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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

あなたを離れ、あなたから別れて帰るよう、私にしむけないでください。あなたが死なれる所で私は死に、そこに葬られたいのです。

「ルツは言った。『あなたを離れ、あなたから別れて帰るよう、私にしむけないでください。あなたが行かれる所に私も行き、あなたが住まわれる所に私も住みます。あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。あなたが死なれる所で私は死に、そこに葬られたいのです。死以外のものによって私があなたから離れるようなことがあったら、主が幾重にも私を罰して下さいますように』」。」(ルツ記1:16-17)

このところ、オリーブ園のブログに掲載されているオースチンスパークスの連載はまことに身につまされるような厳しい内容が続いている。主の民の敗北や後退がテーマとなっているからだ。主の民が神に従う上で、どれほど妥協を繰り返したか、それによって、どれほど前進が妨げられたか、引用すると、あまりにも厳しい内容になりすぎるのではないかと心配に思われるほどであった。今日あたりの「「霊の力の回復」第三章 主と共に進み続ける (9)」で、ようやく希望ある結論が見え始めた。

神の召しに従うためには、私たちの側からその召しに積極的に応答するという過程がなくてはならない。神は多くの人を招いておられるが、その招きに従う人もいれば、従うことを断る人々もいる。真に神を満足させる働きをして、主と共に大いなる栄誉にあずかるためには、私たちは絶え間なく新たな霊的領土を獲得することを目指して前進し続けなければならないが、それは非常に骨の折れることであって、しかも、自分の限界を絶えず思い知らされながら、これを打ち破らなければならない戦いとなる。
 
私たちの前進とは、自分の考えに基づいて進むのではなく、常に人間の心の思いを超えた神の最善の御旨を探し続け、自分の満足ではなく、神の満足を追い求めて進み続ける姿勢を意味する。そこに到達するためには、日々の十字架を取って主に従う決意が必要であり、厳しい犠牲をも厭わず払い続ける姿勢が必要なのである。

多くの人々は、その途中で挫折してしまう。それは、彼らが自分には限界を打ち破る力がないと思い込んでしまうことによる。この人々は、いわば、神の最善が何であるか分かっているのに、次善で満足することを選んでしまった人々である。

次善には次善らしい長所や利点があるが、それでも、次善はただ最善ではないというだけの理由で、本質的に悪なのである。

しかし、主の民はしばしばこの点に欺かれる。それは人々が、人間の目に心地よく、人間の感覚にとって好ましく、人間に恥をかかせず、人間の望みを手っ取り早く満たし、人間を傷つけないように見えるというだけで、次善を最善と勘違いしてそれを選び取ってしまうことによる。

今日の多くの教会は、社会的弱者支援などの、人間に利益をもたらす、人の目に優しい活動には熱心に精を出すかも知れないが、神の栄光が傷つけられても、見向きもしない。人間の利益のためならば、人の心(自分の心)が傷つけられないためならば、いくらでも立ち上がって声を上げるのに、神の利権が脅かされ、御名の権威が否定されても、声を上げる者もない。

そのような状態が今日のクリスチャンを取り巻く状況ではないだろうか。神の教会が、どれほど脅かされても、そのために立ち上がる者もなく、声を上げる者もないのは、あまりにも多くの教会が、神の利益という最善ではなく、人間の利益という次善に仕える団体となってしまったことの結果である。

繰り返すが、クリスチャンにとっての最善とは、もちろん、神の御心を指すのであり、人間の思いを超えた、神が満足される目的の水準に到達するために、人は代価を払わなければならない。

ところが、クリスチャンが自分にとって何が最善であるのかが分かっているのに、それを差し置いて、しばしばあえて次善を選ぶとうことが起きるのは、その信者が、自分は最善には値しない劣った存在だという心の恐怖を乗り越えられないためである。

