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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

神の国とその義を第一として生きるならば、地上を生きるための必要はすべて添えて与えられる。

さて、一つ前の記事は、今から何年も前に起きた出来事を指しており、その後、筆者はこの世の不正に巻き込まれず、むしろ、それを拒み、理不尽には毅然と立ち向かうことを続けて来た。そうして立ち向かう仕事は、だんだん筆者の真の意味での「お仕事」になって来たと言える。

多くの人は知らないが、世の中では、正しいことは正しい、間違っていることは間違っていると、臆することなく、公然と根気強く主張し続けることによって、無益な騒動が起きるどころか、失われた利益が豊かに戻って来ることが多い。

むしろ、どんな理不尽に巻き込まれても、何一つ苦言も呈さず、抵抗もせず、ただ暗闇の勢力のなすがままに翻弄されているからこそ、一方的に奪われるだけに終わるのであって、嘘や不正には毅然と立ち向かうべきなのである。それをしない限り、人は自分を犠牲者とする道を自ら選んでいるも同然なのである。(ただし、このことは事実を公然と主張することを意味し、力づくで復讐を果たすこととは全く訳が違う。)
 
特に、我々の年代以下の世代は、きちんと声をあげて自分の権利を世の中に主張することをしなければ、この先、未来永劫、強欲な経営者(や年長世代ら)によって踏みしだかれ、犠牲とされていくだけである。筆者は世代間の対立を煽るためにこう言うのではない。それが高齢化社会の避けられない構図だからである。(また、それは先祖崇拝や儒教などの精神のもたらす弊害でもある。)
  
そこで、たとえ自分よりも年長であったり、力の強い人間を相手にする時であっても、自己の尊厳を守るために、自分自身の命を守るために、嘘は嘘であり、不正は不正であり、誤ったことは誤っていると、公然と主張すべきであって、それをするかしないかは、生死を分ける問題なのである。

そんなわけで、筆者はかつて信仰の友が語ってくれた通りに、反対に遭っても、あきらめないで根気強く訴え続けることの重要性について、今に至るまで大いに学ばされている。神に対しても、人に対しても、その原則は同じである。

時には、神に対しても、一歩も退かない覚悟で、自分の望みを切に申し上げ、答えを得るまで、直談判を続けねばならない。そして、神はそのように強い願いを持って、ご自分を信頼して御許にやって来る人々を、決して無碍に退けられることなく、むしろ、その願いを喜んで受け止めて下さる。

そのため、私たちはただ自分が生き延びられさえすればそれで良いなどという、あまりにも低い目標で満足して生きるのではなく、決してあきらめることのできない崇高で切なる願いを、誰しも持つべきである。そして、それをこの社会に、人々に訴え、まことの神に訴えながら、根気強く実現を目指して生き続けるべきなのである。

ところで、話題は変わるようだが、筆者の地上の家系には、求道者の血筋が流れていると言えるかも知れない。

筆者は現在、キリストにあって、地上の生まれとは全く異なる新しいアイデンティティを生きているが、それでも、時折、地上の生まれにも、深い意味があったのかも知れないと思いめぐらすことがある。

そう思うほど、筆者の家には、宗教に関わりのある人々が多く、キリスト教徒も、数は少ないが、祖先にいないわけではない。どうやら筆者の地上の家系には、飽くことなく道を探求する血筋が受け継がれているようである。

しかし、筆者は中途半端な求道者にはなりたくない。どうせならば、生涯に渡り、本気で道を究め、真剣勝負で生きたいものである。

筆者の遠い親戚のある一人は、若い頃に、尼僧になろうとして禅寺に出家した。本来ならば、この世を最も謳歌していて不思議ではない娘時代のことである。

彼女は少しも引っ込み思案でもなければ、厭世的な性格でもなく、むしろ、幼い頃から活発で、怜悧で、いつも大勢の友達に慕われ、成績も抜群で教師からの覚えもめでたかった。

それにも関わらず、俗世での成功をすべて捨てて構わないと決意したのには、おそらく、戦後、敗戦の根本的な反省もないままに、経済成長だけを至高の価値のように目指していた当時の時代の風潮や、物資と愛情に不足しながら育った家庭環境への疑問が影響していたのではないかと思われる。

