いは、信者が自分で取り組まない限り、勝利する方法を会得する術はない。御言葉は与えられていても、行使しなければ、何の効力をも発揮しない。だから、信者は、御言葉を実際にこの地に実体として引き下ろし、これを地獄の暗闇の全勢力に対抗する強力な武器として行使する方法を、自分の人生で一歩一歩、学んで行かなければならない。

その過程で、たとえ一度や二度、戦い方が分からなかったゆえに、無駄な損失をこうむったように感じることがあったとしても、それに頓着することなく、再び立ち上がって、より力強く、より勝利に満ちた形で、神の霊の命を行使するために、これまでの教訓に鑑みて、戦い方を研究しなければならない。

まず、霊の戦いとは、信者から自己決定権を奪い、信者が霊の平安と調和に基づいて自分と環境を支配することを妨げようとして、暗闇の勢力がしかけてくる攻撃であることを理解する必要がある。
 
霊の戦いは、まず信者の心(霊)の内側で起きる。それは信者をアダムの命に従って歩ませるのか、キリストの命に従って歩ませるのか、信者の自己決定権を巡る天と地との激しい争奪戦なのである。その戦いは、必ずしも、信者の外からやって来るのではなく、ほとんど場合、信者の心の中で始まる。たとえ本人が意識しておらずとも、信者の心には、絶えざる戦いがある。その戦いが、外側の世界に反映し、目に見える戦いとしての外側の事件となり、信者に何らかの影響を及ぼそうと、跳ね返って来るのである。

暗闇の勢力は、信者の心の状態を極めて注意深く観察している。悪魔とその軍勢には、神のように、人の心を読むことはできないが、かなりの精度で、人が何を考えているのかを把握することができる。

そして、暗闇の軍勢は、信者が力強く生き生きとしている時にはあまり攻撃をしかけず、信者の心の統率力が弱まっていたり、注意が鈍っていたり、警戒心が欠けていたり、疲労困憊していたり、まどろんでいたりする瞬間を狙って、何かの異常な影響力を行使して、信者の心に悲しみや、不安や、恐怖を与えて、圧迫することを常としている。

もし何も異常な事件が特に起きずとも、信者は朝から晩までの自分の心の中に去来する思いを観察・確認しみれば良い。そうすれば、大抵、体が弱っていたり、はっきりと目覚めていなかったりして、体や心の乱れの影響を受けて、信者の霊がしっかりと立っていない時に、不安や、悲観などの、良からぬ思いが近づいて来ることが分かる。

こうしたことを観察すればするほど、信者は、偶然に起きていたと思っていた外側の事件が、実は自分の内面と極めて密接に連動していることが分かる。信者の霊の統治する力の強弱や、霊における平安の有無などの状態によって、信者の外側で起きる事件が変わって来るのである。
 
暗闇の勢力は、信者の霊を弱体化に追い込み、その弱体化したところを狙って、さらなる攻撃をしかける。霊を弱体化させるために、さまざまな不安を煽る出来事を用意する。疲労困憊するまで働かせるとか、親しい人たちからひっきりなしに精神的な攻撃をさせるとか、信者の心と体の平安が失われ、信者の判断力が鈍るように仕向け、信者がその罠にまんまとはまって、起きた出来事を悲しみ、途方に暮れたところへ、さらなる事件を起こす、といった具合である。

そのようにして暗闇の勢力が信者の霊に絶えず圧迫を加えようとするのは、信者の主導権を奪うためである。信者の人生に害を与えるために、信者の人生の操舵室・司令塔そのものを破壊して、判断力・思考力・決断力を圧迫して奪い取るためである。

悪魔がそのようにしてキリスト者の主導権(自己決定権)を奪い取ろうと腐心しているところを見ても、キリスト者が完全に自主性を行使することは、キリスト者自身にとってだけでなく、宇宙全体にとっても、極めて重大な意義を持つのである。

生まれながらの人間には、外的現象をコントロールする力はない。たとえば、自分から遠く離れた場所で何が起きているのか、把握することができず、少し離れたところで、火災が起き、火の手が自分に迫っていても、その情報が自分にもたらされるまで、起きていることを把握することはできない。むろん、自分の周りにいる人間が何を考え、計画しているかなどは、さらに理解できるはずはなく、それをコントロールする力もない。

だから、生まれながらの人間には、外側から様々な現象を通してやって来る圧迫に抗う力はなく、それを防ぐことも、支配することもできず、ただ外的現象のなすがままにされて生きていると言っても過言ではない。

