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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。

前回の記事を多少、補っておきたい。

以下の事典の抜粋にもあるように、今日でも、キリスト教の宗派の中で、とりわけ説教を重要視しているのは、プロテスタントである。

世界大百科事典 第2版の解説 せっきょう【説教 preaching】

 一般に宗教集会において,その教えを信徒および未信徒に説く言葉。仏教では,説法,唱導,説経など諸種の呼び名がある。今日,説教をその布教の最も重要な手段として重視するのは,プロテスタント教会である。古来キリスト教会では,集会(礼拝)において,聖書朗読と,その聖書の言葉の意味を会衆に説き明かして聞かせる説教とが重視されてきた。カトリック教会や東方正教会では,説教の重要性が薄れ,これを再び強調したのが宗教改革である。

プロテスタントの礼拝では、牧師の説教は、礼拝時間全体の6~8割くらいを占め、説教題が、その日の礼拝の主要テーマとなる。聖歌や讃美歌、祈りの内容、証等も、基本的には、すべて説教に合致するものが選択される。

今日、カトリックのミサでも、説教は行われるが、カトリックの礼拝における説教の重要性は、プロテスタントとは比べられないと、かつてカトリックに去った信者が言っていたことを思い出す。

『[シリーズ・世界の説教]近代カトリックの説教』(高柳俊一編、教文館)という著書に関する石井祥裕氏による書評「近代におけるカトリック教会の多面性」にも解説されている通り、現在、カトリックのミサで今日行われている説教は、20世紀のバチカン公会議によって義務づけられたものである。

「カトリック教会における説教のあり方に関しては、ちょうど半世紀前に開幕した第二バチカン公会議(一九六二~六五年)が新たな時代を切り拓いた(編者序文参照)。同公会議は説教を神の民全体の救済史的使命によって基礎づけ、ミサにおける神のことばの食卓での奉仕としての姿がその根本的な姿であることを明らかにした」

このことは裏を返せば、20世紀半ばの第二バチカン公会議の時点まで、カトリックでは主日礼拝における説教が義務づけられていなかったことを指す。そして、今でも平日ミサでは説教は義務とされていない。

こうした事実だけを見ても、プロテスタントが、カトリックよりもずっと先に、カトリックでは失われていた説教の重要性を、宗教改革として取り戻した様子が分かるだろう。
 
このように説教を重視するプロテスタントの伝統と、プロテスタントが教会内の装飾を取り払ったことには密接な関係がある。

カトリックと東方正教会は、今日でも基本的に礼拝の儀式的な側面に重きを置いており、信者は礼拝堂の荘厳な装飾や、美しい讃美歌の音色や、聖画などを通して、宗教的荘厳さ・敬虔さを視聴覚的に感覚受容する傾向が強い。こうした感覚的要素を、カトリックも正教会も、偶像崇拝であるとか、悪魔的な堕落を含む悪しき誘惑であるとみなして排除してはいない。

そこで、今日でも、カトリックの聖堂には、ステンドグラスなどから始まり、美しい多彩な装飾が施され、東方正教会では、さらに壁や柱に一面に聖画が描かれ、大量に金をあしらった装飾が施され、まさに寺院という言葉がふさわしい印象を、訪れる者に与える。

しかし、プロテスタントでは、聖画やステンドグラスやその他の教会の装飾を、偶像崇拝につながるものとして徹底的に取り払い、教会の礼拝堂を、無駄な装飾を一切、排除して、無味乾燥と言っても良いほどまでに、極めてシンプルなものとした。

こうして、「見えるもの」から来る視聴覚的な要素を、信者を偶像崇拝に導く堕落した感覚的要素として排除し、感覚的要素に依存することをやめた結果、プロテスタントの礼拝は、知的な内省(個人の心の内省ではなく、聖書の御言葉の知的理解)を重んじるようになったのである。

つまり、プロテスタントの礼拝が、牧師の説教にとりわけ重きを置くようになったのは、教会の中から目に見える装飾を排除して、神への礼拝というものを、目に見える感覚的刺激によってとらえるのではなく、目に見えない御言葉に対する知性による理解、また、霊的理解によってとらえようとしたことの結果なのである。
 
このことは、プロテスタントが礼拝のあり方を、カトリックに比べ、より初代教会のあり方に近づけ、「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」(Ⅱコリント4:18)
「それで、わたしたちは<略>目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいるからです。」(Ⅱコリント5:6-7)
という聖書の御言葉を、より忠実に実践しようとしたことを意味する。

従って、プロテスタントの礼拝は、キリスト教の礼拝を、信徒が目に見えるものに心奪われるのではなく、見えないキリストに思いを馳せ、キリストから直接、啓示を受けて聖書を理解し、神を崇めるために行うものにすることで、本来あるべき礼拝に、確かに近づける役目を果たしたと言えるのである。

