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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

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あなたはどこにいるのか(4)

前の記事で筆者が、信者は安易に生活を縮小してはならない、明日の恐れから生活を縮小するなど、もってのほかだ、悪魔を喜ばせるだけである、と書いた。

しかも、信者は自己の労働によって自分を養っているのではなく、神が信者を養って下さっているのだと書いた。仕事も、信者の努力によるのではなく、神が恵みとして与えられる。だから、信者は明日の心配をして、自分で自分をどうにかしようともがく前に、まず神を信頼して、神が全ての必要を満たして下さることを信ぜよ。それができない前に、恐れに駆られて、自分の持ち物を処分したり、生活を縮小したりすべきではないと書いた。

だが、「それは貪欲の罪ではないか」と、問う人が出て来るかも知れない。

「ヴィオロンさん、あなたは聖書に出て来る金持ちのように、ただ自分の持ち物に執着しているだけですよ。しかも、持ち物を自慢している。それは肉の欲であって、信仰ではないと思いますよ。あなたがそんなに家や車や財産にしがみついて固執していれば、いずれ持ち物に囲まれて死ぬだけなんじゃないですか」と、言う人が出て来るかも知れない。

だが、決してそうではない、ということを断っておかなければならない。筆者は貪欲ゆえに持ち物を手放してはならない、などと言っているのではないのだ。

ちょうどこの記事を書いている最中、筆者は再び仕事の切れ目に遭遇していた。前の仕事が終了してから、かなり長い間、筆者はただ「天にのみ雇用されて」いた。それは筆者自身が願ったことでもあった。

その間にも、随分、信仰によるスリリングな日々を過ごし、その都度、主の守りの確かさを味わって来たのだが、当ブログの前の記事で、筆者が「信者は不信仰ゆえに安易に持ち物を手放してはならない」と書いた時には、もっとスリリングな状況が展開しており、筆者は全く明日の保障のないところに立っていたのである。

だから、これは筆者自身にとっても大きな賭けであった。

もしも筆者がここに書いていることが、悪魔から来た提案なのであれば、それが全世界に明らかになるような結論が出たことであろう。つまり、聖書に登場するあの貪欲な金持ちのように、筆者は全財産にしがみついて自分が命を落とすか、それとも、全財産が取り去られて命だけは生き残るか、そういう結論が出ていたであろう。いずれにしても、生活を変わらず維持し、この場所にい続けることは無理だったであろう。

筆者はよくよく知っているのだが、この年明けから、暗闇の勢力による攻撃は、以前よりももっと激しさを増し、彼らは何が何でも筆者からすべてを巻き上げ、奪おうと必死なのである。特に、悪魔とその軍勢には、筆者が未だ横浜に居続けていることが我慢がならず、筆者がペットを飼って楽しんでいることはもっと気に入らない。筆者のブログは前々からずっと気に食わないので、閉鎖に追い込みたかったのだが、それ以外にも、彼らは筆者が何をやっても気に入らない。

要するに、彼らは筆者が生きていること自体が気に食わず、しかも、筆者が豊かに、幸せに、願いを叶えて生きて活動しているとなると、それはもう、地獄で歯噛みするほど悔しいのである。この地獄の軍勢が筆者に向かって吐こうとしているのは、「何もかも取り上げてやる。おまえは貧しくなれ。うんと苦しんで、その果てに死ね」という呪いの言葉だけなのである。

しかしながら、霊感商法でさえ、そんなにも簡単に客に正体を現さないであろうに、そんな愚かしい悪意だけから成る言い分に、一体、誰が耳を貸すのであろうか。しかも、キリストによって罪贖われ、十字架の死と復活を経た人間が、何故そんな無意味な言い分に耳を傾け、これを信じる必要があるのか? 悪魔の策略は撃退し、その呪いの言葉には、出て来たところへお帰りいただくのみである。そのような悪意ある言葉は、それを吐いた張本人のもとに帰れば良いのである。そうすれば、神の僕に対してそんな大それた挑発に及んだことを恥じ入るであろう。

今日、筆者は再び、筆者のために天に備えられていた新たな仕事をまた始めることになった。こうして「天の雇用」と同時に「地上の雇用」の二足の草鞋をまた履くことになった。いつかはこの世の経済から身を引く時が来るのだろうと思うが、今はまだその時ではない。しかも、仕事の開始日が、まさしく主のタイミングで、筆者が何一つ生活を削減しないで済むように、すべてが間に合う。