だが、信者の場合は、それとは違うのである。キリストの命によって生かされている信者は、生まれながらの人間とは違って、この世のすべてと十字架の死によって隔てられているため、外的現象に翻弄される立場にはなく、むしろ、これをキリストの復活の命によって治める立場にある。たとえ信者がクリスチャンになりたてであって、そのようなことが自分に可能だとは全く知らなくとも、少なくとも、キリストによって生まれた者には、イエスの御名によって、外的現象を治める権威が、たとえ赤ん坊のようなクリスチャンであっても、確かに与えられているのである。

多くの信者たちは、このような話を聞かされただけで戸惑うであろう。これは「超人」を生み出すための新種のオカルト的な教義なのか、はたまたニューエイジの話なのだろうかと思うかもしれない。だが、そうではない。主イエスの御名には、この地上にある全てのものを治める権威が実際に与えられているのである。

だとすれば、一体、なぜ、それほどまでに絶大な権威が与えられているにも関わらず、信者のほとんどは、未だ外的現象に振り回され、天候を気にし、事故や災害に怯え、人の思惑を気遣い、病や死に見舞われたり、不幸な事件に遭わないようにと、絶えざる不安の中を生き、それでもなお、望ましくない出来事に翻弄されてばかりいるのであろうか?

それは信者が、御名の権威を知らず、これに頼らず、これを行使せず、世人と同じように「ただの普通の人」として生きているからに他ならない。彼らは自分の自主的な自己決定権を一度も完全に働かせたことがなく、多くの場合、他人の言いなりになって生きているので、ほとんど人の奴隷と言っても差し支えない状態にある。

そういう信者が、キリストの御名の権威を行使するためには、まずは自分が人の奴隷となることをやめて、自己決定権を取り戻すところから始めなければならない。信者が完全なる自己決定権を自分に取り返して初めて、キリストの統治も、その人を通して現れ出ることができる。

さて、信者の外側で、外的現象が荒れ狂う時、主イエスが嵐を叱られたように、御名の権威を行使してそれを静め、従わせることは可能である。だが、そうなる前から、すでに信者の霊的統治は、外側の世界に及んでいる。

それは、信者の体全体に、信者の意志による統治が及んでいるのと同じである。脳が何らかの命令を下せば、神経を通じてそれが肉体の末端まで伝わり、体全体がその命令に従う。そのようにして、信者の体全体には一つの意志による統治が及んでいる。キリスト者の場合、それは魂による統治であるだけでなく、霊による統治である。

だが、キリスト者の霊的統治は、ただ彼の肉体の範囲だけにはとどまらない。体の外側にも及ぶのである。さて、ここからが肝心である。あらゆるオカルト的な力を身に着けた人々が、超自然的な活動に従事していることを、クリスチャンならば知っているであろう。一体、彼らのその能力はどこから来るのか。彼らは生まれながらの魂の力を発展させることによって、自分の身体の限界を超えて、世界に影響力を及ぼす秘訣を身に着けているのである。

だが、このような姿は、人間の本来的な自然な姿ではなく、人間の本来的な命を歪めて作り出された、キリストにある「霊の人」の悪魔的な模倣に過ぎない。オカルト的な方法で超自然的な影響力を行使する人々は、キリストの復活の命によって生きる新しい人を、悪魔的な力によって模倣しているのである。

すなわち、このことからも理解できるのは、キリストにある新しい人(霊の人)は、超自然的な能力を行使することが可能である、ということである。それは主イエスが地上におられた時、様々な奇跡をおこなわれたことからも理解できる。主イエスの統治は、彼の肉体を超えて、霊的な統治として、人々に及び、環境にも及んでいた。それはこの世の物流・経済・人の思惑や流れを見えないところまで把握し、支配し、変えてしまうほどの力を持っていたのである。

その力はどこから来るのかと言えば、霊から来るのであって、それが霊の命の統治に他ならない。霊の命の法則が、この世の滅びゆく命の法則と異なるので、それが地上で現れると、奇跡ととらえられるだけである。だが、キリストによって生まれた新しい人は、例外なく、この霊的統治の力を確かに持っている人間なのである。
 
このように言ったからと言って、それではクリスチャンは何かしら超人めいた偉大な存在になるのかと言えば、そうではない。キリストの霊の統治は、超自然的な力でありながらも、同時に、極めて優しく自然であって、何者をも圧倒せず、脅かすことがない。それはこの世の法則と常に調和して働くのである。

だから、オカルト的な魔術師が常に人を圧倒し、己が非凡な能力を世間に誇示しようとするのに対して、キリストの霊の命にある力は、まるで小川のせせらぎのように自然で、自分を誇ることがない。それは信者自身の生まれながらの弱さと絶妙に連携して働くので、世人は、信者を見ても、そこにみすぼらしい限界ある「ただの人」の姿しか見ることがない。それにも関わらず、信者は自分のみすぼらしい「ただの人」としての器の中に、はかりしれない神の霊の命が生きて働いていることを常に不思議な形で知らされるのである。