このような文脈で、プロテスタントの牧師の説教も、先に述べたように、人間が目に見えるものから来る感覚的刺激に頼らず、目に見えない聖書の御言葉を、自分自身の内面を通過させて、知的によりダイレクトに理解することを始めたという点で、画期的な意味を持っていた。

しかしながら、すでに述べた通り、当初は画期的な宗教改革として始まった牧師による説教も、今日は、牧師にあまりにも大きな権限と、信徒との不平等を言える経済格差を生んだ結果として、かえってキリスト教の信仰の前進の大きな妨げとなる要素に転じたと言える。

プロテスタントは、信徒の目を、教会内の装飾という目に見える事物からは引き離したであろうが、見えないキリストご自身に向けさせるには至らず、その代わりに、目に見える牧師へと逸らしたのである。

しかも、カトリックのような統一的なヒエラルキーがない中、ただ牧師だけが、他の信徒らに優って、神の御言葉を正しく理解し、他の信徒を教え、導くことができる指導者であるとみなすプロテスタントの牧師制度は、必然的に、教会内で、独裁的とも言える権威を牧師に与える。

プロテスタントの牧師の権威は、神の御言葉を取り継ぎ、これを信徒に伝える「説教」という召しからこそ来ている。この神聖かつ崇高な召しがあればこそ、牧師は、フルタイムの献身者として、その召しに専念できるよう、他の信徒とは違い、教会の献金から謝儀を受け取ることが許されているのである。

もちろん、歴史的には、プロテスタントからは多数の優れた説教者が登場して来ており、その説教が今日の信徒にも非常に有益な内容として伝えられていることは事実であるが、その一方で、毎週日曜の礼拝において、礼拝のほとんどの時間を、ほとんどこの世での苦難に遭遇したこともない牧師が、独演会のようなスピーチによって信徒を教化するというスタイルが取られると、必然的に、牧師が独裁者化して信徒へのマインドコントロールが起きやすい土壌が生まれる。牧師も人間であるから、他者からの監督や指導なくして、自分一人で教会の主となってこれをコントロールして行くことは難しい。

さらに、そこに金銭的な不平等が付け加わわれば、独裁者を生む完全な土壌が整うのであって、今やプロテスタントの牧師制度は、牧師が実質的に信徒に君臨し、信徒を搾取して成り立つ差別的特権階級に他ならないものとなってしまっていると言える。

こうした牧師制度の弊害が、20世紀後半になって、多数のカルト化教会の出現という形で浮き彫りになったのであり、現代という時代は、ただ牧師一人だけが、他の信徒に抜きんでて、聖書の御言葉を正しく理解して、信徒に向かって教えることができるとするプロテスタントの牧師制度そのものが、教会全体にとって重荷となり、信徒の信仰の前進の大いなる妨げとして、役目を終えて廃れつつあると言える。

私たちは、初代教会における礼拝が、たった一人の牧師が、毎週日曜日に講壇から大勢の信徒らに向かって、長広舌のスピーチを宣べて終わるというスタイルではなかったであろうことを容易に想像できる。

そこで、今日、より本来的な教会のあり方を取り戻すためにも、また、礼拝が真にキリストに捧げられるものとなるためにも、信徒は、ますます牧師に頼らず、自分自身で聖書の御言葉を理解し、これを実戦すべく、自分自身が神の神殿としての機能を正常に取り戻し、神との一対一の直接的な交わりを回復すべき時に来ていると筆者は確信している。

さらに言えば、礼拝とは、もともと真理と霊を持って捧げられるものであって、場所を問わないものであるから、牧師だけでなく、固定化された教会の建物からも、今や解放される必要性があると言える。

「イエスは言われた。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。

しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」(ヨハネ4:21-24)

このように、プロテスタントは、教会内の無駄な装飾を施し、信徒の心を、目に見えるものではなく、見えない聖書の御言葉へと向かわせ、神との直接的な交わりを回復するための第一歩としては、大きな役割を果たした。

しかし、プロテスタントは礼拝堂から無駄な装飾を排除した代わりに、今度は、牧師という目に見える「装飾」をそこに置いて、神ではない一人の人間を偶像化して、その言葉に信徒の心を向かわせた。
 
その他にも、特に20世紀になってからは、牧師が偶像化したことに加えて、情緒的な讃美歌や、感動的な信仰の証の披露など、まるでアーティストのショーのような感動的な演出効果を伴う大衆伝道のスタイルが編み出され、それらも結局のところ、教会の装飾に取って代わる目に見える新たな感覚刺激として、新たな偶像と化してしまった向きが非常に強いと言えよう。