彼女は、自分の生まれ育った家庭を見て、一体、これが真の幸福だろうかと疑問に思い、家庭に入って妻となり母となるという役割は、人生のゴールたりえないと思ったのであろう。また、受験競争や就職戦線を通して、何なく勝ち得られそうなこの世のもろもろの成功も、移ろいゆく表面的な有様に過ぎず、真の満足を見いだせないものと見たのであろう。

目に見えるものよりも、もっともっと本質的で、永遠に消えることのない確かな価値を求めて、か細い希望を辿りながら、暗闇の中を手探りするように、俗世における幸福をすべて捨てる覚悟で、修行に入ったと見られる。

しかし、その探求は中途で止まってしまった。修行中に、生涯独身を貫くことを覚悟していた彼女に、熱心にプロポーズする人が現れたのである。その人もまた修行僧であった。「あなたには尼さんのような孤独な生活は向かない。ぼくが住職になるから、ぼくの妻になって、ぼくをサポートしながら、幸せな生活を送りなさい」

真面目で働き者だった彼女は、人を助けることには向いていたと思われる。そのプロポーズの言葉を、真摯な愛情だと思い、尼僧になる道をあきらめ、住職の妻となり、家庭に入った。

しかし、その後、歩んだ道は、およそ道と呼べるものではなく、彼女が当初、探求していた目標とは、大きくかけ離れていた。

苦しい修行の時代が終わると、黙っていても、死者が出る度に、寺にはいくらでも収入が入ってくるようになった。夫も遊び好きで、贅沢な別荘を買い、国外へ進出し、豪奢な生活をほしいままにした。

子供たちにも何不自由ない暮らしをさせて、良い大学に進学させ、良い就職先に送り出した。あるいは、寺に嫁がせたりと、ちょうどキリスト教界における牧師の師弟らが政略結婚を重ねているのと同じように、血縁とコネがものを言う、世俗にまみれた特権的生活が築き上げられたのである。
 
それは、外見的には大きな成功であったかも知れないが、若い頃に彼女が真剣に探求していた道とは随分、異なっていただろう。本当にそんな生活を送るために、寺に入ったのだろうか。これでは俗世と何の違いがあろうか。しかし、その疑問は、心の奥底に封印されてしまった。

そのうちに人生の引退を考えるべき年齢になり、夫も病に倒れ、以前のように精力的な活動ができなくなった。幸福という幸福は手に入れたので、人生でやり残したことはもうないかのようであった。だが、幼い頃からずっと抱えて来た心の飢え渇きは、答えを見つけて解消しない限り、老人になっても、ずっと満たされないまま持ち続けられる。

夫に尽くし、子供に尽くし、寺を発展させるという選択肢がもはや人生の第一目的ではなくなった時、彼女は、生まれ育った家庭の両親を振り向いて、親の必要を満たすために尽くし始めた。

しかし、それは自分がすでに出て来た家庭であり、そこでは、すでにほかの兄弟が親に仕えていた。

にも関わらず、彼女は夫に仕えるようにかいがいしく両親に奉仕し、湯水のように使える金を惜しまず介護に投じた。
 
だが、その奉仕は、兄弟には喜ばれなかった。むしろ、やればやるほど、兄弟との間にライバル関係が出来上がって行ったのである。それはただ幼い日の生活の再現でしかなかった。

彼女の親は、彼女の熱心さ、親切さを大いに利用したが、それは娘を評価するがゆえではなく、自分が有利になれる保険を常に用意しておくことが目的だった。

悪い親は、子供たちを自分の利益の道具として競争させて、ライバル関係に置く。兄弟姉妹の信頼関係はそのせいでズタズタに壊され、もしそのことに気づかなければ、生涯に渡り、血を分けた兄弟姉妹の間で、親の評価を奪い合う骨肉の争いが続くことになる。
 
彼女はそれが分からず、親に仕えた。それはちょうど彼女が、尼僧になる道を捨て、夫の人生のサポート役として、自ら夫の出世を実現するための道具となって仕えたのと同じである。
 
彼女はそれが善意であり、親切だと考えていたのであろう。しかし、彼女が仕えた相手にとって、彼女は保険でしかないことを考えてみなかった。
 
彼女が彼らに仕えれば仕えるほど、ますます彼らはわがままになって行き、彼女の誠意を軽んじるようになった。それは彼らがいつも、彼女とは別な誰かを天秤にかけて、彼女と競争させることで、自分に有利な結果を引き出そうとしていたからである。
 