そのような恐怖心は、しばしばコンプレックスや、過去に起きた出来事から来るトラウマや、自信のなさなどに起因して起きて来るが、根本的にはすべて不信仰の表れである。

神はしばらくの間ならば、信者の心の弱さを理解して、信者が御心に従うのを躊躇している間も、忍耐強く待って下さる。従いたいと願っているのに、それができないでいる心の迷いや躊躇を理解して下さらないわけではない。

だが、もしも人が最終的に最善(神の御心)を退けて、次善(人自身の利益)を選ぶなら、場合によっては、そこで人は神を退けて、自分の救いを失ってしまうことにもなりかねない。

それが、神と富(この世、生まれながらの人間)に兼ね仕えることはできないという御言葉の厳しい意味なのである。

人が自分にとって何が最善であるかを知りながら、次善で満足することは、自分で自分をディスカウントすることと同じである。そのような妥協をすることによって、人は本来ならば達成できるはずの高い目的を失ってしまう。そのために、輝かしい達成が失われ、主の民の前進が妨げられる。しかも、それは当事者だけでなく、その人間に関係する多くの人々に悪影響を与える。

そのような妥協を繰り返したがために、神の教会が力を失って今日に至っていることを思わずにいられない。前回の記事で触れたハガルとイシマエルは、肉的な力の象徴であって、あれやこれやの人物を指すわけではない。それは霊的な比喩であり、敵は私たちの心の中に攻撃をしかける。
  
要するに、主の民が、自分の心の中に起きる恐れに打ち負かされ、自分には願っている最も高い目的に到達する力がないと早々に諦めて妥協を繰り返すことが、敗北の始まりとなるのであり、私たちはそのように主の民から証の力を失わせる虚偽のささやきを、自分の心から徹底的に追い出さなければならない。

だが、今、この問題について多くを書く必要はないと思う。なぜなら、私たちの心がただ一心に神に向いてさえいれば、すべての心の覆いは取り除かれるからだ。そして、すでに書いた通り、主の民が自分の心の弱さに負けて回り道をしたとしても、神はなぜそのようなことが起きているのかもご存じで、民の心が訓練されて、ただ神だけを神として崇めるようになるまで、長い月日を耐えて待つことがおできになる。

神の側には弱く脆い器である人類を用いて、ご自分の栄光を表すために、果てしない忍耐の道のりを耐える用意がある。神には私たちを訓練するための十分な計画があり、知恵と力がある。私たちは決してそのことを忘れてはならない。たとえ私たちの側で忍耐がつきかけ、自分たちは道を見失った、あまりにも弱く、愚かすぎて、失敗したのだと諦めてしまうようなときでも、神の側にはまだ忍耐があることを忘れてはならない。

私たちが意図的な反逆に及んで、自ら神の御心に従うことをやめることさえなければ、私たちの側の不用意から来るあらゆる失敗や、恐れによる紆余曲折、愚かさによる遠回り、回り道に見えることさえ、神は益として下さることができることを思い出す必要がある。

これは決して回り道を良いものとして認めるわけではない。しかし、神は主の民の側のあらゆる不従順や失敗にも関わらず、常にご自分の御心にかなう人々を探し出して、これをご自分の栄光を表す器として用いることがおできになる。そのために必要なすべてを自ら与えて下さる。それが神が教会に与えておられる使命なのである。
 
そこで、できるならば私たちのすべてが、失敗して終わる一群ではなく、キリストと共に栄誉にあずかる一群に入るべきだと思う。そのような高い志、動機をすべての信者が持つべきである。

もう一度、オースチンスパークスの「ルツ記注解」第二部からを引用しておきたい。

まさに、あなたや私に対して、主イエスは関心と愛に満ちておられます。主は私たちを得ることを心から願っておられます。しかし、他のすべてのものが道からどかない限り、私たちは決して主の真価を認めないであろうことを、主はとてもよくご存じです。ですから、主は中途半端な忠誠は受け入れません。半分しか持たないで次席を占めるくらいなら、すべてを手放す用意が主にはあるのです。主はあらゆる危険を冒されます。

