忍者ブログ

私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

キリストの内に隠れる(1)

「あなたが行ってその地を獲るのは、あなたが正しいからではなく、またあなたの心がまっすぐだからでもない」(申命記9:5)

神が私たちの正当性や、私たちの心の正直さをご覧になって、私たちを恵まれることなど、決してあり得ない。仮に、私たちが信仰の歩みを大胆に歩き続けて、今や一年前、二年前よりもはるかに信仰が成長した、と思っていたとしても、その進歩ゆえに、神が私たちに何か特別な寵愛を賜るということは決してない。

むろん、神は信仰を喜んで下さるし、信仰に応じて、私たちに御言葉を実際として下さるが、しかし、私たちが恵みを受け取るのは、自分自身のゆえでなく、あくまで、主イエス・キリストのゆえである。

だから、信者はあまり自分を振り返って、自分がどれくらい聖潔になったか、とか、どれほどクリスチャンらしくなったか、とか、どれくらい努力して信仰が成長したか、とか、そういったことばかりを見ない方が良い。

これは決して放縦でいい加減で無責任な生き方を奨励して言っているわけではない。信者が神の御心にかなう生き方を目指し、神の義と聖に近づきたいと追い求めることは、有益なことであって、それはやめるべきことではない。

だが、信者はどちらにしても、私たちは自分の力でそれを達成することはできないのである。だから、信者はどちらかと言えば、自分がどれくらい進歩したかに注目するよりは、自分の失敗を徹底的に吟味して、そこから成功の秘訣を探り出した方が良い。

オリンピックを目指す選手でも同じことであろうが、自分が何かを「達成した」などと思っていると、もうそれ以上、高みを目指すことは不可能となる。

これは決して、自分に厳しすぎることの奨励ではない。そうではなくて、私たちは生きている限り、神と共に手を携えてできるだけ遠くまで歩きたい、というビジョンを持つことは有益である。

だが、遠くまで行くためには、あえて今の自分に自己安堵せずに歩き続けることにこそ、価値がある、ということを言いたいのである。

信者の祈りや、信仰告白は外に見せるためのものではない。信者が自分は「どれだけ進歩したか」を推し量り、その進歩の度合いを世間に証明するために、信仰告白が存在するのではない。

それは一種の罠である。「自分はこれほどクリスチャンとして真面目に努力している」という、自己の正しさをアピールするために、証を書き続けることは、大きな罠である。むろん、暗闇の勢力の前では、「キリストにあっての正しさ、成長、豊かさ」を大いに誇るべきである。

だが、自分自身の進歩だけを目的に信仰生活を送るようになれば、信者は自分の告白によって罠に落ち、すっかり自己安堵してしまうであろう。

だが、信者は、どこまでも今到達している地点に満足することなく、「まだ見ぬ約束の地」を目指して、主と共に歩き続けるべきであり、その目指している目標は、他者には理解することができず、誰とも分かち合うことができない、信者自身に与えられた約束の地である。

信者はそのゴールを、神と共に親しく交わり、語らいながら、発見し、神と協力してそこを目指すのである。そのゴールは、偏差値のように、何かしら一般的な物差しではかれるものではなく、あくまで信者の個別の人生で与えられる個別の人生設計である。

人前に「進歩した」と認めてもらうために、霊的な階段をいち早く上に駆け上がっていこうとすることには全く意味がない。だが、信者は、真に神から認められるために、本当の「上昇志向」に生きるべきであり、それは人の目から隠されたところに存在する生活の中にある。 
   

PR

ひとこと

神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)

ヴィオロンのブログ

最新記事

アーカイブ

ブログ内検索

カテゴリー