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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

命の御霊の法則に従って支配する―一羽の雀さえ、父のお許しがなければ、地に落ちることはない。(4)

「しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。だから、わたしは、『その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである。」(ヨハネ16:13-15)

さて、今回も、前回に続いて御霊の導きに従って生きることについて書きたい。

最近のオリーブ園のオースチンスパークスの連載が興味深い内容のため、冒頭で引用しておきたい。聖書箇所は、イエスがまだ幼子だった頃、両親がイエスを主にささげるために宮に連れてやって来たとき、救い主の誕生を待ち望んでいた祭司シメオンが、御霊の導きの中で、ちょうど神殿の境内に入って来たところである。

これはとても美しい調和のとれた絵図である。このように、何の前触れも約束もなかったにもかかわらず、まるで示し合わせたように、シメオンは出会ったその子が救い主であることを証し、祝福すると同時に、イエスに課せられた十字架の使命について語り、それゆえに母マリアが受けねばならない苦難のことも予告するのである。

この記事に該当する聖書箇所をそのまま引用しておこう。

「さて、モーセの律法に定められた彼らの清めの期間が過ぎたとき、両親はその子を主に献げるため、エルサレムに連れて行った。それは主の律法に、「初めて生まれる男子は皆、主のために聖別される」と書いてあるからである。また、主の律法に言われているとおりに、山鳩一つがいか、家鳩の雛二羽をいけにえとして献げるためであった。

 そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた。

シメオンが”霊”に導かれて神殿の境内に入って来たとき、両親は、幼子のために律法の規定どおりにいけにえを献げようとして、イエスを連れて来た。シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言った。

「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり
 この僕を安らかに去らせてくださいます。
 わたしはこの目であなたの救いを見たからです。
 これは万民のために整えてくださった救いで、
 異邦人を照らす啓示の光、
 あなたの民イスラエルの誉れです。」

父と母は、幼子についてこのように言われたことに驚いていた。シメオンは彼らを祝福し、母親のマリアに言った。「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。――あなた自身も剣で心を刺し貫かれます――多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」(ルカ2:22-35)


以上の箇所について、T.オースチンスパークスの解説している「御霊による生活」 第六章 聖霊の職務と御業 (5)(6)の記事を引用したい。

霊の人の定義

 少しの間、霊の人についてさらに考えることにします。霊の人とは何でしょう?霊の人は聖霊を受けて、聖霊の器官・機能・能力と一致するものに構成された人です。「主に結合される人は一つ霊です」。これは姿・性質の一致です。それはある種の性質や、性質の質だけでなく、能力でもあります。これは、これから生じる諸々の特徴、実際的性質を帯びた諸々の特性の存在を意味します。ですから、霊的識別力、霊的知覚、霊的知識の類があります。使徒は、御言葉があらゆる霊的理解力によって私たちの中に宿りますように、と祈っています。

 さて、これは物体に及ぼす力の働きとは異なります。物体は、その中にその力と一致するもの、その力に協力するものが何もなくても、衝撃を受けただけで動きます。その動きは純粋に力学的です。違いは、私たちの新しくされた霊の中には、御霊の諸々の器官と一致するこれらの器官が導入されており、そこには知的合一が存在するということです。

 これについて説明しましょう。ルカによる福音書の冒頭に、エルサレムにシメオンという名の人がいた、とあります。彼は正しくて敬虔な人であり、イスラエルの慰めを待ち望んでいました。そして、聖霊が彼の上におられました。さて、「両親が子供のイエスを、律法の慣わしにしたがって彼に行うために連れて来た時、この人が御霊によって宮の中にやって来た」と御言葉は告げます。

「前もって手配されていたに違いない。シメオンは祭司だったのだから」と考える人々もいるようです。記録はそのようにはまったく述べていません。ここの語り口はとても自然です。両親は子供のイエスを主に捧げるために連れてきました。この人がそこにいたのは、子供を受け取る用意の整った司式の奉仕者としてではありませんでした。彼はちょうどその時、宮の中にやって来たのです。

