忍者ブログ

私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

キリストの内に隠れる(2)

「緑の牧場」、「憩いの水際」と「死の陰の谷」はワンセットである。

キリストの命にある偉大な解放の御業と、命のかすかな現れさえ見えないほどの闇に包まれた暗いトンネルは、あたかも車の両輪のようなもので、どちらか一方だけを選び取ることはできない。

復活は、常に死と共に働く。もし信仰さえあるならば、死のあるところに、復活があると言って良い。

だから、たとえ信者が、暗いトンネルの中のようなところにいて、神の命の大胆な現れが今目に見える形で目の前に広がっておらずとも、それでも信者は信じるべきである、キリストは昨日も今日も永遠に変わらない方であり、そのはかりしれない神の命は今の瞬間にも、信者の内に生きて働いていることを。

信者はキリストが霊の内に生き生きと啓示されている時だけでなく、神が遠くにおられるように感じられる時であっても、信じるべきである、自分が神を選んだのではなく、神が信者を選ばれたのであって、自分が枝として幹につながっていること、その結合によって、信者がキリストと一つであること、キリストが世の終わりまで、目に見えるどんな人間よりも近しく、親しく、信者に寄り添い、信者を助けて下さり、信者と一つとなって、信者の内で生きて下さることを。

生きることはキリスト、死ぬことは益・・・、どのような瞬間も、起きるときも、寝るときも、食べるときも、出かけるときも、歩くときも、何をしているときも、そこにキリストが共に働いて下さり、信者の一つ一つの行動を、天的な統治の中で生かして下さることを信ずべきである。

キリスト者は、キリストと同労して、この地にキリストの命による支配をもたらすべき存在である。

信者の存在そのものが「統治」なのである。このことに気づかなければならない。 

それは「主と共なる統治」である。この統治の力を、死の陰の谷を歩むときにも、信者はそこにもたらすべきなのである。

「私を信じる者は、二度と渇くことなく、その腹から、生ける水が川々となって流れ出すだろう」

と、主イエスが言われたのは、そういうことである。

「なぜこの状況はこんなにひどく、なぜこの地は砂漠のようで、潤っていないのだろうか」、「なぜ私から流れ出る命の川はこんなにか細いのだろうか」などと考えて、悩みながら、待ち続けるのをやめなさい。

信者が生長したら、生ける水の川がもっとほとばしり出るようになる、と考えるのをやめなさい。「主イエスよ、どうしてあなたは私を通して、こんなに貧弱なわざしかなさらないのでしょうか。もっと私から豊かに現れ出て下さい。もっと私を大胆な器にして下さい」などと懇願して祈るのをやめなさい。

主イエスが言われたのは、将来のことではなく、今のことなのである。

すなわち、信者から、生ける水の川々が奔流のように激しくほとばしり出て流れ出すのは、遠い将来のことではなく、明日のことでもなく、昨日のことでもなく、今のことなのである。

あなたからの主イエスの流出が貧弱なのではなく、あなたが信じていないから、何も起こらないだけである。

あなたがキリストと一体であり、あふれ出る命の泉なる方は、あなたと一つであり、あなたは今瞬間、これを小川のようにではなく、奔流のように、洪水のように、ダムのようにもたらすことができることを信じなさい。

たとえ周りに「死の陰の谷」しか見当たらなくとも、そこに、「緑の牧場」と、「憩いの水際」をもたらすのは、信者が主と共に同労して行うことであり、御名によって、あなたにその力が与えられていることを信じなさい。それはあなたが命じて作り出すものである。

弱々しく「もし御心ならこうして下さい、ああして下さい。もっと私を強めて下さい」と懇願するのではなく、状況に向かって命じなさい。枯れた骨が立ち上がり、砂漠に水が流れ、不毛の地が緑の牧場に変えられるよう、状況に向かって命じなさい。

生ける水の川々は、今まさに信者であるあなたの腹を突き破ってあふれ出ようとしていることを確信し、その水を豊かに流し出しなさい。

PR

ひとこと

神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)

ヴィオロンのブログ

最新記事

アーカイブ

ブログ内検索

カテゴリー