そこで、今、キリスト教の礼拝は、こうしたすべての「目に見える偶像」すなわち、五感を楽しませてくる魅力的な視聴覚的要素、さらには、特定の礼拝堂という時空間による制約から解放されて、より自由に、より純粋に、神にダイレクトに捧げられるものとなる必要に迫られていると言えよう。

そのことは、2008年に当ブログ始まって以来、再三、語り続けて来たことである。

当時、このようにプロテスタントにおける礼拝のスタイルを偶像崇拝として批判し、初代教会において見られたような、真の礼拝を回復しようとして、既存の教団教派を離れることは、別段、信者にとって珍しいことではなく、あわや一大運動が起きてもおかしくないほどの状況があった。

その後、集まるための特定の場所を持たないことが弱点となり、この人々は散らされて行き、ある人々は、礼拝堂を持たない代わりに、家庭集会こそが、本来的な礼拝のあり方だと主張し、ある人々は、再び、教団教派に戻って行くなどしたが、筆者は、そうした議論や、信者の離散によって、すでに明らかとなった結論が、覆されるとは思っておらず、今必要なのは、あくまで一人一人の信者が、目に見える指導者に頼らずに、キリストに直結する信者として、神の神殿として、生きた礼拝堂としての機能を取り戻すことにあるという結論は、決してこの先も変わらないものとみなしている。

聖書のどこを見ても、教会というものが、特定の時代の、特定の場所や、建物を指すものであることを示した記述はない。ましてそれが特定の指導者によって率いられる特定の群れであると示した箇所はない。

教会とは、キリストを頭として、キリストの権威と支配の及んでいるキリストの体を指すのであって、その体とは、神の神殿である一人一人の贖われた信者を指し、また、信者らの総体を指すものと理解できる。

「神はまた、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました。教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。」(エフェソ1:22-23)

あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。」(Ⅰコリント3:16)

あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。神は、教会の中にいろいろな人をお立てになりました。」(Ⅰコリント12:27-28)

「そして、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を福音宣教者、ある人を牧者、教師とされたのです。こうして、聖なる者たちは奉仕の業に適した者とされ、キリストの体を造り上げてゆき、ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。」(エフェソ4:11-13)

「従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、使徒や預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり、キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。」(エフェソ2:19-22)

別の言葉で言えば、教会とは、死と復活を経たキリストの命の支配が及んでいる領域のことである。

「わたしたちは神に属する者ですが、この世全体は悪い者の支配下にあるのです。」(Ⅰヨハネ5:19)とある通り、この世はサタンの支配が及んでいる。

しかし、サタンおよび堕落したこの世のすべての目に見えるものはやがて滅ぼされ、すべてがキリストの御名に服従する新しい天と地が打ち立てられる。

そうなる前に、この世から召し出された者たちが、エクレシアなのであって、この世が罪に堕落しており、滅びに定められていることを知った一人の人間が、自らも罪を悔い改めて、キリストの十字架の贖いを信仰によって受け入れ、神に立ち帰り、この世から召し出されて、神の命によって新しく生まれ、御霊によって導かれて生かされるようになる時、その信者を通して、信者の周囲のこの世の事物にも、キリストの支配の霊的影響が及ぶようになるのである。

その信者が、真に御霊に導かれ、その働きを実現して生きているならば、その影響が及んでいる範囲は、キリストの命の支配領域である。すなわち、教会の支配下にあると言えよう。

従って、「教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。」というエフェソ書の言葉は、教会とは、キリストの御名と権威による霊的支配の及んでいる領域、神の国の霊的秩序の満ちている領域であることを示している。

とはいえ、神の国が真に成就するのは、この世が滅び、新しい天と地が到来した時のことであるから、今日の時代の教会に現れているキリストの命の支配は、やがて到来する新しい秩序の前触れ(先取り)であり、それが信者の内側に霊的に到来し、行使されているものであると言える。

つまり、キリスト者は、この世から召し出され、来るべき時代の秩序を先取りして行使する者なのである。

さらに、教会は特定の時空を超えるものであって、同時代を共に生きている信者だけに当てはまるものではないから、初代教会から今日までの(もしくはそれ以降の歴史時代も含む)贖われた信者らの総体が、教会であると言うこともできよう。

このように、聖書を見るならば、教会というものを、特定の時空間の制約の中にある一つの建物にとどめたり、特定の礼拝堂、特定の指導者の下にとどめようとすることは、正しい解釈ではないことが分かる。

従って、プロテスタントの礼拝スタイルは、初代教会のような教会の本来的な姿が回復されるまでの、ほんの過渡的なものであって、今日、その過渡的なものが役目を終えつつある以上、より本来的な教会の姿が回復されねばならないのは当然である。

役目を終えたものが存続し続けると、やがて有害なものへ変わる。信者が、見えないキリストだけに心を向けねばならない必要が生じている時に、目に見える牧師や指導者が、信者たちの目をあくまで自分に向けさせ、自分の教えに帰依させようとすることは、有害である。