「別の救い主を見つけることができるなら、いいでしょう、見つけなさい。これに関して私が何かを行うには、あなたはまず、私がすべてとなる地点に達しなければならないのです」。主は妬み深くそのような地位を欲しておられます。主にはできます。主は願っておられます。主は切望しておられます。しかし、それはおそらく隠されているのでしょう。主は縛られてはいません。主は自由です。主には他の関心や興味は何もありません。主はこのもう一人の人とは違い、何にも興味はありません。主はこのようなすべてのものから自由なのです。


ルツ記注釈については、以前にも当ブログで紹介したため、この物語の筋書きについて繰り返すことはしない。ルツ記はちょうど士師記の霊的荒廃の時代に起きた出来事の物語であり、ちょうど現在のオースチンスパークスの連載で語られているような、神の教会が荒廃状態に陥った時代を指す。そのことは、ちょうどこの物語が、現代という霊的飢饉の見舞う荒廃した時代のクリスチャン生活にとって非常に良い教訓となることをよく物語っている。

主の民から占め出され、呪いの下にあり、嗣業を失いかけていた一人の女が、自分を買い戻す権利のある近親者に出会い、幸せな結婚を遂げるハッピーエンドのこのストーリーは、士師記の絶望感とは対照的である。霊的な筋書きにおいては、ルツとボアズの結婚は、キリストと花嫁たる教会の婚姻を指している。

ここでは、ボアズがルツを買い戻す前に、もう一人、ルツを買い戻す権利がある人が名乗り出たことが記されているくだりに注目したい。

こうして現れた彼が「次善」である。

ボアズはルツにとって「最善」であり、ボアズの役目は、神の最善――すなわち、ご自分の命を投げ出して人類を罪から完全に贖われた神の独り子なるキリスト、私たち信じる者にとってすべてのすべてである方を象徴している。しかし、最善の価値が証明されるためには、次善の価値がまず明るみに出されなければならない。いや、次善の悪が証明されなければならないと言っても過言ではない。いわば、次善は次善でしかなく、決して最善に届かない不完全で呪われたものでしかなく、そこには人を救い得るいかなる望みもないことが、まずはっきりと証明されなければならない。

しばしばこのテストは回り道のように見える。人々は早くルツが買い戻されて彼女の立場が安楽になれば良いと思う。なぜボアズは自分にとって不利なことをわざわざ口にして、自分以外の人間にチャンスを与えるようなことをするのか。

しかし、神はご自分の価値を知っておられるがゆえに、ご自分の願っている結論を得るために、急いだり、焦ったりすることはなさらない。人がすべてのものを試し、神以外には人を救いうる方が他にないことを人自身が理解して納得するまで、神は忍耐強く待って下さる。それは神が本当にご自分に自信を持っておられ、完全で欠けることのない方であり、人間の理解を超えた方だからである。

だからこそ、神と人との出会いは壮大なドラマなのだと言える。それは決して人間の思惑通りには進まない。波乱に満ち、ほとんど絶望的な状況が幾度も展開され、人類は幾度も神以外には自分を救い得る者がないと叫ばなければならない窮地を通らされる。その戦いが繰り返されるうちにスケールが拡大し、最後に最も大きな決戦へと至る。

「次善」は、未来の人類史の終わりには、堕落した巨大な都バビロンにまで発展し、「最善」である方の思惑の前に大きく立ちはだかる。バビロンは生まれながらの人間が、自らの知恵と力によって神の高みにまで到達しようとする呪われた努力の集大成であり、そこには多くの住人がおり、大勢の味方、軍隊がいる。

しかし、その一方で、「最善」である方のみにつき従おうと身を整える、天の都エルサレムに属するつつましい聖徒たちがいる。彼らには、神以外に頼るべき味方はおらず、「彼女」はまだ花嫁になっていないので、独身であり、やもめであり、愛人もなければ、多くの味方も援軍もない。今日も、真にキリストの花嫁として彼に就き従う教会は、いわば、ルツのような孤独な立場にある多くの人々から成る。