「彼は偶然ちょうどその時やって来たのです」と言うべきでしょうか。否!彼は御霊の中でやって来たのです。両親が子供のイエスを連れて来た時、シメオンがその子が誰かを知っていたことを示唆するものは何もありません。だれも、「この子がイエスです」と言いませんでした。彼は外見的には他の子供と同じように見えました。宮の中にやって来た数百、数千の子供たちと、おそらく何の違いもなかったでしょう。普通の両親に普通の赤ん坊でした。

エルサレムで生活していた人であるシメオンは、ちょうどその時、御霊の中でやって来ました。そして、両親が子供を連れて来た時、彼はその子を両腕で抱いて、極めて驚くべきことを述べ始めました。「主よ、今こそあなたは、あなたの御言葉にしたがって、あなたの僕を安らかに去らせて下さいます。私の目があなたの救いを見たからです」。両親は過去を思い出しました。この人は何について話しているのでしょう?どうしてこの人はこのことをすべて知っているのでしょう?これはどこから来たのでしょう?


 その意味合いがわかるでしょうか?シメオンは御霊によって入ってきました。彼の動きは御霊によりました。彼の動きは御霊によって時が計られていました。そして、彼がその赤ん坊を両腕の中に受け取った時、御霊は彼の霊に「この子がキリストです」と証しされました。その赤ん坊が誰なのかを示唆するものは他に何もありませんでした。御霊はキリストについて証しされました。これはつまり、シメオンには、彼の上に御霊がおられたがゆえに、霊的知覚があったということです。自分がキリストの御前にいた時、彼は自分の霊の中で彼を認識しました。

 今、霊の人とは何かわかります。シメオンは一つの例です。とは言っても、後の、ペンテコステ後の霊の人の完全な代表ではありません。霊の人は御霊の促しによって動く人であり、その動く時は聖霊によって計られています。霊の人はいつ動くべきかを御霊によって知ります。御霊の中で動くことにより、キリストに関する御霊の諸々の秘密を発見します。したがって、霊的知覚の器官を持っており、主が何事かをなさっている時、それを知ります。この器官は、神の大いなる御旨に関する機能へと導きます。

 これはあなたには難しく聞こえるかもしれません。しかし、ローマ八章によると、これが信者の正常な生活です。確かに、私たちはその中に直ちに完全に入るわけではありません。「あらゆることで成長して彼へと至りなさい」というパウロの御言葉が私たちに想起させるように、私たちは成長してそれへと至るのです。



この記事では、上記の記事については詳しく触れないが、信者が御霊の導きの中で行動する時、そこには偶然と呼ぶにはあまりにも不思議な調和の取れた神の最善の巡り合いが起きていることが分かるだろう。むろん、それは御霊の命の支配によって起きることであって偶然ではない。

この記事では、信者の実生活に生きて働く御霊の働きについて述べたい。冒頭に挙げた聖書の御言葉を通して、私たちは、聖霊が、来るべき事柄を信者に教えてくれることを知っている。つまり、聖霊は未来についてのビジョンを私たちに見せられるのである。
 
別な言葉で言えば、そのビジョンは私たち自身が心に抱くものでもある。

信者は、御霊の導きに従うことも、その外に出ることもできるが、いつどういう時に、自分が御霊の導きに従って行動しているのか、必ずしも自分ではっきりと知らない場合がある。

多くの信者は「一体、どうやったら、私は何が御霊の導きであるかを知ることができるのでしょうか。どうやったら御霊を悲しませないように行動できるのでしょうか。私のしていることが、御霊の導きに反するものではないかどうか、私には分からないのです。そうである以上、私は主を悲しませたくないので、私のしていることが、御霊の導きに反しないという確証がない限り、信仰によって何も行いたくないのです」などと言うかも知れない。

そんな風に、御霊の導きから逸れること怖さに、自分が行うすべての決断が、御霊から来るものだと確信できないことには、一歩たりとも動かない、などと言う信者もあるかもしれないが、御霊の導きとはそういう風に、まるで占いでもするように、これから自分は右へ進むべきか、左へ進むべきか、はっきりしたお告げを受けなければ、何もしないという生活のことではない。