そのことを指して、オースチンスパークスは「私たちのいのちなるキリスト」の中で、目に見える事物、人、組織、教え、伝統などは、時代が終末に近づくに連れて、ますますキリストのまことの命の現れから遠ざかり、むしろ、反キリストの現れ(統治手段)として利用されて行くと予告したのである。

ドストエフスキーも、終末の反キリストは、敬虔なキリスト教徒の指導者を装った異端審問官の姿で登場することを暗示している。

今日、カルトや異端を駆逐するという名目で現れたカルト被害者救済活動の中に、私たちはこうした警告がまさに的中していることを見て取れる。この運動は、まさに反キリスト的運動の先駆けである。

先の記事で書いた通り、当初は、聖書に立脚しないで教会へのバッシングに明け暮れるこの運動に、プロテスタントの諸教会も、抵抗を見せていた。

しかし、プロテスタントの教団教派は、やがてその恫喝に屈し、沈黙に入り、今や完全にこの運動の下に制圧されてしまった。そうなったのは、プロテスタントの諸教会が、すでに役目を終えた牧師制度を何とか温存しようとして、それを真に代価を払ってキリストの福音を宣べ伝える使命と取り替えたためである。

プロテスタントの諸教会は、すでに随分前から、命をかけて福音宣教することよりも、牧師一家を養い、支えることを主たる目的として存在するようになっていたため、牧師たちは、自分たちが命を脅かされ、この世での穏やかな生活を奪われるような事態に遭遇してまで、命がけで福音を守り抜くつもりはなく、そのため、早々に悪魔と取引をして身の安全を保ったのである。

たとえるならば、戦時中でもないのに、戦時中のような時代がやって来て、諸教会には、新しい国体思想のような、あからさまに聖書に基づかない異端思想への忠誠が命じられ、それに従わない教会を弾圧する異端審問官が現れ、目に見えない宗教団体法が敷かれ、それにプロテスタントの諸教会全体が屈したようなものである。
 
こうして、プロテスタントにおいても、目に見えるものの偽りが、牧師制度という形で、極限的にまで明らかになっているのが今の時代であり、それに対して、神に忠実な子供たちが出すべき結論は、かつてプロテスタントが、カトリックの教会で当然のように用いられていた教会内の装飾を拒否して、これを偶像崇拝として取り払ったように、牧師という目に見える偶像を取り払い、見えないキリストに目を注ぐという、「新たな宗教改革」なのである。

とはいえ、筆者は何ら既存の教会の打ちこわしや、牧師の罷免などを要求しているわけではない。そのような組織改革を筆者は一切提唱しておらず、結論はむしろ逆である。以上のような事実に気づいた信者たちが、自主的にプロテスタントをエクソダスして、それぞれが自らの持ち場にあって、神の神殿としての礼拝を回復すべきなのである。
 
当ブログが、このような結論を公然と提示していると、今でも、ネトウヨのような諸氏が、さして有名でもなければ、訪問人数が多いわけでもない、個人のつつましいこの信仰の証しにまで、早速、噛みついて来る。
 
必死になって、彼らは日夜、掲示板等で、当ブログに攻撃をしかけているようであるが(とはいえ、交代制の勤務の様子であるから、多分、雇われているのであろう)、そのような有様を見ても、プロテスタント全体が暗闇の勢力に制圧された今、残る最後のともし火を吹き消すことが、いかに彼らの重要なミッションとなっているかが分かる。
 
暗闇の勢力にとって何の脅威ともならない、毒にも薬にもならぬ内容ならば、このようなつつましいブログに、このような攻撃を行う理由がないはずである。

従って、キリスト教の教会が本来あるべき姿を回復するために、牧師制度から教会を解放することが、いかに重要性絵を帯びた緊急の課題であるかが改めて認識されよう。

* * *

さて、使徒パウロは、わたしたちが正気でないとするなら、それは神のためであったし、正気であるなら、それはあなたがたのためです。なぜなら、キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです。」(Ⅱコリント5:13-14)と記しているから、私たちも、キリストへの愛のために、ネトウヨ諸氏から正気ではないというという罵りを受けることにも、喜んで甘んじたいと思う。もしも私たちが、気が狂っているとするならば、それは神のためなのである。

さて、これまで当ブログは、暗闇の勢力からの尋常ならぬ徹底攻撃に晒されてきたが、その中で、敵の卑劣な攻撃手法がいくつも分かっため、この度、掲載しておきたい。これから暗闇の勢力に向き合う覚悟を固めた信者にはきっと役に立つはずである。