筆者は、現代のような曲がった荒廃の時代にも、バビロンに与することなく、最後までキリストに従い、勝利を得るために、ルツのような心の有志たちが各地で起こされていることを疑わない。

さて、私たちは聖書を読んで、これを人間の悪なることを証明しただけの残酷な物語だと考えるだろうか。聖書は神が人間を罪と滅びに定めただけの残酷な物語で、人間を辱める救いのない荒唐無稽な作り話に満ちているだけだと決めつけるだろうか。それとも、そこには、生まれながらの人間には何の希望もないという、絶望的な状況の中でも、神だけは揺るぎない確かな希望であるから、私たちには望みを捨てる理由がないという結論が力強く提示されていると信じるだろうか。

私たちは士師記の絶望感を究極的な結論だと受け止めるだろうか。それとも、その中でルツとボアズの物語が人知れず展開していることを信じるだろうか。どちらの立場に立つのかによって、私たちの得る結論は全く異なるものとなる。

私たちは聖書の中から、自分のためのボアズを見つけることができるだろうか。それとも、自分を救う力のない「次善」を選んで、絶望という結論を握りしめるだけに終わるのだろうか。

もう一度言うが、私たちは自分の心から、自分は最善には達し得ない劣った存在だという恐怖感を徹底的に追い出さなければならない。最善に到達するために代価や犠牲を払うことを厭うがゆえに、手っ取り早く次善で満足しようとする妥協を心の中から追い出さなければならない。次善はどんなに良く見えても、人を救う力がないことを悟らなければならない。

キリストと共なる十字架を日々通過することこそ、私たちの最善である。生まれながらの人間にとって心地よく、恥とはならず、苦しみの少ない安楽な道を行くことを拒否して、主と共に栄光にあずかるために、主と共にどんなに困難な道をも通過することを決意しなければならない。

ルツがナオミに向かって語った言葉は、キリストへの従順の告白であり、ほとんど彼女の心の叫びと言っても良い、心の底から語った彼女の願いである。

「あなたを離れ、あなたから別れて帰るよう、私にしむけないでください。あなたが行かれる所に私も行き、あなたが住まわれる所に私も住みます。あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。あなたが死なれる所で私は死に、そこに葬られたいのです。死以外のものによって私があなたから離れるようなことがあったら、主が幾重にも私を罰して下さいますように。」

このような告白を、私たちは本当に心から神に向かって捧げることができるだろうか。告白できたとしても、実際に、それを実行するために代価を払うことができるだろうか。

私たちは信仰によらなければ、神に徹底的に従う力がない。私たちは神ではなく、被造物に過ぎない者であるから、信仰によらなければ、神の厳しい検査に耐えうるような徹底的な清さを持つこともできない。
 
私たちも、被造物であるから、被造物としての弱さを日々存分に噛みしめながら生きている。そこで、私たちは、主に従うと決意するに当たっても、口では、神のためにすべてを投げ打っても構わないと言いながら、自分を見て、「自分にはできるだろうか」と恐れのうちに問うことがあるかも知れない。

御心がどこにあるのかを知っていながら、躊躇し続けて、新たな一歩を踏み出さないことがあるかもしれない。自分にはあまりにも厳しい理不尽な代価が要求されていると苦にして、心の中でこっそりと自分を哀れんで涙を流すようなことがあるかもしれない。
 
ある人々は言う、「殉教ですって。ご冗談を。何を言っているんですか、そういうのはカルト的信仰ですよ。神はあなたに行き過ぎた残酷な要求をしているのです。あなたは今のままで十分です。自分の権利を握りしめ、これを守りなさい。あなたは最善には達し得ないから、次善で満足しなさい。一歩を踏み出す必要なんてありません」という次善のささやきを聞く時、それに頷きそうになる心を拒否して、先へ進んで行くことができるだろうか。