命というのは、意識していなくとも、独自に活動し、成長するのもであって、アダムの命もそうであるが、神の霊の命もそれは同じなのである。畑にまかれた植物の種が、誰からの指示がなくとも、条件が揃いさえすれば、発芽し、枝を伸ばし、葉を増やしていくのにも似て、神の霊の命も、成長するのであって、それは信者が「私はかれこれこのように成長しなければならない、葉は何枚にして、枝は何本、高さは何メートル、幹の太さは何センチ、根を張る深さは・・・」などと詳細な計画を立てずとも、自然に、その命に備わった性質と力によって成長して行くのである。

ほとんどのクリスチャンは、自分の内におられるキリストが、霊の命なる方であって、人格であると同時に、命である以上、その命は自分の中で成長するのだ、ということに全くと言って良いほど思いが至っていない。一体、霊の命が成長するとは、何を意味するのか、キリストの身丈まで成長するとは、何を意味するのか、それを具体的に考えたことのある信者はほとんどいない。ほとんどの信者が、キリストの身丈まで成長することを願う、と口では言いながらも、地上において全く神の命の力を味わうことなく、完全に「ただの人」として生涯を終えてしまう。それは霊的な領域に対して完全に無知であることから来る。

だが、聖書にも書いてある通り、信者の内にある神の命は成長するのである。そして、その成長は、霊による統治の拡大と発展を意味する。すなわち、信者の霊による統治の及ぶ範囲、強さ、状態、バランス、等々の要素が発展するのである。

信者は、たとえ自分で全く自覚しておらずとも、この地上に主イエスの統治(その統治とは、山上の垂訓の通りである)をもたらす見えないKingdom(王国)である。

このようなことは、ほとんどの信者は、全く信じていないか、口先だけで一度くらい唱えたことがあるきりだろう。なぜなら、ほとんどのクリスチャンは、誰かが作った「王国の模造品」のもとに絶えずお参りし、他人によって作られたしきたりに従い、他人によって統治され、動かされているだけなので、自分自身が「神の王国」である、と言われても、全くピンと来ないからである。この世の人々と同じように、それほどまでに、クリスチャンも自己決定権を奪われて生きている。だが、それは悪魔の欺きなのである。

信者が自分の内におられるキリストの権威と、彼によって自分の内に王国がもたさられていることの意味を生きて知るためには、信者はまず他者の国の奴隷として仕えるのをやめねばならない。まずは自分自身の主導権を取り戻し、自分の人生において世帯主としての権利を完全に回復することである。そして、主イエスと二人きりになって、一体、自分が主と共に治めるべき家(国)とは何なのか、それを考えてみるべきなのである。
 
しかしながら、たとえ信者が王国であることを全く自覚しておらず、まるで他者の国の奴隷のような状態になって、自分の自主性を忘れ去り、自らの霊の命の統治があまりにも弱々しく、あるかなきかの状態になっていたとしても、それでも、信者が生きている限り、彼の内で霊の統治も生きていることは変わらない。ただし、それは条件が揃わないので発芽しない固い種子のようなものであり、信者自身がこの命を成長させ、発展させることに注意を向けない限り、それは最後まで発芽しないかも知れない。だが、それでも、もし信者の再生が本当ならば、その命は生きているのである。そして、神の霊の命が生きている限り、悪魔はその信者を滅ぼすことは決してできない。

だが、信者の霊の命は、いつまでも固い種子のまま、発芽せずに終わるために与えられたものではなく、それは成長して実を結ばねばならないのである。

一体、実を結ぶとは何を意味するのか。ここでも多くのクリスチャンは全く意味を取り違えている。伝道し、回心者を増やし、教会員を増やし、教会の規模の拡大に貢献することが、「霊の実が結ばれる」ことだとほとんど人々が誤解している。
 
だが、実際は全くそうではない、ということを言っておきたい。霊の実が結ばれるとは、信者の霊的統治が発展し、拡大することを意味する。それは地上の教会組織の拡大や発展とは何の関係もないことである。そして、信者の霊的統治は、信者自身の心の願いに基づいて発展して行くのである。

コンピュータ・ゲームにも、都市建設やら、王国支配などといった種類のものがあり、ゲーマーは自分の願いや好みに基づいて、定められた領域をどう治め、どう領土を拡大し、発展させるかを決めて行く。その結果、自分の望みにかなう王国が出来上がる。