はっきり言っておきたい、もしもキリスト者として、私たちが信仰を守り通したいのであれば、こうした敵の飽くことのない卑劣な作戦と手法をよく理解した上で、このようなものに脅かされず、嘘を見抜いてさらりと交わし、どんな攻撃にでも、根気強く立ち向かって打ち勝つだけの、勇気と決意と覚悟が必要となる。

おそらくは、戦時下のクリスチャンにはそれがあっただろうと思われる。彼らは同僚の信者からも、特高警察に売り渡されることを覚悟の上で、決して信念を曲げず、福音を宣べ伝え続ける勇気と覚悟を持っていたのである。

現在は、国家が宗教と対立しておらず、信者に偽装する一部の人々が狂ったように信仰の迫害に及んでいるだけであるとはいえ、当ブログに対しても、長年に渡り、組織的犯罪行為が行われているため、そこから、このような迫害に立ち向かうために、何が必要であるかを学ぶことができる。

筆者がこれまでに学んで来た戦いの手法は、みな暗闇の勢力の側から先にしかけられた攻撃を研究した結果である。そのような攻撃がしかけられることは、誰にとっても愉快とは言えないが、それがなければ、暗闇の勢力との戦いというものが存在することも、その脅しに打ち勝たなければ、信仰の前進はあり得ないことも、また、脅しを打ち破るための有効な御言葉がきちんと存在しており、圧倒的な勝利をおさめることが可能であることも、分からなかったであろう。

聖書には、「神から生まれた人は皆、世に打ち勝つからです。世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です。だれが世に打ち勝つか。イエスが神の子であると信じる者ではありませんか。」(Ⅰヨハネ5:4-5)と記されている通り、私たちには、すでに世に打ち勝った方がおられ、勝利が約束されている以上、恐れることはないのである。

さらに、「神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。こうして、愛がわたしたちの内に全うされているので、裁きの日に確信を持つことができます。この世でわたしたちも、イエスのようであるからです。愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。なぜなら、恐れは罰を伴い、恐れる者には愛が全うされていないからです。」(Ⅰヨハネ4:16-18)

とある通り、敵の脅しに立ち向かうために、まず必要なのは、自分自身の内なる恐れを払拭することであり、その恐れとは、神の掟を全うしていないかも知れないという、自分自身の心の恐れ、もしくは罪悪感である。これらのものを完全に十字架に死に渡し、キリストの義と聖と贖いに固く立って、全く揺るがされないことが肝要である。

さて、これまでの組織的犯罪行為を通して明らかになった敵の手法は、以下の通りである。
 

 ネトウヨ鬼戒律(暗闇の勢力による犯罪的バッシング手段)

その➀  必ず強い方ではなく弱い方を叩け。
(男性と女性ならば、女性を、指導者と信徒なら信徒を、親と子なら子をバッシングせよ。
 なぜなら、強い者でも、自分の愛する弱い者が攻撃されれば、うろたえるからである。)

その② 本格的な攻撃前に、嘘八百の風評被害をばらまいて、標的を弱体せよ。
(裏取りなど必要ない。責任は訴えられてから考えれば良い。とにかくデマを急速に拡大し、噂の出所を水増しして大合唱に見せかけることが重要。弱い相手ならこの時点で狼狽して降参する。デマの中でも悪魔の最高の好物が性的スキャンダル。不倫など絶好の材料。なければ、でっちあげるだけ。)

その③ 個人に対して常軌を逸した集団的なバッシングをせよ。
(十年間粘着するなどは序の口。人数を水増ししつつ、殺意を感じさせるまでの執念により集団的にッシングを繰り返し、恐怖して退却させろ。)

その④ 標的から受けた非難は、すべて裏返しにして標的に返せ。
(白黒反転論法。ターゲットの言葉を使ってターゲットを攻撃せよ。)

その⑤ ターゲットを徹底的に揶揄して「裸の王様」に仕立てあげろ。
(集団的に笑いものにして、支持者を減らし、信用を引きずり落とすことが肝心。)

 
その⑦ ターゲットのトラウマとなる出来事を調べて繰り返し攻撃せよ。
(ネチネチと執念深く繰り返し急所を攻撃することが重要)

その⑧ 女性がターゲットの場合、執拗に年齢と容姿と異性関係を攻撃材料とせよ。
(若ければ若いことを、年寄りは年寄りであることをバッシングの理由に。女性は年齢を突かれることと美醜を指摘されることに弱い。若い美人には特に念入りに性的スキャンダルを捏造せよ。)

その⑨ 絶対的確信に満ちて支離滅裂な嘘を吐け。
(嘘を吐くときこそ悪魔の真骨頂。あまりにもあからさまな嘘を、あまりにも大胆に宣言されると、人は意気阻喪して、反論の意欲が萎える。蜘蛛の巣のように錯綜した嘘も、反論に手間がかかるので絶好の武器。)