人にはできないことも、神にはできるのだと信じられるだろうか。
 
もしもあなたが、神があなたに求められている代価が、あなたには過剰かつ理不尽なものであって、あなたにはそれに耐える力がないと認めてしまえば、あなたの前進はそこで止むことになる。それだけではない、あなたは自分を哀れむことによって、神はあなたに理不尽な要求をされているのだと信じ込むことになり、その自己憐憫の思いを周囲の人々に振りまいて影響を与え、その思いが高ずれば、あなたは必ずやいつか神に対して反逆し、自ら神を裏切って捨てることになる。

しかし、神が私たちを選んで立てられたのは、私たちに被造物の愚かさ、弱さ、限界、罪深さという、自明の理を証明させる目的のためではない。むしろ、私たちが被造物としての限界を打ち破り、神の栄光を証する器として、出て行って実を結び、その実がいつまでも残るためなのである。決して私たちを辱め、罪に定め、滅ぼし、排除することが目的ではないのである。

キリストが十字架において、人類が負うべき恥のすべてを、私たちに代わって負って下さり、私たちの弱さ、愚かさ、不従順、罪に対する罰をすでに受けて下さった。だから、私たちは、自分に求められている代価が、人の目にどんなに厳しいものに見えたとしても、主に従うならば、それが「負いやすいくびき」に変わることを知っているし、そのことを常に信ずべきである。

筆者は、この記事を読んでいる一人一人が今、神の御前にどんな形で「日々の十字架」を負うことを求められているのかを知らない。ある人にとっては、それは自分の心の恐れを乗り越えて前進することを意味するかもしれないし、自分で負って来た心の重荷を主に明け渡すことを意味するかも知れない。

だが、 いずれにしても、信者には、日々、負わねばならない十字架が存在する。主と共なる十字架は、人の目には非常に厳しく、肉にとっては限りなく残酷に見えるだろう。それは人の生まれながらの自己にとっては、自分が死の刑罰によって殺される恥辱の場所であるから、生まれながらの自己は、自分の醜さ、恥がそこで暴かれることを望まない。これを憎むべきものとみなして、何とかして退けようとする。

しかし、十字架を回避して「次善」を選び取れば、生きやすくなると考えるのは錯覚でしかない。人間が与える偽りの十字架は、神が与える本物の十字架に比べ、百倍も千倍も厳しいものであり、次善が提案する道を選べば楽になれると考えるのは、錯覚でしかない。

だから、勇気を持って、自分の十字架を取って、キリストの御許へ赴くべきである。そして、まことの医者に、自分の中に切除されるべき腫瘍があることを正直に見せて、彼に従順に身を委ね、自分を吟味してもらいなさい。あなたがこれまで自分で背負って来た全ての呪いと罪定めと恥と刑罰を、主の御許に置きなさい。そうすれば、主がくびきを負って下さり、あなたの負うべき十字架が格段に軽くなったことが分かるだろう。

私たち信者は土の器に過ぎなくとも、その中に神のはかり知れない命の力が入れられている。そこで、私たちが前進するために通過せねばならないすべての試練には、予め勝利が与えられていることを、いついかなる瞬間にも、固く思い出さなければならない。ただ従いますと言うだけでは不十分で、従い抜くことができるという勝利の確信を握りしめて、実際に前進して行かねばならない。その新たな一歩を踏み出すことを決して恐れてはならず、これ以上、躊躇していてはいけない。

カルバリこそ、私たちの常なる住処であり、終着駅である。
 
あなたを離れ、あなたから別れて帰るよう、私にしむけないでください。あなたが行かれる所に私も行き、あなたが住まわれる所に私も住みます。あなたが死なれる所で私は死に、そこに葬られたいのです。死以外のものによって私があなたから離れるようなことがあったら、主が幾重にも私を罰して下さいますように。

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