彼女の奉仕は、平和ではなく争いを生んだが、彼女はそのことに気づかなかった。
 
出家したにも関わらず、彼女がそのように自分の家を重んじ、人の関心や評価を勝ち取るために、人の利益に仕えて生きて来たのは、おそらく、まだ日本が豊かさの中に入っていなかった幼い時代に、彼女が両親から十分に振り返ってもらえず、物質的にだけでなく、精神的にも貧しい家庭生活を送ったことに原因があると見られる。

その時代、同じような幼少期を送った人々は多かったであろう。彼女は決して親を煩わせることのない、よく出来た子供であったが、そのように優秀であったがゆえに、余計に、必要な時に親に助けを求めることもできず、振り返ってもらうことのできない寂しさを心に抱えていたと考えられる。

その満たされない思いが、大人になり、老人になっても、持ち続けられ、そのせいで、人からの評価や関心が欲しいという心の飢え渇きが、出家後も、我が道を貫くことを邪魔して、彼女を常に人の思惑の方へとひきつけて行ったのである。
 
それは、彼女が出家しながらも、真の意味での「出家」ができていなかったことを意味する。生まれ育った家庭からのエクソダスが、心の中で完了していなかったからこそ、自分の心の探求よりも、地上の「家」を優先して生きる道に舞い戻ってしまったのである。
  
筆者はこの人に直接、聞いてみたことはないが、心の中で次のように問うてみる、禅寺であなたが探していた答えは見つかりましたか。そこで人生の本当の満足は得られましたか。裕福な家庭を築き上げることが、あなたの出家の真の目的だったのでしょうか。それから、あなたを幸せにすると約束した人は、本当にその約束を果たしてくれたと思いますか。むしろ、あなたを道から逸らして、あなたが目指していたのとは全く違う目的のために、あなたを都合よく利用しただけの可能性があるとは思いませんか。
  
もしもその推測が当たっていたとして、あなたを取り巻く人々が、あなたに対して心から忠実でなく、あなたの親切心や善意を利己的な動機で利用したのだとしても、それは他ならぬあなた自身が、自分の心が最も求めていた答えに忠実でなかったから、周りの人々も、あなたに対して同じように振る舞ったのだとは思いませんか?

あなたは道を究めようとしながら、同時に世俗の幸福を追い求めた。それは二心ではなかったでしょうか。豊かに生きることが悪いことなのではない。しかし、禅の道に入ったのは、決してこの世の成功を第一に目指して生きるためではなかったはずです。あなたにはそれ以上に求めていた目的があったのではないでしょうか。

人から真に評価を勝ち得たいと思うなら、そのためにも、我が道を貫かねばならず、望んでいる最高の答えを見つけ出さねばならないのです。

しかし、あなたは本当の答えを見つけるために、孤独な生活を耐え抜いて、納得がいくまで、すべての物事を見極めるという探求に、自分は値しないという人の言葉を信じてしまった。

あなたはそのような高い犠牲を払える人間ではないから、その道は早々にあきらめた方が良いという他人の言葉を信じてしまった。その人は、その言葉をあなたのために発したのではなく、自分のために発したのに、あなたにはそれが見抜けなかった。そして、求めている最高の価値に、自分は値しないと思い込み、他者のサポート役に徹し、自分の目的をあきらめたから、あなたの探求は、世人と同じように、中途で終わってしまったのです。

だからこそ、現在のあなたの生き方の中には、俗世の人々と同じ価値観の他、出家して初めて得られたという知恵と喜びが見受けられないのです。
 
* * *

上記の話は厳しい批判の言葉であるが、一種の比喩である。クリスチャン家庭にも、似たような事例は数えきれないほどある。真理を探究しながら、途中で別の道へ逸れていく人は、いつの時代にも後を絶たない。
 
人の目には、この世で成功しているように見えさえすれば、心の探求を置き去りにしたことなど、誰にもとがめられないであろうが、神の御前には、自分の心をごまかすことはできない。

私たちは、道を探し求める時、自分自身の心の飢え渇きに対してどれほど忠実に歩めるかを試される。そして、その問題にまだ答えが見つかっていないうちに、それ以下のもので満足させられて、探求をやめてしまうことには、重大な危険が伴うことを知らなければならない。

筆者は、キリスト教徒として、「自分の心に忠実に歩む」のでなく、「神の御心に忠実に歩む」と言わなければならないが、しかし、神に忠実であるとは、そもそも自分自身の心の求めに忠実でなければ、できない相談である。