その⑩ 人間関係を引き裂いて孤立させよ。
(悪魔は裏切りと密告が大好物。親しい知人に近づいて裏切らせるのは蜜の味。孤立していなくても孤立しているという噂をまき散らし、それらしい雰囲気を演出。)

その⑪ 特に家族関係を徹底的に傷つけろ。
(家族だけでなく、友人、知人、職場の関係者、可能な限り大人数を調べ上げてスキャンダルに巻き込め。人は社会的地位を惜しむので、騒ぎを拡大されることに弱い。)

その⑫ 孤立させたら即座にマインドコントロールを。
(相手がうろたえている時にこそ精神を集中攻撃して陥落せよ。)

その⑬ 優しい同情者を装って近づき情報を盗み出して裏切れ。
(スパイの古典的手法。うろたえさせることに成功すれば、ターゲットは必ず誰かのところに相談に行く。その人間に近づいて裏切らせよ。)

その⑭ 水に落ちた犬は徹底的に叩け。
(とにかく弱い者を叩きまくれ。二度と浮かび上がって来ないまでやれ)

その⑮ 正当な理由がないのに訴訟や告訴の脅しをやたら振り回せ(そして実行しない)

その⑯ ターゲットになりすませ!
(大量のドッペルゲンガー作成による惑わし。別名、分身の術。ブログ、ホームページの大量コピペや偽造だけでなく、本人になりすましてコメント投稿、ひたすら発言を盗みまくり、質の悪い模造品を大量に偽造し続けることが重要。)

その⑰ 不気味かつ不快な印象を与える接触を繰り返せ。
(人は意味の通らない支離滅裂な行為を繰り返されると、うんざりして立ち向かう気力をなくす。)

その⑱ 太刀打ちできない非難を受けたら、恋愛感情にすり替えろ!
(自分はターゲットから愛されているから非難されるのだという論法を使えば、反論する必要もない。)



これらはすべて古典的手法であって、しかも、ほんの序の口である。従って、信者はこの程度の脅しに屈しているようでは、先はない。(しかし、これらをクリアするために、約十年程度の時間が経過しているのは事実である)。

「なりすまし」については、大量の偽物を作成して本物を凌駕しようとすることは、古来から暗闇の勢力の常套手段であるが、これはグノーシス主義の「存在の流出」と密接な関係があり、掲示板もこれに深く関係しているため、このことについては、改めて記事にまとめることにしたい。
 
* * *
 
 
さて、戦時中、日本基督教団が軍国主義に加担し、兄弟たちを迫害する側に回ったことについては先の記事で触れたが、これに関連して、日本基督教団幹部がホーリネスの牧師を迫害する側に回ったことを示す解説もあるため、紹介しておきたい。

5.ホーリネス教会への弾圧と富田満 (日本基督教団 西方町教会ホームページ)

ちなみに、日本基督教団が戦争に加担したことなどは、すべて過去の出来事であって、現在とは関係ないから、このような歴史的事実を取り上げて、教団の優劣を論じたりすること自体が間違っていると言う人がいるかも知れない。

しかし、筆者はそのようには思わないし、また、筆者は教団の優劣を論じているわけでもない。筆者は、戦争体験を軽んじるわけではないにせよ、これを歴史的な出来事として客観的に知ることと、当事者(しかも深い罪悪を負った者)として受け止めるのでは、雲泥の差が生じると考えている。
 
私たちは後世に生きる者として、歴史を教訓にすることは大いにすべきであるが、主にあって、罪赦された者として、決して不必要な罪悪感に苛まれたり、無用な霊的な傷を負うべきではないと確信する。

筆者から見て、ペンテコステ系の教会は、底抜けに明るく、歴史が浅すぎるがゆえに、未熟で、軽薄と思われても仕方のない部分がある。また、あまりにも無定見に様々な霊的ムーブメントを取り込んだがために、悪霊の働きにも大きく扉を開いてしまったことは確かである。

しかしながら、こうした欠点とは別に、筆者は個人的に、聖霊の働きをなくして、キリスト教信仰は全く成立し得ないものであり、戦後成立したペンテコステ系の教団教派が、戦前・戦中に弾圧されたり、思想的転向を経験させられたりした信者ら特有の、拭い去ることのできない罪悪感や絶望感と無縁で生まれて来たことは、非常に良いことだと思っている。

キリスト者であれ、共産主義者であれ、戦時中に思想弾圧を受け、強制的に転向させられたり、力づくで自分の信念を曲げて屈服させられたりした体験のある人々は、筆者から見て、ある共通する独特かつ非常な「霊的暗さ」を持つ。