確かに、御霊は、時には、何かの具体的な行動を明白に信者に対して禁じられたり、何をなすべきかを明白に教えられたり、待つよう求められることがあるが、しかし、多くの場合、信者にはただ普通に行動しているだけの膨大な時間がある。

そのとき、信者には特に自分が御霊の導きを受けて行動しているという自覚はないかも知れないが、それでも、そういう時にも、信者が御霊の調和の中を、信仰によって歩み、何かを待ち望んでいるならば、信者が特に何かを確信して行動しているわけでなくとも、常に御霊は信者と共に働いて、御霊の命の統治の原則がその人と周囲に及んでいるのである。

一体、御霊の導きとは何なのか。それを形容することは少し難しいが、御霊はすべてを支配する超越的な命であって、信者の信仰を通して初めて働きをなすと同時に、ナビゲーターのような働きをも持っており、常に未来へ向かって信者を進ませる。

御霊が、信者に進むべき具体的な方向を指し示すことは少なくないが、ナビに目的地を設定するのはあくまで信者自身である。

信者は信仰によって、自分が何を望み、何を成し遂げようとしているのか、その目的を自分で設定しなければならない。たとえば、シメオンの望みは、「生きているうちに救い主をこの目で見たい」というものであった。あるいは、ジョージ・ミュラーは、寄る辺ない大勢の孤児を信仰によって養いたいと願った。

こうして、信仰によって抱く目的は、信者個人によって異なるものである。必ずしも福音伝道のために是とされているものだけではない。信者自身の生活の必要、あるいは、信者の極めて個人的な願いもそこには含まれる。明らかに主を悲しませる悪であると分かっている事柄でない限り、どんな目的でも願っていけないということはない。あるいは、筆者のように、大型鳥を飼いたいといった願いでも構わないのである。

その目的を、信者は信仰によって今待ち望んでいる目的の一つに設定する。すると、信者がそこへたどり着こうと歩みを進めたその瞬間から、御霊が共に働き始める。(もちろん、筆者はここで御霊が信者の願い事を叶えるためのサーバントだと言っているわけではない。信者の願い事の目的は、ただ自分が満足することに終わらず、あくまで神に栄光を帰することにあるからだ。)

しかし、多くの場合、ただ目的地を設定しただけで、御霊が自動的に信者をそこへ平穏無事に送り届けてくれるというわけでは決してない。まず、信仰によって望んだ目的が実現するためには、信者は必ずと言って良いほど、何かの困難(試練)の中を通らなければならない。あたかも約束によって待ち望んだものが、失われたかのように思われたり、はるかに遠く、手の届かないところにあるように思われたり、長い時間がかかり、信者が自分にはそれを目にすることができないのではないかという不安を持つような状況の中を通らされなければならないことがよくある。

その試練を、信者が信仰によって乗り越えて、周りの状況がどうあれ、待ち望んだものから目を離さずに、確固として目的を目指し続け、達成が可能であると信じ続けて行動したとき、信者が望んだ事柄が実際にこの地上に目に見える形で実現するのである。

とはいえ、ほとんど困難が伴わずに自然に望んだものが実現する時もある。

話は変わるようだが、筆者は昨年頃から、小型~中型鳥の色変わりの鳥を探して来たのだが、なかなか美しい色合いの鳥は見つからず、遠い店まで出かけて行かねばならないなどのこともあって、しばらく鳥探しを中断して、そのような目的があったことさえ自分で忘れかけていた。

ところが、今年、初めて訪れた店で、昨年からずっと探し続けて来た色々な種類の鳥たちを偶然のように一挙に見つけたのである。筆者は以前にもそのようにして鳥を一挙に増やしたことがあったのだが、その時の比ではない珍しい種類の鳥たちに出会った。筆者の鳥ライフになぜかはよくは分からない自然なグレードアップが起きたような具合だった。

そこで、鳥たちの取り揃えを変えたのに合わせて、鳥かごも変えることにして、金色の大きな鳥かごに、珍しい南国の明るいオレンジやブルーの珍しい鳥を何羽も入れてみた。すると、ほんのわずかな価格で買える文鳥たちまで含めて、我が家の鳥たちがみんな、大邸宅の大理石の床に飾ってある豪華な鳥かごの中にいる鳥たちのように見えるようになったのである。