自分で自分の本心を偽っておきながら、神に対してだけは忠実に歩むなど、不可能だからである。

そこで、真実に神に従うためにも、自分で自分の心をごまかさず、偽らず、自分に対しても、他者に対しても、神に対しても、正直でなければならない。

しかし、多くの人々は、人の目に評価されるために、自分で自分の心を偽り、自分の本当の願いを後回しにし、自分を押し殺して生きている。そのような不真実な歩みの中で、神に対してだけは忠実に生きるとか、あるいは、真剣に真理を尋ね求めるなど、土台、無理な話なのだが、それを知らないのである。

自分で自分の心をごまかしている人が、真理に到達するなどということは、いかなる宗教であろうと、絶対にあり得ない相談である。

しかし、自分の心を偽らないで生きることは、かなりの犠牲を要し、他者が何と言おうとも、一切、その言い分に引きずられたり、心惑わされることなく、わき目もふらずに、自分の心の願い求める利益だけを第一優先して生きる姿勢がなくてはならない。

納得のいく答えを得るまで、絶対にあきらめず、困難にぶつかっても一歩も退却せずに、目の前にある課題とずっと取っ組み合わなくてはならない。
 
それはこの世の人間関係のしがらみにとらわれず、他者の思惑を全く意に介さない生き方であるがゆえに、この世の価値観とは全く異なり、わがままだとか、非常識だとみなされることが多い。そして、そのように誤解を受けたり、反対を受けたり、その探求をやめるよう説得されたり、世の賛同や理解を失うときにも、他者からの評価をすべて置き去りにしてでも良いから、自分の心の願い求めを最優先して生きることには、相当な犠牲が伴う。それを貫徹できるかどうかで、求めている答えが人生で得られるかどうかが決まるのである。
 
しかし、それを果たしてこそ、求道生活なのであり、答えを得るためには、自分の心が真に求めているものに対して、徹底的に正直な姿勢が必要である。

伝統的なキリスト教においては、自分の利益を最優先して生きることは、罪深いことだと教えられている。しかし、そのような考え方の中には、ある種の危険が伴う。キリスト教徒の間でも、物欲が罪だとか、年長者の意見に従わないことは罪だとか、フルタイムの献身者になりたい人がペットを飼うのは罪だとか、ありとあらゆる愚かしい誤解が飛び交っている。

しかし、真の罪とは、人が神でないものを神として最優先して生きることであり、人がこの世の事物や思惑によって、自己決定権を奪われ、自分の意志により御言葉に従うことができなくなった状態を指す。

もしも物欲や、欲望それ自体が罪だというならば、人間は地上に生存する術すらもなくなるであろう。何かを欲することそれ自体が罪なのではなく、その欲望が、神に従うことと両立しないまでに、その人の心の王座を占め、人が己が欲望の奴隷になるとき、罪が発生するのである。

筆者は記事冒頭で、禅寺に出家した人が、世俗的な享楽を謳歌することを批判したが、それは決して禁欲的な生活を奨励するためではなく、裕福な生活を送ることや、家庭を持つことが罪だと言いたいがためではない。

そうではなくて、人は自分が願い求めている最高の価値を、まず第一に追い求めて生きる姿勢を貫かねばならず、その原則は、キリスト教に限らず、すべての物事に共通するということを言いたいのである。

金メダルを目指していた人が、それ以下の賞で満足できるだろうか? 「あなたには金メダルは無理だから、目指すなら、最初から銅メダルくらいにしておいたらどうですか?」という言葉が、人を真に尊重する言葉であろうか?

どうせ高い目標を打ち出すならば、高望みしただけで達成できなかったと言われないために、最後まで犠牲を払って目的を追い続けなければならない。自分が目指している目標のために犠牲を払うこと怖さに、自分で自分の心を偽り、二義的な利益で満足してしまうと、最も価値ある探求がやむことになり、結果として、地上的利益が、真理を退ける罠となってしまう。

裕福な生活を送ることそれ自体が罪であるわけではない。しかし、そうしたこの世的な価値を至高の価値であるかのように錯覚して、この世の事物を超越した、真理を求める自分の心の探求を、二義的なものとして扱うときに、目に見えるこの世の事物が、人間の心を誘惑し、堕落させる罠となるのである。

だから、もう一度、以下の御言葉を挙げておこう。

「信仰の薄い者たちよ。だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それらはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。

だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」(マタイ6:30-34)

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