たとえば、遠藤周作の作品などを読むとき、戦時中に受けた体験のものすごい負の影響が、彼の信仰観全体に反映していることを、筆者は言外に感じざるを得ない。

たとえば、映画『沈黙』などは、予告編を見るだけでも、あまりにも絶望的で、ほとんど救いのない世界だという印象を受ける。そして、こうした世界観には、おそらくは遠藤自身の戦争体験から来る心の深い罪悪感と関係しているであろうことが容易に想像がつく。

おそらく、当時、戦争に加担させられたクリスチャンには、これと同じように、生涯、拭い去れない深い霊的な傷が生じたに違いないと思われる。

かつて当ブログにおいては、マザー・テレサや奥田智志牧師などの名を挙げつつ、若かりし頃に、あまりにも悲惨な形で他者の死や破滅の光景を目にした者は、その光景が、心に強烈なトラウマとなって焼きつけられ、生涯、その負の体験から離れられなくなり、罪悪感から弱者救済事業に身を捧げねばならなくなった例があることを紹介した。

マザー・テレサは一般には、キリストの愛を宣べ伝えるために、インドの貧しい人々を助けたのだと考えられているが、実際には、彼女自身が何十年間にも渡り「神の愛が分からない」という絶望感に苛まれていたことが、死後になって、明らかにされている。

上記の『沈黙』などは、筆者の目から見ると、それとよく似た世界観に基づいて作られており、そこには、マザー・テレサや奥田牧師と同じように、「神はどこにいるのか。なぜ私たちの苦しみに答えて下さらないのか。どうしてこのような理不尽の中に人類(私たち)を見捨てておかれるのか。」という、神の愛の中にいる信者ではなく、むしろ、神の愛から疎外された人々の悲痛な叫びが込められているように思われてならない。

しかし、筆者が知っている限り、ペンテコステ派の教会で説かれる神は、このように人間を理不尽の中に見捨てて沈黙される神ではないのである。

もちろん、ペンテコステ派の集会には、あまりにも多くの偽物の、眉唾物の奇跡体験が溢れていることは確かであり、そうした偽の奇跡の中には、悪魔的起源を持つものも、多く含まれているのではないかと考えられる。次々に新しく出て来る海外宣教師の著書も、一体どこまで信憑性を信じて良いやら分からないような話ばかりである。

しかし、その問題をさて置いても、キリストは、実際に、カルバリで悪魔のわざを打ち壊し、死を打ち破って復活されたのであって、御霊は、死と復活を経たキリストのまことの命であるから、常識的に考えて絶体絶命の状況においても、信者を勝利させる力を持っていることは確かなのである。

従って、筆者は、ペンテコステ運動に様々な問題があることは否定するつもりがなく、また、筆者自身が、真にキリストに出会ったのも、この教団を離れて後のことであったとはいえ、それでも、戦争中の暗い歴史から来る罪悪感とは無縁で、ダイナミックで奇跡的な聖霊の働きを重視する、底抜けに明るいペンテコステ系の教団で、筆者が幼少期を過ごしたことは、筆者自身の信仰観の形成にとって、極めて重要な意味を持つ出来事であったと考えている。

聖霊派の教会における底抜けの明るさと、愚直なほどに単純な喜びは、やがてその後、筆者が知ることとなる復活の命の勝利の喜びに通じるものがあったと思うのである。

今日でも、筆者の信仰は極めて単純であり、神が筆者のすべての必要を満たして下さり、筆者のためにすべてを成し遂げて下さるというものである。

しかし、特に戦時中に戦争に加担させられたキリスト教の信者には、神は、ペンテコステ系の信者が認識しているような、力ある方としては、とらえられていない。こうした人々の心の中では、神は信じる者に力強く自由と解放を与える方ではなく、むしろ、最も悲惨な状況で、人類を絶望の中に置き去りにして沈黙するような存在として認識されているのである。

だが、筆者から見れば、それは、人の罪悪感のなせるわざであって、本当は神の側の問題ではない。
 
いずれにしても、戦争を当事者として体験したかどうか、(その罪を連帯責任として共に背負わされたかどうか)という点は、それほどまでに、同じキリスト教信者の信仰観を分けたようなのである。

従って、戦後成立した聖霊派の教団教派に、そのような負のトラウマが、出発の時点から刻みつけられなかったこと、そして、筆者自身も、そうしたトラウマと無縁であることができたがゆえに、自らの信仰観に著しい制約を受けなかったのは、まことに運命的かつ幸運なことであったと思わずにいられない。

さらに、ペンテコステ派が登場して来る前の日本のキリスト教全体には、死はあっても、復活がはっきりと視野に入っていないという印象を受けざるを得ない。

このことは、戦時中に最も激しい弾圧を受けたホーリネスが、いわば、聖霊派の走りであったという点にも見て取れる。ホーリネスは、新生、聖化、神癒、再臨という四重の福音を唱えており、当時のホーリネス信者は、神癒なども、文字通りに信じていたのである。