一言でいえば、何もかもが見違えたのであった。その時、初めて、筆者は、鳥というものは、インテリアの一部のように、目の保養として楽しむべき生きものなのであって、それができなければ、鳥の魅力の半分も味わったことにはならないということが分かった。

そして、そこからさらに進んで、このように素敵な装飾としての鳥たちがいるならば、それに見合った家や部屋があるべきで、むろん、今の環境もそれなりに筆者が自分で工夫したものとはいえ、すべてを今以上にグレードアップすることが可能なのだということを思わされたのである。

筆者は長年、鳥の愛好家のつもりだったが、小鳥の楽しみ方においては、ずいぶんと質素すぎるほどに味気ないつまらない人生を歩んで来たことを感じた。ほんのわずかな魅力すらも、まだまだ味わっておらず、この先、もっともっとはるかに豊かな生活が待ち受けていることに、今更のように気づかされたのである。

もちろん、筆者の家には文鳥などのありふれた鳥たちもたくさんいるので、これは決して珍しくない鳥には価値がないなどと言っているのではない。だが、たとえば、市場に出回っている鳥かごは、筆者も色々と試してはみたが、どれもこれも、決して見栄えが良くなく、まるで鉄格子の檻のように殺風景にしか見えない上、サイズも十分でなく、餌入れも小さいので、補充を忘れたときのリスクが高く、フードフィーダーをつけるようなスペースの余裕もなく、構造的にも、目の届かない死角が実に多く危険であった。

何よりも、市場に出回っている鳥かごは、小鳥を鑑賞する目的のために作られたというよりは、一般家庭の部屋の大きさに合わせて、最低限度の設備を用意しただけのものであって、美観の点でよろしくないだけでなく、世話するにも決して最適と言えないことが分かった。

小鳥というものは、その愛らしい性格もさることながら、まずはその姿形の美しさを鑑賞して楽しむことこそ、飼い主に与えられた最大の特権である。だが、その特権を存分に味わうためには、やはり、小鳥を美しく見せられる環境がどうしても必要となるのであって、広々とした場所で、伸び伸び暮らさせて、世話をすることが決して苦痛にならず、億劫にも感じられない環境を作ることができて初めて、飼っている側も楽しい気分になれる。

そう考えると、第一に、必要なのはスペースということになろう。鳥も人間もやっとのことで生きているような環境ではまるでダメなのである。最終的には、広々とした家が必要になるのは言うまでもない。大型鳥の愛好家たちは必ず口を揃えて言う、籠の中に閉じ込めておいてはいけない、鳥のために一部屋は確保するのが最善であると。

そのようにして、小鳥たちの飼育環境について考えながら、筆者は自分の生活にも、決定的に欠けていたかも知れない要素について考えさせられた。たとえば、鳥かごを変えただけで、同じ鳥が、見違えるようにきれいに見える。だが、市販の鳥かごではなかなかその願いを実現できない。この原則を人間に当てはめたらどうだろうか?

人々は、洋服やら髪型やらにはこだわり、自分を美しく見せるために、あれやこれやの工夫をするかも知れないが、そのような小手先のごまかしのような工夫はさて置き、そもそも自分を入れる鳥かご(自分の生きる環境条件そのもの)について、神に大胆な願い事をしたことはあるだろうか? これは家のことだけを指すのではない。すべての環境条件を指している。

人は自分のためにどんな環境を願うだろうか。

かつて筆者の小学生時代の友人の家では、文鳥一羽を入れられるのが関の山という程度の広さの竹籠に、五羽の文鳥が入れられていたのを思い出すが、そういう環境をあなたは望むだろうか。それとも、大きな翼を持って、遠い距離をゆうゆうと渡ることのできる鳥が求めるような環境条件を願うだろうか。

私たちを最も魅力的に見せることができるのは、主人である神の愛情に満ちたとりはからいであるが、私たち自身が主に何も願わないなら、主も私たちに何もお与えにはならない。私たちは鳥ではないが、私たちが自分を何者だと思い、自分のために何を願うのか、どんな条件を求めるのかによって、私たちを入れる「鳥かご」のサイズも変わって来る。