信者の霊の統治は、コンピューターゲームや、地上の戦争のように、地上的な領土を拡大したり、富を奪取することを目的としておらず、この地上に、山上の垂訓のごとく、神の御心を満足させる霊的な調和の取れた統治を、どれくらい実際としてもたらすことができるかを意味する。そして、その統治は、すべてをキリストに従わせるための戦いでもあり、その戦いは、まずは信者自身の心、体から始まる。

信者はキリストの命によって自分を治め、自分の人生を治めなければならない。体や心の反乱に悩まされ、振り回され、翻弄されるだけの人間であってはならず、地上における肉体的存在としての自分を、完全に霊に服従させなければならないのである。だが、そのような統治の過程で、信者は自分の霊的統治が、自分だけでなく、自分の身体を超えて、外側にも及んでいることに気づき始めるであろう。

それは最初は些細な気づきから始まる。たとえば、信者は自分だけでなく、自分の管理している持ち物や、生き物にも、神の祝福が及んでいることに気づくだろう。この世の物流や、人の思惑が、不思議な形で、信者の心の願いに合致するのを見るだろう。一体、どこまでが信者の「支配領域」なのか、筆者はそれを確かめたことはまだなく、それを完全に知っている人もいないであろう。いずれにしても、信者に「環境を治める力」が与えられていることは、確かであり、そして、キリストは「天地を治める一人の人」であるから、もしキリストの命の統治の完全性を知ることができるとすれば、信者は、その命が全宇宙を超えるほどの権威ある御名と一体であることを知るはずなのである。

暗闇の軍勢の狙いは、信者が持っているこのように絶大ではかりしれない命の力を、可能な限り、弱め、圧迫し、行使できない状態に追い込むことにある。暗闇の軍勢は、信者の霊の状態をかき乱すことによって、その霊的統治のバランスを崩そうとする。もし信者がはっきりと霊の統治について知っていれば、あらゆる攻撃をしかけて、その統治が成り立たないようにするし、知らないならば知らないで、決してそれに目覚めることがないように、より一層、この世的な制約で信者をがんじがらめにしようとする。

暗闇の勢力は、信者の霊の平安を失わせることに最も心血を注ぐ。信者の心や肉体に絶えず圧迫と攻撃をしかけ、信者が怒りや、悲しみや、悩みや、苦しみから抜け出られない状態に追い込み、信者の霊が平安を失うように仕向ける。なぜなら、神の霊の命の統治は、信者の霊が平安な状態にない限り、機能しないからである。

この霊の命の発展は、一方では、信者自身の内なる望みに基づいた自主的な拡大・発展と、他方では、外側から来る敵の攻撃に立ち向かう信者の霊的な防衛という二種類の方法で成し遂げられる。

いずれにしても、霊の人は超自然的な力を持っており、この力をきちんと行使する方法を知らない限り、神の霊の命の統治というものが何であるのかは、決して分からないと言えるだろう。そして、暗闇の勢力との戦いが、血肉によるものでなく、霊によるものである以上、この領域でどのように活動し、生きるかを知らないまま、時間を過ごすことは、信者にとってはかりしれないダメージとなりかねないのである。

だが、この霊の命の発展に関する学課を学ぶためには、信者はそれまでの常識的なものの考え方を離れる必要がある。道徳としてのキリスト教、慈善事業としてのキリスト教、教会組織拡大のためのキリスト教といった、人の生まれながらの頭脳によって十分に理解できる教えの中をどれほど探しても、この霊の命の発展に関して教えてくれる書物はない。だから、聖書の御言葉に直接、戻らなければならないし、なおかつ、御霊によって直接、教えられる必要がある。
 
命とはおのずから成長し、発展するものであるから、そこにヒントがある。命は、すべて自立したものであって、それ自体に組み込まれたプログラムによって発展して行く。たとえば、植物が成長するのには、空気や、水や、温度や、土といった、成長するために不可欠な外的条件はあっても、その命は、外側から誰かが指示を下さなければ、成長できないようなものではない。

同様に、神の霊の命にも、どのようにその命を発展させるべきか、ナビゲーターとしての御霊が備わっている。そして、神の命は、この世の物質条件に依存しない、完全に自立した永遠に朽ちない命であるから、その命は、この世の一切の外からの助けに依存せず、信者の有限なる肉体の中で発展するために必要なすべての条件を、自らの力によって呼び出して来ることができる。いわば、水や、空気や、温度を整え、必要な栄養を確保する機能も、その霊の命には備わっているのである。従って、信者はどこかから教科書を取り寄せたり、導師のような存在を引っ張って来ずとも、御霊を通して御言葉を教わることにより、今まで全く知らなかったその霊の領域についても、学び始めるのである。
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ひとこと

神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)

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