コネで就職した? そうではない。身内からの援助に頼って生き延びた? そんなこともしていない。郷里からは、コメと野菜と果物とコーヒー以外のものは送られて来ていない。筆者の親族には、筆者の生きている業界では、何のコネもツテもない。だから、すべては全くの天の采配であり、筆者にはもともと天におられるまことの生ける神以外には、コネというものは存在しない。面接に行ったその日に雇用が決まることも、普通では起きないが、面接者はその上、交通費を支払ってくれた。そして、台風が接近しているはずなのであるが、帰宅するまで、一滴の雨も降らなかった。帰宅してから、雷が鳴り、今、窓の外はかなりひどい雨である。

どう考えても、こういうことは普通では起き得ないことばかりである。だから、そこに主の采配があることをどうしても見ないわけにはいかない。たとえ地球全体が否定したとしても、筆者はそれが神が筆者の信仰に応えてなさった事柄であることを知っている。
 
神と筆者との、信仰による知られざる二人三脚の生活である。筆者が神に何かを率直に願い、御言葉に基づき、心から神の善意を信じて行動する時、そこに神が確かに応答して下さるのである。

「神は打ち出の小槌ではない。なのに、あなたは自分の願望のために神を利用しているのでは?」と意地悪く尋ねる人があるかも知れない。それも違う。どのように違うか、上手く説明することは難しいが、信者の信仰がもし本物なら、それは必ず試されるのだ。つまり、神でなければ決してできないというところを信者は通らされるのである。
  
今年に入ってから、筆者の人生はずっとこんな調子である。御言葉の灯だけを手がかりに、この世の薄暗いトンネルの中を歩き続けている。旅の道連れは、ただ神お一人だけである。年明けに、ジョージ・ミュラーの伝記の引用をどこかのブログで読んで以来、それが筆者の脳裏に焼き付いている。

その逸話は、うろ覚えなのだが、こんな内容であった。あるジャーナリストが、ジョージ・ミュラーのもとを取材に訪れた。そして、祈りだけによって孤児を養う彼の偉業を記事にしようとするのだが、ミュラーは彼が考えていたような偉大な祈りはしてくれない。その晩、記者の前で、ミュラーがようやく床に跪いて神に祈り始めた。だが、その声は、猛々しくもなく、むしろ、自信なげにか細く、優しい。そしてもっと驚くべきことに、ミュラーはこんな風に祈ったのだという。「天におられる父なる神よ。どうか力を貸して下さいませんか。明日の2000人分の孤児たちの朝食がないのです…」記者は腰を抜かしそうになった。

だが、実際に、孤児たちの翌朝の朝食は、ミュラーの祈り通り、不思議な方法で届けられる。記者は知ることになる、祈りだけによって孤児を養う「偉人」ジョージ・ミュラーの生活は、毎日がこんな風なのだと…。

うろ覚えなので、多少は間違っている箇所があるかも知れない。だが、大筋ではこんな風だったはずである。筆者はその逸話を読んでから、果たして、自分にも同じことができるだろうか、と問うた。こんなにもぎりぎりになるまで、明日の朝食がない時に、神だけを信頼して、神だけにすべてを委ねることができるだろうか。しかも、自分一人だけでなく、いたいけな子供たちの分まで? 

だが、ミュラーにできたならば、それは誰にでも可能なことなのだ。神はわけ隔てをなさらない方であって、ご自分を信頼する者すべての祈りに応えて下さるはずである。どうせなら、よりはっきりと神の偉大さが現されるよう、より難しい挑戦を生きた方が面白いではないか?

数年前から、筆者は「天に雇用されて生きる」というテーマを追求している。これは「天の経済に生きる」というテーマと同義である。つまり、筆者の確信するところでは、地上の経済の状態がどうあろうと、信じる者のために、天には常に備えがあり、それを信仰によって地上に引き下ろすことが、信徒の務めなのだ。地上の有様が悪くなって行けば行くほど、その確信を、筆者は強めずにいられない。そして、御言葉の正しさを生きて実際に証明するためには、年々、信者の信仰が深まることが望ましく、そのためにこそ試練がある。以前には通らなかったところを、筆者は信仰による応答として、喜んで通るようになった。

信じない人は信じないだろうが、信者の人生は、信者自身が、自ら信仰によって形作っているのである。信じない者には何も起きない。我々が望んだこと、信じたことが、現実になって行くのである。

だから、筆者がこの一連の昔の記事をずっと書き直している間にも、それなりの戦いがあった。筆者もまた、明日の保障のない中で、ただ信仰だけによって、今日という日を感謝して生き、明日への希望を主に託していたのである。そして、神は日々、見事な形で応答して下さった。まさしく聖書が言う通りである、明日のことは明日が思い煩うと・・・。