その点で、当時のホーリネスの信者の信仰は、今日のペンテコステの信者に極めて近いものであり、御霊による神のダイナミックな解放のみわざを信じていたという点で、ホーリネス信者は、当時のクリスチャンの中で、最も先駆的で革新的な信仰を持っていた人々であったと言えよう。

だからこそ、軍国主義下の日本において、ホーリネスの信者は、政府にとって、不倶戴天の敵であるかのように、最も激しい弾圧の対象とされたのである。それは彼らが、聖書の記述が文字通りの真理であることを信じ、特に、聖霊の大胆な解放の働きを、現実のものとして受け入れ、実際にそれを行使することによって、悪魔のわざを打ち壊し、とらわれ人を解放し、キリストの再臨を引き寄せることができると信じて、それを真剣に実践していたためである。

つまり、ホーリネス信者らの働きの中には、信仰によって、聖霊による、人間の力を超えた神の大胆なみわざが実際に現れていたからこそ、国体思想の持ち主の側から見て、彼らはとりわけ看過できない重大な脅威をもたらす存在と映り、最も激しい迫害と弾圧の対象となったのである。

それ以外の、御霊の働きを重視しない形骸化したキリスト教は、おそらく軍国主義政権にとって、さしたる脅威とはみなされなかったことであろう。

そこで、聖霊のダイナミックな働きというものを視野に入れるか入れないかによって、キリスト者の信仰観は180度変わると言えるのである。

悪魔と暗闇の勢力が、現在、最も憎むべきものとして敵視しているのも、御霊の働きであって、これを一切、無視したキリスト教信仰などは、彼らにとって痛くも痒くもないものだと言える。

約2000年前、悪魔と暗闇の勢力は、キリストが地上に来られた際、彼を憎んで十字架にかけて殺害した。しかし、今やキリストは復活されて、聖霊を通して、信者の内に住み、イエスが約2000年前に地上でなされたような大胆で奇跡的な解放のわざを、一人一人の信者を通して成し遂げることができる。

彼は私たちのために義と聖と贖いとなられ、私たちをすべての苦難と脅威から実際に救い出す権威と力を持っておられるのであって、そのために、今日の信者も「この世でわたしたちも、イエスのようであるからです。」と言うことができるのである。

しかも、聖霊は、来るべき神の国の秩序そのものであって、アナニヤとサッピラをただちに死に至らせたような聖なる支配領域であって、死の向こう側にある復活であるから、悪魔と暗闇の勢力には、どんなことをしても全く手を触れられないものである。

従って、そのような領域が、サタンの支配下である地上に出現することを、悪魔と暗闇の勢力は断じて許しがたい事態として徹底的に憎んでいるのである。

そういう意味で、今日、ある信者が、聖霊派に属し、聖霊の力ある働きが現実に存在しうる事実を知ったならば、そのことには、はかり知れない重要な意義が込められている。

たとえその信者が、ペンテコステ運動に多くの混乱が入り込んでいることに気づき、心傷ついてその教団教派を去り、あるいは、バラバラに離散することがあったとしても、彼らに求められていることは、二度と混乱を味わいたくないという思いから、聖霊のことになど言及もしない、より古く形骸化した教団教派に戻ることではないのである。

冒頭で述べた通り、キリスト教は、今日、新たなる信仰回復運動の出現に直面しているのであって、そこでは、信者らが、信仰によって歩むために、見えるものに依存せず、さらに見えないキリストだけを追い求め、より新鮮で偽りのない聖霊のみわざを通して、御言葉を地に引き下ろし、実現して行くことが求められている。

従って、私たちに与えられているミッションも、歴史的により古い団体に逆戻り、そこで、すでに後にして来たはずの霊的な負の遺産を罪悪感として背負うことではない。

御霊は人の心を刷新し、すべての傷を癒し、復活の領域において、心を全く新しくすることができる。まるで生まれてから一度たりとも罪を犯したことのない、生まれたての魂のように、人の心を刷新することができる。

私たちには、そのような刷新、すなわち、心だけでなく、霊、魂、肉体のすべてにおいて、死の後に働く復活の命の現れを、絶え間なく求めつつ、キリストの命が、私たちを生かすすべての動力源となることを信じて、さらに大胆な解放のみわざを求めて前進して行くことが求められている。

どれほど迫害が激しいにせよ、死を打ち破ったキリストの御霊は、すべてにおいて勝利をもたらすことができる。それを信じて、そのまことの命の現われを、神の聖なる自由と解放のみわざを、飽くことなく信じて追い求めて行うこと、それが私たちが、キリストの復活の証人であることの意味であり、私たちはその復活の命を、自分自身の内側に確かに持ち運んでいるのである。

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