冒頭の記事の趣旨とは異なると感じられるかも知れないが、御霊によって生きるとは、御霊の命の統治の中を生きることであり、その命の支配は、必ず私たちの信仰と連動して働く。そこで、私たちが何を信じ、何を願い、何が自分にふさわしいものであると考え、どんな条件を実現しようとするのか、その願いに連動して、命の統治の力が働く。従って、私たちの願いがあまりにも小さく凡庸なものであるなら、御霊の働きもそれに見合ったものにしかならないのである。

筆者は、美しい鳥たちの姿を見ながら、空の鳥も、野の花も、海の魚たちも、何もかも、すべての生き物は神が人間のために造られたものであることを今更のように思う。それにも関わらず、人間は何とこれを楽しむどころか、重荷や苦痛に変え、この小さな命を通して与えられた祝福を全く味わわずに通り過ぎているのだろう。そのようになっている原因は、人間側の思いの狭さにあるに違いないのではないだろうか?
  
信じる者たちは、一体、何を願うのかによって、その人の人生に信仰を通じて実現する内容、スケールも全く違ってしまう。

 シメオンが願ったように、救い主を生きて見たいという願いを抱くのか、それとも、ジョージ・ミュラーが願ったように、数えきれない孤児を養いたいと願うのか、あるいは、筆者が書いたように、数えきれない鳥を養うことのできる巨木のような、尽きない豊かな資源が備えられている環境を願うのか。あるいは、ただ自分一人かろうじて死なずに生きられる程度の環境が与えられればそれで満足するのか。

神がどんなに素晴らしい方で、御霊にどんな力があろうと、信者が何も願わず、何も信じなければ、何一つ起こることはない。

最後に、こうした文脈でしょっちゅうよく引用される詩編の句を引用しておきたい。ここには、信者が信仰によって大きな願いを心に抱くべきことと、それと同時に、それが実現するために守らなければならない掟が記されている。冗長な解説は省くが、その掟さえ守って生きるなら、信者の生活からは、無用な重荷が取り除かれ、信者に敵対する者には、神が報復をなさり、信者の生活は、最良の小麦、飽くほどの蜜で、存分に潤される。

流れのほとりに植わった木のように、暑さや日照りに関係なく、欠乏とは無縁の、溢れるほどの命の豊かさを味わう生活を送れるのである。
 
「わたしは思いがけない言葉を聞くことになった。
わたしが、彼の肩の重荷を除き
 籠を手から取り去る。
 わたしは苦難の中から呼び求めるあなたを救い
 雷鳴に隠れてあなたに答え
 メリバの水のほとりであなたを試した。
 
 わたしの民よ、聞け、あなたに定めを授ける。
 イスラエルよ、わたしに聞き従え。
 あなたの中に異国の神があってはならない。
 あなたは異教の神にひれ伏してはならない。
 わたしが、あなたの神、主。
 あなたをエジプトの地から導き上った神。
 口を広く開けよ、わたしはそれを満たそう。

 しかし、わたしの民はわたしの声を聞かず
 イスラエルはわたしを求めなかった。
 わたしは頑なな心の彼らを突き放し
 思いのままに歩かせた。
 わたしの民がわたしに聞き従い
 イスラエルがわたしの道に歩む者であったなら
 わたしはたちどころに彼らの敵を屈服させ
 彼らを苦しめる者の上に手を返すであろうに。

 主を憎む者が主に屈服し
 この運命が永劫に続くように。
 主は民を最良の小麦で養ってくださる。
 「わたしは岩から蜜を滴らせて
 あなたを飽かせるであろう。」」(詩編81:6-17)

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神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)

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当ブログに対して長期で行われている嫌がらせ事件は、只今、刑事事件として捜査が進んでいますが、某所で悪質な記事やコメントの投稿が続けられているため、犯人に関する重要情報をお持ちの方は、ぜひ神奈川警察署刑事2課へ通報ください。当ブログに関する物騒な記事やコメントを見つけられた方もどんどん通報して下さい。

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