筆者の人生は、だんだんジョージ・ミュラーのような生活に近づいている。「助けて下さい」と神に祈ることも減って来ている。むろん、「助けて下さい」と祈ることもあるが、同時に、「神は助けて下さる!」と断言することが増えて来ている。神の御助けと守りを、本当にあるのだろうかと迷いながら、弱々しく懇願するのではなく、堂々と確信し、暗闇の勢力に向かって、宣言することも増えて来ている。
 
それでも、まだ「そんなのは悪魔の策略ですよ、繁栄の神学ですよ、ヴィオロンさん」と言ってくる人があるかも知れない。もうこれ以上、そういう人を説得する気はないので、信じない者は信じなくて構わない。

ただし、断っておけば、筆者は富むことも知っていれば、貧しい生活も知らないわけではない。長い間、筆者もまた、苦しみに満ちた生活を送り、その挙句の果てに、神の解放がありうると知って、今のような確信を述べているのであって、決して貧しさを知らないがゆえに、それを蔑んでいるわけではない、ということは言っておきたい。それに、筆者は地上的な栄耀栄華を目指しているのではなく、あくまで信者の健やかで自立した自由な生活を目指しているのである。

いずれにしても、言えることは、貧しさは、病と同様に、神から来たものではなく、悪魔から来た攻撃だということである。それは信仰によって撃退し、抜け出すことが実際に可能な策略であり、そうすることが、神の御心なのである。

神は信者がいつまでも貧しさや、病や、この世の様々な圧迫に苦しめられて、神の恵みと解放を知らずに生きることを望んでおられない。主イエスが地上におられた時、大勢の人たちを病から癒し、亡くなった者を生き返らせ、飢えた者には日々のパンを与えられたことを思うべきである。

むろん、主イエスは見えないパンである御言葉にこそ、見えるパンを供給する力があることを示されたのであって、この順序は決して逆にされてはならないが、御言葉には地上的な全ての死の圧迫から信じる者を実際に解放する力があり、主イエスはそれをはっきりと証明されたのである。

だから、主イエスの御言葉があるにも関わらず、それを信じないで、信者がまるで火遊びのように、貧しさや、病や、死と親しく戯れていれば、いずれその人は死に飲み込まれて滅ぼされるであろう。弱者を美化する偽りの教えに影響されて、貧しさや、病や、死を何か美しいもののように擁護して、これを大事に握りしめ、手放すことをためらっていると、その人はいつしか神の敵となっていく可能性がある。

主イエスは、羊に命を、しかも豊かに命を与えるために地上に来られたと、確かにおっしゃったのである。一体、信者はそれをどれくらい実際に知っているだろうか? もうこれで十分というところへ達したのであろうか?

信者を欺き、奪い、殺すのは、悪魔の所業であって、決して主がなさることではない。だから、信者が信じている神は一体、誰なのか、常に問われるであろう。私たちが信じている神は、貧乏神、厄病神、死神なのか、それとも、豊かに命を与えて下さる方なのか。

神の恵みは、常に信者の弱さを背景にして現れる。キリストの復活の命は、常に地上における人間の限界、弱々しさ、はかなさをバックにして現れ出る。我々は自己の有限性の中で、神の無限なること、神の全能なることを生きて証明する存在である。そこに信者の信仰の戦いがある。パラドックスがある。だからこそ、生涯の終わりまで、信者が偉大な「超人」になることは決してないであろう・・・。我々がどんなに非凡な神の恵みをこの地上で受け取っても、我々自身は、全く取るに足りない、平凡すぎるほどに普通の人間のままなのである。

それなのに、死は命に飲み込まれ、朽ちるものは朽ちないものを着、最終的には、この卑しい地上の有限なる体は、復活のキリストに飲み込まれる。だから、現実の信者の見た目の弱々しさ、限界、平凡さ、みすぼらしさにも関わらず、何がリアリティなのかと言えば、結局、地上にあるものではなく、天にあるものがリアリティなのである。

だから、変えられなければならないのは、我々を取り巻く環境だけではない。我々自身が、地上の人間から、天的な人間へと移行して行かなければならないのである。それも、命が尽きて天に召されてからのことではなく、この地上にあるうちにだ。
 
そのことを亡くなった姉妹からも、よく学んだものである。
 
さて、今日は少し疲れたので、この辺で止めておきたい。続きはまた時間のある時に書く予定である。

<2016年>
 
 
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